第100話 幼年期の終わり

 幼年期の人間に対して最も影響を与えるのは、その保護者の感情である。

 この時期に愛されなかった人間は、その人格形成において多大な問題を抱えることになりやすい。

 だが真琴にとって幸いであったのは、この時期に両親以外からはしっかりとフォローが入ったことだ。

 強制的に大人にされた、という面はあるだろう。

 しかしそれは直史も通った道である。


 週末になれば、祖母の手でリトルのチームに通う。 

 そこにはすっかり親友となった聖子がいて、真琴の悩みを聞いてくれる。

 今はまだ学校までは同じではないが、中学になれば地区が隣接しているので、同じ学校に通うことになるだろう。

 ただ真琴にしても聖子にしても、中学受験をするのか、という問題はあるが。

 

 真琴の方は両親の注意が弟の方に向かってしまっているので、進学については特に問題はない。

 しかし聖子の方は母親が、中高一貫の女子高に通っていたのだ。

 もしもそちらを受けるという話にでもなれば、寮暮らしか親戚の家に居候することになる。

 ただ受験などというものは、本人が受かろうとしなければ、無事に失敗できるものだが。

 公立中学のレベル低下は地域差がある。

 もっともこのあたりの学校は、まだそれほど危険な水域にはない。


 星家の教育方針においては、母親が優先権を持っていると言っていい。

 だが星もまた、譲らないところでは頑固な人間で、だからこそかなりお嬢様育ちでわがままな瑠璃と、張り合ってきたと言っていい。

 現在の日本の中学受験は、基本的にかなり特殊な教育を受けていないと、成功するものではない。

 なので星としては、そこまでの時間を娘に賭けさせるには、おおいに反対するのであった。


 何より本人が、今はやりたいことをやっている。

 プロにつながるわけでもない女子野球。

 せめて何か、進学に有利になりそうなものなら、瑠璃としても認めすいものではあるのだ。

 もっとも自分も、明日美に影響されて、掛け持ちながら野球部をやっていた。

 なのであまり文句も言えない。


 聖子も真琴も、明日美やあの悪魔の双子のような、圧倒的な才能を感じさせる存在ではない。

 人生を後から見れば、何をやっていたのかと思うこともあるだろう。

 だが瑠璃にしても高校時代、仲間と一番今もつながっていられるのは、あの野球部としての集まりだ。

 どうせやるなら、納得するまですればいい。

 それが彼女の出した結論であった。




 元々、真琴は野球が好きであった。

 だがその好きになった理由は、普段はなかなか家にもおらず、いたとしても体力を温存して、休養していることが多い父親がやっていたからだ。

 もちろんフロリダで、従兄弟たちと遊んだことも、その理由の一環にはなる。

 しかし彼女にとってやはり、父親との記憶が一番幸福なものである。


 その野球があることによって、真琴は今、居場所を得ている。

 小学校に友達がいないわけではないが、活発すぎる真琴は同性には、今の段階ではあまり合わせられない。

 アメリカで暮らしていたことによる、細かい生活習慣の違いなども、影響はしているだろう。

 よって彼女はこの日本において、野球によって交友関係を築いている。

 やや歪であるとは、言わざるをえない。


 母親である瑞希からすると、自分の妊娠によって、真琴に手間をかけることがあまり出来ないのは、ちょっと後ろめたくはある。

 だが今は真琴の優先順位は、下げるしかないのも本当なのだ。

 明史は命がかかっている。

 そして胎内の赤ん坊も、当然ながら真琴よりも優先順位が高い。

 瑞希とまさに、一心同体なのであるから。


 ただそんな瑞希ではあるが、真琴のことはあまり心配していない。

 自分の子供の頃とは、全く性格や嗜好が違う。

 だがどこか人を引きつける魅力は、確かに感じるのだ。

 髪を短くショートカットにして、試合となれば男子顔負けのプレイをする。

 マウンドに立つその姿は、確かに父親に似ていて、瑞希を魅了するのであった。




 今日も試合が行われる。

 高校野球が行われて、プロの試合が行われて、海の向こうでも試合が行われる。

 そんな中で直史は、不義理を詫びたりもしている。

 具体的には鬼塚の代理人を、辞めざるをえなくなった。

 法人の法務として、携わっている仕事は、影響する人間が多いため、さすがに放り投げるわけにはいかない。


 だが鬼塚のことは、あくまで個人的に受けた依頼だ。

 もちろんこうやって、オフシーズンよりずっと前に、理由については伝えている。

「仕方ないっすね」

 鬼塚はむしろ、直史に頭を下げられるのを恐縮していた。

 自分の代理人の仕事というのは、直史にとってそれほど、割のいい仕事でもなかったはずなのだ。

 それを引き受けてくれたのは、古くからの関係があったからである。


 あくまでも個人的な理由ではあるが、直史の言っていることは本当に、仕方のないことである。

 子供の命がかかっているなら、それをどうにかしてやりたいと思うのが親である。

 鬼塚もまた、子供三人の親ではあるのだ。

 ただまた、代理人は選ばないといけないな、とは思っているのは仕方なかった。




 海の向こうでも、物語は紡がれる。

 ニューヨークのさほど暑くもない夏において、大介は調子を落とすこともない。

 ただ今年は、打撃タイトルにおいて、強い競争相手が現れていた。

 大介の驚異的なところは、打率や出塁率を保った上で、高い長打率を誇っている点である。

 しかし0.380という充分な打率を誇りながらも、今年はその首位打者争いが激化していた。

 OPSや打点などで勝負するなら大介の圧勝である。

 しかし打率と盗塁数で、ほぼ匹敵する選手が出てきたりしているのだ。

 

