第102話 呪われた年

 この年はまさに、佐藤家の周辺では呪われたように、悪いことばかりが起こったようにも見える。

 直史の家では長男の心臓疾患が判明し、その活動がおおいに制限されることとなった。

 真琴に対する両親の愛情はともかく、手間のかけかたは明らかに少なくなった。

 それを中途半端に納得してしまえたところに、真琴の不幸があると言えようか。

 ただ直史などは、最悪のことも考えていたのだ。

 瑞希の妊娠が重なり、動ける人間が減った。

 なので使える人的リソースも、優先順位をはっきりする必要はあったのだ。


 武史は純粋に、恵美理が巻き込まれた事件が、家庭内に影を落とした。

 子供たちを外に連れ出すのにも、一時はかなりの拒否感を示すという、トラウマとなった事件。

 夢の中でもフラッシュバックを起こし、カウンセリングを続けることになる。

 武史はその鈍さによって、恵美理のマインドに感染するようなことはなかったものの、家庭内が暗くなったのは確かで、それもラッキーズ一年目ということもあり、成績の不調につながった。

 年間を通じてほぼローテーションは守ったものの、特に事件の起こった後は、四連敗というプロ入り初めてのスランプとも言える負けが続いた。

 もっとも全ての試合で、クオリティスタートは決めていたのだが。


 大介もまた、今年は調子をさらに落とした。

 その落ちた成績でもって、首位打者、ホームラン王、打点王の三冠に輝いていて、出塁率やOPSも、まだ圧倒的な一位を記録していたのだ。

 ただ成功率こそ落とさなかったものの、盗塁の試行数が減った。

 それでも最も、勝利に貢献した選手として、普通に評価はされたのだが。

 大介は自分自身へのプレッシャーには強いが、身内の不幸などの外的要因には、やはり弱い傾向がある。

 またメトロズ自体も、かろうじてポストシーズン進出を果たすという成績。

 再建中のチームであるのに、ポストシーズン進出を果たしたのなら、それは充分なことであるとも思える。




 この年の不運というか、なにやら野球全体を盛り下げるという事象は、佐藤家周りだけに起こっていたわけではない。

 ミネソタではブリアンが走塁時に足を捻挫して、二ヶ月ほどの離脱。

 復帰後も調子は上向かず、この年はホームラン王争いなどの、タイトルからは完全に脱落した。

 日本人選手のみならず、MLBではスター選手の不調が相次いだ。

 織田などは特に問題なくシーズンを過ごしたが、アレクも長期離脱をし、憎まれっ子世に憚ると言わんばかりの蓮池なども、肘の薄利骨折で調子を落としたのだ。


 逆に今年、全く変わらずにどころか、一番の成績を上げた者もいる。

 大介と同じで、今年で35歳になった樋口は、MLB移籍後初めて、ホームラン数が30本に到達した。

 なんだかんだと言われながら、大卒のキャッチャーである樋口が、日米通算ホームランを300本に届かせる。

 これは充分に偉大なことだとは言えただろう。


 もっとも樋口に言わせれば、アレクが離脱したことにより、樋口の打席でランナーがいるという状況が減った。

 そのため甘い考えで勝負されることが多く、そこを狙い打ちに成功した、とも言える。

 戦力がいまいち揃わなかったアナハイムは、今年もポストシーズンを逃すことになる。

 直史の引退と共に、まさにその黄金期は終わりを告げた。

 もっと本格的に、チーム再建のために解体をするべきであったろう。

 トレード拒否権を持っている選手がいたため、それが上手くいかなかったのだが。


 レギュラーシーズン中から、本命不在と言われていたポストシーズン。

 それを制することになるのは、ヒューストンであったりする。

 だがその確定はまだ先のこと。

 今はまだ、レギュラーシーズンの途中であり、タイトルなども全て決まっていない。




 この年の停滞したような空気は、MLBだけで終わらなかった。

 NPBでも正志がMLB移籍をしたことにより、またスタープレイヤーの流出となった。

