第26話 ラストスパート
残り3イニング。
長くて短い、残り3イニングだ。
投球練習を終えて、次のバッターと対戦する。
バッターボックスに入ってきたのは、アメリカからの刺客ペドロ・ブリアン。
そいつ本当にアメリカ人なのか、と尋ねてきたのは誰だっただろうか。
ヨーロッパ圏でもペドロとブリアンは違う国の使い方なので、そんなツッコミが生まれたらしいが。
多民族国家、多出身国家のアメリカならではのことである。
そのブリアンの三打席目。
アメリカからやってきたメジャーリーガー二人は、報酬は一銭も求めなかったが、チャンスだけは要求した。
即ち直史との、三打席以上の対戦。
企画者の大介以外は、西郷でも二打席凡退で交代が条件なので、ある意味これは破格である。
もちろん大介は既に、一度出塁しているので、その点では問題はないのだが。
ブリアンは、これが最後の打席になるかもしれないのに、普段通りのルーティンを行ってバッターボックスに入った。
神に祈るというのは、無宗教に近い直史には、どうにも理解できないことである。
かなりの悪意をもって、人類が発明した最悪の害悪は「宗教、とくに一神教」などと言ったりもするものだ。
それは本音ではあるが、言葉足らずでもある。
どのみち本当に対決するのは、人間と人間である。
その人間が何を頼りにしているか、それはその人次第。
果たして直史の背景には何があるのか。それとも何もなくても投げていけるのか。
最後になるかもしれない対決が始まる。
今日の直史は、まだしも打てそうな気がする。
そう考えているブリアンは、その理由も分かっている。
優勝候補と何度も言われながらも、ワールドシリーズに進出した一度が精一杯。
確かにそれでも、MLBを代表する超一流の選手であることは、誰も疑ってはいない。
しかし本当に偉大なスーパースターというのは、チームに優勝をもたらすものではないのか。
少なくともブリアンの価値観においては、団体競技である野球は、チームの勝利のために行うものだ。
そして確実に、チームを優勝させるのは、あの二人の日本人である。
リーグチャンピオンシップで、ほぼアナハイムに封じられてきた。
そして唯一勝ち進んだワールドシリーズでは、メトロズが相手であった。
あの偉大な二人は、プロ入りしてからどちらかのチームが必ず、優勝しているのだという。
実際は大介の場合、惜しくも逃した年もある。それも、直史が相手ではない。
もっともその場合、相手が上杉であったりするし、他はおおよそ確かに優勝に導いていることが多いのは確かだ。
NPBとMLBではチーム数も違うのだから、一緒に考えるのもおかしい。
だが大介がMLB移籍以降、ワールドチャンピオンになったチームは、二人の入っているチームのうちのどちらかである。
だからこそ、と言うべきか。
直史から決定的な一打を打っている大介がいるからこそ、ブリアンと対戦する直史は消耗している。
野球は団体競技である。
なので自分が勝てなくても、チームで勝てればいいのだ。
そう、公式戦であれば言えたであろうに。
直史と対決したいという、バッターがノーギャラで、ここまで集まっている。
一人の男の引退試合で、興行が出来てしまう。
今のMLBは、こんなにも熱いものがあるのだろうか。
ブリアンの望んだ勝負というのは、まさにこういうものではないのか。
前のイニングで、大介と対戦した直史は、ブリアンの目から見ても疲労していた。
だが今、マウンドの上に立つのは、グラウンドの中で最も、神に近い場所にいる者。
これを倒すのに、自分は何かを捧げなければいけないのか。
人に供物を求めるのは、神ではなく悪魔であろうに。
マウンドに立った直史は、比較的安心していた。
ブリアンは化けていない。
この化ける、というのも少し奇妙な表現なのだろうが、直史としてはそうたとえるしかないのだ。
即ち圧倒的な、短期間における成長。
甲子園ではよく起こっていたことである。
この試合、直史はブリアンに振り分けるリソースがあまりない。
アメリカでは充分な余裕を持って対戦できたが、この試合は既に80球を投げているのだ。
ブリアンの実力を、決して侮っていない直史は、まだこの先のことも考えている。
ターナーがいるし、西郷は代わってもそうそうバッターのレベルが落ちることはないだろう。
