第57話 息抜き

 プロ野球選手の選手寿命や平均引退年齢というのは、実はあまり意味のない数字である。

 なぜなら上下の幅が広すぎるからで、人によって能力差が違いすぎるからだ。

 単純に引退の年齢を完全に平均にすれば、29歳ほどになる。

 だが高卒の選手と大卒の選手とでは、同じ29歳でもプロの世界にいた期間が倍近くも変化するであろう。

 また一軍に昇格できずに戦力外になった者と、それなりに活躍をしてから引退する者。

 そういった者を考えていくと、一つの限界が30代前半から半ばあたりにある。


 肉体のスペックの最高潮であったと共に、回復力なども優れていた時代。

 そこいらでおおよそ、フィジカルや才能だけでどうにかなる年代は終わる。

 もう一つの限界が、40歳を超えたあたり。

 レジェンドクラスの選手であっても、40代の半ばには、一線級の力は失ってしまう。

 ただポジションで言うならば、ピッチャーとキャッチャーは、長く続けられる選手は、相当に長く続けられるものだが。


 直史は怪我さえなければ、もっと長くプロで活躍できただろう。

 元々技巧派である上に、読み合いの心理戦にも優れる。

 積み重ねた経験によって、どれだけ勝ち星を伸ばしたことか。

 もっともプロ入りの年齢が遅かったので、どうしても限界というものはある。


 ただシーズンごとの記録は、もう塗り替えられることはないだろう。

 そして直史はまだ、肉体的には全盛期と言っていい。

 そもそも肉体を限界まで使うというのが、直史のピッチングではないのだ。

 もしも本当に限界まで出力を上げるというなら、それはシーズン最終戦でもなく、ワールドシリーズの最終戦。

 次の試合がない日であれば、全力を出していける。




 日が最大に長くなってくる。

 すると早めに仕事が終われば、週に一度ぐらいは直史は、白富東を訪れることが出来る。

 春季大会や練習試合で課題は明らかになった。

 それは打撃力である。


 今は得点力を、セットプレイや走塁、戦術でどうにか補っていると言える。

 そもそもバッティングというのは、一番センスとフィジカルがものをいう、と直史などは思っている。

 本人はバッティングに関しては、高校の最終学年において、もう他に任せることにしていた。

 大学も、そしてNPBもセ・リーグだったので、打席に立つことはあった。

 だが打率は二割にも満たなかったのだ。


 それでもピッチングと、その後のフィールディングに関しては、しっかりと研究も練習もした。

 自分の役目はとにかく、相手に点をやらないことだ、と割り切っていたので。

 そして今、バッティングピッチャーなどをしたりしている。

 これはこれで、かなり面白い。

 今まではとにかく、打たせない方法を考えていた。

 だが今は逆に、バッターが何を狙っていけばいいのか、考えながら投げている。


 今日も休みを入れつつ、100球ほどは投げてしまった。

 この調子だと200球ぐらいは大丈夫かな、と思えてくる。

 変化球の苦手なバッターには、とにかく変化球をカットする技術を。

 逆に速球が苦手なのであれば、それに目を慣らすように。


 重要なのは直史の場合、一人のピッチャーが投げているのに、ストレートの軌道さえもが違うことである。

 特に多いのはサイドスローから、140km/h前後のストレートを投げること。

 スリークォーターからサイドスローまで。さすがにアンダースローは県下のチームにピッチャーがいないため、対策などはしない。

 だが左でまで投げてしまうあたりは、高校時代と変わらないというところか。


「監督、俺もあの左投げ、メニューに入れたほうがいいんですかね?」

 チームのピッチャーがそんなことを言ってきたが、それを否定したのは直史だ。

「現時点で問題があるなら、その修正のためにやってみてもいいかもしれない。ただ夏を前にして、今からメニューを変えるのは負担の方が大きい」

 本質的には保守的な直史は、そう告げたものである。

 自分は色々と、実戦で試していたくせに。




 今日もおかげで、四番がしっかりと、ボールを待つことが出来るようになった。

 ただ本質的に必要なのは、ボールを見極める目付けの力なのだ。

 直史はいくつかのピッチャーを想定して投げているが、高校生離れしたピッチャーの真似はしない。

 過剰に特化したバッティング技術などは、今は必要ない。

 重要なのはバランスよく鍛えることなのだ。


 ピッチャーに対するアドバイスで、とにかくコントロールは良くなってくる。

 ストライクの入らないピッチャーほど、始末に困るものはない。

 むしろ肩がいいなら、外野に回してもいいだろう。

 そして一人限定などで、リリーフをやらせるのだ。


 直史はひたすら自分が楽しんでいた。

 それでも家族と過ごす時間は、アメリカ時代に比べれば、はるかに多くなっている。

 結局のところ、ここで引退したというのは、やはり正しいタイミングであったのだろう。

 30代の前半から、弁護士としての活動を再開。

 セカンドキャリアとしては、充分すぎるものである。

 そして休みの日には、存分に家族との時間を作る。

 よくもあんな、オフシーズンがあるとはいえ、奴隷のような拘束状態に、我慢できていたな、と今では思ったりもする。

(若かったんだなあ)

