第34話 サドンデス
一点取った方が勝つ。
およそ観戦している者は、そう考えている。
ただその一点を、誰がどうやって取るか。
Aチームのチャンスは、おそらくこの11回の表で終わる。
三人で終わったとしても、12回は樋口からの打順となるが、ホームランを狙うには武史は難しい相手ではあるのだ。
もちろんそれなりに一発病はあるが、今日はいつもよりも投げなければいけないイニングが短い。
ペース配分を考えなくても済むので、4イニングぐらいは投げてしまえばいいのだ。
九回から登板した武史は、3イニング目でようやく、その本領を発揮し始めたと言えようか。
織田もスイングを上手く合わせていこうとはするのだが、せいぜいがファールで後ろに飛んでいくだけ。
それも完全に詰まった状態だと、打っている織田自身が把握している。
(よくこれを打ったな)
アレクや悟に感心するが、今の武史のボールは、登板直後よりもさらに球威を増している。
サウスポーである武史は、そのくせ左打者にそれほど強いわけではない。
だがそれとは別次元で、問答無用に全てのバッター相手に強いのだ。
ホップ成分の強いフォーシームストレートを、連続でどうにかカットする。
だがそこにチェンジアップが投げられる。
アレクなどはこれを、上手く打ったものである。
織田も上手く当てはしたのだが、中途半端に飛びすぎてしまった。
野手の間に落とすという技が、武史相手ではなかなか使えない。
ショートの大介が後退して、これをキャッチした。
先ほどは技ありの勝利を収めたアレクであるが、ここは勝てるとは思っていない。
武史のボールが、まだ球威が上がっているのだ。
スピードは変わらないのだが、何が変わっているのか。
それは肩が暖まると共に、肉体全体が暖まり、柔軟性が高まる。
するとフォーム全体の駆動域が大きくなり、リリースポイントなども変わってくるのだ。
より深く、より強く踏み込んで、投げ終わったら体が回転するぐらい、ボールに力を伝える。
あるいはこれを上手くスピードに変えれば、さらに上限が上がるのかもしれない。
しかし武史のストレートは、打てないストレートであれば球速はどうでもいいのだ。
直史のストレートが、はるかに遅くても三振が取れればいいのと、実は理屈は同じなのである。
カットボールはわずかで、主にフォーシームとツーシームを意識して投げる。
普通はバッターは逃げていくボールが苦手なのだが、武史のツーシームは左バッターにとっては懐に入ってくる球だ。
それでもまともに打つことは難しい。
この一番から三番まで、左バッターが続く打順。
今日のサウスポーはさほど、強力な変化球を持っていない。
だが武史のストレートは、ある意味変化しない変化球であるのだ。
人の投げるボールには、必ず回転がかかっている。
それが無に近ければナックルになるのだが、今度はボールの縫い目によって、その軌道はふらふらと揺れる。
そしてストレートにしても、必ずバックスピンなりなんなりの、スピンがかかっている。
野球はボールがそもそも、変化するために作られたボールなのだ。
これで完全にまっすぐな球は投げられないし、投げる必要もない。
直史があえてフォームを変えて、ストレートの軌道を変えているのと同じことを、武史も自然としている。
最初の打席を基準に考えれば、どんどんそのストレートの軌道は変わっていくのだ。
このあたりはセイバーも既に分かっていた。
またその後もずっと武史は、大学やプロのコーチではなく、センターのコーチなどに学んでいた。
結果を出しているので、何かを言うことも出来ない。
嫌味を言われても気づかないのが、武史という人間であるのだ。
福沢が受けたピッチャーの中では、確かに上杉のボールが一番、頑健とも剛直とも言えるものだ。
また国際大会などにおいては、直史のボールなどもブルペンでは受けている。
直史のボールなども、ある意味とても幅が広いコンビネーションを持っている。
だがそれはあくまでも計算されたものであり、武史のような自由さはない。
(いやいや、それも違うのかな?)
アレクとしてはどうにか、定義づけしたいのだ。
アレクは直感的に物事を考える。
自分の直感がどういうものであったかは、後で誰かに分析してもらう。
ブラジルで大人気のサッカーではなく、世界的なマーケットも狭い野球を選んだ。
だが結果的には、それが大成功であったことは分かっている。
もっともサッカーをやっていても、それなりに成功したかもしれないが。
成功しているアレクは、そのことについてあまり深くは考えすぎない。
考えるよりも動いている方が、アレクにとっては楽なのである。
ただこの場においては、今の自分の限界では、武史に勝てないのかもしれない。
(あのシチュエーションで点が取れなかったことが、結局はそういうことなんだろうな)
12回の表には、確実に樋口には回る。
そこでAチームが点を取れるのかどうか。
アレクも直感的に、狙いを絞ろうとはしている。
だがそれが本当に直感なのか、自分でも分からなくなっている。
スタンドに届けとばかりに、アッパースイングではなくレベルスイング。
武史のボールに対しては、それが有効のはずであった。
しかしバットはボールを捉えることなく、空振り三振でその最後の打席は終わった。
野球の試合と言うよりはもう、ロシアンルーレットに近い。
さすがに不謹慎すぎるとすれば、ゴルフで共に、ホールインワンをずっと交互に試しているような。
どちらのピッチャーも、連打を浴びせることは難しい。
だが悟は気づいている。
直史がここにきて、三振を奪っているということ。
それはフライを打たれる可能性が高い組み立てであり、そしてフライを打たれるならそれは、ホームランになる可能性も高いということ。
武史は覚醒している。最初に対戦した時とは、もうボールの軌道は変わっていると考えていい。
(本当に昔から……)
悟が一緒にいたのは、自分が入学してから夏の甲子園が終わるまでの、短期間であった。
しかしその間にも、とんでもないフィジカルを見せてくれたものだ。
ツーストライクまでは、ストレートのみを狙う。
他のボールは投げられても、スイングをしない。
そう決め付けてバッターボックスに立つ、悟への初球は、ストレートであった。
(さらに高いところを!)
ジャストミートしたつもりが、わずかにファールチップしただけで、福沢のミットに収まる。
(まだ低いのか……)
おそらく次は、ストレート以外のボールを投げてくる。
上手く掬い上げることが出来れば、他のボールでも悟のパワーで、スタンドに持っていくことが出来る。
そうは思っているのだが、果たしてゾーンに投げてくるか。
二球目に投げてきたのは、外に外したナックルカーブであった。
このボールは左バッターにとっては、かなり逃げていく軌道になる。
だが見逃せば、おおよそはボール球の判定だ。
ツーストライクからなら、最悪でもカットしていかなければいけなくなるが。
ボールと判定されて、これで平行カウント。
福沢のリードに対して、武史は普通に頷いている。
スピードボールを投げられれば、カットするのが精一杯か。
それすらもあるいは、難しくなるのかもしれないが。
アウトロー。わずかに外れるボール。
しかしこれはツーシームだ。変化する。
ゾーンに入ってくるところを叩いたが、ボールはファールグラウンドを転がるのみ。
ツーシームに対してさえ、振り遅れている。
でたらめなピッチャーだなとは、バッテリーを組んでいる福沢でさえ思っている。
確かに立ち上がりの悪いピッチャーというのはいるが、武史は別に立ち上がりが悪いわけではないのだ。
もっと単純に、全ての試合で尻上がりに、調子を上げていくというだけで。
(上杉さんと本当に、どっちが上なのかな)
それはさすがに上杉だろうと思うのだが、この球質を考えれば、比較してみたくもなるものだ。
上杉の場合は、とにかくボールが重いのだ。
回転数が低いのかというと、そういうわけではない。
ライフル回転であるため、バットを破壊することもある。
重い球というのは果たしてどういうものなのかは、今でも微妙なところではあるのだ。
