第46話 回復

 プロ野球選手はアマチュア野球の選手を教えてはいけない。

 よく勘違いされているが、これは誤解である。

 そしてそこそこ知られているが、引退したプロ野球選手でも、指導に一定の制限がある。

 これが馬鹿らしいことに思えるが、特に高校野球の甲子園利権が巨大なものになっているため、プロとの関係を断絶させないと、色々とややこしいことになる。

 もっともこの考えも、学生野球に幻想を持ちすぎているとは言える。


 高校球児は搾取されている。

 現役時代から直史は、他の多くのチームに対しては、そう思っていた。

 甲子園という宗教に囚われた、頭のおかしな集団。

 なのでそんなやつらにこそ、負けたくないという気持ちすらあった。

 自分自身は指導者がまともだったので、別だったと臆面もなく言える直史である。


 さて、現役のプロ野球選手や、元プロ野球選手の、アマチュアとの関わりあいである。

 これはプロ野球側からではなく、学生野球の組織側から、プロ野球選手と個別に教えを乞うことを禁止している。俗にプロアマ規定と呼ばれているものだ。

 日本学生野球憲章の12条と13条にあるように、プロ野球選手、プロ野球関係者、元プロ野球選手および元プロ野球関係者までもが、学生野球の指導者になることが出来ない。

 ただこれも例外があって、事前に日本学生野球協会の承認を受けている場合は、練習に試合、講習会、シンポジウムなどに参加することが出来る。

 その折もアドバイスなどはしていいが、直接的なシートノックなどはしてはいけないなど、細かい禁止事項は多い。


 だがこれでも昔に比べれば、プロとアマの間はゆるやかなものになっているのだ。

 たとえば大介の父である大庭は、引退後に明倫館の監督となった。

 しかしこれが20世紀などであれば、教育免許が必要であり、なおかつ引退後10年以上の経過という条件まで加えられていたのだ。

 現在は現役のプロ野球選手以外は、おおよそ指導資格の回復は簡単である。

 この資格は正確には学生野球資格と言い、つまるところノンプロやシニア、また学生でもクラブチームでやっている選手は、この範囲に入らないというのが、現在の認識である。


 学生野球資格回復研修制度は現在は、色々と前提が変化していっている。

 たとえばイチローなどは特例として、MLB球団の関係者の地位を保ちながらも、この制度を受けることが出来た。

 直史の場合はそもそもMLB球団とは関係がないし、NPB球団とも関係がない。

 選手の代理人としては、プロ野球関係者に該当しないことは確認してある。

 年に三度ある研修のうち、この春に行われる研修。

 直史は三日間をかけて、これを受講した。


 そもそも研修自体は難しいものではなく、確認事項などを説明するものである。

 問題なくクリアした直史は、これで学生野球の指導が出来ることになる。

 ただしプロ野球のチームには逆に、関係することが出来ない。

 もっとも野球解説者などは、プロ野球関係者の範疇ではないので、そういった仕事は受けることも出来る。

 そして直史はこの春から、先輩の北村の要請を受けて、ごくわずかながら母校のコーチを務めることとなった。




 白富東の指導環境が完全に整ったのは、直史たちが卒業して以降のことである。

 だが圧倒的に強力な相手に、さらに圧倒的に強力な力で勝ったのは、やはり直史たちが三年生の時代であったろう。

 その後に春の連覇や、春夏連覇を果たしたのは、優也たちの二年から三年の世代まで、出現することはなかった。

 あれが白富東の、第二次黄金時代と言えるではないか。

 

 しかしそれも遠い昔になりつつある。

 現在の白富東は、その全国制覇以降、県大会のシードまでは到達するが、甲子園には遠いというのはずっと続いている。

 チーム数の多い千葉県では、それでもかなり強いのだが。

 関東大会に進出するのも、ぎりぎりで届かないという実績。

 あの夏よもう一度、と思うのは当時を知るOBとしては当然のことであろう。


 現在の体育科は、かなり他の部活動の選手も、入部してきている。

 コーチ陣はOBがあちこちやってきてくれるが、本格的な実績を持ったものは少ない。

 さすがに直史としては、監督まではやるつもりはない。

 自分にはそういうものは向いていない、という認識でもあるのだ。

 実際のところ直史であれば、その実績だけで多くの人間を、無条件で従わせてしまうかもしれないが。

 権威などに価値を見出さない直史としては、皮肉なことであろう。


 今のマンションは白富東にも、それなりに近いところにある。

 元々瑞希の実家自体が、近かったからだとも言える。

(そういえば)

 直史は改めて、日本の一般的な生活を始めて、考えることになる。

(あちらのご両親は、将来はどうするんだ?)

 持ち家ではあるが、瑞希以外に子供はいない。

 だからと言って直史に、婿に入ってくれなどとも言ったことはない。もっともそれは瑞希から、直史が跡継ぎであると聞いていたからだろうが。

 将来的には老人ホームにでも入るつもりであろうか。

 だが出来ることなら、家族は最後まで家族と過ごすと考えるのは、直史の固定観念だろうか。

 直史も祖父の体調が、あまり良くないことは知っている。

 それもまた彼を、アメリカから呼び戻した理由ではあるのだ。




 三月も末となり、日米のプロ野球が開幕する。

 NPBでは今年、スターズが優勝候補となっている。それに続くのがライガースか。

 直史がわずかに指導したあの二人は、なんと支配化契約されたらしい。

 二軍の監督に、二人の身体的な特徴などを伝え、無理に矯正しないほうがいい、とは言っておいた。

 だが年齢は随分下で、そのくせレジェンドである直史の言葉を、果たしてどの程度聞いてくれるかは、疑問にも思っていたのだが。

(その時は他のチームに行けばいい)

 直史はそのため、ほんのわずかであるが、旧知の選手とも連絡を取ったりしていた。


 出来れば関東がいいのかな、とスターズの上杉、タイタンズの岩崎、千葉の鬼塚などに、東北というからには淳などへと。

 結局は支配下登録されたので、そういった心配は全て無駄になったわけだが。

 ただあの二人が70人の枠に入ったということは、二人が支配下から抜けたということであろう。

 育成で再契約、ということはなく、そのまま自由契約になったのか。ただこのタイミングというのは考えにくい。

 脱落した人間に関して、直史はわざわざ調べようとはしない。


 70人に選ばれたといっても、まだ二軍の試合に出る程度。

 プロは一軍になってようやくプロであるとは、おおよその選手が認識していることである。

 もちろん世間一般の認識としては、ドラフトからプロに入っただけで、充分にすごいことではあるのだろう。

(けれど育成をこんなすぐに支配下に入れたってことは、やっぱり一軍のピッチャーは厳しいのか?)

 直史はあまりレックスには、古巣という意識はない。

 だが自分が入団した時の選手たちが、それなりには残っている。

 神宮で戦うチームが、あまりに弱いのも悲しいではないか。

 そんなことを思う程度には、やはり愛着があるのだ。




 四月に入れば本格的な年度始まりで、色々なところに挨拶に行ったり、逆に挨拶に来たりということもあるだろう。

 その直前に日米のプロ野球は開幕した。

 NPBの方はセ・リーグに注目が集まっている。

 直史としてはレックスは多少気になるが、それよりはMLBの方に注目している。


 大介があまり調子が良くないようなのだ。

 オープン戦だからまだ本気を出していないとしても、打率が三割を切っているし、三振の数が多い。

「大介君の試合?」

「ああ、セイバーさんが送ってくれた」

 あの人もあの人で、直史を便利に使ってくれる。

 しかし大介の不調は、直史が原因である可能性は高い。


 東京ドームで行われた、あの世紀の引退試合。

 直史は前半はかわしていく投球をしたが、最後の二打席は真っ向勝負に近かった。

 ストレートで三振と、センターへの定位置フライ。

 あれは確実に、大介の想定を上回ったボールであったはずだ。


 最後の最後に直史は、ピッチングの新しい可能性を見せた。

 気づいた者は少ないだろうが、それでもあれは新しい、それでいて一つの極みにあるピッチャーの形であったのだ。

 大介は今も、その幻影に囚われているのかもしれない。

(二度と出てこないんじゃないかな)