 最強のピッチャーは最強のまま、日本の片隅でバッティングピッチャーを続けるのであった。




 思えば激動の日々であった。

 現役時代はオフシーズンでも、体を本格的に休めることはなかったと思う。 

 大晦日と元旦以外は、ほとんどの日にトレーニングや練習を行う。

 それぐらいはやっていないと、技術はさび付いていくのだ。


 軽い運動は毎日やっているが、もう体に負担がかかるほどのことはしない。

 なんなら夜の運動の方が、よほど激しかったりする。

 シーズン中は基本的に、週に一度も余裕がなかったのだ。

 最初に真琴が生まれた時は、その症状からして毎日が緊張していた。

 命の危険があると、ずっと言われていたのだ。

 その真琴は元気すぎるほど元気になったし、明史はそれに比しておとなしい。

 ただ色々と考えているのは、明史の方が早熟に思えるが。


 弁護士の仕事の方は、基本的にご近所の商工会に関連した、民事裁判に関わることが多い。

 弁護の仕事だけではなく、法務に関する仕事ならば、弁護士はやっていくのだ。

 街の弁護士さんとして、瑞希の父が培ったコネクション。

 これをしっかり引き継いで、周囲の人々の役に立たなければいけない。


 ただ中には、刑事事件が混じってきたりもする。

 代々の老舗の中小企業の小金持ちの息子が、酔って暴れて傷害罪など。

 こういうことも人と人とのつながりがあると、受理してどうにかしなければいけない。

 ちなみに直史はこういう、馬鹿を弁護することには向いていない。

 そもそも若手の弁護士は、あまりこういう弁護には向いていないのだが。




 小金持ちではなく、大金持ちの直史であるが、生活に使う金はささやかなものだ。

 おおよそは地元の発展のために、使っていこうかと思っていたりする。

 農業法人相手には、ほぼ無利子に近いような金額で、出資をしたりもした。

 もっとも役員待遇で、しっかりと経営に携わったりはするのだが。


 直史は論理を重んじるため、そういった経営などの方面に才能が向いている。

 人の感情が起こす事件というのは、基本的に上から目線で処理してしまう。

 それを本人も自覚しているのが、まだしも救いとは言えるだろう。

 だが街の弁護士さんとしては、そういった不慣れなことにも、しっかりと対応していかなければいけない。


「国選弁護をあまりしなくてもいいのは、本当にお義父さん、じゃなくて所長の人徳だよな」

「人間関係で、どうしても受けなくてはいけないこともあるけど」

 夫婦の会話の間に、手続きの書類はすぐに作成されていく。

 オフシーズンでもこういった事務仕事は、しっかりと手伝っていたのが幸いと言うべきか。

 事務員は二人いるのだが、直史と瑞希のやっている案件は、若さでどうにかするようなものが多い。

 中には直史を指名してくる依頼人もいるが、たとえ誰であろうと弁護士の相談料は変わらないのだ。

 時々芸能事務所の方から、テレビに出ないか、という話もやってきたりするが。




 基本的に直史は、野球はするのが好きなのである。

 そして勝つのが大好きだ。

 しかし勝利を目的としていた場合、そこにプレッシャーがかかっていたことも確かである。

 バッティングピッチャーをして、上手く打たせるというのは、これまでにはなかった愉しみ方である。

 しっかり調整して投げなければ、バッティング技術を高めることは出来ない。