単純にミートが出来ていなければ、ボールは重く感じるものではある。
武史のボールは、そういうボールではない。
だがまさにピッチャーが理想とするような、ライジングファストボール。
ただその武史と同じように、直史もここぞという時には三振を奪ってくる。
(あれはいったいなんなんだろうな)
12回の裏、おそらく自分には代打が出されるだろう。
なのでもう二度と、直史との対決はない。
20年後、あるいは30年後。もしくはさらに後の時代。
おそらくその時代であっても、人類に文明が残っていれば、直史の記録は語り継がれているだろう。
その最後の試合に参加したというだけで、歴史の証言者となることが出来るのか。
佐藤直史の記録については、その配偶者がまさに身近から、記録を残している。
己の存在をほぼ排した上で、完全に客観的に記録を残している。
MLBに言っている直史は、そのピッチングについても、様々に分析されている。
現代野球の最先端トレンドは、日々移り変わっていくが、変わらないのは情報戦ということだ。
そしてどれだけ分析されても、直史はすぐにその分析にさらに対応していく。
投げられるバリエーションがあまりにも豊富で、しかも適切に使い分ける。
本人だけではなく、樋口のリードによるところも多いのだろうが。
今日はとんでもない日だ。
世界を代表するピッチャーたちと、こんなにも対戦している。
上杉から始まったが、武史はとびきりだ。
これが本物のピッチャーなのだ。
MLBに行っていたら、どうなっていたのか。
悟は後悔と言うほどでもないが、少しは思わないこともない。
NPBで充分すぎるほど、野球選手としては成功している。
また野球だけではなく、そこから派生した人間関係でも、悟は見事な成功者になっている。
それでも。
今日、この相手と対戦して、良かったと思える。
WBCなどの国際大会などよりも、よほど完全に仕上げてきている。
そんな武史のストレートを、全力で迎え撃つ。
バットに当たったボールは、高く浮かび上がった。
マウンドの武史がやや移動し、野手に場所を空ける。
前進してきたのは大介が一番早く、そのボールをキャッチ。
三振こそ奪えなかったものの、完全に武史が勝利した内容であった。
11回の表が終わる。
とりあえずAチームの勝利には、まだもう少しきつい階段が待っているらしい。
延長戦というのは、心理的に後攻が有利、とうい人間が多い。
もちろん統計的に多くのデータを取れるプロ野球なら、その差は無視できるほど小さい。
だが短期決戦の高校野球では、多くのチームが先行をとる場合が多い。
一つの試合の価値が高い場合、そして高校野球のように心理的に未熟な選手が多い場合、先に点を取るのは圧倒的に有利である。
もちろん甲子園常連校ともなれば、それに対するメンタル対策もしていたりはするが。
実力が同じであればあるほど、そしてピッチャーの質が高いほど、先制したほうが有利であるのは、別に高校野球に限ったことではない。
そして延々と0の行進が続いた場合、延長戦ともなればどうなるか。
表に点を取れなかったのなら、もう裏にはサヨナラの可能性しか残っていない。
この状況で相手を封じていく、ピッチャーのメンタルとはどういうものであるのか。
プロの世界であれば、試合を一つ落としても、それは延々と続いていく野球人生の中の一つ。
ただ後がない選手にとっては、そんな矮小化も出来ないであろうが。
高校三年生の最後の夏。
甲子園がかかった地方大会の決勝などは、確かに巨大なプレッシャーがかかるであろう。
日本の場合であると、なかなか二軍でも成績が残せない選手は、シーズンの終盤になればなるほど、余裕はなくなっていく。
それに比較して直史の状態はどうであるのか。
これが引退試合である。
ここまで大々的にやってしまった以上、やはりまだやりますというのは、さすがに恥ずかしすぎる。
実際に肘の状態は、医師はトミージョンを勧めているぐらいなのだ。
もうこの試合が、生涯における最後の真剣勝負。
そんな直史にとって、延長の裏のピッチングというものは、どういうものであるのか。
Bチームのこの回の先頭は、五番の谷から。
二打席目の谷に対して、直史がどう投げていくのか。
樋口はベンチの中で、ある程度は確認している。
そしてこのマウンドに立つ直史は、珍しくも笑っていたのである。
笑うという行為は、本来攻撃的なものであるという。
実際には人間が笑うのは、苦笑であったりすることが多い。
敗北を悟った人間が、それを受け入れたかのように、諦めの笑みを浮かべることもある。
だが直史の笑みは、そういったものとは明らかに違った。
穏やかな笑みであるが同時に、自分自身に対する苦笑であった。
(この期に及んで……)
前のイニングは、三者連続三振を奪っていた。
その前にも大介を三振で打ち取っている。
(やっとか……)
全てをここに置いていくつもりで、もう何もいらないと思って、ようやくたどり着いた。
ここが直史の技術の到達点である。
そしておそらくこれが、ピッチャーの究極の到達点。
壊れてしまってもいいという、それぐらい吹っ切れた気持ちで投げて、ようやく直史も分かった。
コンビネーションを駆使するのも、変化球を磨くのも、あるいはトランス状態からバッターの打てないコースを読み取るのも。
それらも確かに技術の到達点ではあるのだろうが、さらにその先の高みがあった。
ほんのわずかなことだ。しかしほとんどのピッチャーには出来ないことだ。
もし出来るとしたら……いや、おそらく彼は、これをやっていたのだ。
(星のスタイルか……)
もちろん完成度には、雲泥の差がある。
それに星と違って、直史はこれで空振りが取れる。
以前に直史が、捨ててしまったスタイル。
スリークォーターに、サイドスローとアンダースローを混ぜてしまう。
そこまで極端ではないが、ほんのわずかなフォーム変更による軌道の変化。
これを既に、大介は一度見た。
だから大介だけは、どうにかしてくるかもしれない。
しかしブリアンやターナーに大山と、屈指の強打者が三振をしている。
直史の150km/hのストレートを相手にして。
他のバッターが打つには、分析結果を聞かなければ無理だろう。
いや、頭で分かったとしても、実践することは不可能であろうか。
プレートに立った位置から、直史は左右の角度は色々と変えてきた。
だがこれは左右ではなく、上下の角度を変えるためのものだ。
一人のピッチャーの中に、どれだけの引き出しがあるのか。
直史のピッチングスタイルというのは、結局それにつきることではある。
しかし今、ほんのわずかな変更によって、その引き出しの中にあるものの意味が、何倍にも変わっている。
他のピッチャーには出来ないのは、とことん基本を固めていないからだ。
完全に、思うところに、思うように変化球を、思うスピードで投げられる。
そんな前提があるからこそ、直史はあえてそこから逸脱することが可能になった。
かつてはさらにそこから先、トランス状態でバッターの気配まで読んでいた。
今もやろうと思えば出来るが、そこまでする必要のあるバッターは、ほとんどいない。
本当に、ピッチングの極意を、直史は極めてしまったかもしれない。
そう思うからこそ、思わず笑みが浮かんでしまうのだ。
二球でファールと見逃しにより、谷を追い込んだ直史。
そして三球目、投げたボールはストレート。
フルスイングではあるが、捉えたと思った谷のスイングは空振りし、バッターボックスの中で尻餅をつく。
(こいつ……)
ボールを受けている樋口だけは、簡単に直史がやっていることを分かってしまった。
いや、今までにも同じような理屈で、投げていたボールはあったのだ。
しかしついに、その究極の形になってしまったのか。
樋口も唇の端に笑みを浮かべていた。
それが危険な笑みであるとは、自分自身でも気づいていなかった。
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