 直史はさすがに、自分のこのピッチングが、異常であることは分かっている。


 これから先、直史のようなピッチングスタイルを備えたピッチャーは出てくるのか。

 そもそも膨大な基礎の上に、直史のピッチングが存在するのだ。

 基礎があるからこそ、変化していける。

 それが分かっていないと、単純にコントロールの悪いピッチャーが大量に発生するだけだ。

 なので直史は、誰にも自分のようなピッチングの指導はしたりしない。

 そのピッチャーに合ったピッチングについてならば、それなりにアドバイスはしたりするが。


 どうせ大介のことだから、シーズンが始まるまでには戻してくるだろう。

 MLBは膨大な底辺の上に存在するがゆえに、新しいピッチャーもどんどんと出てくる。

 その自信を叩き折るのが、大介の趣味である。生きがいである。

 それにこのままであれば、来年は武史は違うチームに移籍する可能性が高い。

 同じニューヨークのラッキーズに移籍すれば、大介はまた新たな楽しみを得ることになるだろう。

 武史は勝負を出来るだけ避けるかもしれないが。


 本当ならば武史などは、トローリーズなどが合っていると思うのだ。

 ただあそこは恵美理の意向で、ニューヨークに住んでいる。

 そして武史もある意味、金だけのために野球をやっているわけではない。

 直史とはまた別の方向に、野球よりも家族を重視する。

 しかしラッキーズと契約が合わなければ、それこそトローリーズというのは考えられる。

 日本人選手に好意的なことが多いトローリーズ。

 武史などにも、環境としてはいいだろう。


 そして直史の抜けたアナハイムは、それなりに勝敗は五分である。

 他の主力はほぼ残っているのだから、ある程度の結果は出せても当然だろう。

 直史一人に使っていた資金を、他の選手に使える。

 もっともFAよりも育成の方に、今年は力を入れているらしいが。

 元来アナハイムというチームは、あまりマーケットとしては大きくないのだ。

 ロスアンゼルスが近いとはいえ、そこにはトローリーズがいるのだし。

 そんな中で樋口やアレクがどうプレイしていくか。

 直史としてはそのあたりが、注目するところである。




 学生野球資格は無事に回復された。

 直史の予定通りではあるが、これで今度はプロの臨時コーチなどは出来ないこととなる。

 正確に言うとやってもいいが、その時点でまた資格を失うことになる。

 別に禁止されているわけではないが、その度に資格を回復するというのは、大変なことになるだろう。


 そしていよいよ四月である。

 その日、直史は午前中から昼までに、事務所の仕事を片付けた。

 根本的に直史は、事務処理能力が極めて高い。

 野球に使っていた能力を、そのまま知的作業に回しても、出力がとんでもなく高いのだ。

 車に乗ってさほどの間もなく、白富東の関係者用駐車場に到着。

 スーツに大きなスポーツバッグを持って、校舎の方に向かっていく。


 今日は入学式なので、普通ならばまだ部活動は開始していない。

 だが野球部は恒例のことであるが、入学初日から部活動に参加してもいいことになっている。

 別に野球部だけではなく、他の部活動も同じであるのだが。

 直史がシーナに誘われて、入学初日に訪れたグラウンド。

 あそこから全てが始まったのだ。


 校舎入り口の受付で、事務員に手続きをしてもらう。

 大学時代なども長期休暇には、母校のコーチを少しはしたことがある。

 だがこうやって校舎に入って、ちゃんとした関係者扱いされるのは、本当に初めてのことなのだ。

 職員室への案内は断り、自分で向かう。

 さほど変わったところはないな、と思う直史であるが、変わらないでいてほしいと思ったことも確かだ。

 郷愁感が強い彼は、保守的な人間である。


「失礼します」

 扉を開けて直史は、そう声をかける。

 職員室の中には、あまり教師はいない。おそらくまだホームルームが終わっていないのだろう。

「北村先生から頼まれて、野球部のコーチに来た佐藤です」

