第17話 到達点

 究極のピッチャーは誰か。

 上杉勝也が高校野球に登場した時、彼こそがそうなるだろうと、多くの人間が感じた。

 結局は頂点に届かなかったことが、かえって彼を悲劇の英雄のようにさせた。させてしまった。

 もっとも本人は周囲の持ち上げなどにのぼせることなく、ひたすらにプロでも実績を積み上げたが。


 開幕以前のキャンプで既に、上杉がプロで史上最高のピッチャーであるという評価を固めつつあった時、甲子園で新たに登場したのが佐藤直史である。

 初出場のセンバツにて、名門を相手にノーヒットノーランを達成。

 チームは三回戦で負けたが、そのセンバツを制した大阪光陰を相手に、最も自責点の少ないピッチャーであったのは確かだ。

 上杉がプロ入り一年目、開幕からの連勝記録を伸ばしていた時、再び直史が甲子園にやってきた。

 そして達成したのが、事実上のパーフェクトである。

 直史を擁する白富東は、センバツの覇者大阪光陰の四連覇を防ぎ、雪辱を果たした。


 白富東は甲子園の決勝で、これまた歴史的なサヨナラ負けを喫したが、その秋からの大会においては、負けることのない試合が続いた。

 秋季大会は県大会と関東大会で優勝、神宮大会高校の部で優勝、春のセンバツで優勝、夏の選手権で優勝、国体においても優勝。

 高校野球の四大大会を全て制したのであった。


 最後の夏の甲子園で、直史は15回を一人で投げきり、参考パーフェクトを達成している。

 引き分け再試合で連投となった翌日も、九回を完封して勝利投手に。

 剛の上杉勝也に、柔の佐藤直史。

 果たしてどちらが上なのか、プロ野球ファンのみならず、野球ファンは全てが期待しただろう。

 だが直史はプロには進まなかった。散々に「特にプロには興味はない」と言っていたのにも関わらず。

 それでも断言しておいたおかげで、変な妨害などはなかったものだが。


 直史が大学在学期間中、かなり平穏に暮らせたのは、プロの世界で大介と上杉が怪獣大決戦をしてくれていたおかげだろう。

 それでもWBCへの特別選出など、話題には事欠かなかったが。

 大学の卒業が近づいてくると、今度こそプロへ、という期待はまた大きくなっていた。

 六大学リーグで達成した実績が、あまりにも人間離れしたものであったからだ。

 ただその時点でも既に、法科大学院へ進むことは、周囲にちゃんと話しておいた。

 少し調べれば分かる時代に、どうしてプロに進まないのだ、とよく言われたものである。

 その場合直史は、自信がないからだと伝えたものだが。




 結局直史が上杉と投げ合ったのは、数えるほどしかなかった。

 ただそのうちの一試合は、プロ野球史上最高の投手戦と言われているし、確かにそれは間違いないだろうな、と誰もが思っている。

 12回までを投げて、どちらのピッチャーもがランナーを一人も出さないという、試合が進むにつれて、段々と異様な気配が漂っていたものである。

 究極の投手戦は、0-0ですらなく、ヒットの一本でもなく、ランナーの一人さえ出さずに終わった。

 お互いの打線の力を考えれば、やや直史の方が有利であったとは言われる。


 ただブランクのあった一年目も、日本での最後の年となった二年目も、直史はパーフェクトゲームを連発した。

 その実績だけを見れば、直史の方がより、信頼できるピッチャーという評価が定まっても良かったろう。

 しかし直史は、上杉よりも自分が上だとは、一度も言わなかった。

 上杉に限らず誰かと比べられても、それにはあまり言及しない。

 直史にとって野球というのは、運の絡むスポーツであるからだ。

 だから自分は運がいい、とは何度も言っていたが。


 WBCなどでは同じチームで、日本の優勝に貢献した。

 だが直接対決は、二度とないのかとは寂しく思ったのも確かだ。

 もっとも肩を故障してから、上杉のパフォーマンスはわずかにだが落ちた。

 対して直史は、変化球にさらに磨きをかけていたのだ。


 MLBにおける連勝記録など、様々な記録を塗り替えていった直史。

 大介と同じく、この同時代に生まれたピッチャーを、それぞれの意味で絶望に落としたピッチング。

 その最後の舞台に、上杉も対戦することになった。

 しかし結局、その投球内容は、三回まで投げて両者パーフェクト。

 内容としては上杉が六奪三振であったので、直史よりは上と言えるだろうか。

 ただこの試合は圧倒的に、Bチームの方がバッターは優れている。

 そして肝心の上杉自身が、自分の方が上だとは、全く思っていなかったのだ。



 

 四回の表に出てきたのは、上杉のわがままではあった。

 だがここまで一人のランナーも出していない上杉だからこそ、通ったわがままではあった。

 大介とは何度も勝負をして、やや負けているなと自分でも思っている。

 しかし直史とは、対戦した経験が少なすぎる。


 プロに大卒で来てくれれば。

 せめてもう少し、投げ合いたかった。

 上杉はそんな思いを抱いて、またもマウンドに立つ。

(女々しいことだ)

 多くの人間が、男らしさの象徴とさえ思う、上杉という巨漢の雄姿。

 そこから投げ込まれるボールは、彼にとっての涙のようなもの。


「勘弁してくれよ……」

 この回先頭の織田は、上杉とある程度まともに戦える、数少ないバッターの一人と思われていた。

 だがプロ入りしてかなり早めにMLB移籍を決めたのは、MLBには上杉はいないと思ったからだ。

 数年後に直史がやってきてしまったが。

 なかったはずの、四回の表の登板。

 上杉の姿は、巨大な彫像のようにも見えていた。




「お父さん、まだ投げるの?」

「投げるみたいだね」

 東京ドームのVIP席、自らも有名人であるため、特別に用意された一室で、明日美は夫のその雄姿を見つめていた。

 一回から三回までランナーを許さず、それも三回は三者三振。

 確かにここから、肩が暖まってきたところだ、と言えるのかもしれない。

 だが遠くからその姿を見る明日美は、上杉のピッチングに何か、悲しみのようなものが見えている気がした。


 雄雄しい人だと、輝く人だと、ずっと思っていた。

 だが結婚して、そして共に生きていくうちに、お互いがお互いに、その輝きを見ているのだと分かってきていた。

 子供たちのうち、野球に興味を持ったなら、この試合を見せてやりたい。

 上杉はそう考えて、明日美と共に来るように言ったのだ。


 果たしていつまで、あのマウンドでの姿を見せることが出来るのか。

 一度は故障し絶望視されながら、復帰してNPBに戻ってきた。

 あるいはそのままMLBで活躍するのでは、と言われたほどに圧倒的な数字を残した。

 それでも戻ってきたのは、上杉が根本的に、日本人であるからだ。


 彼が期待されるのは、単純に野球選手という枠の中だけではない。

 将来的には地元に戻って、政治家というのが当初の予定であった。

 だが神奈川で圧倒的な人気となり、女優である明日美と結婚したことで、特に知名度は高くなった。

 そのため神奈川の国会議員選挙に出てもらおう、などという声が地元ではあるのだ。


 本来の新潟の地盤は、弟の正也が有力者の娘と結婚したため、そちらの方は正也が継ぐことになるだろう。

 上杉は確かに英雄であるが、悲劇のヒーローでもあった。

 そして正也はかなり運も良かったが、新潟県勢初の優勝旗をもたらしたエースである。

 野球選手として、肉体が衰えてキャリアを終えると共に、新しいステージが二人を待っている。

 特に上杉の方などは、完全に地元の神奈川をファンによって固めている。

 こういった形で、新たなセカンドキャリアを始めるのだ。

 上杉の場合はとにかく圧倒的な人気があるため、神奈川ではどのブロックから出ても、ほぼ当選するだろうとは言われている。




 上杉はどんな場所でも、上杉であるだろう。

 ただ大学を出ていないというのが、政治家としては不利に働くことにはなるはずだ。

 それを考えるなら、一度引退してから、大学に入学してもいいだろう。

 そういう流れで大学に入るだけの、経済的な余裕などもあるのだ。


 プロ野球選手のお嫁さんで、政治家のお嫁さん。

 明日美がそういうものになるとは、全く思っていなかった恵美理である。

 彼女もまた、今日はBチームの武史がいるため、同じ部屋にいる。

 高校時代はいられるだけずっと、同じ時間を過ごした二人だ。

 そして東京に出てからも、二人はずっと最高の親友であった。今はなかなか会える機会が作れないが。


 武史と恵美理の息子である司朗は、熱心に試合を見守っている。

 案外このVIP席に限らず、試合の様子はスタンドからの目視より、モニタービジョンの映像の方が分かりやすい。

 そしてそれを見ながら、司朗は次に投げられる球が何か、ことごとく予想を当てていた。

「司朗君、恵美理ちゃんみたいだね」

 高校時代の恵美理は、とにかく相手の考えていることを、直感的に見抜く人間であった。

 正確には思考ではなく、その瞬間の狙いのようなものをであったが。

 この超能力めいた力は、はっきり言って他の何よりもチートであろう。

 恵美理自身は気づいていなかったが、武史に言われてそうなのかと初めて知った。


 彼女は子供の頃から、自分の演奏がどれだけ人の心を動かしたか、感じながらピアノやヴァイオリンを弾いてきた。

 だからこそイリヤの圧倒的な力に、自分は敵わないと思ってしまったのだ。

 比べることが出来るために、諦めてしまった。

 まだその先にずっと、目指すものはあったはずなのに。


 この力のことを、武史はあっけらかんと受け入れているし、明日美もそういうのもあるのかとぐらいにしか考えていない。

 だが恵美理としては、後ろめたいものがあったのだ。

 武史と明日美に共通しているのは、明るさだ。

 もちろんその性質は、二人ともだいぶ違うものではあるが。




 この試合の行方がどうなるか、それは誰にも分からない。

 だが目の前の事実としては、上杉が無双している。

「上杉さん、すごいね」

 司朗はそう言うが、その目にある輝きは、単純な憧れというものではない。

 恵美理にも伝わってしまうそれは、闘争本能だ。

 たとえば武史と、休日にキャッチボールなどをしていても、司朗はそういうことを考えている。

 父が、上杉が引退するまでに、自分は同じステージに立つことが出来るのだろうか、と。


 恵美理は気づいている。

 この世界で最も、直史の天敵となりうる存在。

 それは大介でも樋口でもなく、この司朗なのだと。

 相手の思考が限定的にでも読めてしまうという能力は、コンビネーションで投げる直史にとっては、完全に相性が悪い。

 ただし司朗がプロの舞台に進むまでに、直史は引退する。

 結局戦わないことで、直史は最強のままで終わるのか。


 いつか、父親である武史との間に、確執が生まれるかもしれない。

 それは恵美理の直感であるが、おおよそこの直感が外れたことはない。

 司朗が成長するまでには、武史も引退しているだろう。

 その時、この息子の前に立ちはだかるのが誰か、それは恵美理にも分からないことだった。




 上杉は基本的に公正な男である。

 なので他のピッチャーから1イニング投げる機会を奪ったのを、悪いとは思っている。 

 だがそれでも、この舞台で投げてみたかったのだ。

 お気に入りのおもちゃを他人には貸せない、そんな子供のように。

 上杉は子供の頃から、鷹揚に自分の物を他人にやっていたりはしたが。

 浪費家ではないが、気前はいいのである。


 一年ぐらいはMLBにいて、直史と投げ合う機会を作りたかった。

 だがそれはMLBの現状においては、ほぼ不可能であるとも思えたのだ。

 ヒューストンにでも移籍していたら、話は変わったかもしれない。

 ポストシーズンでの対戦もあるだろうし、同じ地区で同じリーグではあった。

 ただヒューストンは当時、サラリーが拡大していて、上杉を取るという方針はなかったのだ。

 そもそも上杉は、一年だけで日本に戻る予定であったのだから。


 直史がそれほどMLBの世界に、そしてプロの世界にいないことは、樋口からそれとなく聞いていた。

 自分がいずれ、政治家になることを求められているように、直史もセカンドキャリアを見定めている。 

 だがそれでも、二年間延長して、MLBで投げ続けた。

 上杉の方が、通算での勝ち星は多い。

 だがわずか7シーズンで、直史は200勝を突破したのだ。

 そんなピッチャーは、不世出のものである。

 やはりどこかで、勝負がしたかったというのはある。




 そんな上杉の思いはともかく、織田は内野フライに倒れた。

 まったくもって上杉も直史と同じく、規格外のピッチャーである。

 織田は上杉から、甲子園で二本のヒットを打った、唯一のバッターではある。

 ただ当時の上杉の球速は、160km/hに達していなかった。

 後のことを考えれば、それ以上はキャッチャーが捕れなかったからだろう。


 ベンチに戻る織田に対して、バッターボックスに向かうアレクは、特に助言などは求めない。

 草野球であるし、そもそも上杉というピッチャーは、攻略法などというものがあるタイプではないのだ。

 織田としても何か言えるものではない。

 これが公式戦であれば、少しでも粘ることが、上杉を消耗させることになるのだが。


 球数についてはむしろ、直史の方が問題だ。

 充分に普通のピッチャーよりは、少ないペースでボールを投げている。

 だがそれでも、100球以内のピッチングを当たり前に行う直史には、かなりの負担がかかっているだろう。

 織田もアレクも投手経験があるので、少しでも直史を休ませよう、という気持ちは持っている。

 この点、真夏の野天型スタジアムでなかっただけ、熱が体力を削るということがないだけマシだ。


 アレクが狙うのは、バットのミートポイントで、間違いなく打っていくこと。

 だが上杉のムービング系のボールだと、普通に160km/hを超えてくる。

 それを打ってヒットにするというのは、ほとんど奇跡に近い。

 ただそれでも、全盛期に比べれば衰えたと言えるのが、恐ろしいところだと言えようか。


 武史のボールであれば、まだしも打てるのだ。

 上杉の場合、打ってもボールが飛んでいかない。

 奪三振率は落ちたが、ゴロを打たせることは増えている。

 それがここのところの、NPBでの上杉のピッチングだ。


 現代野球においては不可能と言われていた、300勝投手。

 もっともそれは各種野球指標によって、味方の援護やバックの守備力がないと、不可能であるとは思われている。

 MLBのサイ・ヤング賞の選考において、勝ち星を条件に入れるような新聞記者はいない。

 ただ上杉は戻ってからも、完全にトップを走り続けている。

 400勝が引退までに充分視野に入っているというのが、結果的にはどうかは分からないが、可能性があるというだけですごい。




 アレクはだが、そんな上杉の足元を、通り過ぎるようなボールを打った。

 センター前に抜けるか、と一塁へ足を急がせるが、これをショートの大介がキャッチ。

 一回転してから膝立ちのまま、ファーストへの送球。

 ファインプレイが上杉を助けている。


 最初の一巡目もそうであったが、織田もアレクも三振には倒れなかった。

 なんとしてでもバットに当てて、塁に出る可能性を残そうとする。

 今の打球も大介でなけれは、ファーストに間に合ったかは微妙なところだ。

 大介だからこそ、俊足のアレクも余裕で、アウトに出来たのだ。


 そして三番、悟の打席が回ってくる。

 セ・リーグに移籍した悟は、上杉が相手でも、それなりに打率を残している。

 ただしこの試合に向けて調整してきた、そんな上杉とは対戦の機会がまずない。

(それでもここで打てるとしたら、俺だろ)

 戦意を失わないまま、バッターボックスに入る。


 殺意を殺して、悟は構える。

 悟の本領発揮というのは、ランナーが三塁にいる時に、確実にこれをホームに返すということだ。

 チャンスに回ってきた時の、得点圏打率などが高い。

 しかし今は、得点などホームラン以外には方法はない。

 ここまで上杉は、パーフェクトピッチングを続けているのだ。


 せっかく直史の側のチームに入ったのだから、少しは活躍してみたい。

 守備では貢献している自信があるが、それ以外には果たしてどうか。

 軽く素振りをしてから、バッターボックスに入る。

 上杉のボールを打つのにはパワーがいるが、力を入れすぎていては飛ぶこともない。

 ツーアウトからの悟に、上杉もまた油断などはしていなかった。




 悟としても直史と、直接の対決をしたくないわけではなかった。

 だがそれでも直史と同じチームを選んだのは、やはり一つには直史への恩義というものがある。

 あの、冬の気配が残る日、スポーツ推薦の会場で、直史との対戦があった。

 当時の高校野球において、最高レベルの技巧派と、悟は対決することが出来たのだ。

 その後は他のすごいピッチャーと対決することになっても、まあアレよりはマシだな、と思うことで余裕が持てていた。

 そして一年の夏と三年の夏、悟は甲子園の頂点に立った。

 一年の夏は、武史が三年にいたため、その力が大きかったのは確かだが。


 今ここで直史と同じチームになったのは、あちらにも超一流の選手が揃っているから。

 またいざとなればあちらのチームは、二打席連続凡退となれば、バッターが代わる。

 その時に緒方にショートを守ってもらって、向こうのチームに入るという選択も、ありだと事前には言われていた。

 たった一打席で、直史を打つことが出来るとは思わなかったが、その条件は頭に入っている。


 一巡目の直史は、パーフェクトでBチームを抑えた。

 この裏の二巡目、果たしてどうなるか。

 体力よりもむしろ、集中力が問題なのかもしれない。

 悟から見てもBチームの打線は、スタメンだけでも異常なメンバーが揃っている。

 日本人で入っていないのは、それこそ故障している井口ぐらいであろう。


 バッターボックスの中で悟は、上杉と対峙する。

(相変わらず、大きいな)

