第101話 凶行と波紋

 世界は個人の意思とは、全く別に動いていく。

 それは凡人であろうが天才であろうが、全く変わらないことだ。

 そして社会の大きな動きは、凡人であろうと天才であろうと、問答無用で巻き込んでいく。

 また自然災害や、無差別な事故などもそうだ。

 加えて言うならば、選別するようでいて実は無差別な加害も、才能や社会的地位などを考慮せずに、人々を巻き込んでいく。

 ニューヨークはそういう点では、危険な街である。

 一言でニューヨークと言っても、充分に治安もよく、安全な場所もあるのだが。

 ただアメリカは、銃の所持が許された国だ。

 ニューヨークはほとんどの場合、民間人が銃を持つことは難しいが、外から入ってくる大量の人間が、銃を持っていないわけでもない。


 イリヤもニューヨークで、銃で撃たれて死んだのだ。

 ジョン・レノンだってやはり銃で撃たれて死んでいる。

 それでも銃を持つ権利がアメリカの多くの州で許されているのは、それが身を守る手段として認識されているからだ。

 ただ銃という武器は本当に、ナイフなどはもちろん他の射撃武器である弓矢と比べても、殺傷力は高すぎるのだが。

 強盗を民間人が銃で撃ち殺す、などというプラス面の事件がなくならない限り、銃規制が完全に行われることはないだろう。


 そんな危険な銃という武器であるが、幸いにもと言うか、佐藤家の人間は持とうとはしなかった。

 そもそもニューヨークでは、外国人が銃を所持することさえ難しい。

 一方のアナハイムを含むカリフォルニアでは、そこそこ銃は所持しやすい。

 ただツインズはフロリダに滞在している間は、暇を見て射撃などを訓練したりしている。

 銃自体は所持していないが、危険な女たちなのである。




 この日、危険な女たちは、いつも通りに分担して仕事をしていた。

 いや、それを仕事と言っていいのかは、微妙なところであるのかもしれないが。

 椿は家に残り、普段通りの仕事をしている。

 もう一方の桜は、お出かけである。

 予定としては、恵美理と一緒に楽器を見に行くのだ。


 恵美理は自分自身で、普通にいくつかの楽器を演奏することが出来る。

 一番得意なのはピアノであるが、普通に上手いと言われる程度であれば、ギターなども弾けなくはないのだ。

 長男である司朗や長女である沙羅には、嗜み程度にピアノを教えている。

 もしも子供たちが本気でやりたいとなれば、自分ではなく他の誰かに依頼した方がいいかもしれない。

 本気で教えるならば、その間は母と子ではなく、教師と生徒になる。

 それを簡単に切り替えるほど、恵美理は自分のコントロールが上手くはない。


 こういった子供の習い事などに関しては、武史は頼りにならない。

 別にやりたいことが見つかるまで、遊ばせておけばいいだろう、というのが彼の考え方である。

 長男の司朗は野球をやっているが、アメリカはストリートバスケも盛んだ。

 なので昔取った杵柄として、バスケットボールをして遊んでいるのが武史である。

 身長は180台の半ばを越える武史であるが、アメリカのプロバスケットボールであるNBAであれば、ほとんど最低身長と言ってもいいぐらいの部類だ。

 アメリカのスポーツエリートは、たいがい巨漢が多いが、その中でも目立って身長が必要なのが、バスケットボールである。

 ただMLBであっても、武史程度の身長は普通である。

 大介などがおかしいのだ。ちなみにそれに隠れているが、体格的には直史も充分すぎるほどおかしい。




 白石家の娘たちも、養子である長女と実子である次女が、そろそろ楽器をやりたがる年齢である。

 ツインズたちはそれこそ、まさに万能的に楽器までも弾いてしまえるが、さすがに本職には及ばない。

 そこで本日は恵美理と一緒に、とりあえず楽器店などを回ってみるか、と事前の下調べをする約束であったのだ。

 少しばかり早く到着した恵美理は、デパートの中を見てみるか、と入り口から入る。

 そこにぶつかるように、人が走り出てきた。

 

 慌ててそれを避けた恵美理に、男は叫ぶ。

「逃げろ!」

 ここで恵美理は、少しだけ平和ボケしていたのかもしれない。

 だが咄嗟に反応できる人間は、そうそう多くはないだろう。

 同じくこちらに向かっていた女性が、発砲音と共に倒れ伏す。

 その向こうに見たのは、虚ろな表情のままで、拳銃を構える中年男性であった。


 銃口が見える。

 その狙いの先が自分に向けられているのを、恵美理は認識していた。

 ここで彼女が感じたのは、時間が引き延ばされる感覚。

 過集中した時に生じる、あの感覚であった。

「伏せて!」

 先ほどの言葉は英語だったが、今度は日本語。

 恵美理は伏せるというよりは、崩れ落ちるようにその場にへたり込む。

 その頭の上を通り過ぎていった何かは、もう至近距離まで近づいていた、男の顔に突き刺さった。


 手からこぼれた拳銃は、暴発することもなく床に落ちた。

 恵美理の横を駆け抜けていったのは桜だった。

 倒れた男の拳銃をさらに蹴飛ばし、その生死をわずかに確認すると、倒れた女性に向かう。

「救急車を!」

 そこでようやく恵美理は再起動した。

 震える指でスマートフォンを操作する間に、ようやく理解する。

 自分が今、死に掛けたことを。




 少しだけ不謹慎であるが、今度は助けられた、と桜は思っていた。

 あの時の椿は、間に合わなかったのだ。

 イリヤを失ったようには、恵美理を失わずに済んだ。

 もちろんツインズにとって恵美理は、それなりに大切な人間ではあるが、イリヤとは比べられるようなものではない。

 だがそれでも、助けることが出来たのだ。


 倒れ伏す女性は、一応はまだ生きている。

 弾が貫いたのは背中のやや左寄りで、おそらく背骨は傷ついていない。

 血はじわじわと出てきているが、大量出血もしていない。

 これなら助かるのではないか、と冷静に考える桜である。

 見も知らない人間が死んだところで、別にどうとも思わない。

 それがこの双子の価値観である。


「その人……助かるの?」

「分からないけど、他に撃たれた人がいるかも」

 おそるおそる恵美理が近づいてきて、覗き見る。

「これ、傷口押さえておいてくれる? あたしは犯人の生死確認と、他の怪我人を探すから」

「う、うん、分かった」

 あまりにも冷静な桜の態度に、恵美理もある程度は落ち着いてくる。


 倒れこんだ犯人の首筋に、桜は触れた。

 そして脈動が停止しているのを確認し、投擲した投げナイフを回収するかどうか、少しだけ迷う。

 日本だったら銃刀法違反であるが、アメリカでは許容範囲。

 下手に証拠隠蔽などはしない方がいいだろう。


 感情は完全に凪いでいた。

 桜にとって恵美理は、ある程度の危険を冒しても救う対象。

 そして犯人はその背景も知らないし、正当防衛で人を殺せる絶好の機会であった。

 椿に羨ましがられるかな、と思いつつも桜は他の犠牲者を探しにいく。

 そして警察や救急車が到着する前に、他に二人の被害者を発見した。

 こちらの二人は、既に絶命していた。




 被害者三名、うち二名死亡。

 犯人もまた、現場にいた一般人の反撃により、死亡が確認された。

 この事件は規模だけを言うなら、そこそこのショッキングさしかなかっただろう。

 だが被害者になりかけた人間によって、大きな話題となる。

 遠征に出ていた武史と、ニューヨークにいた大介はさすがに警察署に急行。

 怪我もなかったなら行く必要はないか、と達観していた椿がむしろ異常である。


 確かに身体的には怪我はしなかった二人である。

 しかし恵美理はすぐさま、犯罪被害者が受けるPTSDプログラムを受けることになった。

 殺人犯の銃口を向けられたこと、銃撃を受けた被害者を必死で助けたこと。

 べったりと血に染まった手を、何度も洗うという脅迫感が拭えない。


 また桜も正当防衛ではあるが、投擲用のナイフを護身のために持っていたことや、その正当防衛が過剰でなかったかなど、警察の取調べを受けることとなった。

 銃を持っていた相手に、正当防衛が成立しないわけはない。

