第8話 去る月日

 12月も末になってくると、世間は忙しくなる。

 直史のような独立自営業者にとっては、確定申告の前に、この年の収入や支出を計算することが重要になる。

 もっとも今年は瑞希に全面的に任せてしまって、育児と共に悪いなとは思っている。

 だが今年で最後なのだ。

 本当に最後なのだから、もう少しだけ待ってほしい。

 週末にはお出かけをするという、平凡な日常。

 直史の思い描いているそんな日常は、案外平凡ではなかったりもするのだが。


 半月以上も東京にいてから、樋口は新潟に帰った。

 そしてまたもSBCのキャッチャーや、知り合いのキャッチャーにバッテリーを組んでもらって投げる。

 その中には現役で、まだNPBでプレイしている者もいる。

 すると逆に直史に、キャッチャーとして何が足りていないかを訊いてくるのだ。

「とりあえずMLBのキャッチャーではけっこういるんだが、捕球した後にミットを流されると、ピッチャーとしては腹が立つ時もある」

「普通はそこでびたっと止めません?」

「流すキャッチャーいるんだよなあ」

 直史がこんな感じで気安く話せるのは、後輩の孝司であるからだったりする。


 MLBとしては既に生放送でもゾーンの枠を描いているのだから、文句を言うなと思うかもしれない。

 だが日本のピッチャーというのは基本的に、キャッチャーにはあまり動いてほしくないものなのだ。

 もちろん盗塁を防ぐ時などは、樋口にしても動作は異なる。

 しかしMLBのキャッチャーというのは基本的に、繊細さが足りない。


 昔はキャッチャーと言えばブロックのために、体格が重視されもした。

 だがルール変更もあったため、キャッチャーでも今では身体能力が求められる。

 樋口などは身体能力も低いわけではないが、完全に頭脳で野球をやっている。

 あの狙い球を絞った時のバッティングは、本当に敵には回したくないものだ。




 休憩している間には、二人で話す機会もある。

「青木は一緒じゃないのか」

 二人はそれぞれ、トレードなどで入団当初のチームからは移籍している。

 孝司はスターズからライガースへ、哲平はフェニックスからマリンズへ。

 地元なだけに哲平も来てもおかしくないのだ。

「チームのメンバーと沖縄で、自主トレに入ってますね。そろそろ下の突き上げもありますし」

 同じ高校の同級生が、まだチームのスタメンでいること自体、かなりすごいことである。

 だがスタメン争いというのは毎年、どのチームも行われていくものだ。


 直史は自分が圧倒的な、それこそ歴史的に見ても誰も代われないような成績を残していながら、プロ野球選手というものの特殊性を理解している。

 味方であってもそれは、自分のポジションを狙うライバルであるかもしれない。

 さすがにキャッチャーは専門職だが、孝司もコンバートは検討されたことがある。

 哲平は今のポジションを守るのに必死ということは、ドリームゲームには出場しないということなのだろう。

 正直なところバックを守ってくれる選手が、出来ればほしかったところなのだが。

「最悪、俺が内野を守りますよ」

「そういえばやってたな」

 高校時代は打撃力を活かすために、他のポジションもやっていた。

 だからこそプロ入り後も、コンバートの話は出ていたのだが。


 このあたりの事情を考えると、皮肉なものである。

 孝司はなかなかスターズではスタメンがつかめず、つかめたと思ったら後輩に奪われてしまった。

 だが打撃にも期待されていたので、クビになることはなかった。

 しかしキャッチャー専門であったなら、他のポジションを守れないので、もっと早くにトレードに出されていたかもしれない。

 それもまたタイミングが悪ければ、クビになっていた可能性はあるのだが。


 栄光の中の引退を決める者がいる中で、その栄光への道をいまだに、登り続けている者もいる。

 ただ直史としてはこの頂点は、本当に孤独な場所なのだと分かっている。

 単純に野球だけに集中していては、すぐに折れてしまっていただろう。

 これはあくまでも道の途中、と思っていたからこそ直史は、ここまで投げてこれたのだ。

 その結果が軽率なダイビングキャッチでも、どのみちそこがゴールではあったのだ。


 普通に引退をしていたら、わざわざこんなイベントにする必要もなかっただろう。