 大介も今年で35歳になる。

 超人的な肉体はいまだに、技術においては追随を許さない。

 フライボール革命など知ったことか、とレベルスイングを続けているが、それでホームランがぽんぽんと飛び出す。

 たださすがに20代の頃のような、回復力や柔軟性は、失われつつある。


 さらに高い領域を目指すのではなく、今を維持するだけでも難しくなってくる。

 これまでは分析され対策される以上の速度で、さらに技術やフィジカルを上げていって。対応できないようにしていた。

 今でも少しずつ、昨日の自分を上回ることを心がけている。

 だが敵地連戦などが重なると、それにも限界がある。


 何より落ちてきたのは、対応力だと思う。

 MLBもNPBも、そのピッチャーのトップレベルは変わらない。

 だがMLBがNPBと何より違うのは、その選手層の分厚さだ。

 サイ・ヤング賞を取ったピッチャーが、ほんの数年後には通じなくなったりもする。

 そもそも世界中から選手を集めているので、どんどん選手は循環していく。

 また日本と違い、同じチーム相手に年間でどれだけ対戦するか。

 多くでも19試合と、日本の25試合とは差がある。

 そしてピッチャーは日本よりもさらに、継投が盛んである。

 大介と何度も対戦し、それでも対戦成績の高かった直史が、完全に異常であったのだ。




 少しずつ怪物の衰えが見えてきた。

 そう思った業界の人間は多かっただろう。

 もっともいまだに、怪獣レベルの実力の突出具合は変わらない。

 打撃、走塁、守備とその全てがトップであり、時々消化試合ではピッチャーまでやってしまうのだから、出来ないことがない。

 そして何よりバッティングの最大の魅力であるホームランを、高確率で連発する。


 これでも全盛期ほどではない。

 なにせ全盛期は、ボール球を普通にホームランにしていたのだから。

 かつてはホームランにしていたボール球を、最近はカットするようになってきている。

 下手に無理な姿勢で打っていっては、打球をコントロール出来ないのだ。

 それでも以前は、パワーでスタンドまで持っていったり、フェンス直撃という打球を打っていった。

 だが最近ではそういった打球にするには、体のあちこちに負担がかかる。


 正しいフォームで、無理なくパワーを伝える。

 そうすれば今でもしっかりとホームランを打てるのだ。

 ホームラン競争においては、いまだに両リーグを通じてトップを走る。

 そしてチャンスにおいては、ホームランではなく狙ってヒットも打つ。

 打率は少し落ちて、出塁率はそれよりも落ちた。

 だが五割は軽くキープしているのだ。


 大介は大介なりに、ツインズの様子が少しおかしいな、と感じている。

 ただあの二人は、大介のフォローをするためならば、シーズン中は色々と秘密のままにしておく、というのがそれなりに少なくない。

 話し合わなければいけないことは、ちゃんと伝えてくる。

 それによると直史の家が、また家族が増えそうだ、というのはめでたいことではあった。




 最近の白石家においては、昇馬のマイブームが野球から離れている。

 いや、野球をしなくなったというわけではないのだが、他のことにも興味を示し始めたのだ。

 大介としては昇馬は、どうやら自分には似ずに、頭の中身は母親に似てくれたようで、むしろ望ましいと思っていたりする。

 もっとも大介も地頭は悪くないわけで、もしも本当に悪ければ、白富東には入れなかったであろう。


 昇馬は様々なことに興味を示し始めている。

 それは人間にとって当たり前のことで、選択の出来る環境であるならば、悪いことではない。

 そもそもツインズが、ほとんど何をやらしても、天才に近いレベルにまで到達してしまう、という万能タイプの人間であった。

 本物の天才にはかなわない、などと二人は言っているが。


 白石家の子供は、別に昇馬だけではない。

 七人もいるので、それなりに個性が大変であるのだ。

 その中でツインズが、ひょっとしてこれは本物の天才であるのでは、と思っているのは、やはり伊里野であった。

 だいたい最近は、実母の話題が出るときにややこしいので、ミドルネームの花音と呼ぶことが多いが、音楽に対する執着が違う。

 まだ言語化もあやふやな年齢なので、はっきりとは言えない。

 だが実母を思わせるところがある。


 親友が最後に残した遺産。

 それは数多くの楽曲ではなく、この娘であった。

 自分たちも適当に楽器が弾けるので、それを聞かせたりはしている。

 その中で明らかに、言語よりも早く、音楽的なものが発達しているように感じられる。


 次の世代へ、命は継がれていく。

 それを追体験することは、親としての最大の喜びであるのかもしれない。




 人の営みには始まりと終わりがあり、その中でも最も輝ける栄光の時はある。

 セイバーが見る限り、さすがの天才たちの力も、最盛期を過ぎていっているのは分かる。

 衰えるというのは悲しいことであるが、だからこそ美しい。

 そういった考えは、日本人の価値観に近いであろうか。

 ただ輝く瞬間を迎えるその前に、その命が失われてしまうこと。

 それはさすがに寂しすぎると、ドライな彼女でさえ思っていた。


 直史から頼まれた、心臓疾患の手術。

 伝手をたどってみたが、確かに診断はおおよそ同じであった。

 今手術をするには、まだ体が小さすぎる。

 経過を観察しながら、機会を見た方がいいだろうというものだ。

 ただ直史には伝えなかったが、自然と成長に合わせて穴が塞がる、という可能性を肯定する医者は、あまりいなかった。

 おそらくどこかで、手術をするタイミングになる。


 心臓の手術というのは、確かにとても難しいものである。

 なにせ普通の人間であれば、生まれてからずっとどころか、生まれる前から死ぬまで、ずっと動き続けるのが心臓であるのだ。

 息を一時的に止めることは出来ても、心臓を地力で止めることは出来ない。

 それはもう星の白金にでもお願いするしかないのである。




 直史の人生というのは、本当におかしなルートをたどっているなと思う。

 セイバーも両親の事故死から、それなりにドラマチックな人生を送っていると思うが、基本的にはサクセスストーリーを歩んできたと言える。

 直史の人生も、本来ならもっと平穏なものであったはずだ。

 しかし才能と、偶然による運命が、そんな普通の人生を送ることを許さなかった。

 だが引退した直史には、もう世界の運命が何かを、期待するようなことはないと思えるのだ。


 本人は特に、不運にも不幸にも祟られていない。

 だがその他の分の全てを、周囲が浴びているような気もする。

 台風の中心部だけが、目となって風が凪ぐように。

(多分、彼はとても長生きする)

 普段から節制していて、MLBのハードなスケジュールでも、結果を残し続けた。

 そんな直史は普通に、長生きするだろう。

 周囲の人間は、それよりも早くこの世を去っていくだろうが。

 

 セイバーとしても直史には、不思議な感情を抱いている。

 もちろん恋愛感情ではないが、特別な運命を感じはするのだ。

 何か他人の運命をも左右してしまう、圧倒的な影響力。

 大介と二人揃っていたときは、さらにその力は強かった。


 他に同じようなことを感じたのは、イリヤぐらいである。

 政治家や財界人には、こういった感覚を感じたことはない。

 彼女は死してなお、影響力を残し続けている。

 それもほんの若い間の、自らの声で歌っていた時代の音源は、何十億もの回数、この世界に流れている。


 イリヤの才能を、その娘も受け継いでいる傾向はある、とツインズなどは言っていた。

 だがそれは単に、早熟なだけかもしれない。

 もっともイリヤも早熟であったので、それだけで娘の才能を否定するわけにはならない。

 平均寿命の半分ほどを過ぎたが、まだ世界は大きな驚きや、可能性に満ち溢れている。

 死ぬまで退屈せずに済むかな、とセイバーは考えていた。




 同じニューヨークの球団へ移籍した武史は、かなりブーイングなどを受けたものである。

 それはメトロズとラッキーズの、サブウェイシリーズで明らかになった。

 ただ武史としては、この乱雑で猥雑なニューヨークという街を、それなりに気に入ってはいるのだ。

 金さえあれば、かなり快適に過ごせるというのが、アメリカの特徴だ。

 富の集中は日本においてはあまりないものである。

 格差が避けばれる現代であっても、まだ日本はマシな方である。


 武史に対しては単純に、兄として心配をして、連絡を取ってくる直史。

 だがその妻である恵美理に対しては、義理の兄と言うよりは、ちゃんとした真っ当な女性として、また弟の妻として、敬意を払ったような態度を見せている。

 実のところ恵美理は、最初はその紳士的な態度は、他の多くの男がそうであるように、性欲からのものではないかと疑ったものである。

 ただ武史自らが、恵美理のようなタイプは直史の好みではない、とはっきり言ったのだ。

 確かに瑞希などと比べると、恵美理はかなりタイプは違う。

 似ているのは顔がいい、というぐらいである。

 直史は極端に言えば、容姿が大人びていて、背が高くて、胸の大きな女性が苦手なのだ。

 別にロリコンというわけではないのだが。


 そんな直史が珍しくも、恵美理にも頼ったのだ。

 内容としては確かに、頼れるだけの伝手を全て、頼るようなものであったが。

 恵美理としても義兄の頼みを、断るような理由はなかった。

 だが結局、力になるようなことも出来なかったが。


 あれだけの成功を遂げていながらも、人間は悩みや苦しみから逃れることは出来ない。

 恵美理の目から見ても、直史は人間としての強さを、しっかりと持っていると見えるのだが。

(逆にそういう人間だからこそ、どうにか耐えられるのかも)

 真琴にしても直史の娘として生まれていなければ、とっくに死んでいたかもしれない。

 ただ他の事で恵まれているからといって、それだけ不運になるというのも、それはそれで嫌なことだろう。

 人生はままならぬものである。

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