 一応自己紹介をする直史であるが、そんなことは全員が知っていることなのだ。

 座っていた教師たちが一斉に立ち、そしてお互いに顔を見合わせる。

 そして一番入り口に近い教師が、北村の席に案内してくれた。

「北村先生が戻ってくるまで、こちらへどうぞ」

 わざわざ椅子まで持ってきてくれるあたり、直史はやはり郷土の英雄なのである。




 直史は自分自身のために、名誉や権威をありがたがる人間ではない。

 だが郷土のため、または家のために尊敬を集めるというのは、むしろ好む人間である。

 このあたりの極端な保守性は、多くの人間には理解されにくい。

 特別扱いを受けたとしても、それを当然と思ってはいけない。

「恐縮です」

 相手に感謝をしながらも、頭を下げて椅子に座る。

 こちらに視線は向けなくても、意識は向けられているのは分かった。


 職員室の奥から、年配の教師がやってくる。

 おそらく場所からして、学年主任でもなく、教頭なのであろう。

「佐藤さん、もしよろしければなんですが、北村先生が戻ってくるまでに、サインをいただけないかと」

「ずるい、教頭ずるい!」

「変に気を遣わせないようにって決めてたのに!」

 この教師間のスタンスの近さも、白富東らしいと言おうか。

「時間があれば、サインぐらいなら……」

 直史がそう言うと、席から立ち上がって、購買に向かってダッシュする教員たちの姿があった。


 北村がホームルームを終えて、職員室に戻ってきたとき。

 そこに発見したのは、取り囲まれてサインを書き続ける直史。

「何をやってんだ、お前?」

「見て分かりませんか?」

「……何やってんですか、先生方」

 このノリはやはり、懐かしき白富東である。


 直史は出来るだけサインをしなくてもすむように、こっそりと活動するのが現役時代の行動であった。

 日ごろはメガネでもかけていれば、だいたい一般に偽装できていたのだ。

 ただ郷土の母校に戻ってきて、やはり求められるのは嬉しいらしい。

 このあたりの感性は、北村でもよく分からないところである。




「部室を使うとまずいから、教員用の更衣室を使ってくれ」

 そう言われた直史は、ジャージの上にウインドブレーカーという姿になる。

 春ではあるが、まだ風には冷たさが残っている。

 動いてみればすぐに、暖まってくるだろうが。

 この道をこうやって歩くのは、本当に久しぶりだ。

 真琴や明史を育てているのと同じような感覚、自分が若かった頃を思い出す。


 平均寿命からすれば、直史の人生はまだ半分も終わっていない。

 だがスポーツ選手のような特殊な職業は、また話が違うのだ。

 人生の最も輝ける瞬間は、終わったと言っていいのか。

 ただ直史は講演を依頼されたり、シンポジウムを開催したりと、あちこちから呼ばれることが多い。


 子供たちの経験を通じて、青春を追体験する。

 それが高校野球の監督はやめられない、ということではないのだろうか。

 一般の学校では最近は、教員による部活顧問が少なくなってきている。

 ただ野球などは、タダでも持ち出しでもやりたい、という人間は多いのだ。


 最近は学童野球であると、指導者に資格が必要になっている。

 それは昭和の価値観で指導をして、野球嫌いの子供を作ってしまった、という反省からきているらしい。

 確かに野球をやり始める小学生などには、そういった観点から指導するのは必要だろう。

 まず好きになってもらわなければ、スポーツなどは続かないのだから。

 勝利至上主義などというのは、本来ならばプロになってからでいいのだ。

 しかし日本の高校野球は、甲子園というブランドの力が大きすぎる。

 そのため小学校から、名門のクラブチームに入れる親がいる。

 直史としては真琴がどう考えようと、彼女の意見を第一に考えたい。

 もっとも今のところ、真琴は父親に似て、こっそりとした負けず嫌いではあるらしい。

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