全力を出し切っては、次のターナーなりに打たれる可能性がある。
しかし下手にペース配分を考えていては、封じ切れるかも分からない。
なのでブリアンが、いきなり覚醒などしていないと感じられるのは、とてもありがたいことなのである。
直史はオカルトを否定するが、彼がやっていることが既にオカルトである。
事実は小説よりも奇なりなどと言うが、直史ほどおかしな数字を残すピッチャーは、過去には一人もいなかったのだ。
そのトランスという感覚にしても、自分は超集中などと言っているが、そのやっていることを説明させたら、間違いなく超能力以外の何者でもない。
(こいつも、せめて短打までには封じるように組み立てる)
投げるボールの難しさは、いくらでも対応しよう。
しかし考えるのは樋口が主体となる。
三打席目の対決は、最後の対決になるかもしれない。
問題はとにかく球数である。
樋口が懸念しているのは、究極のところそれだけと言ってもいい。
普段の直史であるならば、相手の打線が平均的なMLBチームのものであるならば。
これだけ直史の球数は増えないし、増えたとしても許容範囲内だ。
樋口は以前、大介との対決において、直史がどれだけ脳を酷使しているのか、詳しく聞いたことがある。
おそらくドラッグを使用しているのと同じような効果を、自己暗示や超集中で再現しているのだ。
医者でないので確かなことは言えないが、とても健康的なことだとは言えないであろう。
前のイニング、大介で終わったのは、むしろ幸運であったろう。
わずかな休憩の時間を、味方の打線、特に鬼塚が頑張って引き延ばしてくれた。
補給と回復で、ブリアンと対決することが出来る。
それでも直史の肘は爆弾を抱えていて、前のイニングにわずかに破綻の兆候が見えたのだ。
真っ白な灰に燃え尽きる。
あしたのジョーにおいて、主人公が至った境地である。
それはおそらく、人間としての輝きを、全て完全に燃やし尽くすというもの。
己の生まれた証明を、ただリングに残そうとした。
直史には絶対に、そこまでの覚悟はない。
彼には残していくものが多すぎるからだ。
それでも直史は、自分の野球選手生命は、このグラウンドに全て残して、燃やし尽くしてしまおうと考えているのか。
これまでの長い人生で、もはや自らの一部分となってしまった野球を、ここに置いていこう。
感傷なのか、それともそれぐらいの覚悟がないと、完全に離れることが出来ないのか。
樋口はただ、相手を打ち取ることを考える。
しかし直史の肉体は、それに耐えることが出来るのか。
マウンドの上で、肉体を削っていくようなピッチングだと、自分でも分かっていた。
最後のイニングまで、果たして投げていられるのか。
肘の違和感はない、と思う。
しかしほんのわずかではあるが、コントロールミスがあった。
なんで大介がミスショットしたのか、むしろ直史は不思議であった。
だが大介でも、それなりにミスショットはあるので、そこは幸運だと思っておくべきであろう。
問題は今、目の前にいるブリアンである。
間違いなく現代のMLBにおいて、トップの中のトップクラス。
無事にキャリアを重ねれば、歴代でも屈指のバッターとなるだろう。
だが直史は、それほど脅威とは感じていない。
甘く見るつもりはない。だが、直史は大介と競り合ってきたのだ。
打ち取るのは難しいが、短打までに抑えて、後続を断つ。
大介に対する一般的な攻略法であるが、他にもフライを打たせる、などといったものがある。
大介の場合は打球の速度があり、さらに足もあるので、ゴロはヒットになりやすい。
だが打ち取るためのフライが、スタンドに入る可能性を考えれば、ゴロの方が勝率は高くなる。
勝利とは、つまり点をやらないことだ。
ブリアンはさらに大介より、アッパースイングとなっている。
現在のMLBの基本となるアッパースイングであるが、ブリアンもこれまた打率まで高い選手なのだ。
長打力はあるが、打率も高い。
分かりやすく抑えにくいバッターなのである。
これに対して樋口は、さっとサインを出してくる。
二人はもう、阿吽の呼吸でサインを決めることが出来るが、実は直史は内心、わずかに違うな、と思うことはある。
しかしそれでいいのだ。
バッテリーが共に、完全に同じ思考をしてしまっていては、かえって相手は読みやすくなる。