 身長も高いが、それ以上に体に厚みがある。

 そこから投げられるボールは、35歳にしていまだに、170km/hを記録しているのだ。

 この試合においても、しっかりと仕上げてきていた。 

 初球からインハイに、コントロールされたストレートが投げ込まれる。




 ある程度、コースを絞らなければ、打てるものではない。

 だがバットの根元で打とうものなら、織田やアレクのように砕かれるだけだとも思う。

 ミートポイントで捉えるのだ。

 そのためにはむしろ、ゾーンの外寄りのコースの方が望ましい。


 初球はインハイであったので、見送るしかなかった。

 上杉のボールをインハイに投げられたら、おおよそは打てないというか手が出ない。

 基本的には体に近いほうが、当てることは簡単だ。

 ただ上杉ほどの球速になると、外角の方がまだ当てやすくはなる。


 二球目、狙っていく。

 アウトローに投げられたツーシームを、踏み込んで打つ。

 上杉のインコースの後に、アウトコースを投げられて、果たしてどれだけのバッターが対応出来るか。

 コンビネーション自体は単純なもので、純粋に球威が恐ろしい。


 バットに当たった打球は、三塁方向へ。

 ターナーの出したグラブを弾いて、転々と転がる。

 そのボールをショートの大介が捕球し、ファーストへと送球する。

 だが悟は、盗塁王まで取ったことがある足を使って、ファーストベースを駆け抜けた。


 一塁塁審北村の判定はセーフ。

 この打球はサード強襲の内野安打として記録される。

 ただ大介がサードにいたら、普通に捕球してアウトにしていただろう。

 ともあれこれで、上杉のパーフェクトが途切れた。

 そしてバッターボックスには、四番の樋口が立つ。




 ツーアウト一塁。この場面ではなかなか、点が入るものではない。

 長打があれば別だが、単打ではランナーが帰ってこれないのだ。

 樋口はここで、一発を狙っていかないといけない。

 ホームランまでは届かなくても、長打なら悟は一塁から一気に帰って来れるのではないか。

 ただ外野は深く守って、それは防ぐ体勢となっている。


 上杉はここで、交代などはしないのだろうか。

 ランナーも出たことだし、ここで交代してくれると助かるな、と樋口は思っている。

 他のピッチャーもたいがいにアレではあるが、上杉と比べればマシである。

 もっとも小川などの球質は、樋口としても見極めるのは難しいが。


 結局交代はなく、樋口がバッターボックスに入る。

(交代してくれても良かったんだけどなあ)

 樋口は高校時代以降も、プロの国際大会やオールスターで、上杉とは組んでいる。

 そして全盛期は過ぎたと言っても、いまだに20勝ほどをしている上杉を、まさか甘く見ることなどはない。

 ただ上杉としても、樋口を甘く見たりはしない。

 おそらく最も、狙い打ちが得意なバッター。

 今日はここで降板なので、全力を尽くせばいいだろう。


 一塁ランナーの悟は、やや大きめにリードを取った。

 上杉はクイックがあまり上手くないが、福沢の肩が良くて、速球系が多いだけに、まず走れるとは思っていない。

 だが少しでも注意を引けたら、樋口ならなんとかするのではないか。


 そうは思っていたのだが、簡単にツーストライクを取られてしまう。

 ゾーンの中の速球系を見逃して、明らかに変化球を狙っている。

 確かにカーブなら、樋口は打てるであろう。

 だが高速チェンジアップを使えば、それには対応できるのか。

 もっとも速球を狙っていけば、バット破壊の目に遭うかもしれないのは、今までを見れば分かるだろう。

 速球をカットしながら、変化球を狙うつもりか。


 樋口としてはストレートは打てないと思っていた。

 それこそど真ん中にでもくれば、さすがにバットを折らずに持っていくことは出来るかもしれないが。

 かつてバッテリーを組んでいた二人の間には、短い間でも呼吸が分かるようになっている。

 上杉にとってはこれが、今日最初で最後の危機となるのであろう。

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