第7話 深まる冬
ちらほらと雪の降る日があった。 そんな日でも屋内で、直史はそれなりに練習をしている。
中学生の頃などは、こんな天気でもピッチングをやめず、よくもまあ故障しなかったものだと今なら思う。
無理はしないように、しかしちゃんと仕上がるように。
コンディションを整えることが、年々難しくなっていった。
ただ普通のピッチャーなら、年に一度か二度というぐらいの、完全なコンディションを毎試合維持していたのだ。
SBCには風呂が設置されてあり、シャワーだけではなくそこで体を温めることも出来る。
直史は練習やトレーニングをした後は毎日、風呂に入ってから家路に就くようにしていた。
現役時代のレギュラーシーズンとは違い、バイオリズムの調整で最大の出力を特定の日に絶頂になるようにコントロールする。
ワールドシリーズでも似たようなことをしていたが、それよりはむしろ甲子園に近いだろう。
一年の頃から、自分一人で投げなくてもいい環境にあった。
一年の夏には甲子園には出場できなかったが、それを考慮しても直史が投げた試合は、相当に少ないと言える。
二年の春には岩崎がいたし、それ以降は下級生にピッチャーが多かった。
意外なほどに直史は、甲子園では投げていないのだ。
ただ投げた試合において、複数回のノーヒットノーラン扱いの試合があるだけで。
直史は本来、体力に優れた肉体を持っていない。
省エネピッチングによって、また自己管理によって、どうにか試合を投げきっているのだ。
そして肉体の回復力は明らかに、10代の頃よりも落ちている。
それをどうにか調整して、年間無敗などとMLBでやってしまうから、魔王などと呼ばれてしまうのだが。
直史の引退については、アメリカでも大きく報道されている。
肉体的な限界などは全く見えず、むしろ最盛期での引退に思われている。
だが肘の故障と聞いて、ある程度は納得されている。
それでも順調にいけば、35歳でリハビリは完了する。
現在のMLBは確かに過酷なものであるが、同じ年齢からトミージョンで復帰したピッチャーは珍しくない。
なので復帰を熱望する人間もいるのだが、直史のピッチングスタイルを考えると、それは無理なのかなと納得しないでもない。
プロ入りして以降、直史は一試合を完投した次の日も、完全にノースローというコーチの指示などは全く聞かなかった。
投げなければ落ちる、というのが直史の中の非常識な常識だったからだ。
プロ入りしても一年目の成績が一番悪かったのは、それだけ野球から遠ざかっていたから。
必死で体を作って、開幕までに間に合わせて、新人賞から沢村賞にMVPと、タイトルを独占していったものだが。
そして異例とも言えるドーム球場を使った引退試合。
これに対してMLBのメジャーリーガーも、日本人選手以外にも、何人か参加の意思を示している。
ずっと抑えられ続けて、衰えたところで世代交代を果たすのではなく、故障によって勝ち逃げされる。
同じチームのターナーは早々に参加を表明していたし、こういった派手なことはあまり好きではないはずのブリアンも、参加の意向を示していた。
たったの一試合、それもギャラは必要経費のみで、対戦するのは三度ぐらいか。
それでもスーパープレイヤーを引き付けるものが、直史のピッチングにはある。
大サトーの引退試合。
チーム以外が企画して、形式上は単なる草野球として、どこにも公式戦としては残らない。
それでもこのゲームは、後にドリームゲームと呼ばれることになるのだろう。
あくまでも体面的には草野球。
それを放送しようとする、テレビ局にネット局。
こういった契約関連に関しては、直史も強いしセイバーも強い。さらにはツインズも強い。
どこかが独占というのは、避けたいものであった。
しかしこれはある意味、キラーコンテンツにもなる。
野球チャンネルが独占する、契約上の分類の試合に入らないのだ。
民放一局、しかも全国チャンネルは一つ、契約しておきたい。
ただし国営放送を除く。
ネットのチャンネルはいくらあってもいいが、果たしてどれだけの金を出す気があるのか。
とりあえず一試合の放映なのに、数億円は出す放送局があるようではあるが。
考えてみればこれは、野球の試合と言うよりは、ボクシングや格闘技の世界戦に近いノリであるのか。
これのために調整し、そしてこれによって全てが終わる。
真っ白に燃え尽きるために……いやいや、燃え尽きたら困るのだ。
人生はこれからも続いていく。
だが野球によって手に入れた全ては、ここで燃やし尽くす。
後悔だけはないように。たとえ後悔があったとしても、もう戻れないぐらいに、全てを燃やし尽くすのだ。
人間というのは本来、そういう生き物なのではない。
生物学的に考えれば、当たり前のように子孫を残す競争をして、社会的には働けるだけ働き、そして老後を迎える。
考えてみれば野生動物は、衰えたらそこで死ぬものが多数だ。
それを考えると人間は、どれだけ不思議な存在であるのか。
真っ白に燃え尽きるというのは、自分に出来ることを全て、やってしまうことなのだと思う。
振り返れば甲子園などでは、そう思って投げていたのではないか。
プロの世界というのは極端に言えば、自分が限界を迎えない限り、来年もまたシーズンがある。
それに対して高校野球は、最高でもわずか五回しか機会はなく、これでもう野球は終わりと思ってやる選手が多い。
直史も大学時代は、正直なところほとんど、高校時代の残りでやっていたところはある。
それでも成長が続いていたのだから、片手間でやられていた選手たちは、何か言いたくもなるだろうが。
全てを出し尽くす。
そして勝利する。
いや、あるいは勝利さえも望んでいないのか。
直史は黙考する中、12月が過ぎていく。
直史の実家の付近は、冬はそれなりに寒い。
周辺がかなり山となっていて、盆地に風が吹き込んでくるからだ。
「それでもまあ、日本海側ほどじゃないけどな」
樋口がそう言って、ロッカーにバッグを放り込む。
完全装備のプロテクターに、手に馴染んだミット。
「新潟は積雪がすごいっていうイメージはあるな」
「まあな。だから練習時間でも、冬場のグラウンドを確保するのは難しかったし」
新潟がなかなか優勝出来なかった理由と言うか、積雪量の多い都道府県で、不利とされる理由である。
実際に甲子園で優勝したのは、北海道東北が少ないし、新潟も樋口が決勝でホームランを打った一度だけである。
12月も半ばを過ぎようという時、樋口はやってきた。
本物のキャッチャー相手でないと、満足に投げられないであろうと言って。
家族は新潟の上越市に残したまま、市内のホテルを取ってある。
なんならうちは客室が余っているぞと直史は言ったが、樋口はかえって気を遣うと言って固辞した。
キャッチャーとして果たして、樋口がバッテリーを組んでくれるのか、直史にとっては気がかりなことであった。
大学からNPB、そしてMLBと、間違いなく直史と一番長いバッテリーを組んできたのが、この樋口である。
もっとも高校時代には、甲子園の決勝で逆転サヨナラホームランなどを打ってくれて、夏の甲子園初出場初優勝というのを阻んでくれたが。
高校時代には間違いなく世代ナンバーワンキャッチャーと言われ、そのポジションとしては信じられないことながら、プロ入り後には複数回のトリプルスリーも達成していた。
そんな樋口は直史と、ほとんどまともに対決したことはない。
だからこそこの最後の機会には、対戦してみたいと思うのもおかしくはないと考えていた。
ただそこは直史も、自分を過大評価しすぎである。
「それで、最後のゲームも、こっち側のキャッチャーを頼んでもいいのか?」
「俺とも勝負をしてみたいのか?」
逆に樋口に問い返されてしまった。
ある意味において、いやありとあらゆる意味において、直史にとって一番投げにくいバッターは、樋口ではあるだろう。
バッターとしての一般的な技量は、もちろん大介の方が上だ。
だが直史の思考法に、そのボールの球筋、そういった駆け引きまでも含めて投げるボールに慣れているのは、間違いなく樋口なのだ。
直史がバッテリーを組んだ相手を警戒するのは、坂本の影響も大きい。
高校時代、二年生以降の直史が打たれた、唯一のホームラン。
その坂本はMLB移籍後、一年目はアナハイムで直史とバッテリーを組んだ。
二年目からは移籍してメトロズで、正捕手の座に座っていたのだ。
ワールドシリーズにまでもつれこんだ場合、直史は坂本と対戦することも多かった。
決定的な一打を打たれたというわけではないが、どうにか出塁をもぎ取るということはやってきたのだ。
それに比べると樋口は、結局のところ野球に対して、それほどの熱意を持っていない。
またどうせなら、最後まで直史に付き合ってやろうという気分が強いのだ。
相棒として、直史と最も多くのバッテリーを組んだ樋口。
キャッチャーとしての技術に関しても、間違いなくピッチャーの操縦は上手い。
直史のボールを受ける樋口からすると、これのどこが怪我人なのだ、とは思う。
ただほんのわずかにだが、ストレートの球威が落ちているのは確かだろう。
だがそれは今年のシーズン、故障の前から既に出ていたものだ。
加齢による衰えだと、樋口はずっと思っていたのだが。
あるいはあのプレイは最後のきっかけであって、既に肘は限界を迎えていたのではないか。
ただ直史のフォームには、全く変化はなかったと思う。
もしくは限界だったのは、肘ではない部分であったのか。
ランニングはあまりしない直史だが、ダッシュは何本か必ず行っている。
それでは足りないほどに、維持するための運動量が必要だったのかもしれない。
樋口にしても昔ほどは、盗塁をしようとは思わなくなっている。
ただそれでも毎年、二桁は盗塁を決めているあたり、本当に塁に出しては嫌なランナーとなるのだ。
直史と組んだ時のキャッチャーとしての信頼感に、バッターとしても打率と出塁率が高く、打ってほしい時に長打が出てくる。
こんな樋口は味方にとっては心強いが、敵としては本当に嫌なバッターなのだ。
樋口は上杉に対しては、恩義でつながっていた。
だからこそ今も、引退後のセカンドキャリアを、既に上杉と組んで始めると決めている。
それに対して直史とは、相棒と言うか共犯と言うか。
多くのバッターを騙してバットを折らせたという点では、確かに精神にダメージを入れる、共犯者であったのかもしれない。
ここまで付き合ったのだから、最後までやってやるか。
樋口の直史ほどではないがひねくれた心情としては、それが正直なところである。
だが、それでいいのだ。
どちらかがどちらかを一方的に頼るのではなく、半分同士を注意する、バディの関係。
一般的な他のバッテリーとは、やはり違うのだと分かる。
そんな樋口を直史は、やはり一度実家に誘った。
既に直史は瑞希と一緒に、日本で働くためのマンションを、探してはいるのだが。
家というものに対して、樋口はやや憧れのようなものがある。
佐藤家は年末年始には、子供たちが帰ってくるのだから。
樋口の帰るところは、今のところは生まれ故郷だ。
だがやがて上杉が引退すれば、彼の帰るべきところが、樋口の帰るところになるのだろう。
野球ならずとも、全ての点で黒子に徹する。
それが派手すぎるくせに、思考はあくまで冷徹な、樋口というキャッチャーであるのだった。
樋口は現在、都内の千葉に近いあたりで、ホテル暮らしをしている。
短期間であるが、単身赴任といってもいい状態だ。
普段の樋口はこのオフシーズンには、散々に家族サービスをしているものだ。
なにしろ彼も大介ほどではないが、五人の子供の父親であるのだ。
大介の場合は嫁が二人いることを思うと、むしろ樋口の方が大変であろう。
ただ樋口の場合は、大介よりもずっと合理的である。
自分がどうしても家にいない時間が多いのだから、シッターを一人専属で雇った方がいい。
そう考えてアナハイムでは、普通に金を出して評判のいいシッターを雇っている。
嫁は別に働きに出るわけではないが、とにかく五人もいるのであるから、日本語ネイティブの嫁が育てないと、母国語が英語で固定されかねない。
日常会話は問題なく扱える樋口夫妻であるが、基本的にアメリカでは家の中なら日本語で通している。
将来的には日本に帰ってくるつもり満々の樋口である。
母親も日本に暮らしているし、そもそも彼は直史とは別方向で、日本に愛着がある。
直史の場合は家に縛られ、郷土愛に満ちている。
樋口は愛国心が旺盛と言うか、日本の社会システム自体を愛している。
実際のところ弁護士という職業は、同じ法曹資格であっても、判事や検察と比べると、日本国籍ではなかったり、リベラルが多かったりする。
法律を正しく使うという点では、本質的にはリベラルになりやすいのだが、本来は日本の法律は判例主義である。
直史や瑞希は、かなり例外なのだ。
直史には特に勝負したくもない、と言った樋口であるが、実際に読み合いの勝負をすればどうなるかには興味がある。
ただそれをするなら、三打席は最低でも必要になるだろう。
三割打てばバッターの勝ちと言われるスポーツ。
その中で大介などは、大舞台になると八割など打ってきたりする。
それを直史は二割以下に抑えているのだが、長打はともかく出塁に限れば、どういった勝負になるのか。
樋口は純粋な好奇心から、それを考えている。
日本に帰ってきてからも、直史は医者にかかっている。
今日は村田の都合が悪いので、ちょっと他の医者にもかかってみる、という形でセイバーの手配で他の医者にかかっていた。
色々と企画されている最後のイベントであるが、それまでに直史が壊れたら、全てがご破算である。
「ええとこれは……」
医師は難しい顔をしているが、直史とそれに連れ添ったセイバーには、正直に答えるしかない。
「前のカルテと比べると、少し修復されてはいっています」
そう、勘違いする者が多いが、靭帯の損傷はある程度は回復していくのだ。
ただ、完治はしないというだけで。
一度損傷した靭帯は、ある程度細胞組織が分裂し、それを修復していく。
子供の頃の野球肘などであると、ほぼ完治となる場合もある。
それでも最初に比べれば、やはり強度などは下がっているわけだが。
さすがに今までのような間隔では無理だが、しっかりケアをしながらであれば、まだまだ現役は続けられるのではないか。
それが日本の医師の見立てであり、これもまた間違っているというわけではないのだろう。
だが直史としては、少しでも全力に足りないのであれば、大介に勝てるかは疑問なのだ。
全力を出して、脳が疲労するまで考えて、それでも負けたことがある。
あの命を削るような感覚で投げることは、さすがにもう難しい。
なんとか単打までに抑えたとしても、他のバッターも気が抜けないものだ。
高校から大学、大学からプロへ、そのプロでもNPBからMLBへ。
とにかくほとんどのバッターを封じてきた直史だが、もうこのあたりが限界なのは確かだ。
ただこの診断は、直史にとっては少し嬉しかった。
野球を始めた娘である真琴に、自分が投げて教えることが出来る。
もっとも真琴の場合、そちらの方が有利だからという理由で、ピッチングだけはサウスポーに矯正させていたりするが。
「それはその気になれば、またプロの世界に戻れるということね」
「いや、それはあくまで肘のみの話ですから」
医師はあくまでも、一般論として話しているのだ。
直史と同じ年齢になれば、もう衰えがやってきて引退している選手も少なくない。
大介や西郷のように、今が最盛期と言える者も少なくないが、わずかな肉体の衰えで、急についていけなくなる選手もいる。
そういう人間は若い頃に、あまり節制をしていないのだ。
いつまでも若いころの気分のままで、暴飲暴食を続けていれば、現役期間は短くなるというものだ。
現在は栄養学も発達し、逆に長くプレイする選手も、それなりに出てきている。
たとえば大介などは、ツインズがしっかり健康面をチェックしているため、選手寿命は長いのではないかと思う。
もっともバッターの場合は、目の動体視力の衰えが、他の全ての怪我より致命的なのだが。
「プロでやるのは、もう本当にいいかな」
ただ高校時代の仲間たちと一緒に、年に数回でも草野球が出来たら。
もちろんそれは、今回のような大規模な、まさにイベントという規模ではないだろうが。
楽しく野球をやろうじゃないか。
プレイボールの掛け声と共に。
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