エースはまだ自分の限界を知らない [第八部]FINAL 彼が去った、その後で

草野猫彦

一章 マウンドを去るエース

第1話 ラストプレイ

 ラストバッターの振ったバットは、わずかにボールの下をこすった。そしてふわりと浮いたボールは、マウンドの手前にまで飛んでくる。

 これをキャッチすれば、スリーアウトでゲームセット。

 回転がかかっているのでバウンドしたら変な方向か、あるいはファールラインの向こうに転がる可能性がある。


 それは焦りであった。

 33歳のシーズンは、これで終わり。

 ワールドチャンピオンを決めるには、もうこのバッターで終わらせておきたい。

(捕れる!)

 だからこそ普段はまずしない、ダイビングキャッチなどをしてみせた。

 そしてその予測は当たり、ボールはグラブの端に収まる。


 審判の手が上がり、スリーアウト。

 ゲームセットで満員のスタンドが立ち上がった。

「M・V・P!」

「「M・V・P!」」

「「「M・V・P!」」」

 MVPコールが巻き起こっているが、確かにそうなのだろうな、とは思う。

 キャッチャーボックスからゆっくり歩いてきた相棒が、少し苦笑して手を差し出してきた。

「普通にワンバンしてから捕ればよかっただろうに」

「そこは、あるだろ、角度とか」

 直史は立ち上がり、ユニフォームについた土などを払っていく。肘や膝がそこそこ痛む。

 だが喜びの方が強い。


 MLBア・リーグ西地区に所属するアナハイム・ガーディアンズはこれで、直史が加入してから五年の間に、四度のワールドシリーズ出場に、三度のワールドチャンピオン。

 一度は主力の多くが抜けて、どうにもならなかったシーズンであることを思うと、直史の優勝請負人っぷりが輝く。

 なにしろそのワールドシリーズに行けなかったシーズンは、他のチームで二ヶ月プレイして、やはりチャンピオンリングを取ったのだから。


 様々にステージは変われど、これもまた頂点から見る景色。

 スタンドの観客が、老若男女立ち上がり、腕を突き上げている。

 湧き上がる声援が大きすぎて、もう何を言っているのか分からない。

 正直なところこれが英語なので、分からないということもあるのだろうが。


 チームメイトたちがグラウンドの各所から、そしてベンチから飛び出して、直史と樋口のバッテリーを囲んでいく。

 二人は手荒い歓迎を受けながらも、その顔には笑みを浮かべていた。

「敵地なのによくコールしてくれるもんだなあ」

「そりゃお前、二年前はニューヨークにいたからだろうに」

「ああそうか」

「忘れてたのか」

 直史はどうでもいいと判断したことに関しては、確かに忘れっぽいのは確かだ。

 それをどうでもいいと判断していいのかどうか、それはまた別の話である。


 五年間のMLB生活で、四回のチャンピオンリング獲得。

 それに加えてサイ・ヤング賞もおそらく、今年を含めて五年連続の獲得となるだろう。

 まさに伝説のピッチャーであるが、直史が今年で引退するということは、近しいものは既に知っていた。

 そしてこれで終わりだからこそ、負けて引退などはしたくなかったのだろうが。


 敗者であるニューヨーク陣営からも、一人の選手が近づいてきていた。

「まったく、お前ってやつは本当に……」

 共に戦ったこともあり、そして対戦したこともあり、今では直史とは義理の兄弟ともなった男。

 これまた打撃部門において、MLBの記録の多くを塗り替えた大介が、直史に手を差し出してきた。

「最後にあと一回ぐらい勝負してくれてもよかったろうにさ」

「俺は負けるかもしれない勝負は、出来るだけ避けたい人間なんだ」

 知っている。


 握手を交わした大介は、そのまま背を向けて相手側のベンチに戻る。

 来年から大介はどうやってMLBの中で生きていくのか。

 別に直史がいなくなっても、大介は直史がいなかった時代のように、野球を楽しんでは生きていくのだろう。

 だが、本当に魂をちりちりと焼きつかせるような勝負は、もう二度とないのではないか。


 直史は気にしていないのか、あえて気にしていないフリを見せているのか。

 ともかくアナハイムのメンバーはロッカールームに向かい、そこでシャンパンファイトが始まる。

 マスコミなども含めて、ぽんぽんとシャンパンが開いていく中、インタビューなども始まる。

 この試合でも完封した直史に加え、決勝点を奪った樋口などに、そのマイクが向けられた。

 ノンアルコールのシャンパンの中で、二人は雰囲気に酔うこともなく、はっきりと受け答えをしていた。

 おそらくチームメイトの大半は、酔っ払っていただろうが。


 最高の気分だと、多くのチームメイトが思っていただろう。

 中にはノリの悪い直史を抱きしめて、振り回すやつまでがいた。

(まったく、楽しい五年間だったよ)

 実のところは、はなはだ不本意な面もあったのだが。


 アメリカ西海岸、カリフォルニア州アナハイムの地。

 そこで過ごした五年間は、断続的な日々であった。

 そして決着は、ニューヨークにて終了した。

 これでもう、やりきったのだ。

(終わったな……)

 やはりわずかながら、寂しさというものはある。

 直史はその日、珍しくも羽目を外して、深く酔うまで痛飲した。




 二日酔いで頭が痛い。

 酒にはかなり強いはずの直史だが、それでもやりすぎたのか。

 体から酒の匂いが立ってくるようで、愛する妻の姿を探したが、瑞希はどうやら子供たちのベッドの方に行ったらしい。

(参ったな)

 水を求めて、体を起き上がらせようとする。

 その瞬間、右肘に痛みが走った。


 昨夜、最後のプレイを思い出す。

 ダイビングキャッチで、確かに右肘は打ちつけたが。

(少し痛い、かな?)

 それは両膝もであり、さほど直史は気にしなかった。

 だがその痛みは、翌日も続いたのであった。




 右肘に痛みがある。

 滅多に怪我をしない直史に対して、妻である瑞希の方が慎重であった。

 出来ればアナハイムに戻ってから、ロスアンゼルスの病院にかかるべきなのだろう。

 スーパースターの凱旋を、多くの人々が待ち望んでいるのだから。


 だが瑞希は、まず検査を最優先にした。

 本来ならニューヨークの球団が使っているような病院に、最優先で診察してもらう。

 アメリカの医療というのはこういう時は、日本よりもずっと早いのだ。


 CTを撮ってもらった結果、医者は難しい顔をしていた。

 彼もまた直史の成した昨晩の出来事を、知っているニューヨーク市民であったのだ。

「右肘の靭帯が損傷している」

 専門用語が混ざっているので、通訳が必要であった。

 これには球団の通訳ではなく、なぜかアナハイムのオーナーが通訳をしてくれていたりする。

 直史とは高校以来の付き合いであり、ある意味においては恩師とも言える存在。

 通称はセイバーと呼ばれている、アナハイム球団を所有する大実業家だ。

 実際のところは金融の天才であるが、金の使い方に困っている趣味人でもある。


 アメリカで生まれ、日本で育ち、アメリカに留学し、日本で仕事をした。

 そうやって財産を増やしてきたセイバーは、医者との会話で微妙なニュアンスを何度も繰り返していた。

 医者が言っている中で、最も多い単語は「トミージョン」というものだ。

 それがどういう手術なのかは、直史も良く知っていた。




 直史は現在33歳になる。

 トミージョン手術をすれば、そこから丸一年は、ピッチングは出来ない。

 この手術は肘の靭帯が断裂したのを、体のほかの部分から靭帯を移植して、強化するという手術である。

 今では一般的な手術であり、成功する確率も高ければ、成功して復帰出来る可能性も高い。


 今のタイミングで手術すれば、来年は丸一年棒に振ることになるだろうが、再来年には開幕に間に合うはずだ。

 医師は直史のピッチングスタイルを知っているので、一年間のブランクがあって、35歳のシーズンを迎えたとしても、充分にやっていけると思っている。

 確かに直史は、本来はパワーで抑えるピッチャーではない。

 コントロールで、技術で、駆け引きでバッターを封じてしまうピッチャーなのだ。

 その結果として達成した記録が、何度ともなるパーフェクトやノーヒットノーラン。

 35歳という年齢を考えても、充分に復帰出来ると思われた。



「日常生活に支障は出ないはずですよね」

「それは、そのはずね」

 肘の靭帯をやるということがどういうことなのか、直史もセイバーも分かっている。

 実際には少し休めば、それなりに回復はするのだ。

 だが一番良かった頃の球が投げられなくなるため、根本的に靭帯を移植するしかない。

 しかしそれはあくまでも、復帰を前提とした話だ。



 直史は大きく息を吐いた。

 一緒に来ていた妻の瑞希は、それがどういう意味の溜息か、よく分かっていた。



 今年が最後のはずであった。

 元はと言えば、五年と期間を区切って、プロの世界に飛び込んだ。

 NPBでデビューした時には、既に25歳になっていた。

 下手な高卒選手であれば、既にクビになっていてもおかしくない年齢である。



 26歳のシーズンが、直史の一年目であった。

 そこで直史はいきなり、日本一の栄光を手に入れた。

 沢村賞に選ばれて、他の傑出したピッチャーとも投げ合い、伝説とまで言われる試合を演出した。

 いや、演出ではなく、演じきったと言うべきか。



 三年目にはMLBにやってきた。

 最初に結んでいた契約が、それを可能にしたのだ。

 そこまでの二年間で、直史の所属していたレックスは、連続で日本一の座に輝く。

 また直史も、連続で沢村賞やMVPに輝くことになった。



 五年のはずの時間を二年間も延ばしてしまった。

 それは契約金に目がくらんだと本人は言うかもしれないが、実際は違うだろう。

 瑞希は知っている。自分の夫がとんでもなく、負けず嫌いな人間であることを。

 ただもう、ここまでだ。

 一年間、手術からのリハビリをして、35歳のシーズンを迎える。

 それはもう直史には無理だと、瑞希は察していた。



「セイバーさん」

 直史が声をかけたのは、現在の直史の雇い主にして、その才能を最大限に開花させてくれた恩人だ。

「手術は不要です。俺はもう日本に帰ります」

 セイバーはわずかに視線を揺るがせたが、泣きそうな笑いそうな顔をしていた。

「そう言うと思っていたわ」

 そもそも今年で、直史はもう引退する予定であったのだ。



 34歳のシーズンを、手術からリハビリについやして、35歳のシーズンを迎える。

 その選択をするには、直史はもう燃え尽きてしまっている。

 いや、瑞希が見る限りでは、直史が限界に達していたと思えるのは、MLBのシーズン二年目だ。

 もちろんそれ以降も人間離れした成績を残していたが、あの二年目が直史らしいシーズンであったと思うのだ。

 そこで負けて、負けたまま終わりたくはなかった。

 そして今、勝ち逃げする理由まで出来てしまっている。

「セイバーさん、ありがとうございました」

 右手を差し出した直史に、セイバーも右手を差し出す。



 握手した二人は、少年と大人であり、指揮官と兵隊であり、雇い主と労働者であった。

 そしてその全てと同時に、戦友でもあったのだ。

「寂しくなるわね」

 セイバーの言葉はぽつりと、その部屋の中の空間にしみこんでいった。




 直史たちはアナハイムに戻った。

 他の選手たちとは、一日遅れての地元への帰還。

 チームの所有するプライベートジェットではなく、それでもファーストクラスのチケットを使った。

 観戦に来ていた子供たちと共に、アナハイムに戻る直史。

 これから荷物をまとめて、日本へ帰る準備をしなければいけない。

 

