第49話 交流
たった半日の練習、直接の指導など、10分もなかったであろう。
だがそのわずかな時間で、明らかに自分のレベルアップを実感出来る。
これがメジャーリーガーか、と思ったらそれは間違いである。
相手はメジャーリーガーの中のレジェンドであるのだから。
暗くなってくれば、ボールも見えなくなってくる。
だがここから、素振りでもやれるのだ。
「素振りは必ず、実際のスイングを想定してやるんだぞ」
このあたりは北村も、しっかりと教えていることである。
正しく素振りを行うことは、自分の肉体のコントロールにもつながる。
選手によってはバットの重さを変えて、正しいフォームでスイングし、負荷をかけていく。
「バッティングかあ」
「ナオはもうずっと、素振りはしてないのか?」
「そうですね……」
NPBにいた頃は、レックスはセ・リーグであったので、最低限のバッティング練習はしていた。
だがMLBでは完全に、ピッチャーに専念している。
もっともバッターの気持ちを忘れないために、バットを振ることはよくあった。
それもこの二ヶ月は、完全に遠ざかっていたが。
この素振りを、果たして素振りと言っていいものか。
「こうして……」
バットを構えて、右から振る。
ピュウ、とそのバットは鋭く風切り音を発した。
「こんな感じか」
そしてスイッチして、左で振る。
高校時代もホームランなど打ったことがない。
だが打率や出塁率は、それなりに良かった。
完全にピッチャーであるのに、スイッチでスイングをする。
左手でもピッチング練習をしていた直史にとっては、当たり前のことであったのだが、生徒たちにはそうは思えない。
「高校時代はスイッチだったんですか?」
少なくともプロでは、右打席にしか入っていない。そもそも打撃は注目されていなかったが。
「いや、左右対称に筋肉をつけるため、素振りも両方で行っていただけだよ」
「左右対称は、そんなに大切ですか?」
「本当ならね……」
だが直史としては、推奨するわけではない。
直史が左右対称の肉体を意識した理由は、双子の妹たちの影響である。
バレエを習っていて、才能は素晴らしいとまで言われた二人であるが、別にバレリーナになろうなどとは思わなかった。
二人がその技術を使ったのは、喧嘩に対してである。
体軸がしっかりしているからこそ、完全にバランスを取って、肉体をコントロール出来る。
肉体がコントロール出来るからこそ、ボールもコントロール出来る。
実はこのトレーニングは、高校生ではもう間に合わない。
妹たちの見よう見まねでやっていた直史だからこそ、身についたのである。
およそ12歳までに獲得しておかなければ、その後のトレーニングでは身につかない体軸の感覚。
天才であれば自然と身についていたりするらしいが、凡人には無理である。
直史にしても、MLBで投げるレベルでは、右でしか投げることは出来ない。
そしてそれで充分なのだ。
プロを目指し、明確なビジョンがあるなら、それはいくらでも工夫のしようはある。
だが白富東の選手が求めているものは、そういうものではないだろう。
バッティングばかりではなく、ピッチングばかりではなく、フィールディングばかりではない。
もちろん中には、バッティングだけであったり、ピッチングだけであったり、フィールディングだけという選手がいてもいい。
突出した戦力がないというのは、あくまでもバランスを見て言うことだ。
一人の選手の中には、突出した部分を持っている人間がいたりする。
そういう才能を上手く活かせば、戦術で高校野球は勝てる。
結局回帰するのは、スモールベースボールなのだ。
練習後には、クラブハウスに入って、少し質問などを受け付ける。
当初は佐藤直史という個人について、知りたかった生徒たちであろう。
だがコーチを受けてみれば、その野球技術の方に意識は向かってしまった。
野球に対する考え方が、そもそも根本的に違う。
実戦的な技術や、その前提となる理論について、まさに世界のトップレベルを走っていたのだ、ついこの間まで。