かすかな違和感があることが自然。そんな状態が直史にとっては一番なのだ。
初球、ブリアンに対して投げたのは、ツーシーム。
内角にわずかに外れたボールに、ブリアンは少しだけ腰を引いた。
NPBのゾーンであれば、そして直史のコントロールに慣れていれば、ストライクと判定してしまってもおかしくない。
だがそこは公平にボールと判定する、国立の目は素晴らしい。
白富東の全盛期、他に唯一千葉から、甲子園に行ったチーム。
国立はそれだけ、統率力と技術と作戦に秀でた指導者であった。
そして練習試合では、普通に審判も務める。
高校生の荒れたボールなどは、むしろボール判定はしやすかったかもしれない。
だが判定の目には慣れているのか。
二球目、直史が投げたのはスローカーブ。
これが普通のカーブのスピードなら、ボールと判定されていただろう。
だがこれは、打てるスピードで、ゾーンを通っていることは間違いない。
そしてブリアンもスイングしてきたが、緩急差で体がわずかに傾く。
打球はスイングを強く行い、ファールスタンドへと持っていった。
短打程度であるならば、今のボールであっても運べたであろう。
普段のブリアンが、直史以外のピッチャーであれば、それを選択したであろう。
だが一撃で倒してしまわなければ、直史から点を取ることは難しい。
ここまでのほんのわずかな経験から、この試合に勝つための限定された条件を、ブリアンも分かってきているのだ。
見逃さずに打っていった。
これであのスローカーブは、ストライクだと審判も判定することになる。
もっとも同じボールを、同じ打席で使うことはめったにない。
ここからブリアンを打ち取っていくのは、スローカーブは使っていかないのだ。
そしてここで、樋口からのサインに対する違和感が、直史の想定よりも大きくなった。
なので首を振ると、代わりのサインはすぐになされる。
こちらのサインには、違和感はわずかにしかない。
頷く直史は、三球目のボールを投げた。
インハイのストレート。
目から最も近いコースであるので、本来はそれなりに打てるコースだ。
しかし同時に、最も球威を感じるコースでもある。
それは単純に、バッターボックスで見る160km/hと、ネクストバッターズサークルから見た160km/h、どちらが速く見えるか、というものである。
直史の150km/hちょっとのストレートでも、緩急差に加えてインハイへのボールとなれば、それなりに球威は感じる。
またブリアンはこのボールを、わずかに外れているが打てる、と判断していた。
わずかにバットとボールが衝突し、そしてボールはバックネットに突き刺さる。
タイミングはかなり合っていたが、ボールの下をこすったのみであったのだ。
今のボールは、振らなければボールになっていたな、と国立は思っている。
直史のボールは、ホップ成分が強い。もちろん実際にはホップすることなどなく、落ちる量が少ないのだ。
もちろんこの原理は、野球をする人間ならほとんど知っている。
緩急差と落ちる球と落ちない球、これを組み合わせて投げれば、意識が錯覚してジャストミートは出来なくなる。
それでもフルスイングで、しっかりストレートに合わせてきたブリアンは、さすがだと思うが。
国立が感心する間、既にバッテリーのサイン交換は終わっている。
ブリアンの気配を見抜いて、その隙間にボールを投げようとする直史。
だが四球目はスルーチェンジを使ってきて、低めに落ちるこのボールを、ブリアンはバットを止めて見送った。
下手に当てていたら、内野ゴロかフライで終わっていただろう。
ここまでは想定の範囲内。
次に何を投げるか、直史と樋口の思考はおおよそ同じだ。
ただサインにわずかに時間をかけて、ここで違和感を作りだす。
直史は頷いて、勝負の五球目を投げた。
チェンジアップの中で、スルーチェンジは相当に速いボールである。
なにしろ握りによって空気抵抗を増やすだけなので、減速量は多いが初速が速いのである。
一番効果的な使い方は、速いボールの後に使うこと。
タイミングもずれるし落ちるので、空振りや内野ゴロを誘いやすい。
しかしここで使ったのは、ストレートの後。
球速のずれを使おうと、投げられたものだ。
それは上手くバットを止められてしまったが、この五球目は速い。
スルーチェンジ二球連続、ではない。
こちらは本物のスルーだ。
(打てる!)