 ワールドシリーズは終わったが、これからまだ各種表彰などがある。

 直史の場合はオールMLBファーストチームやMVPにサイ・ヤング賞など様々な式典への出席が望まれている。

 以前は自分の都合を優先して帰国して、平気で周囲の反感を買うこともあったが、家族の時間を持つためであるので、アメリカ的には文句は言えない。

 このあたりアメリカも窮屈な国だな、と直史は思ったものだ。価値観に縛られている。もっともそれは日本でも同じことだ。

 なお西海岸はまだいいが、東海岸はもっとひどい。

 大介はよくあんなところで生活出来るな、と思ったりもしたが、ほとんどの場合は選手は、遠征に続く遠征である。


 ニューヨークという街は、直史はあまり好きではない。

 あそこで友人が死んで、そして妹が撃たれた。

 その後遺症はまだ、わずかながら残っている。

 そんなニューヨークから、義弟の大介がやってきたのだが、珍しくも一人きりであった。


「聞いたよ」

 スーパースター用の広大なマンションに招かれて、大介はそう言った。

「悪いな」

「いや……」

 大介は首を左右に振る。

 それは直史の言葉を否定するようであるが、どうしようもない悩ましさを、表現するようでもあった。


 直史との勝負を、最も望んでいるバッター。

 他のほぼ全てのバッターは、ただバッターボックスの中で、失投を祈って神に祈る。

 だが大介だけは違う。そもそも直史をプロの世界にまで引き入れたのが、大介であったのだ。

 高校時代は、共に戦う戦友として。

 国際大会でも、投打の中心となって、何度も日本の世界一に貢献した。


 佐藤と白石のSSコンビと呼ばれたのも、もう遠い昔の話。

「最後に一回、勝敗を左右する場面でもなかったし、勝負してやればよかったかなとは思ってる」

「そりゃまあ、あの時点ではな」

 大介としても、勝負はしてほしかった。

 だがかつて行われたエキシビションの壮行試合とは違って、ワールドシリーズはチームの勝利に価値がある。

 なので直史が大介に回さなかったのは当たり前である。そもそも他の場面でも、フォアボールで逃げてはいないのだし。


 これ以上はない、というタイミングではあるのだ。

 一年間も実戦から遠ざかれば、おそらく大介との差が極端に開く。

 それでも直史なら、きっとなんとかしてくれる。

 そう考える信者は多いだろうが、直史としてはそれは、あまりにも大介を甘く見すぎていると思うのだ。




 大学を卒業してからプロ入りまで、確かに直史はある程度野球から遠ざかった。

 だがクラブチームには入っていたし、全く野球をやらないということは、ほとんどなかったのだ。

 今回の場合は、一年間のブランクが空く。

 そこからリハビリまでして、果たして大介と戦える高みまで、また戻ることが出来るのか。

 それは無理だろうな、と直史は考えるまでもなく悟った。

 

 元々直史はオフシーズンであっても、ある程度は体を動かしていた。

 機械よりも精密と言われる直史のコントロールは、まず肉体を完全にコントロールする必要があった。

 それはトレーニングや練習の間だけではなく、日常生活の中でも、全ての動作が最適化されていないといけなかった。

 手術をしてリハビリとなれば、その感覚を取り戻すのにどれだけかかるのか。


「日常生活を送る分には、問題ないのか?」

「二ヶ月ほどは、ちょっと重い物とかは持たないように言われたな」

 それで治るのか、とは思われるが、根本的に完治するわけではない。

 肘の靭帯をやってしまうというのは、野球のピッチャーにとってはそれだけ、致命的なことであるのだ。

 過去には同じように靭帯をやって、少し休ませてまた投げるという時代もあった。

 だがそれは結局、休む期間が徐々に長くなっていくだけ。

 そして休むということは、それだけ球威も衰えるのだ。

 なので今では靭帯をやれば、すぐにトミージョン手術を受けて、一日でも早い復帰を目指す、というのが当たり前になっている。


 だがそれは、またあのMLBのハードな舞台でやるために必要なことだ。

 日常生活を送るだけなら、もう手術の必要もない。

 直史のセカンドキャリアは、既に決まっているのだから。

「また、俺が引退でもしたらさ。いや、俺が自主トレする間でもいいけどさ」

 大介のそれは未練であるが、魂からの切実な言葉であった。

「昔の仲間とか集めて、草野球でもしようぜ」

「日曜日にしっかりと休んでな」

 それは直史も賛成できることだ。


 果たしてそれが、いつの時代になることか。

 直史はここで舞台を降りるが、大介は残り続ける。

 それは彼がまだ、何かをやり残しているから、というわけではない。

 既にほとんどの記録は更新し、もう自らが道を切り開くしかない存在。

 大介にとってこれからの野球は、自分自身との対決となっていくだろう。


 そんな彼が望むなら、草野球ぐらいはしてもいいだろう。

 色々なところから集まるか、それとも声をかけて対戦するか。

 それを聞いていた瑞希は、またこれも記録しておくべきことなのかな、と少しだけ笑った。

 史上最も豪勢な草野球の約束を、二人のレジェンドは交わしていたのであった。



×××



 完結とはなんだったのか……。

 本日がカクヨムコン投下最終日なので、よろしければ星などでの応援をお願いいたします。

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