いや、今現在もこの人には、誰も追いつけていない。
確かに130km/h程度のストレートと、事前に宣言した変化球で、バッターを打ち取る。
だが逆に、確実に打てる球も投げられるのだ。
打つのが難しいはずのアウトローも、組み立て次第では普通に打てる。
野球というのはピッチャーとバッターの、18.44メートルの距離の騙しあいから始まるのだ。
「単純に速いだけの球なら、マシーンで慣れることが出来るからね」
投球術というのは、思考である。
そしてそれを相手するのも、やはりバッターの思考である。
たださすがに大介や、そこまでいかなくてもNPBに行くようなバッターには、純粋なボールの球威が必要になっていく。
それでも20世紀のMLBであれば、マダックスなどはストレートのMAXが140km/h程度になっても通用したのだ。
21世紀でもウエインライトなどは、150km/hが出せなくなっても、ローテーションを守れるピッチャーであった。
球速は分かりやすいし、確かに武器ではある。
だが球速がないことを、悲観する必要はない。
直史としてもあの引退試合、150km/hオーバーのストレートは、数えるほどしか投げていなかったのだ。
現在の高校野球のスピードとパワーは、トレーニングや栄養学の面からのアプローチもあり、150km/hを投げるピッチャーが多くなってきた。
だがそんな時代であるからこそ、スピード以外で相手を抑えることを考えなくてはいけない。
「プロでも普通に、150km/hを投げずに抑えているピッチャーはいるだろ? だから重要なのはピッチングの幅だ」
ストレートと速球系のみのコンビネーションでは、上手く合わされていってしまう。
だがここに緩急が加わればどうであろうか。
スローカーブとチェンジアップ。
これがあればMAXが130km/hでも、全く悲観することはない。
80km/hのスローカーブがあれば、球速の幅は50km/hにもなる。
120km/hから140km/hまでのボールしか投げられないピッチャーと比べて、その攻略難易度はどうなるか。
今日の直史は、球速は130km/h程度に抑えたし、他のピッチャーが使えないスルーも投げていない。
だがカーブとストレートだけでも、相当に抑えられていたのだ。
高校一年生の夏、あと一歩で甲子園というところまで勝ち進んだ直史は、ストレートのMAXは135km/hであった。
一年生であればこれでも、充分に速いことは確かだ。
だがストレートはこの時、磨かれてはいない。
変化球とのコンビネーションで、バッターを打ち取っていったのだ。
シード校であったチームを相手に、七回参考記録ながらパーフェクト達成。
直史が本格的に知られていったのは、あの試合からである。
それ以前には一年生ながら、140km/hを投げていた岩崎の方が、圧倒的に素質としては上であった。
最終的に肉体的なスペックなら、出力という点では現役期間中、ずっと岩崎の方が上であったと言ってもいい。
だがコンビネーションの幅は、圧倒的に直史が上であったのだ。
今の白富東の要は、間違いなくキャッチャーである。
ピッチャーとして投げられなくもないが、基本的には正捕手だけは動かせない。
勅使河原という珍しい名字のこのキャッチャーは、同時にキャプテンでもある。
ただリーダーシップを発揮するタイプのキャプテンではなく、調整役としてのキャプテンであるらしい。
そして性格は、悪い意味で真っ当だ。
頭はいいし、合理的な配球は提案出来る。
だが合理的な配球というのは、基本的には相手も読んでくるのだ。
読まれたところで打たれない、という配球も確かにあることはある。
しかしそんなボールを投げられるピッチャーが、今の白富東にいるのか。
エースが基本的に、グラウンドボールピッチャーなのだ。
打たせて取ると言うよりは、打たれて取ると言うべきか。
奪三振率が高くないので、平均して何点かは取られるだろう。
だがピッチャーをとにかく継投させていけば、どうにかなってしまうのではないか。