 これまでに対戦してきたバッターの特徴を考えながら、バッティングも見たりする。

 優れたピッチャーはバッティングに関しても、その欠点を指摘することが出来る。

 だがフライボール革命が三振数の増加とセットであったように、穴を埋めていってはその長所まで消してしまうことになりかねない。

 よって直史が教えるのは、樋口のようなバッティングだ。


 樋口のようなバッティングとはつまり、打つべき時に打つというものだ。

 ツーアウトランナーなしから一点が入る確率は、今の白富東は薄い。

 よってツーアウトからの打席では、ピッチャーのスタミナを削ることや、布石を打つことに専念する。

 どのボールを狙い球にし、どのボールを捨てていくのか、あちらのチームに誤認させたりするのだ。


 バッテリーが勝負にきたアウトローを、どうやって打つのか。

 高校野球のバッティングであれば、それが重要なことになるであろう。

 すさまじく高度なコンビネーションを使うならば、あるいはど真ん中のストレートも充分に使える。

 そんな配球をしてくるような相手は、さすがに倒せないと諦めたほうがいい。

 今のレベルは、そういうものなのだ。


 そして入学からおよそ三ヶ月ほども経過する、六月も終盤。

「一年の夏には間に合わなかったか」

 直史が一番伸びたな、と思うのは一年の内田である。

 こんなスピードで投げて、通用するのかと思われたりもした。

 だが遅い球でもって、逆に相手のタイミングを崩す。

 強豪校は80km/hのボールを打つような練習は、基本的にはしないのだ。


 期待していたのは細川である。

 筋肉はともかく、あの体格を利用して角度をつければ、面白いピッチャーになるかとも思ったのだが。

「秋までもまだ無理だな。来年の春までに、なんとかしたいけど」

 そんな直史の言葉を受けて、北村はトーナメント表を見せる。

「今は目の前のことだな」

 全て一発勝負の、トーナメント戦。

 いよいよ夏が始まろうとしていた。


 


 蒸し暑い。

 この数年、直史は日本の夏を経験していない。

 もちろんカリフォルニアの夏も、それはそれは暑かった。

 だが湿度を加えてみると、日本の方が地獄である。

「こんな中で、よく野球やってたな……」

「私はずっと前からそう思ってたけど」

 瑞希が苦笑交じりに応じるが、直史はカレンダーに予定を書き込んでいく。


 夏の選手県大会の地方大会が始まる。

 よく予選と勘違いされるが、あれは予選ではなく地方大会なのである。

 予選と何が違うのかは、説明する者も難しいであろうが。

「二回戦からの登場なんだよな」

 今はまだ、県外の有力校と、練習試合を行っている。

 だがここからさらに暑くなっていく中で、試合を行っていくのか。


 自分の現役時代は、もう随分と前であるので、いまいち思い出せない直史である。

 だが白富東はそもそも、無茶なスケジュールでは練習も試合もメニューを組んでいなかった。

 クーラーの利いた事務所の中で、普段は仕事をする。

 だが弁護士というのは、書類を取りに外に出ることも多い仕事である。

 さっさと電子化してほしい、と直史はこれをこそ思うのだが、なかなかそうもいかない。

 偽造の難しい書類などは、どうしても発行してもらう必要があるのだ。


 事務所から役所まで、あるいは裁判所まで。

 移動には主に車を使うため、さほど灼熱の大気を感じることはない。

(そういえば日本の夏は、こんな感じだったか)

