第90話 基準が違う
海の向こうで行われているMLB。
今年の大介も、去年と同じように、調子が悪いと言われていた。
打率、打点、ホームラン、出塁率、長打率、OPS、盗塁の数で両リーグを合わせてナンバーワン。
それなのに去年と同じく、全盛期は終わったな、などと言われているのだ。
確かに数字だけを見ればそうであるし、チーム自体も圧倒的な強さは見えていない。
だが主力をかなり放出したにしては、充分にポストシーズンが狙える位置にいる。
かつてのMLBは完全ウェーバー方式を取っていたため、ドラフトでいい順位を取るためには、あえて最下位を狙っていた。これをタンキングという。
だが現在は、成績下位のチームによる抽選で、指名順位が変わる。
そのために最下位をあえて目指す必要はなくなったのだ。
このあえて最下位を狙っていくということは、タイトル争いのために相手との勝負を避けるのと同様、終盤のレギュラーシーズンをつまらないものにさせていた。
日本の場合はクライマックスシリーズの誕生によって、昔にくらべればずっと、消化試合は少なくなった。
タイトル争いで、バッターとの勝負を避けるということは今もある程度あるが、それよりはチームの勝利を優先する。
基本的には大介であっても、勝負したときの方が敬遠した時より、得点の期待値は下がるのだから。
もっとも大介の場合、勝負を避けたら大ブーイングを浴びるポストシーズンでは、OPSが異常に高くなるという事実も存在したりする。
二番を打っていれば、それだけ打席数も増えていく。
ただ大介の攻撃力を純然と発揮するなら、一番でもいいのかもしれない。
ホームやアウェイ、またこちらの先発の力などで、柔軟に打順は変えてもいいのではないか。
フロントはそうも考えているが、フィールド内のことはFMに任されている。
その方針が気に入らないなら、フロントが出来るのはFMを変更することだけだ。
セイバーとしてはチームが勝ち越しているので、そこに文句はつける気はない。
文句をつけたいのは、大介の成績に対してである。
三冠王に他のタイトルまで、がっちりと取っていくパフォーマンス。
少しでも甘い球があれば、迷いなくフルスイングしてホームランを打っていく。
だがあの、高校時代から感じていた凄みは、どこか失われてしまったようにも思える。
それは単に、大介に対して求めすぎなだけだと、セイバーとしても自己分析はしているのだが。
どうしてもぜいたく税をリセットするために、どこかで戦力を放出する必要はあった。
そして大介だけは、毎試合出る野手として、残しておくべきだという商業的な計算はあった。
武史を放出したのは、それなりの理由があるのだ。
「これで不満というのは、さすがに贅沢な」
そんな声が聞こえてくるが、セイバーは確信している。
大介自身が、一番満足していないのだと
通算本塁打数が、ついに昨年、日米通算で1100本を超えた。
MLBだけで計算しても500本を超えて、このままの調子で打っていくなら、あるいはMLBだけの記録も更新するのでは。
だが今年で35歳になった大介は、さすがに全盛期の輝きはない。
あとはこれがいつ落ちてくるのか、それとも誰かが追い越していくのか。
おそらくはその二つが同時になされて、最強の打者という称号を手放すのだろう。
年間70本オーバーのホームランを移籍から六年連続で達成。
そして三度は80本をオーバーしている。
MLBのシーズン記録の、打撃面では上位のほとんどに、大介の名前がある。
ないのは勝負を避けられるがゆえの、安打数ぐらいであろう。
おそらく今年で、日米通算の3000本安打は達成する。
しかしやはり、MLBに来るのが遅かった、とは言われたりする。
もっと早くにアメリカに渡っていれば、さらなる大記録を次々と打ち立てたであろう。
前提として大介は、そもそもMLBに来ることに執着などしていなかったということを、もう周囲の人は忘れているのかもしれない。
完全に薬物なども使わず、己の力のみで記録を更新していく。
さすがにシーズン記録は、全盛期を過ぎているため、もう更新することは出来ないであろう。
31歳のシーズン、おそらく大介の全盛期はそこであった。
それから四年、野球選手としての絶頂期は、確実に過ぎているはずなのだ。
あとは今の能力をどれだけ維持して、数字を積み重ねていくか。
本人としては、前に道はなく、左右にも誰もおらず、そして後ろにあるのも己の歩いた道ばかりで、追いつこうとする姿も見えない。
競争のないことが、大介にとっては問題である。
相手が弱ければ楽に勝てると思うかもしれないが、実際には高めあう競争相手があってこそ、自分のポテンシャルも発揮できるのだ。
今の大介には以前のような、一人で試合をひっくり返すような、理不尽なまでの力を感じないと、親しい一部の者は思っているだろう。
何より問題であるのは、本人もあまり、モチベーションが上がっていないのを自覚していることだ。
既に前には誰もいないと、大介は分かっている。
それはMLBに来るときからも同じことだったが、あの時は後ろから迫ってきている人間がいることが分かっていた。
自分と同じ領域に立ち、そして自分を追い抜かしていく者。
直史の存在が欠けてしまったことが、ここまで自分のモチベーションにも影響してくるのか。
器に小さな穴が空き、そこから少しずつ水が漏れている。
自分で必死に水を満たそうとするが、それよりも漏れていく量の方が多い。
いや、今まで満たそうとしていた速度が、どんどんと遅くなっているのであろうか。
大介には敵がいない。
実力だけであれば武史などは、充分に大介と戦える相手だ。
打撃指標の全てでトップに立っていながら、物足りなさを感じている。
単なる野球好きの小僧は、一番仲の良かったピッチャーがいなくなって、今は悲しんでいるのだ。
直史などは大介のことを、とてつもなく健全な精神を持つ、野球の申し子のような人間だと思っていた。
だが実際のところ、メンタルは揺れやすい。
弱いというわけではなく、いずれはしっかりと戻してくる。
だが健全であるというのは、平凡に近いということ。
直史のような異常なメンタルは持っていないのだ。
誰のために自分はプレイしているのか。
深刻なモチベーションの欠如は、去年から始まっている。
特に去年はレギュラーシーズン前に、既に全力を使い切っていた。
それでもワールドチャンピオンになれたことは、チーム力が圧倒的なものであったからと言える。
もちろん大介も、普通に周囲が引くレベルの、圧倒的な成績は残したのだが。
そこまでやってもなお、大介の心の中に、真の燃えるものは起こらない。
去年にしても今年にしても、どんどんと新しいピッチャーは入ってくる。
その中には確かに、傑出した選手もたびたび見かけるのだ。
また直史の残した功績としては、ピッチャーの多様性の復活というものもある。
セイバーメトリクスによって、ピッチャーのストロングポイントは、かなり固定化されつつあった。
だがコンビネーションこそ至上とも言えるピッチングが、直史の真骨頂であった。
技巧派の復活。
ピッチクロックを利用した、タイミングを外した投球。
駆け引きによってバッターは、対応力をより必要とされている。
そんな中では大介の打撃成績は下がって見えたが、周囲も同じぐらいには下がっているのだ。
MLBの判断基準は、三振、出塁、ホームランが重要と要約された。
ただこれは要約されすぎたと言ってもいい。
バッターに求められるものも、野手としての能力と、バッティング能力とは別。
もちろんどちらも、ある一定の水準はいるが。
スラッガーに足があることはあまりない。
これは常識であったが、大介は打撃と走塁の両方が突出した、異常な選手となっている。
もちろんトータルを見れば、400本400盗塁などという化物は、これまでにもいた。
だが大介は500本を打っているという以上に、もう600盗塁を達成しているのだ。
体格などから見ればむしろ、足の選手であると言われた方が、説得力はあったろう。
しかしそれは敬遠されて、盗塁を試みる場面が多いだけのこと。
盗塁成功率が高いので勘違いするが、大介の盗塁試行数は、場面を考えれば傑出しているわけではないのだ。
時には試合が決まってしまえば、マウンドに立つこともあった。
そういうことまで認めてしまえば、大介は全ての能力を持っているとも言える。
本人は冷静になって、自分に何が求められているか、ちゃんと把握している。
それはやはりバッティングであるのだ。
たまには、ということで大介は、セイバーに食事に誘われたりもした。
オーナーと選手という関係であるが、二人が知り合ってから、もう20年近くにもなる。
遠征先で一人、こうやって呼び出されたりもする。
特別な一人、というわけである。
セイバーは経営者であるが、同時に投資家でもある。
彼女は人生で様々に投資を行ってきたが、その中でも一番スリリングであったのだ、直史と大介に対する投資であった。
実際に二人が残した数字は、ありふれた金銭の数字ではない。
誰もがそれを目にすれば、目を疑う数字。
おそらく永遠に残る記録が、この数年間の間にいくつも作られた。
それに便乗するように、セイバーの資産も増えていった。
だが単に増やすだけならば、他にもいくらでも手段はあったのだ。
どんな高級な食事でも食べられる立場になった。
大介はしかし、その食事内容も、ツインズに管理してもらっている。
少しでもパフォーマンスを落とせば、あっという間に追い抜かれて突き放される。
そんな覚悟を心中に抱いて、大介は戦っていたのだ。
もはや戦う相手は、自分の中にしかいない。
直史に匹敵するようなピッチャーは、もう存在しないだろう。
上杉も肩を壊してから、かつてのような圧倒的なピッチングは出来なくなった。
それでもMLBで伝説を残し、そしてNPBでは伝説を残し続けている。
大介をまた本気にさせるのは、いったいなんなのか。
対面するセイバーであっても、それをはっきりとは分からないのであった。
スポーツというのは極限に達すると、肉体をどれだけ効率よく動かせるか、というのが重要になってくる。
単純に出力が大きくても、効率が悪ければ意味がない。
直史などはあの体格で、よくも150km/hオーバーが投げられたものである。
なので最初に出力を高めた時は、珍しくもコントロールを乱していた。
直史の出力は、スピードという点だけを言うならば、MLBでもトップレベルには遠い。
だがその再現性が、他の選手とは全く違うのである。
同じストレートを投げても、普通のピッチャーはいい球が連続していかない。
しかし直史は、全ていいストレートにも出来るし、種類の異なる悪いストレートをいくつも投げ分けることが出来る。
何を投げてくるか予測し、そのボールに対して一瞬で対処する。
大介はそれを楽しみにしていたのだ。
読みと駆け引き。
直史は最後には、読まれた上でそれを上回ってきた。
150km/h程度のストレートで、どうして大介から三振を奪えたのか。
それを他のピッチャーや球団が分析するなら、大介ももっと楽しむことが出来る。
だが分析した結果出した結論は、模倣は不可能というものである。
何人かは惜しいところまで達しているのだが。
セイバーが大介をわざわざ食事に誘ったのは、単に旧交を温めるためではない。
既に今の時点から、来年のシーズンを考えているのだ。
七月のトレードデッドラインに向けて、メトロズから出す選手をどうするか、
それを現場の意見として聞きたい。
「そんなの俺が言うようなことなんですかね?」
「こいつが嫌いとかじゃなくて、これは伸びそうだから置いておく、という選手を聞きたいのよ」
「ああ、そういう」
しかしそう言われても、大介としては悩むのだ。
今年のメトロズは、再建のシーズンのはずであった。
だが下から上がってきている選手が、それなりに活躍しているため、ポストシーズンの当落線上にはある。
主力を放出して、一年で再建の見通しが立っている。
この手腕はセイバーと言うよりも、GMの手腕であるところが大きいだろう。
ただオーナーであるセイバーは、GMの任命権すら持っている。
ある程度は話を通すぞ、というこれは彼女なりの好意だ。
大介は特別扱いされることを嫌う。
だがセイバーは、合理的にならば特別扱いもする人間だ。
直史のNPBからMLBでの扱いは、完全に特別扱いとしかいえないものであった。
しかしその結果として、アナハイムは黄金時代を迎えた。
また故障者が続出したときは、その直史で上手く商売をしている。
アナハイムの球団価値を上げた後に売却し、そしてメトロズを買収する。
権利はまだ半分であるが、もう片方のオーナーが高齢のため、フロントの主導権を握っているのはセイバーだ。
そして大介も分かるのだが、フロントは現場の選手と、ある程度の接触を求めていたりする。
もちろん原則的には、GMとFMが入って、球団の試合の運営は行われるのだが。
前線を知らない後方、前線の情報をアップデートしない後方は、おおよその場合頓珍漢な指示を出してしまう。
ナポレオンなどは偉くなっても、大佐までの軍服を着て、前線を見回っていたという。
オーナーとしてセイバーは、顔を知られすぎている。
また女ということもあるので、基本的にマチョリズムの生きているMLBの世界では、単純に選手たちと接触しても、その本質にまでは迫れないというわけだ。
よって大介という、古くからの知り合いが、こうやって呼ばれることになる。
MLBは選手たちの年俸が、全て公開されている。
大介としてもそういったものを、全く見ないわけでもない。
「少し上手く補強すれば、今年もワールドチャンピオンは狙えると思いますけど、今年は補強はしないんですよね?」
「そうね。今年は絶対に、ぜいたく税のライン以内に抑える必要があるの」
セイバーの言葉を、大介は理解している。
昨年は絶対王者アナハイムが、直史の引退により弱体化した。
たった一人のプレイヤーが、どれだけ勝利に貢献していたのか、ということだ。
そのためメトロズもある程度無理をして、選手たちを補強したのだ。
おかげでワールドチャンピオンにはなったものの、年俸の総額もとんでもないものになった。
大介以外の高いプレイヤーは、ほとんどが放出されている。
武史との大型契約を結ばなかったのも、その一環である。
今年はぜいたく税の範囲内で年俸を抑えれば、そのぜいたく税がいったんリセットされる。
すると来年からはまた、ある程度の大型契約を結んでいけるというものだ。
今年はいくら活躍していても、それが一過性のものと見えるなら放出する。
そのあたりの嗅覚を、大介には期待しているのだろう。
実際に大介も、こいつは今は調子がいいが、すぐに落ちていくだろうな、という感想を抱く選手はいる。
どういう選手かというと単純な話、調子に乗っている選手だ。
まだ若手であるのだから、ひたすら野球に邁進すべき。
大介は自分がストイックであると思ったことなどないが、それはあくまでも基準が違う。
やらなければいけないことと、やりたいことをやっていたら、他のことをやっている時間も労力もなくなるのだ。
この1シーズンだけ調子がよくても、分析されて来年打たれるならば、今のうちに手放しておく。
そういった選手に関しては、確かに心当たりがある、最前線のスーパースターが大介であるのだった。
もっともトレードで出された選手はそれに奮起して、さらなる成績を残したりもする。
それはそれで仕方がないとは、セイバーも分かっている。
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