 やはりこちらでも、長くプロ野球を牽引してきたスター選手が、その衰えらしきものを見せるようになった。

 上杉も年々、完投数が減ってきている。

 西郷は相変わらずホームランは打つが、打率は下がってきていた。

 上杉から始まる、日本のプロ野球を支えてきたスター選手。

 それがこの年辺りで、多く引退するのでは、とも思われるようになった。


 一番とも言える速度で勝ち逃げをした直史は、それをのんびりと見ている暇もない。

 鬼塚の代理人は外れたものの、それ以外にやらなければいけない仕事はたくさんある。

 結局はやはり、事務所の一般的な依頼などは、後回しになってしまうことが多い。

 弁護士は定年のない仕事であり、所属している他の弁護士も、まだまだ辞めるつもりはないらしい。

 それでもいつかは、ここの所長は直史か瑞希が継ぐことになるのだ。


 地元の千葉なので、鬼塚の活躍ぐらいは耳に入ってくる。

 成績としてはおよそ去年と変わらず、トレーニングでどうにかフィジカルは維持している。

 しかし全くもう、伸び代はなくなったと言っていいだろう。

 あとはどれだけ現役でいられるか。

 多くの選手が、セカンドキャリアを考え始めていた。




 千葉は去年のシーズンで、やるべきことをやり遂げてしまったのかもしれない。

 鬼塚としても日本一になって、一つの目標は成し遂げた感がある。

 ただプロの世界というのは、名選手であっても普通に、一度も優勝は出来なかったりする。

 それは高校野球でも同じことだし、そもそも高校野球であれば、機会は多くて五回しかない。 

 鬼塚はそのうちの四回で、頂点に達している。

 高校時代を言うのであれば、彼ほどの幸運に恵まれた人間は、まずいないだろう。

 直史や大介でさえ、二回しか頂点の景色は見ていないのだから。


 ほぼ同年代の選手が、多く今年は成績を落とした。

 まだまだこの世界にしがみつく気持ちは、鬼塚にもある。

 ただ今後は、後輩の世話などをしていくことなどが、鬼塚の役割になっていくかもしれない。

 なんと言っても鬼塚は、そのキャラクター性が高校時代から既に、他よりも際立っていた。

 もしも引退したら、タレントとして生き残ればいいのでは、などという話もあったりするのだ。


 鬼塚はプロの舞台で、コーチなどとしてユニフォームを着ていたいとは、もうそれほどは思っていない。

 野球ばかりしてきた鬼塚であるが、実は相当に地頭はいい。

 なのでコーチなども、やろうと思えば出来るだろうとは思う。

 ただ選手として若手を世話するのと、コーチとして指導するのとは違う。

 また若手選手の扱いについても、同じ選手とコーチでは、向こうからも見方は変わってくるだろう。


 いっそのこと裏方の方が、とも思わないでもない。

 選手の能力などを、数値化してはっきりと見るという点では、鬼塚は優れている。

 あるいはスカウトなど、という選択肢もあるだろう。

 だが鬼塚としても、引退後のイメージはつかんできているのだ。




 日々が早く過ぎていく。

 直史はその中で、焦りが大きくなっていくのを感じていた。

 瑞希は今回の妊娠で、かなりナイーブになっている。

 前の二回も気楽であったというわけではないが、家庭内の問題が大きい。

 真琴に負担がかかっているな、というのは分かるのだ。

 まだ小学生で、何度も生活の環境が変わって、自我を確立するあたりで、大きな動きがありすぎる。

 しかし今は、明史のことを優先するしかない。


 明史は妙に達観したように、日々を過ごしている。

 心臓の鼓動が早まることさえなければ、ある程度の日常生活は可能だ。

 そして直史は、最悪のことも考えている。

 我が子が自分よりも早く、この世界から旅立ってしまうことも。


 考えたくはないが、感情と切り離して考えてしまう。

 直史はこういうところで、メンタルが強いのとは少し違い、上手くメンタルコントロールが出来ている。

 死というものに対する耐性、あるいは鈍感さというものが、慣れているのでついてしまっているのだ。

 イリヤが死んだ時もそうだった。

 しかし明史は、まだ何も成しえていない。


 子供というのは親にとって、ただ生きているだけで嬉しい存在だ。直史はそう思う。

 もちろん五体満足であり、健康に育ってくれたら、それにも増して嬉しいだろう。

 贅沢を言うなら、自立できる力をやがては身につけてほしい。

 この世界はおおよそ、色々な力によって、生きやすさが変わってくる。

 明史に体力がないなら、知力で補ってほしい。

 幸いと言うべきか、教育にかける金はあるのだから。




 直史は自分の家のことで、さすがに手一杯だった。

 だが海の向こうで、桜と恵美理が銃撃事件に巻き込まれたのは、当然ながら知った。

 椿に続いて桜まで、これで殺人犯を殺したことになる。

 ただ今回は、誰も傷つかなかった。


 しかし武史からは、情けない声で相談が寄せられる。

 こっちはこっちで大変なのだが、そこは長男気質の直史である。

 とりあえずそういった事件に巻き込まれたなら、誰かに傍にいてほしいのは間違いない。

 弁護士などをやっていると、女性の性被害案件を、加害者側からも被害者側からも、相談を受けることがある。

 基本的に刑事事件であり、直史が受けることはまずないが。

 なので性質は違っても、恵美理の受けたショックというのは分かる。

 被害者になりかけたと言うよりは、既にトラウマとなっているので、間違いのない被害者である。

 PTSDに近いところもあり、そういったことはさすがに医者の専門分野だ。

 もちろんあちらはあちらで、しっかりとカウンセリングは受けているらしいが。


 ある程度は落ち着いたものの、それでも見知らぬ人間が闊歩する、街中に出ることは大変に難しくなってしまったらしい。

 今ではニューヨーク郊外の人気のないところへ、時間もかけて通っている。

 ただいかに心の名医であっても、身近な人間以上に親身になることは難しい。

 母親が今は世話のために行っているらしいが、子供たちの存在なども、彼女にとっては重要なものだろう。

 その子供たちが外に出ることさえ、怖がってしまうらしいが。


 それはもう、自分でどうにか克服するしかない。

 しかしその克服の仕方は、ある程度テキスト化してある。

 あとは自分がどうやって、自分の心を抑えるか。

 直史のような人間は、あっさりと感情と思考を分断してしまうので、そのあたりは気持ちが分からない。

 ただ環境を変えるのも、一つの手段ではないかと思った。




 大介がMLB移籍以来ほぼ最低の数字を残しながらも、三冠王をはじめとするほとんどのタイトルを独占した。

 走力は自ら、衰えを意識したわけでもないが、盗塁は控えるようになった。

 ただ守備力はまだ高く、その守備範囲でゴールドグラブ賞にはまたも選ばれることは確実だろう。

 打撃タイトルは大介のためにある。

 そんな時代がしばらく続いたが、誰がこの牙城を崩すかに、世間の注目は集まり始める。

 ポストシーズンに進出したメトロズだが、早々に敗退。

 珍しくもこの年は、大介がポストシーズンで、あまり爆発しなかったということが、その早期敗退の理由である。

 それでもOPSは1.5を超えていたのだが。


 武史も最終的には、プロ入り後は日米通算して最悪の、八敗を記録した。

 ただこれは援護点が少なかったという明確な理由があり、防御率が先発でありながら、かるく2以下をキープしている。

 奪三振数は相変わらず年間300をオーバーしていて、一試合に平均で15個以上を奪っている。

 またもサイ・ヤング賞を取るだろうと言われており、そうなるとサイ・ヤング賞の連続受賞記録が直史と並ぶ。

 ようやくここで弟は、兄を超えられるのかもしれない。

 ただラッキーズも、ポストシーズンには進出したが、早々に敗退。

 ニューヨークのチーム同士のワールドシリーズは、翌年に実現することになる。