 ただその場合は引退の理由を、何か特別に考えなければ、正直に答えて反感を買ったかもしれないが。

 直史は野球が好きだが、プロで投げようとは思っていなかった。

 それでも運命の導きが、この道へと運んでしまったのだ。


 孝司などからすると、直史はあまりにも贅沢すぎる。

 いや、贅沢という言葉を使うのは、合致しないのかもしれないが。

 なんのために野球をやるのかは、人それぞれである。

 それに直史は野球の才能に関しては、他の怪物どもに比べると、身体的能力は平均的なものだ。


 およそ全ての栄冠を手にした、そんな人間でもいつかは衰える。

 それを目の当たりにすれば、自分もいずれはと考えざるをえない。

 何がどうかとか、そういうことがはっきりするわけではないが、孝司も考えざるをえない。

「史上最大の草野球は、樋口さんとバッテリーを組むんですか?」

「ありがたいことにな。あれを相手にしなくて済むのはありがたい」

「俺が代わるから、一度ぐらいは対戦してみたらどうです?」

「一応紅白戦とか、準公式戦では対戦したこともあるんだけどな」

 樋口のバッターとしての厄介さを、またもう一度経験したいとは、直史は思っていない。


 結局のところ頭の中にずっとあったのは、大介との対戦なのである。

 極端に言ってしまえば、それ以外はそこまでの障害に過ぎない。

 温かいお茶を飲んで、ほうと息を吐いている直史。

 それを見る孝司は、なんとかこれを倒せないものか、と頭を巡らせるのであった。




 直史を訪れる者は多い。

 だが彼の多忙を知っている者が大半で、マスコミはまとめて短時間で対応し、上手くスケジュールを管理する。

 これは妻である瑞希の仕事になってしまっているが、さらにそれをまとめてセイバーや、ツインズが手伝ってくれている。

 女ばかりだな、などと言ってはいけない。

 女性に関しては極めてストイックな直史は、結婚するさらに前、瑞希と付き合いだしてから、一人も他の女性には手を出していない。

 ただこういうところではなぜか、佐藤直史であるならば、愛人が何人かいてもおかしくない、などと言われたりするのだ。

 佐藤家の一族は、基本的に一途なのだが。


 プロ野球選手のみならず、スポーツ選手が女にモテ、しかも多数に手を出すというのは普通のことである。

 別に複数の愛人を囲うのは、スポーツマンだけではなく、金持ちであればよくあることだ。

 ただそれは相手を使い捨てにするか、あるいは誰かがその管理をしっかりしていれば、というのが前提となる。

 同じ野球選手だと、昨今稀に見る女グセの悪かったのは、間違いなく樋口であった。

 遠征先のうち、それぞれに女がいたと言われるのは、半ばは事実である。


 ただ彼もアメリカに行ってからは、あまり好き勝手に手を出していない。

 そのあたり直史も妙な方向に心配して、性欲が満たされなくても大丈夫なのか、と尋ねた時の樋口の返答は奮っていた。

「アメリカ人は好みじゃない」

 多人種多民族のアメリカにおいて、アメリカ人と一くくりにしてしまう。

 直史からすれば逆に、樋口は日本人女性が好みなのだと思うのだ。

 実際のところ樋口の愛人は、黒髪ロングという嫁の特徴と同じであった。


 樋口も正直なところ、直史もいなくなったことだし、金もかなり稼げたし、日本に戻ることを本格的に考えようかな、などとは思っているらしい。

 オールMLBチームに選ばれるほどの樋口であるが、MLBは確かに年俸こそ高いものの、拘束される時間が長すぎるのだ。

 なんだかんだ言いながらも、樋口も奉仕型のサディストという点では、直史と変わらない。

 なので嫁にはある程度会えないと、調子が狂うのは確かであるらしい。

 嫁は七歳も年上であるが、もう一人ぐらい子供がいてもいいんじゃないかな、と考えている樋口である。




 そんな樋口はともかくとして、この冬は訪問者が多かった。

 その一人にある程度意外な人物がいた。

 かつては同じ千葉で、甲子園の出場を争い、またプロでは同じチームでも投げた、吉村である。

 彼は高校は千葉であったが元は東京の出身で、そしてレックスで最後まで投げた。

 その全盛期がプロ生活の前半に偏っていたのと、故障がFA権獲得前後にあったのが、他への移籍をしなかった理由ではある。

 直史の引退の話題に隠れているが、彼も今年で引退の予定であった。

 高校時代から肘にある程度の負荷がかかっていたから、そんな中で100勝以上もしたのであるから、充分に成功したと言ってもいいだろう。


 またそのままレックスの方で、ポストも用意してくれている。

 それほどの適性があるのかとも思うが、まずは地元の東京を含む南関東エリアのスカウトだそうな。

「スカウト……」

「似合わないとか言いたいんだろ?」

「そうですね」

「マジで言いやがった」

 直史の目から見ても、吉村にスカウトというのはよく分からない。

 ただずっと中学まで地元で、プロでもレックスだけであったことから、地元のつながりは大きいだろう。

 もっとも東京は人口が多いので、あまり地元がどうとかを考える必要はないと思うのだが。


 野球選手のセカンドキャリアというものに、直史はそれなりに興味があった。

 基本的には働かなければ、生きていけないのが人間である。

 メジャーで複数年契約をすれば、おおよそ問題なく生涯を送れるであろうが、NPB選手はせっかく年俸が高くても、金遣いが荒い。

「そこはうちは嫁さんがしっかりしてるから」

 吉村の妻は、中学時代の付き合いである。

 そこからプロ入り後にちゃんと付き合い始めて、そして結婚したわけだが。


 吉村もプロ一年目からそれなりに出番はあり、順調に年俸は伸びていった。

 それでも半分近くが税金として取られるのが、日本の税制度である。

 若い頃しか働けないスポーツ選手に、それは酷ではないのかと、直史なども思ったものだ。

 大介ほどに稼いでしまえば別だが、あそこはツインズによる資産運用も成功している。


 多くの人間が、既にプロを引退している。

 直史の33歳という年齢は、まだまだ現役の選手がいるように思うが、それは競争に勝ち抜いた一部なのだ。

 20代のうちに稼いでおかなければ、30代から成長するおかしな選手は少ない。

 そして賢い人間はストイックに、若い頃から暴飲暴食はしないものだ。


 体が資本のスポーツ選手が、どうしてそんな無茶をするのか。

 吉村の場合は高校時代に、一度故障していたことが、逆に良かったと言えるだろう。

 また三年の夏も、甲子園を経験せずに無理をしなかったことが、後から見ればよかったとも言える。

 それでも34歳で、引退はするのだ。

 直史と同じく、肘の故障である。

 ただ彼は靭帯ではなく、剥離骨折などが重なった結果であるが。


 直史のピッチングを見て、まだまだこいつ投げられるだろう、と思いながらも、吉村は思い出す。

 それは今となっては遠い昔、甲子園を目指して投げていた高校時代。

 プロに入ってからは、存分に甲子園でも投げることが出来るようになったが。

「例の試合、審判とかは揃ってるのか?」

「普通に暇な人に頼もうと思ってましたけど」

「なんなら俺がやってもいいか?」

「吉村さんが? そりゃあありがたいですが」

 直史を少しだけびっくりさせて、少し楽しい吉村であった。




 千葉でも東京に近いところにSBCはあるので、訪問すること自体はそれほど難しくはない。

 だがそれでもあまり、訪れることの出来ない人間はいる。

 それでも年末近くに、直史を訪れた者がいた。

 直史の相棒と言えば、ほとんどの人間は樋口を思い浮かべ、次ぐらいには坂本を思い浮かべるであろう。

 だがその原点にいるのは、大田仁であるのだ。


 現在は高校野球で、超名門の超強豪の監督をしているジンの訪問。

 いずれは来るかなとは思っていたが、年末年始の休みにでも、千葉の実家の方にやってくるかなと思っていた。

 だがそれよりは早く、SBCの方を訪れたのだ。

 奥さん、つまりかつて直史がシーナと呼んでいた、中学時代の同級生と共に。


「なんかすごく派手なことしてるけど、NPBからの嫌がらせとかないのか?」

「ないな」

 抗議とかそういうものではないが、NPBなどから連絡があった場合、それを公開した上でコメントを出しているので、NPBも動きにくいらしい。

「ただ性質上、現役の高校生や大学生が、出場出来ないのは気の毒かな」

 それは野球憲章で決まっているので仕方がない。


 現在は大学野球で、すごい勢いで打っている選手がいたりする。

 もっともバッティングの成績については、六大学で西郷を上回る成績は、まず出てこないとは思うが。

 ただ奪三振記録など、人類には不可能な記録を武史などが作っているため、新しい人類が生まれれる100年後ぐらいには、更新されるのかもしれない。