 ただ明らかに殺傷能力のある武器を携帯していたというのは、かなり不思議そうな顔をされた。

 実のところ桜の持っていたのは、投擲用のナイフではない。

 また上手く犯人を殺せるかというのも、微妙なところではあったのだ。


 正当防衛は無事に成立する。

 だが桜もまた、犯罪被害者保護プログラムの一環で、医者や臨床心理士との面接を受けることになった。

 そこで面接した人間は、桜の精神状態に驚くことになる。

 彼女は明らかに、サイコパスであったのだから。


 今更、というのが桜本人の認識である。

 自分たちがサイコパスで、狂っていることなど、本人二人もその家族も、はっきりと分かっていることなのだ。

 極端に言ってしまえば、何かに対する罪悪感というものがない。

 重要なのは自分にとって大切かどうかであって、法律という大前提や倫理などは建前であると、完全に理解している。

 しかし社会不適合者でないことも、確かではあったのだ。




 深刻なのは恵美理の方であった。

 完全に楽器を見る楽しみのために出かけて、そして命の危機に陥ってしまった。

 そのギャップもあってか、本人もはっきり分かるほどに、情緒不安定になってしまった。

 外出するのが怖くなって、仕事は全てキャンセル。

 それでもマンションのセキュリティがしっかりしているので、日中は家にさえいれば、特にフラッシュバックを起こすことなどはなかったが。


 ただ夢の中では、相当にうなされていることがあった。

 武史も数試合は欠場したし、遠征にも独自行動をして、後から合流という手段を認めてもらったりした。

 こういう時にパートナーのためと言えば、それなりに融通の利くのがアメリカのいいところかもしれない。

 しかしこの前後で、武史の投球成績も悪化した。


 野球はメンタルスポーツである。

 大介も高校時代の一時期、祖父の死で調子を落としたことがある。

 本当の意味で逆境に強いのは、やはり直史ぐらいであるのかもしれない。

 その直史はもちろん、心配をしてネットでつながってみたりはした。

 しかし彼には、息子の病気というそれ以上の問題が生じている。

 恵美理は母親がアメリカに飛び、しばらくは一緒に暮らすことにした。


 これが武史の自身のことであれば、案外けろりんとしていたりする。

 なにせ無神経なことには、妹たちからも定評がある。

 しかし自分以外の大切なものであれば、さすがに動揺もするだろう。

 この年の武史の成績は、前年までに比べてかなり落ちたものとなる。

 それでもエースクラスのピッチングは続けることになるのだが。




 人生というのは波乱の連続である、という人間もいる。

 中には波風のない人生に退屈し、鬱屈してしまう人間もいるらしいが。

 そういう人間はとにかく、何か一つ打ち込めるものを見つけるべきであろう。

 ただ波乱万丈な人生であっても、こういった波風は立たないでほしい、と思う人間が大半であろう。

 ほとんど無神経に日々を過ごしてきた武史でも、さすがに今回の事件はこらえた。

 イリヤのことを思い出してもおかしくないだろう。

 そもそも身内というなら、椿も一緒に撃たれているのだが。


 結局犯人の動機というのは、よく分からないものであった。

 だが無差別的なこういう犯罪は、日本でもそれなりに起こっている。

 今回は凶器が銃であったことが、また物騒なことになりそうであった。

 しかし日本でも刃物を振り回して、何人も殺している凶悪犯罪がないではない。

 本当に、運が悪い中で、運が良かったと言うべきだろうか。

 平然と人を殺せる、ただ無意味に殺したりはしないサイコパスの義妹と、一緒に買い物をする予定であったこと。

 先に逃げていた男から、桜が警告を聞いたために、逆に助けに向かったこと。

 普段から凶器を護身のために持っていた桜がいたというのも、本当に運が良かったことではある。

 それでも命の危険を感じて、トラウマになってしまったわけだが。


 日本から恵美理の母がやってきて、当分の間は滞在する、ということになった。

 ただアメリカと日本では、やはり治安が違う。