 二つの家族は、シーズンがあっさりと終了すると、即座に日本へ帰国することとした。

 タイミング的に同じであったのは、一応は合わせたからである。

 チームは変わってしまっても、二人が義兄弟であることには変わらない。

 またこの集団での帰国は、主に恵美理のためでもあった。

 この頃には外出に対して、早朝の人通りの絶えた時間であれば、ようやくなんとかエントランスからそれなりに出られるようになった恵美理。

 次はその距離を伸ばしていくことが求められる。




 夫である武史ではなく、また実の母でもなく、命の恩人である桜に手を握られ、恵美理は歩いた。

 恵美理にとって桜は、実はちょっと怖い存在である。

 人を殺した後に、平然と怪我人の応急処置を行い、犯人の死亡も確認した。

 無辜の市民が犠牲になったことには、全く苦い表情も見せなかった桜。そしてその双子の姉妹となる椿。

 以前から言われていた通り、そして実際に目の当たりにもして、恵美理は確かにそうだと確信する。

 二人はサイコパスだ。

 利害関係によってのみしか、自らの加害意識を抑制することが出来ない。

 ただ理性は存在するので、無差別な殺害や犯罪は割に合わないので起こさないというだけだ。


 社会の法や道徳、また一般常識に囚われないという点では、イリヤなども同じタイプであった。

 そもそもアーティストなどというのは、あらゆる既存の秩序を疑うところから始まるのかもしれない。

 確かに反体制がシンボリックであった、20世紀の時代はあった。

 今ではもう、現実が見えてきているものだが。 

 あの頃の価値観で生きている、老害が多かったりするのは確かだ。


 スーパースターに求められる姿も変わってきている。

 求道者のようなストイックな人間もいたが、とにかく破天荒であることを求められた、20世紀のスーパースターは多い。

 それはミュージシャンだけではなく、スポーツ選手にもよくあったことだ。

 あの時代はそもそも、一般人とスターの間には、大きな壁か谷が存在した。

 だからこそそういった特別な人間には、特別な何かをしてもらいたい、という空気があったのは確かだ。

 しかし今はもう、時代が違う。

 スターと一般人の距離感が縮まりすぎた。

 それを理解していない人間は、足元を掬われて転がっていく可能性もある。


 そもそもスーパースターを殺すということは、どういうことであるのか。

 また20世紀にはゲバ棒を持って反体制運動をしていたのに対し、昨今では個人の政治家に対する暴力性が発揮されているのはどういうことなのか。

 これはスーパースターや政治家に対する、幻想がなくなったということが言えるであろう。

 過去にあったのは、なんだかんだ言いながらも、権力だのなんだのに対する憧れであった。

 自分自身が権力となり、自分なりの理想社会を作るための。

 しかし今は両者の間につながりが、ネットを通してそのまま存在する。

 暴走する思想を後押しすることも、様々な媒体で見受けられる。

 現実感と、そして実際のリアルとの接続の薄さが、殺人や社会秩序の破壊に対して、簡単に残りの一歩を踏み出させてしまうのだ。


 二家族は集団となって、まず直史の実家を目指す。

 ここでようやく恵美理は、自分の中にある強迫観念が、薄れてきたのを感じた。

 懐かしの日本であり、佐藤家の実家は日本的な原風景。

 彼女がほしがっていた、殺意のない優しい世界がここにある。

 もちろん東京の実家でも、ある程度は安心出来るだろう。

 しかし今の彼女は、要するに対人恐怖症に近くなっているのだ。

 むしろ佐藤家の実家であれば、直史が取得した猟銃などがあったりするが、それは感覚的には関係のないことだ。

 逆に暴力に対する暴力装置が、彼女を安心させることになる。 

 こうやって問題の多いオフシーズンが始まった。

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