「キャッチャーは樋口がやってくれるのか?」

「一応な」

「じゃあ俺は控えておかなくてもいいか」

「ん?」

 どうやらジンは、いざという時にはキャッチャーをやってくれるつもりであったらしい。

 今の直史のボールを、大学卒業以来ほとんど受けていないジンであるが、オフシーズンに直史が戻ってきた時などは、こっそりと少しだけ組んでいたりもした。

 もちろん練習での話である。


 もしも樋口がいなければ、と考えるとありがたい話である。

「でもお前、試合でキャッチャーやってるのなんて、ほとんどないだろ。それと学生野球憲章はどうなんだ?」

「あれは一応、選手に対する指導が禁止だからな」

 プロによるアマチュア野球への指導は、高校と大学ではおよそ禁止されている。

 だが中学シニアにおいては許可されていて、また引退後に指導資格の回復という制度も存在する。

 これはプロの世界と高校大学野球が、極めて利益的に接近しているため、禁止されているものだ。

 ただ規定は段々とゆるくはなってきている。


 ジンの場合はあくまれ指導者なので、問題はないというのが規定をそのままに読んだ場合の結果だ。

「必要ないなら審判でもやってやるぞ」

「あたしもやってあげてもいいよ」

「交通費ぐらいしか出ないぞ」

「記録に名前が残るだろ」

 いや、お前はもう充分に、高校野球では名前を残しているだろうに。


 この三人でこんな話をするというのも、不思議なものである。

「ホッシーとかはどうなんだ?」

「あいつは普通に公立校の教師だから無理だろ。私立とはいえそっちは大丈夫なのか?」

「むしろ校長は乗り気だ」

 まあいつの間にか、直史にとっても一世一代の大イベントにはなってしまっている。

 一応はもう現在既に引退状態と言ってもいいのかもしれないが、正確に言えばどのチームとも契約していない状態だ。

 引退試合が一番豪勢というのも、なんとも奇妙なものである。

 時期がもっと暖かければ、甲子園でやってみたかった。

 もっともあそこは実は東京ドームより、レンタルが難しかったりするのだが。




 ジンと話していると純粋な野球もだが、それよりは運営などの話になってくる。

 指導者として単純にチームを強くするのも重要だが、加えて父母会やOB会などとの交渉なども必要になってくるのだ。

 もっともジンの場合は、とりあえず全国制覇を一度達成したので、実績で黙らせているという部分はある。


 このドリームゲームについても、当初は大介が全ての費用をもって、赤字が出ても構わない、というものであった。

 だがチケットを販売して、放映権もちゃんと販売したために、むしろ黒字が出る計算になっている。

 しかしこの黒字を、収入として誰かが取得すると問題が起こる。

 なのでこの試合は、チャリティの試合と同じ扱いになっているのだ。


 どこに寄付するのかという話であるが、直史は寄付という行為の胡散臭さを充分に知っている弁護士だ。

 日本国内に金がとどまらないように、結局は国境なき医師団に寄付をしようという話になっている。

 それも日本の組織からではなく、一息に本部に対して。

 悪いことではないのだが、こういった寄付団体などは、事務の人間には給料が発生したりする。

 その給料がとんでもなく高額な、お前はいったい何をしたいのか、という寄付の理事なども存在したりするが。


 直史はリベラルが主流の弁護士の中では、間違いなく保守派である。

 その直史がセイバーと話し合って決めたのだから、問題はなくなったと言っていい。

 そもそも直史は同じ弁護士仲間には、けっこう嫌われていることが多いのだ。

 それが義父であり瑞希の父にまで派生すると、ちょっと困ったことになってしまうのだが。


「一試合やるにも大変なんだなあ」

「格闘技のタイトルマッチに近いとかセイバーさんは言ってたな。しかも参加者はたくさんいるし」

 金の流れについては、全て公開するようにしている。

 今後の弁護士活動において、クリーンであることは重要であるからだ。

 直史の意識は既に、次のセカンドキャリアに向かっているのであった。

 そんな直史でも、おそらくはほとんどのバッターに対して無双するのだろう。

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