 移動中に、道端を走っていく野球部員の姿があったりした。

 長距離を走ることに、野球は意味などない。

 コンディションを整えるために走ることはあっても、普通にグラウンドを二三回走ればいいのだ。

 このチームは三回戦どまりだな、などと直史は判断したりもした。




 そして面白い仕事が入ってきた。

 いや、仕事ではなく、単なる提案と言った方がいいのだろうか。

「佐藤さん、地方大会の解説やってみませんか?」

 テレビの地方局からの声がかかったのである。


「それ仕事なの?」

「いやボランティア」

 瑞希は呆れたような声を出すが、実際のところやったら面白そうである。

 普通、こういったものは引退した野球関係者の中でも、もっと年配の人間を求めたりするものだ。

 一応交通費程度は出るし、この後一杯、と食事を奢られる程度のこともあるだろう。

 だが直史の時間を使うには、あまりにも無駄ではないのか。

「金銭的なことを考えるだけなら、そもそも怪我を治してNPBにでも復帰すれば良かっただろうし、面白そうなことをどんどんやっていけばいいと思うけど」

 実際に面白そうな仕事しか受けていない、瑞希の言葉である。


 ラジオであれば割りと、一回戦から放送していたりする。

 地方局の夏の風物詩と言えようか。

 それでもベスト8以降の話となる。

「どことどこの対戦?」

「順当ならトーチバと三里か蕨山」

「あ~、それは地味に面白そう」

 おそらく向こうの駄目もとの依頼であろう。

 ただ直史としては、こういう全く報酬の絡まない依頼は、むしろ好き勝手に言わせてもらうつもりである。


 現役を引退してからこっち、野球に関することは息抜きになっている気がする。

「トーチバと三里が、マリスタの対決? 第二試合は?」

「それはまた別の人がと言うか、勝ち上がってきたら白富東の試合になるわけだし」

 ああ、それは確かに直史は母校の応援となるだろう。

「解説って一人でするの?」

「いや。……俺がするかどうか決めてから、相手を決めるらしい」

 それはそうか、と瑞希は思った。

 直史と話を合わそうとするなら、それは大変なことになるのではないか。

 もっとも直史は一般的な高校野球からは、遠く離れた存在だ。

 対抗しつつもフォローするとなると、かなりの大物が出てくるのではないか。


 瑞希がそんなことを思っていると、直史はとんでもないことを言い出した。

「いっそ、一緒に解説するか?」

 え、と瑞希は思ったが、直史は別に冗談は言っていなかった。

「俺と、瑞希とで」

「解説を?」

「そうそう」

 プロならともかく、高校野球の地方大会においては、それぐらいの遊び心があってもいいのでは。

 実際のところ知名度で言うならば、瑞希もしっかり高校野球関係者には知られている。

 しかしそれは、夫婦で解説をするということか。


 企画としては確かに面白いのかもしれない。

 だが、ありなのだろうか、そんなもの。

 いや、向こうが断ってくるだろうという可能性が、やはり高いのではあろうが。

 夫婦漫才ならぬ、夫婦解説。

「……出来なくはないかも」

 高校野球に関しては、かなりがっちりと調べた経験が、瑞希にはある。

 そして直史もつい最近、色々と高校野球には関わっている。

 知識としては確かに、出来ないと思う。

 実況の瑞希さんと解説の直史君である。


 さすがにこれは通らないだろうな、と冗談承知で電話をかけてみた。

 だが向こうはノリノリで、GOサインを出してきたりする。

 高校野球を女子高生の目線から見て、そして大学時代に出版し、ベストセラーとなった瑞希。

 大学時代は直史より、よほど金に余裕があったのは本当のことである。

 そもそも本一冊の印税で、法科大学院までの生活費と学費は稼げたぐらいであるのだから。

 考えてみれば瑞希の執筆活動を、直史も選手の視点から助けたことはある。

 それと似たようなものであろう。

 ……あるのか?

 ともあれ面白そうなことを、直史と瑞希は共同作業ですることになった。

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