そしてスイングに入るブリアンであるが、スルーはスルーチェンジとは逆に、減速の少ないライフル回転。
そして落ちながら伸びていくので、上手くコンビネーションを使えば、詰まった打球を打たせることが出来る。
それでもブリアンの打ったボールには、充分な速度があった。
一二塁間、抜けるかというボール。
蓮池は間に合わないと判断して、すぐにベースに戻る。
そして追いかけたセカンド小此木のグラブに、ボールはキャッチされた。
体を回転せつつ、小此木は素早くサイドスローで、ファーストの蓮池へと送球。
ブリアンはベースのかなり手前で、アウトになっていた。
まさに直史の面目躍如の、内野ゴロを打たせるピッチング。
アウトになったブリアンは、さすがに悔しそうな表情を滲ませている。
基本的に敗北であっても、それは試練と捉える彼としては、珍しい表情だ。
それも確かに仕方のないことで、これが直史と対決する、最後の打席であったかもしれないのだ。
超えることは、永久に失われたのか。
しかもいつパンクしてもおかしくない、肘に爆弾を抱えたピッチャーに。
そしてさすがにブリアンも、疑いの気持ちが強くなっていく。
疑うべきではない、という敬虔な信者ではあるが、野球は騙し合いのスポーツでもあるのだ。
これまでに見せてきた疲労の兆候などは、全て偽りであったのではないか。
さすがに買いかぶりすぎなのであるが、直史を対戦相手としてしか知らないブリアンが、そう思うのも無理はない。
もっとも知れば知るほど、むしろ騙されやすくもなる。
まず先頭を片付けた。
そして次は、チームメイトとしての経験も深いターナーである。
ターナーに回したくないので、その前の樋口と勝負する。
そう考えるぐらいのバッターであり、そしてその安易な考えから、樋口の打点を増やす理由となっていった。
ブリアンには劣るが、その数字は現在のトップランクであることは間違いない。
ただこのバッテリーからすると、ターナーはまだ思考が素直なタイプ。
確かに長打力は危険ではあるが、むしろ対戦してややこしいのは、織田のようなタイプである。
もっとも油断をすれば一瞬で後悔が発生するのが、ピッチングというものだ。
ターナーもこの打席が、最後になるかもしれない。
紅白戦はともかく、それ以外でこんな大きなスタジアムで、大観衆の下に行うというのは、最初で最後。
彼もまた、直史に対する未練がある。
同じチームで何度もチャンピオンリングを達成した。
もっとも移籍の多いMLBでは、そういつまでも同じチームであるはずもない。
やがては敵対することも覚悟していたであろうが、その前に引退してしまう。
こんな別れなど、望んではいなかったであろう。
この舞台で、多くの選手に引導を渡していく。
直史の仕事は、他のバッターに対する者と変わらない。
一方でバッテリーの樋口は、次のバッターまで見ていた。
ベンチから出てきたのは、西郷の従弟でもある大山であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます