第53話 勝ち抜く
六回の表に、ようやく追いついた白富東。
だが逆転にまでは届かず、三里の攻撃を迎えた。
既にピッチャーは三人目であり、この継投作戦により、三里の打線があまりつながらないように、上手く連打を回避している。
ただ七回からは、両チームの出塁と進塁打が、上手くつながるようになってきた。
一点が重要だと、お互いに考えるようになったきたのだろう。
白富東が逆転し、その裏にすぐ追いつかれる。
八回にもまた、お互いに一点ずつを取られていた。
3-3のスコアで迎えた最終回。
先攻の白富東は得点できず、三里はサヨナラのチャンス。
こうなってくると後攻の方が有利となる。
もちろん得点の確率は変わらないはずなのだが、心理的には当たり前の話だ。
表に点を取られても、裏の攻撃で追いつくことが出来るかもしれない。
また表に点を取られなければ、裏の攻撃で一点でも取ればサヨナラだ。
このあたりになると本当に、野球はメンタルスポーツと言えよう。
お互いがどれだけ、普段通りのプレイを出来ているか。
プレッシャーをはねのける精神力を、どうやって手に入れているのか。
直史などはプレッシャーに強かったが、それは主に二つの理由からなる。
一つには、己の力に対する自信。
信じられるほどに積み重ねたものは、ずっと自分を強くしてくれる。
そしてもう一つは、開き直りである。
負けたとしても死ぬわけではない。
田舎育ちの直史はそれなりに、ご近所さんの葬儀に出ることがあるのだ。
そこで死に対する耐性がついたと言ってもいいだろうか。
人の命以上に取り返しのつかないことなど、そうはないものだ。
それが分かっていれば、たとえ負けても仕方がないと開き直る。
重要なのは単純な勝敗ではなく、そこで自分がどう戦ったかだ。
全てを出し切れなければ、それは確かに敗北感は残るだろう。
直史としては訳が分からずに負けた大介との対戦よりは、初めての甲子園の大阪光陰戦の方が、いまだにトラウマになってはいる。
真琴が拳を握り締めて、九回の裏の試合を見守っている。
直史としては後輩たちを応援してはいるが、そこまで入れ込んではいない。
一応はシードを取っているのだし、最低限のところまでは勝っている。
ただこれが自分だったら、と直史は思ったりもする。
その場合は間違いなく、戦う試合は全て勝ちにいっただろう。
直史の場合であれば、全ての試合を完封するつもりで投げていた。
確かに全国の頂点に立つとでも言うのなら、全ての試合に勝つぐらいの気迫がなければ、最後の踏ん張りはきかない。
一度でも負ければ、トーナメントはそこでおしまい。
だから全ての試合で、勝つつもりで戦わなければいけない。
負けて学ぶことなどない、と断言してしまうのだ。
実際には負けて学ぶことが、ないわけではないが。
この九回の裏を、白富東はなんとか守りきった。
そして10回の表に、一点を獲得する。
内野安打からのランナーが、かなりギャンブル気味に盗塁を成功させる。
心理的に追い詰められて、ここで賭けるしかないと思ったのだろう。
このチャンスをものにして、10回の裏に白富東は最後の守備に入る。
まだ三里は、たった一点の差であるので、諦める必要はない。
しかしここでチームとしての引き出しの多さを見せ付けたのは、白富東の方であった。
四人目のピッチャーから、五人目のピッチャーへの交代。
とにかく相手のバッターに、狙い玉を絞らせないぞという、明確な意図が感じられる。
結局は最後まで、お互いに1イニングに二点以上の点が取れない試合であった。
4-3で白富東の勝利である。
まさにスモールベースボールである。
これぞ高校野球である。
自身は大味な試合をしていた自覚はあるが、直史はそう思った。
お互いがお互いの、長所と言える部分を引き出す。
結局のところ勝敗の最大の鍵は、三里のエースを最後まで引っ張らせたところにあるのだろう。
球場を出ると偶然ではあるが、白富東の面々ではなく、三里の選手たちが集まっているのに出会った。
どうやら地方紙の記者のインタビューを、少し受けていたらしい。
直史は変装用のメガネをつけたまま、しばしそれを待つ。
同じように待っている中に、星の奥さんもいたりした。
星の妻は直史とはあまり関係はないが、武史の妻である恵美理と出身高校が同じなのだ。
そして明日美の作ったチームで、全国制覇までしたことがある。
瑞希も彼女とは普通に面識がある。武史の結婚式などが派手であったし、大学野球を見に来ていたのだ。
もっとも明日美の応援をしていて、武史のいる早稲谷を応援はしてくれなかったのだが。
話しかけようかとも思ったが、記者に捕まると面倒でもある。
それに負けた直後には、その敗因を深く考える時間が必要だろう。
やがて取材が終わり、星たちも球場を後にする。
星の妻である瑠璃の手を握っていたのは、真琴と同じぐらいの年齢の少女であった。
そう言えば年賀状などで、顔は良く見たはずである。
プロ時代にもキャンプなどで、わずかに見ただろうか。いや、あの頃はまだ赤ん坊で、見ているはずもないか。
「同じぐらいの女の子いたね」
真琴はそう言って、直史は娘の頭を撫でた。
もしも将来、真琴が野球をするとしたら、そしてあの子も野球をしたら。
いや、女の子が野球をするというのは、あまりない選択肢だろうな、と直史は自分の思考を中断したのであった。
ベスト8に進出した北村に挨拶をし、直史は帰宅する。
休日はまだまだ時間が残っており、瑞希は買い物に出かけた。
真琴はなにやら絵を描いているが、これは球場だろうか。
「上手いな」
言葉少なに直史が誉めると、にへ、と笑う真琴である。
真琴と比べると明史は、本当におとなしい子である。
ただもう自分で本を読み始めるあたり、早熟な子だとは思える。
しかし体力があまりないのか、走り回るとすぐに疲れてしまう。
このあたりの肉体的な特徴は、瑞希に似てしまったのかもしれない。
それでも真琴のように、生まれた瞬間から死を予感させるような、そんな子供にはならなかった。
もっともその真琴は、もはや同年齢の子供と比べても、はるかに運動量は多くなっているのだが。
真琴が絵を描いて、明史が本を読む。
そして直史は明史に倣って、本を読むことにした。
アメリカから本格的に日本へ戻ってきて、直史はまず本棚を買った。
今時、本など電子で読めるという人間もいるだろうが、直史は読書の習慣を祖父母から受け継いでいる。
別に電子で読むのが悪いとは思わない。
ただ直史の習慣が、紙の本を読むことになっているのだ。
瑞希も同じなので、だから気が合ったとも言える。
直史は基本的に無趣味な人間である。
あえて言うなら野球が趣味なのであったろう。
また何かを学ぶことも、趣味ではある。
あまりに健全すぎて、人からはつまらないと思われるかもしれない。
だが実際に接してみて、そんな感想を抱く人間はいないだろう。
ゆったりと本を読んでいると、直史の電話が鳴った。
事務所には電話の回線はあるが、一家はそれぞれ携帯電話しか持っていない。
真琴に持たせているのは、機能が限定されたものだ。
誰からかと思えば、久しぶりだが久しぶりでない、星からのものであった。
ふむ、と直史は考える。おそらく今日の試合、星はこちらに気づいたのだろう。
あるいは声をかけ損ねたが、あの時に気づいたのか。
「もしもし」
ともかく電話を取ってみると、懐かしい声がした。
久しぶりに会えないかな、という星の控えめな話しぶりは、確かに懐かしいものであった。
エゴが強くなければ生き残れないと言われるプロの世界で、よくもまああれだけ活躍できたものだ、と今なら直史は思う。
プロというのはフィジカルもだが、よりメンタルの方が化物である人間が多い。
そしてフィジカルだけの人間は、さほどの大成もなく数年で消えていく。
驚くほど素直であったり、そのくせ頑固なところはあったり。
プロの選手はおそらく、どの競技でもそういうものではないか。
一人で決めるようなことでもないので、瑞希の帰宅を待つことにした。
星の方もどうせなら、子供も一緒にということである。
真琴と同じ年の、聖子という女の子が星のところにもいる。
あちらはもう一人女の子が下にいて、それは明史の一個下であるという。
なるほどまだ、奥さん一人でつれてくるには、難しい年齢だ。
どういう話題になるのか、なんとなく見当はつく。
なにしろ指揮していたチームが、負けた直後であるのだ。
「ただいま~」
戻ってきた瑞希に、立ち上がった真琴が駆けていく。
その勢いのまま激突する前に、ひょいと直史が抱き上げた。
もう小学二年生なのだから、体重も重くなってきているのだ。
瑞希は昔に比べると、かなりたくましくなったものだが、それでもあまり体が頑丈ではないのは変わらない。
真琴と遊んでやるのは直史の役目。
小学生のスタミナというのは、どうしてああも豊富であるのだろうか。
夕食の準備を手伝いながら、星からの電話について話をする。
「コーチを頼まれるんじゃない?」
「そうかもしれないけど」
今日の三里の敗因は、比較的はっきりとしている。
それは継投の失敗だ。
序盤を二番手以下に任せたものの、終盤までに白富東打線に粘られすぎた。
終盤には球数が100球近くになったところから、おそらくかなり球威が落ちている。
あそこでどうして三番手を投入しなかったのか、それとも出来なかったのか、直史としては少し疑問だ。
三番手では疲れたエースよりも、力が劣っていたということはありうるのだが。
直史であればあそこは交代させるだろうか。
自分を基準にして考えてしまうと、そのあたりの判断が出来ない。
ペース配分の問題である。直史は基本的にスタミナは、ある程度残るようにしながら毎試合を投げていた。
だからこそ三振にこだわらなかった、とも言えるのだが。
「練習を見て欲しいとかじゃなく、一緒に食事をしないか、という話だったな。子供たちも一緒に」
「どこで?」
「奥さんの実家のホテルの中のレストランで」
直史はMLBで大金を手にしたが、それはあくまでも選手として短期間で大金を稼いだにすぎない。
星の妻の実家は、ホテルをいくつも経営している巨大な会社なのだ。
星と結婚する時も、色々と問題が起こったらしいが、最後には瑠璃が実家を飛び出して、星の元に転がり込んだらしい。その時期の直史と瑞希は、司法試験に向けて忙しくしていたので詳しくは知らないが。
ただその時期の星は、まだレックスの選手寮に住んでいたはずなのだが。
直史も星も、プロの世界からは離れた者同士だ。
今だからこそ話せるということも、色々とあるだろう。
「一流ホテルのレストランだと、子供たちが心配だけど」
「部屋の方に料理を運んでもらうことが出来たんじゃなかったかな?」
そういうことなら、と瑞希も頷く。
贅沢をするつもりはないが、ただ飯を普通に期待する程度には、瑞希も現金な人間ではあった。
この時期、三里は急な練習試合以外は、さほどスケジュールを埋めていない。
だが逆に、急にスケジュールが埋まるのもこの時期である。
春季大会で既に敗北した、それなりの有力チームと、スケジュールが空いたので練習試合が組める。
もちろん実際に県大会が終わるまでは、本当の強豪はまだ残っている。
また関東大会に勝ち進んだチームとも、対戦できるわけではない。
ホテルの高級レストランとなると、普通ならドレスコードが存在する。
ただ今回は星の方で、正確には妻の瑠璃の方で、ホテルの一室を使って食事を楽しむこととなった。
さすがに本当の金持ちは違うな、と直史は思う。
直史としても自分が金持ちであるという、客観的な目は持っている。
だが金というのは持っているだけではなく、動かしておかないとただ減るだけなのだ。
投資という言葉に直史は関心がない。
多くの場合はそれが、投資ではなく投機でしかないからだ。
資産運用としては、確かに銀行預金以外に、株式などは持っていたりする。
ただこれはほとんど、セイバーがお勧めしてくれたものを、そのまま買って寝かせているものだ。
確実に売るタイミングでは、またセイバーのアドバイスを得たりしている。
今年からはもう、あまり彼女と接触することがなくなるだろうが。
直史が今、本当の意味の投資として気にかけているのは、実家の近辺の農業法人である。
高校時代の後輩も、これに関わったりしている。
直史は中学時代までは、平日は公務員として働き、土日に多少の畑をいじる生活になるのでは、と思ったりしていた。
なので例外的にだが、農業に関することは少し学んでいる。
弁護士となっても、法人団体を作るのに、便利であろうと思ったからだ。
そちらの方にようやく、力を注いでいくことが出来る。
普段着のまま、とは言っても直史は、カジュアルスーツを着るだけの配慮はしていた。
そして案内されて、星たちの待っている部屋を訪れる。
ロイヤルスウィートであるらしいが、こういう部屋はほぼ満室でも、何かのために空けておくことがあるそうだ。
今回の場合は、その何かにあたるらしい。
「球場にいたよね」
やはり気づいていたらしい星は、席について最初にそう言った。
「白富東にコーチに行ったっていう話は聞いたけど」
別にマスコミがいたとか、偵察を出していたとか、そういう話ではない。
直史ほどの知名度があれば、自然と情報が拡散されてしまうのだ。
それでも普段なら、伊達メガネをかけていれば、注目されないのが直史である。
今回はさすがに無理があったわけだ。
直史としては別に、それは非難されるようなことでもない。
「母校だし、北村さんはキャプテンだったからな」
高校時代に加えて大学時代も、北村が直史の先輩であることは確かである。
星としてもそれには頷き、食事をしながら二人は会話をする。
星が求めていたのも、やはり助言であった。
ただそれは直史が思っていたよりも、ずっと限定的なもの。
三里のエースの扱いについてである。
「扱いにくいのか」
「ピッチャーらしいピッチャーではあるね」
つまりマウンドの上では、傲慢であるということだろうか。
三里が白富東に負けた最大の理由は、ピッチャーの運用の差ではないか、と直史は思っている。
エースの力の絶対値では、むしろ三里の方が優っていた。
「エースのペース配分が間違っているか、エースの運用方法が間違ってるか、その両方じゃないかな」
終盤に点を取られて、延長でも点を取られた。
エースだからと一人のピッチャーを引っ張りすぎたか、あるいは投入が早すぎたかのどちらかではないか。
もちろんエース自身のスタミナも、問題の一つではあるだろうが。
星は試合を、延長までは想定していなかった。
それが一番の問題であるかもしれない。
そのあたり直史には、問題の解決策など考えつかない。
延長になれば延長になったで、投げ続ければいいわけだ。
それで最後まで封じたこともあれば、ついに延長で打たれて負けたこともある。
直史の場合はスタミナ切れで負けた、という経験は一度しかない。
それも直接には、直史が点を取られたわけではない。
常に安全のマージンを取って、相手に投げ続ける。
それが直史のピッチングである。
星の期待するのは、ピッチャーとしての助言ではあろう。
だがこれはテクニックではなく、メンタルの問題のような気もする。
メンタルコントロールも、テクニックの一つではあるのだが。
「プロで実績を残したピッチャーでも、話が通じないのかな?」
「選手よりもむしろ、僕の問題なんだと思う」
まあ星は、指導者として優れてはいても、向き不向きというものはあるのだ。
直史としてはこういう問題なら、他にも適任の人間はいるのでは、とも思ったりする。
だが星の判断として、直史を選んだということなのだろう。
直史にとっては、三里というチームに対しては、別に愛着などはない。
ただ頼んでいるのが、好敵手であり戦友であった、星というところだけが関係している。
「まあ、少し会って話してみるだけならな」
そうは言ってみたものの、なんだか引退してからも、スローライフにはならないなと考えている直史である。
そもそも弁護士の仕事など、スローライフでもストレスフリーでもないだろうに。
計算外なことは、直史が直史であるがゆえに起こる。
引退しても、もう普通の成人男子には戻れないのが直史であった。
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