北村は頭はいいし合理的ではあるが、勝負師という点ではそれほどの嗅覚はないと思っている直史である。
もちろん部員からの信頼は、その性根からもいって厚いものではある。
だが甲子園に届くかどうかは、かなりの運が必要になるだろう。
かつての直史たちの持っていた、何があっても最後には勝つ、という安心感などはない。
そもそも直史の投げる試合は、びっくりするぐらい何も起こらないものだったが。
キャッチャーがもう一枚剥ければ、あるいはピッチャーの中に、本質的にピッチャーである選手がいれば。
その一人を軸にして、チームの戦力は一気に大きくなるのだが。
(星のような、絶対にブレないピッチャー)
全盛期の白富東と対決して、あそこまで崩れなかった。
センバツでも甲子園で、順当に勝ち進んでいった。
あの三里のようなチームが、高校野球としての限界ではなかろうか。
一応今日は、全てのピッチャーのピッチングは見た。
だが全ての選手に、ピッチングをやらせたわけではない。
他のポジションの選手に、実はピッチャー適性があるかもしれない。
ピッチャーの適性というのは、本人にもよく分かっていないものであったりする。
これが二年後であれば、細川をじっくりと育てていって、面白い結果が出ているかもしれない。
だが三年の最後の夏の予選まで、もう三ヶ月と少ししかない。
それよりは先に、春の大会があるが。
トーナメント表は既に作られていて、おそらく県大会本戦に勝ち進むのは無理ではない。
その本戦でベスト16、出来ればベスト8にまで入って、シードを取っておきたいのが本音だ。
この短期間で出来るのは、まず基礎の強化。
そして野球というスポーツに対する、意識の変革だ。
もっともそれは、野球をひどくシンプルに考え直す、ということでもある。
点取りゲームである以上、一点でも取られる点を少なくし、一点でも取る点を多くする。
あとは実戦経験ぐらいであろうか。
「春の大会が終わってからになるけど、帝都一との練習試合があるから」
北村の告げる予定は、既に選手たちも知っていれば、直史も事前に聞いている。
おそらく春の千葉県大会で戦う、どのチームよりも強い相手だ。
強豪校の多い東東京で、ほぼ毎年のように優勝候補の筆頭に挙げられるのが、今の帝都一である。
ジンは既に甲子園を二度制覇していて、若い名将として全国に名を知られている。
だが北村にとっては後輩であり、高校野球はこういったつながりが強い。
今の白富東をぶつける、県外の強豪校。
どうなるのかは直史も興味があった。
ミーティングというか懇親会というか、質問の時間が終わる。
生徒たちは帰路に就いて、直史と北村は近くの店にやってくる。
居酒屋というには落ち着いた感じの、ちゃんと料理を楽しめる店だ。
帰りにも車は使うので、直史は飲まない。そして北村を送っていってもらうので、遠慮なく飲む。
とりあえず生、からのジョッキ一気である。
北村は確か、直史ほどではないが酒には強かったはずだ。
「いや~、今日は生徒たちの目が輝いてたなあ」
そういう北村の目も、輝いていたものだが。
「甲子園、行けると思うか?」
「他のチームを見ていないので分かりませんが、可能性はそれなりにあると思います」
「可能性か……」
可能性というのは、残酷な言葉である。
全ての事象が可能か不可能かで判断出来るなら、人生はもっと簡単で、しかし味気ないものになっているだろう。
あの、北村が甲子園に行けなかった夏。
試合の勢い自体は、白富東のものであった。
だがあと一歩押し切れないところに、最後のパスボールがあったのだ。
北村は経験していないし、直史としてもほぼ他人事扱いなのだが、二年夏の甲子園の決勝も似たようなものだ。
上杉正也はもう投げられなくなっており、白富東がリードしていた。
しかし春日山の三年の執念と、樋口の狙い澄ました一発により、白富東はあと一歩のところで、全国制覇を果たすことが出来なかった。
もちろんあの夏の事実上の決勝戦は、準決勝の大阪光陰戦であると、今でもたいがいの人間が言っている。
勝てる試合で負けるのが高校野球である。
だが負ける要因というのは、確かに前兆があるものなのだ。
春の大会まで、また直史が顔を出す暇はない。
次に会うのは大会が終わり、帝都一との練習試合の前ぐらいであろうか。
この時期には出来るだけ、県外の強豪校と対戦しておきたい。
県内の強豪と戦うのは、お互いの手の内を晒すだけである。
また情報の伝播の問題からも、県内の弱小相手に確認、というのも出来ればやめておきたい。
白富東の知名度は、今でもそれなりに高い。
また北村の大学時代の人脈からも、練習試合の相手は組める。
今の時期には既に、かなりの対戦との予定が組んである。
基本的に関東のチームが多いが、関東に遠征にやってくる、東北や中部、北陸のチームなども、他の強豪と対戦したついで、白富東との試合を組んでくれたりする。
これが秋季大会の前であると、またちょっと事情は変わってくる。
県外の強豪であっても、関東大会で当たる可能性が高くなる。
そして関東大会の結果が、センバツ出場に関係する。
なのでそこも考えて、対戦相手を決めなければいけない。
ただセンバツというのはあくまで、次が残っている。
高校野球の本番は、やはり夏の選手権なのだ。
甲子園に出場するところまでがクライマックスで、そこから先を戦うという視点を持っていないチームもある。
目標が甲子園なのではなく、その先の全国制覇であるチームは、おそらくそうそうないであろう。
もちろんあわよくば、という意識はどの代表校も持っているだろうが。
春の大会は、シード権の確保が最低条件だ。
白富東は絶対的エースがいないかわりに、ピッチャーの枚数は多い。
これを相手に合わせて、どんどんと投入していく。
ピッチャー重視ではあるが、エースは重視しない戦略。
これが今の白富東に出来る、甲子園への道だ。
ただここから夏までに、まだ力をつけていくことは出来る。
特に春の大会は、出来るところまで勝っておきたい。
無理をする必要はないが、大きな成功体験は、大きな自信につながる。
高校生の成長速度は、爆発的なものがあるのだ。
夏の大会まで、特に帝都一との練習試合には、直史にも同行してほしい。
おそらく現時点で、日本でもトップ5に入る実力を、帝都一は誇っている。
それを相手に白富東は、実戦と仮定して勝ちにいく。
勝てる可能性は低いが、それでもいい経験にはなるし、課題も見えてくるだろう。
もっともそこから、基礎的な力をさらに上積みするのは、もう時間がない。
考えるべきは、今ある戦力をどうやって、試合の中で使っていくかだ。
「大田もお前の意見は聞きたがってるかもしれないな」
「帝都一には部外者なんて必要ないでしょ」
セイバーが資金を注入していた時と違い、白富東は限られたリソースの中で、それを割り振っていかなければいけない。
対して帝都一は、私立の強みと実績を背景に、巨大な資金力で様々な分析をしているはずだ。
確かに直史の技術を聞きたいと思っても、MLB流のやり方すら、ある程度帝都一ならやっているはずだ。
「コーチになくてお前にあるものが、大田は必要なんじゃないか?」
「……プロとしての実績や、選手としての名声?」
「高校生はまだ、コーチの言うことに素直に従えない年齢だろうしな」
なるほど、そういうこともあるのか。
帝都一の主力ともなれば、将来的にはプロを目指している選手も多いだろう。
そして自分の実力を信じていて、それが傲慢になっていることもある。過信であり盲信である。
ただそういった頑固な部分は、自分を貫き通すという力にもなるため、変に上から抑え付けない方がいい。
そのあたりジンであれば、しっかりと分かってはいると思うのだが。
「才能のある人間は、なかなか人の言うことを聞けないからなあ」
そうのんきに呟く直史は、自分こそがそういった、頑固な面を持っているとは、あまり認識していないのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます