第103話 平和の国へ

 日本に帰ってきてから、恵美理の精神は安定している。

 見事殺人者となった桜はまったく気にしていないが、やはり殺されかけたということはそれだけ、精神的な外傷となるのだ。

 考えればアメリカは、大規模テロの標的ともなっているし、ニューヨークなどはまさにその狙いとなるに相応しい。

 ただ国家的なことを考えれば、周囲に仮想敵国が多い日本も、それなりに危険ではあると言える。

 だがそういったことは全て、恵美理がどう感じるかが問題なのである。

 そして恵美理は、ようやく悪夢にも悩まされなくなったようである。


 それはめでたいことである。

 しかし一方で、武史は直史に深刻な相談をしていた。

 ラッキーズを退団し、NPBに復帰しようか、というものである。

「帰国するのか……」

 思い切りの良さに、直史も考える。

 この武史の決断はどうなのだろうかと。


 元々武史は、MLB志向はそれほどなかった。

 だが高額な年俸と、直史と大介の対決の観戦。

 そして比較的NBAを見に行きやすいという不純な動機から、MLBに移籍したのである。

 もっとも結果さえ出しているのなら、動機が純粋かどうかなど、はっきり言ってあまり関係ない。

 ただ武史はラッキーズと大型契約を結び、今年はまだその一年目。

 契約内容自体が問題である。


 そもそも恵美理は日本に戻ることを希望しているのか。

「そりゃ、様子を見てたら明らかだよ。ニューヨークにいた頃は、本当に大変だったんだから」

 娘と一緒に直史の実家にやってきた恵美理の母も、安心して東京に戻ったぐらいだ。

 確かに本当に、間近に死の悪意を感じるというのは、相当に珍しいことだろう。

 実際にはあの犯人は、悪意というものですらなく、単なる自暴自棄になっていただけであるらしいが。


 客観的に見れば、確かに恵美理は日本に戻ってきた方がいいのだろう。

 事前に聞いていた話と、今の恵美理の様子を見れば、その選択をするべきだと直史も思う。

 だが恵美理は、武史までもが帰国するということに関してはどう思うのか。

 武史は完全に、家族で戻ってくるのを当然と思っている。

 また二人の仲が、悪化しているということもない。

「契約次第か……」

 直史としては、ため息をつかざるをえなかった。




 武史の大型契約は、複数年契約である。

 普通なら武史の今年の成績からすれば、来年など問題にするようなことではない。

 だが当の武史本人が、日本に戻ってくる気分になっている。

 アメリカにいれば確かに、生でNBAが見られることはありがたかった。

 しかし武史もやはり日本人。

 そしてアメリカの中でも特に、ニューヨークに住んでいることで、変な運動がパレードのように行われているのを見て、愛想を尽かしかけていたりはしたのだ。


 契約書を見たところ、武史が一方的に契約を破棄できるケース、というのも確かに存在した。

 アメリカは法律社会であるので、色々なパターンを想定して、契約は詰めておくのが常であるからだ。

 日本であれば縁起でもない、と思われるほどに悪いケースなども想定したりするが、それがアメリカの契約社会。

 欧米の流儀というものであるが。


 武史が契約を破棄して、引退する条件。

 はっきり言って引退するならば、普通にそのまま契約を破棄出来る。

 だが日本に帰ってくるなら、NPBに復帰するつもりなのが武史である。

 これは契約において、明白に禁止されていた。

 本来のラッキーズとの契約期間が終了するまで、他の球団には世界のどことも関係なく、契約することが出来ない。

 かなり厳しい縛りであったろう。


 ラッキーズとの合意を得てからなら、契約を破棄することも出来る。

 ただラッキーズとしては、タダで合意をするつもりなどはないであろう。

 妻などの家族の精神状態をケアするために、日本に戻るというのは、契約書の例外条件に入っていない。

 さすがにこんなことは、考えてもいなかったのだ。

「別に引退しても、一生食っていけるだけの金はあるんだけどなあ」

「お前、それでいったい何をする気だ?」

 つつましく生きていくなら、それでも確かにいいだろう。

 だが武史は贅沢をするというほどではないが、金の使い方はそこそこルーズではある。


 何よりもまだ、衰えていない。

 直史と違って、今年も元気に30試合に先発したのだ。

 一つの目安となる200勝も、とっくの昔に達成している。

 あるいは直史よりもよほど、野球に対する執着はないはずだ。

 ただ次に何をするかなどを、全く何も決めていない。

 それに恵美理のためとはいえ、まだまだやれる状態で引退するのは、あまりにもファンに申し訳ないのではないか。

 直史でさえもそう考える。


「とは言え、一番の問題は恵美理さんがどう考えるかだろう」

 直史はその点について、恵美理自身から話を聞いていない。

 ただ想像するに、彼女がアメリカに、ニューヨークに戻るというのは、確かに難しいだろう。

 しかし武史が引退して、そしてNPBにも戻らずに、自分の傍にいるということを、許容することもないような気がするのだ。

 まずは意思確認。

 直史はそこから始めるように、と武史に言った。




 武史は優しい人間だ。

 だが同時に甘くもある。

 幸いと言うべきか、その甘さは自分よりは他人に対するものの方が強い。

 そんな武史の、日本への帰国について、恵美理は明確に反対した。

「けれど、辛いだろ?」

「私は、才能の邪魔をしたくないの」

 当事者だけで話していれば、逆に揉めるかもしれない。

 そう思って直史と、事件に関わった桜も同席している。

 これは武史の言っていることは間違いではない。

 だが恵美理の言っていることも間違いではないという、どちらも間違ってはいないというパターンだ。


 武史はただ最愛の妻のことを、最優先に考えているだけだ。

 一方で恵美理も、武史のプロ野球選手としての可能性を、自分のために閉ざしてほしくなどはない。そのためなら我慢もする。

 実際に日本に戻ってきて、かなり状態は改善しているのだ。

 フラッシュバックする回数は、明らかに減ってきている。

 もちろん何がきっかけで、また発症するかも分からないが。


 単純に恵美理の精神状態だけを考えるなら、帰国した方がいいのは間違いない。

 だがこういったものは、克服できるならもちろん、克服した方がいい。

 武史としては、愛する妻の心が一番重要である。

 ただその恵美理自身が、武史のキャリアを考えている。

 愛する人には無理をしてほしくないということと、愛する人のためには無理をする。

 これぞまさに愛であろう。


 そういった叙情的なことは置いておいて、現実の問題である。

 そもそも武史が日本に戻ってこれるかというものだ。

 これに関しては、難しいが出来なくはない、というのが直史の出した結論である。

 ただそれをすると、ラッキーズに解約金を払わないと、NPBの球団にも入ることは出来ない。

 もっとも武史としては、充分に野球では稼いだのだし、引退しても別にいいかな、と思っているのが本音である。


 ここで恵美理は、衝撃的なことを言った。

「日本に戻ってくるなら、離婚しましょう」

 直史は眉をひそめ、桜は苦笑するだけであった、武史は愕然といった顔をした。




 恵美理はジャンルこそ違えど、才能を愛する環境で育っている。

 武史の才能が規格外のものであり、まさに野球の歴史に名を残すものであるということは、現在の時点でも確かなのだ。

 ただ彼女の持つ矜持が、その才能をスポイルすることを許さない。

 なのでこんなとんでも展開になったのかもしれない。


 難しい顔をした直史に対して、桜はあっけらかんとしていた。

「恵美理、それ交渉にならないよ」

 ある意味、武史というヘタレた男を、妹は妻より理解している。

「離婚なんかしたらそれこそ、アメリカになんかいる理由なくなるし」

 そう言われてしまった恵美理は、これもまた呆然とした表情になっていた。


 武史というのはそういう人間である。

 理解していないわけではないが、言われて気づいているあたり、武史の価値観や行動原理が、いかに常識から逸脱しているかを思い出したのだろう。

 なお武史は、うんうんと無言で頷いていた。

 武史は野球のことが、それなりに好きではある。

 だがそれは自分に、様々な幸福をもたらしてくれたからだ。

 野球自体を強く愛しているというわけではない。

 家族と離れるぐらいなら、野球を辞めてしまってもいい。

 それが武史の優先順位なのだ。


 恵美理に切るカードは、それこそない。

 直史が頭の中で検索した結果、そして弟夫婦のお互いに対する感情を思うと、これはとても離婚という形にはならないだろう。

 ただ恵美理がどれぐらい覚悟しているのか、ということは分かった。

 彼女は才能を愛している。才能だけを愛しているのではないとも思うが。




 話し合いは、一度休憩とした。

 武史も恵美理も頭を抱え、直史は考える人となり、桜は事態を楽しんでいた。

 取り返しのつくことに関しては、とにかく状況の複雑化を面白がる人間である。


 あまり口出しをする理由もないだろうと、話し合いに参加してなかった大介は、縁側で庭を見ていたりした。

 その横に直史は腰を下ろす。

「どうなった?」

「最悪のことにはならないとは思うが」

 直史としては、この問題についてまた、頭の中で整理する。


 重要なことは、二つにまとめられる。

 恵美理の状態が良化するか、せめて悪化はしないということ。

 そしてもう一つは、武史がMLBでプレイを続けることだ。

 夫婦がお互いに、お互いのことを第一に考えているのが、問題を問題にしてしまっている。

 恵美理が我慢すればいいだけ、という結論もないではない。

 だが事前に聞いていた話などを考えると、ニューヨークにこのまま居住するのは、彼女の不安をまた明らかにするのだろう。


 カウンセリングで上手く、克服するというのが一番だろう。

 直史も大介も、そうは思う。

 ただ回復する過程の現在、恵美理の様子を見ているのが、武史には辛いらしい。

 確かに家庭内でそんな問題があれば、武史の成績にも影響はするだろう。

 ならばどうすればいいというのか。

「一応解決策自体は、普通に存在するんだけどな」

「なんでそれを提示しなかったんだ?」

「どちらもあんまり納得というか、幸福にはならないだろうと思ったから」

 ただベストではないが、ベターなものではあるかもしれない。




 直史が思いついていた、二人の希望をそのまま通す方法。

 それはひどく簡単なことである。

「単身赴任すればいい」

「やだー!」

 途端に幼児退行する武史であり、先にこちらだけに話しておいてよかったな、と思う直史であった。

 しかし理屈としてはこれで合っているのだ。


 武史はこのまま恵美理が日本に残って、回復することを願っている。

 そして恵美理は武史が自分に縛られず、MLBでその才能を発揮することを願っている。

 両者の希望が通ってはいるのである。

「そんなもん、寂しくて死んでしまうわ!」

 ウサギかよ、お前は。

 実際は死なないそうであるが。


 寂しくて死ぬというのは大げさでも、確かに子供たちの世話をするのは、恵美理になってしまうだろう。武史は出張が多すぎる。

 そうなると武史はニューヨークのあの広大なマンションで、一人暮らしとなる。

 大介はさほど何も思っていないようであるが、直史もなんとなく武史に共感するところはある。

 大家族で育っていると、一人になることを最初は求めるのだが、新たに家族を作ると、今度は一人に耐えられなくなるのだ。


 確かに可哀想ではあるな、と直史も思いはするのだ。

 武史の方に寄るなら、上手く契約を破棄して、日本に戻ってきた方がいい。

 ただそれをすると、恵美理が負い目に感じてしまうのではないか、とも思うのだ。

 しかしそのあたりに言及する前に、武史は叫んだ。

「そんなの性欲暴走して金玉も破裂するわ!」

 おい。




 メジャーリーガーの稼ぎであれば、家事などは全て外注してしまえばいい。

 ある程度は球団のマネージャーに、頼ってしまうこともある。

 だがそれだけは、確かに他に代わってもらえるものではないな、と直史は強く思ったし、大介も納得するところである。

「お前、投げる以外は右手で出来るんだし、頑張ればいいんじゃないか?」

 直史の直球ストライクな物言いは、実の兄弟だからこそ言えるものである。

「違うだろ、なんてーかこう……生身で抱き合わないと満たされない、何かがあるって分かるだろ?」

「まあめっちゃ分かるんだが」

 直史は頷いて視線を大介に向けると、顔を逸らされた。おい。


 直史の貞操観念は相当に高い。

 そもそも性欲の湧く対象というのが、かなり限定されたものになるからだ。

 他人の人妻には興味ないし、NTRもBSSもお断りである。

 相手の羞恥心を煽っていくどスケベではあるが、瑞希以外の人間にはほとんど性欲を抱かないどころか、女とさえ感じない。

 むしろ妹属性などがあるため、実の妹たちの方が、はっきりと女と認識しているぐらいである。


 武史の貞操観念は、そこまでこじらせてはいない。

 可愛らしい女の子がいれば、それなりに魅力的だな、というぐらいには思ったりする。

 ただ兄や妹たちの影響を受けて育ったため、そういった不倫や浮気に対する嫌悪感が相当にある。

 ちなみに大介の貞操観念は、女房を泣かせたら駄目だろう、というごく一般的なものだ。

 もっとも浮気などをすれば、物理的にちょん切られる可能性は、浮気相手が謎の事故死を遂げる可能性があるので、ここも浮気の心配はない。


「しかしお前、まだそんなに性欲衰えてないのか?」

「他の欲望を節制していたら、性欲ぐらいは暴走するだろ」

 分かってしまう直史である。

「だいたい兄貴のところは週何回ぐらいだよ」

「いや、今は妊娠中だし」

「その前は?」

「……一日三回ぐらいの日もあるし、平均したら週五ぐらいかな?」

 多い。憶えたばかりの大学生か。

 いや、30代半ばでその性欲、応じる方も大変だな!

「いいな。うちもオフシーズンはそれぐらいだけど、シーズン中はどうしても週三ぐらいが限界だし」

 それでも充分に多い。遠征中には出来ないことを考えるとかなり多い。


 視線を向けられた大介は、苦々しい顔をする。

 ただこれは、男同士の話だ。

 武史はともかく直史は、あまりこういう話はしないものだが。

 しかしこの二人、大介の性事情というのは即ち、妹たちの性事情なのだが、そのあたりに抵抗はないのだろうか。

「うちは週一ぐらいが精一杯だぞ。まあやっぱりオフはほとんど毎日二回以上してるけれど」

「お前が一番すげーよ」

 そう言った直史であるが、確かに現役中は機会があれば、一日三回ぐらいは普通であったし、大学時代などはそれこそ、平均して毎日二回はしていたか。

 佐藤家は性欲魔人が多い。


 考えてみれば大介は、二人を相手にしているわけである。 

 ならば消耗も二倍ではないのか。

 武史はピッチャーであるというあたりも、関係しているだろう。

 試合前日には体力を使わない、というのは普通のことだ。

 むしろ試合前日にこそ、セックスで体調を調整する、というアスリートもいたりはするらしいが。


 ちなみに日本の30代夫婦の平均は、二週間に一度程度であるそうな。

 これは他国に比べて、特に先進国の中でも、かなり少ない数値である。

 産めよ増やせよ地に満ちよ、という教えが広まっていないことが原因にあったりもするのだろうか。

 とにかくこの男共は誰も、武史の事情を解決する方法を持ってはいないのだった。

 最高に平和で、頭の悪い会話がなされていった。

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