 アメリカでも治安がいいところは、それこそ日本の田舎以上に、治安は良かったりする。

 もっとも日本の田舎でも別方向に治安が悪かったり、問題があったりするところはないでもない。




 マンションからは注意しながら自分の車を運転し、そのままカウンセリングを受ける。

 恵美理はそもそも、生まれつき人の悪意というものに、あまり晒されたことがなかった、というのも問題ではあったろう。

 学業も運動も出来る、正真正銘のお嬢様。

 中学からは私立の女子高に通い、そこでスクールカーストはトップレベル。

 友人も出来て、伴侶もデリカシーに欠ける部分がないではないが、同時に細かいことは気にしないスーパースター。

 苦労知らず、というのとは少し違うが、確かに悪意への耐性はなかった。


 ニューヨークで暮らしてもう何年にもなり、それなりに危険な街だとは分かっていたはずであった。

 しかし知識として知っているのと、体感するのとでは全く違う。

 また単なる危険であれば、注意して避けることが出来る。

 スポーツをやっていれば怪我をして、そこから怪我をしないように注意する、というのは当たり前のことだからだ。

 それと比べても、今回の場合は唐突すぎた。


 普段の生活の範囲内に、いきなり命の危険が飛び込んでくる。

 そんなことは普通の人間であれば、いくらなんでも思い浮かばない。

 アメリカは確かに、日本人よりは危機意識が高いが、それでもこういった事件が発生すれば、犠牲が出るものだ。

 常在戦場を心がけているような頭のおかしな人間は、ツインズぐらいである。




 マンションに閉じこもっていても、ある程度出来る仕事があるというのが、恵美理にとっては幸いであったと言うべきであろうか。

 自宅にグランドピアノを置く部屋が存在するというのは、日本のマンションならさぞや高級なものだと思えるかもしれない。

 ただ武史の場合は、このマンションさえもが球団との契約で用意されたもの。

 さすがにピアノ本体は、自分で用意したものであるが。


 ここにこもって、ピアノ教室を知り合いの子女に対して始めた。

 なんとかこれによって、完全に外部と没交渉になることは避けている。

 チームは変わってしまったとはいえ、恵美理はツインズにとっても義姉。

 子供たちに音楽を教えるならば、これ以上の先生はいない。

 ただ恵美理の場合、かなりガチで幼少期はやっていたため、泣くまでピアノを弾いていたことなども、ないわけではなかったが。


 芸術の世界ともなると、そういった虐待まがいのことも普通に行われる。

 その芸術といっても、伝統芸能などに関しても、同じように虐待まがいのことは普通に行われている。

 まず楽しまなくてはいけないスポーツとは、全く違う常識で指導が行われている。

 単純に楽器の演奏などは、野球とは違い死ぬほどやっても死なない、などという理由もあるだろう。

 もっとも練習をやりすぎるとやはり、ピアノなどは腱鞘炎になってしまったりする。

 爪が割れて血がにじむほど、やってしまうこともあったりする。


 恵美理の場合は自ら、それぐらいの努力をやったことがある。

 ただしそれは望んでやったものだ。

 それだけやっても勝てなかったのだから、才能の差というのは残酷なものである。

 もちろんその負けた相手というのが、イリヤであったりするわけだが。


 恵美理は高度な技術を持ちながらも、その指導は優しい。

 だが本格的にやってみるなら、ある程度の厳しさも必要になる。

 野球にしてもまずは楽しくしなければいけないが、プロともなれば自分にどれだけ厳しいかがポイントだ。

 それを求められるなら、そういった指導も出来るのが、恵美理のレベルであったりする。

 ちなみにイリヤは生前、わずかにプロデュースをしていた。

 全く音に妥協がなかったので、楽曲提供だけになる場合が多かった。

 この音の中で、恵美理がまた癒されるのか。

 野球などとは全く違った問題で、悩まされる武史であった。

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