第13話 もう一人のエース

 直史の存在は確かに、この時点では世界の野球史上において、並ぶべきものなきものかもしれない。

 だが直史からしてみれば、それ以前に甲子園をおおいに盛り上げたのは、上杉であったと思うのだ。

 彼の存在があったからこそ、高校野球はまたも爆発的な人気となった。

 そしてその上杉が、結局は頂点を極めることはなく、プロの世界に舞台を移した。

 怪物はそんな舞台でも、怪物であった。

 まともに打てないスーパーエースを、大介が打った。

 かなり長く期間NPBを、この二人が牽引していたと言ってもいいだろう。


 直史にとっても上杉は、普通に憧れの対象ではある。

 それとは全く違う形で、完璧なピッチャーとして認められる。

 全く違う道を歩きながらも、その到達点は同じ。

 チームに勝利をもたらすということだ。


 そんな上杉にとっても、Aチームの上位打線は、かなり厄介なものである。

 織田もアレクも凡退こそしたが、三振はしなかった。

 MLBで揉まれて、やはりレベルを上げているのだ。

 もっともアレクはともかく、織田はそろそろ選手としてのピークから落ちていく。

 上杉にしても昔に比べれば、回復力が落ちているかなとは思うのだ。


 そしてAチームの三番打者は、タイタンズの水上悟。

 こちらは今がまさに選手としての絶頂期であり、シーズン中も上杉をそこそこ苦しめる、数少ないバッターの一人である。

 上杉からすればこれを出塁させれば、次のバッターは樋口となる。

 高校時代にわずか四ヶ月ほど、バッテリーを組んでいた樋口。

 だが大学やプロ入り後の戦歴を見れば、組んだピッチャーのピッチングの幅では、彼ほど広いキャッチャーはいない。

 そして上杉に対しても、妙な苦手意識などはない。

 恩はあるだろうが、それはそれとして全力を出してくるのが樋口という男だ。

 そんな樋口の前に、ランナーを出したくはない。上杉だってそれぐらいは考えるのだ。


 


 直史のチームに入ったのは、あのスポーツ推薦入学時の、恩を返すためというつもりもあった悟である。

 当の本人は「ありがたいけどいいのか?」などとまったくそんなことは気にしていなかったようだが。

 そもそもこれで去っていく人間から打って、なんの意味があるのだ。

 これから先も対戦していくピッチャーは、むしろあちらのチームに多いではないか。

 それにあちらは希望するバッターが多かったため、二打席連続で凡退した場合、三打席目は交代というルールになっている。

 こちらのチームはショートをしっかり守れる選手がほぼいないため、おそらく最後までバッターボックスに入れるのだ。


 ほとんどオールジャパンといった内容の相手から、果たして勝利することが出来るのか。

 直史と同じチームで、自分がショートを守っているなら、なんとか出来ると思っている。

 二遊間が強いが、ピッチャーとしての直史も守備はかなり上手い。

 NPBでもMLBでも、ゴールドグラブ賞を取っているのは、それだけ自分でも打球を処理しているからだ。

 究極のグラウンドボールピッチャーというのは、言い過ぎではないと思う。


 そんな悟に対して、上杉はやはりストレート主体で攻めてくる。

 肩の故障からの復帰後は、比較的変化球が多くなったとは言っても、やはりムービング系を投げるのが上杉である。

 そして球威がありすぎるために、上手くゴロを打たせることが出来ない。

 それをやるならいっそのこと、三振を狙っていった方が楽だ、とさえ思っているのかもしれない。


 織田とアレクは苦労して、どうにか三振以外のアウトとなった。

 去年もそれなりに対戦している悟としては、自分が打たなければ上杉の攻略は難しいだろうと思っている。

 ちなみに直史や樋口は、上杉が投げている間は、どうせ点は取れないだろうと思っている。

 樋口が狙い打ちをするにしても、パワーでねじ伏せられるのが関の山だと考えているのだ。

 そんな上杉のボールに、悟はどうにか当てていっている。

(最盛期の力は、やっぱりもう出ない、か)

 それでも最後に、ストレートで悟から三振を奪う。

 上杉という鯛は、まだまだ腐ってはいないようである。




 ネクストバッターズサークルから、一度戻ってプロテクターを装着する樋口。

 昔の上杉のボールであれば、あそこまで粘られることはなかったと思う。

 明らかに落ちているが、それでもまだ第一線。

 今の自分に打てるだろうかと、そんなことも考える。


 だが、それはどうでもいいのだと頭を切り替える。

 上杉は全てのバッターに投げるわけではなく、途中で交代の予定はしている。

 そしてこちらのAチームとしては、上杉以外から点を取ればいいのだ。

(そうは言っても、俺と勝也さんが本気で戦うのも、これが最後の機会になるのかな?)

 樋口はMLBで実績を残し、このままFAで高額契約を勝ち取れそうである。

 するともうNPBに帰ってくる時は、40歳近くになっているかもしれない。

 上杉もまた、それぐらいになれば引退している可能性は高い。

 ならばここが、本当に最後の対決となるのか。

(一打席だけで、どうにかなるとは思わないけどな)

 そして樋口は、己の役割を果たすべく、キャッチャーボックスの中に座った。




 いきなりクライマックスと言ってもいい。

 Bチームの一番打者は、大介である。

 直史はその生涯において、打たれれば致命的という場面で打たれたことが、ほとんどない。

 だが大介にだけは、打たれたくないところで打たれている。

 直史にとって打たれてはいけないというのは、ホームランではない。

 試合を決定付ける失点であり、ホームランであってもまだ味方がリードしていれば、それは問題はないのである。


 サヨナラ弾を打たれたことは、記憶を探ってみても、あの一試合だけしかないのではないか。

(振り逃げサヨナラは別として)

 蒸し返してもジンは、そろそろ大丈夫なようになっている。

 いや、指導者として結果を残してからは、あれを違う視点から捉えるようになっていたのだ。

 あの後悔を、教え子たちには体験させないように。


 大介との勝負。ノーアウトランナーなし。

 こちらの打線と向こうのピッチャーを比べてみると、上杉が途中で降板するとしても、一点も入らない可能性はある。

 初回のこの場面、チームの勝利がかかっているなら、あるいは申告敬遠という選択もあったろう。

 ちなみにこの試合に関しての事前の取り決めで、申告敬遠に関しては話されていない。

 そもそも草野球で申告敬遠をするなど、あまりにも白けるものである。

 直史にとっても、それと対決する全てのバッターにとっても、申告敬遠などを存在させておく意味がない。

 逆にそれは、向こうのBチームにとっても同じことなのだが。


 これは公式戦ではない。

 つまり誰かが認めるような、後世に残すような、立派なものではないのだ。

 だが、だからこそと言うべきか、これは野原の果し合いのようなもの。

 ただ強さだけを決める、本当の意味でのなんでもありの勝負。

 これが最後の直史に対して、大介はそれをちゃんと理解しているのだろうか。

 樋口はバッターボックスに入った大介に対し、囁き戦法に出る。

「あのさ、フォアボールで歩かされた場合って、お前らの勝敗的にはどっちが勝ちなの?」

「この試合でフォアボールはねえだろ」

「つっても審判も即席だしなあ」

「いやいや、ナオがそんなことはしないだろ」

「君たち、私語は後にしなさい」

 沈黙した樋口は、直史に対してサインを出した。

 頷く直史は、ほんの少しタイムラグがあった。

 それは本当にわずかではあったが、大介にははっきりと分かったもの。

 ただ大介も、気づいていないわけがない。

 大介が直史と共に戦った試合や、対決した試合。

 それと比べて直史と樋口の組んだ試合が、それだけ差があるか。


 直史はこの試合、結果的にはフォアボールでランナーを歩かせることはあると思っている。

 いくらなんでもこのメンバーを相手に、ノーヒットノーランはないだろうと。

 あるいは失点することさえ、普通にあると思っている。

 だが重要なのは、試合自体に勝利することだ。

 これは野球という団体競技なのだから。


 


 気づいたのは上杉と西郷であった。

 この試合は結局のところ、直史の引退試合ではあるが、大介との決闘でもある。

 自分たちがそれに参加していることを、二人はどう考えているのか。

 上杉としてはまた、直史と投げ合って、あの夢のような試合を演出してみたい。

 だが自分は衰えて、両者の打線は強力だ。

 いまだに年間20勝は普通に狙える上杉であるが、それでも衰えたのは間違いないのだ。


 大介の放っている、オーラとでも言うか、集中力の気配。

 それがほんのわずかに、鈍ったのである。

(樋口の力かな)

 上杉は樋口の力を、かなり絶対的に信頼している。

 だが対戦相手としてみた場合は、とんでもなくひどい人間だとも分かっているのだ。

 その悪意は上杉の敵に向けられるため、上杉としても放置してはいる。

 将来的には汚れ仕事を、平気でやるようになるのが樋口であろう。


 大介とライガースで、三番四番を打っていた西郷も、その気配には気づいている。

「大介ぇ! 集中せんかぁ!」

 世界広しと言えど、今の大介にそんなことを言えるのが、果たして何人いるだろうか。

 だがその西郷の大声は、大介の緩んだ気配を、再び締め付ける効果はあったようだ。


 二番と三番を、メジャーからの出張組に渡した西郷。

 直史との対決の機会は、頑張っても三度までと思っている。

 西郷もまた直史と同じチームにいて、その脅威を知りながらも、まだ対決を望む珍しい一人ではあった。

 だが直史と大介の間にある、絆というか運命というか、神様の悪戯については、自分が深く関われるものではないと思っている。

 あの二人がいたからこそ、あのチームが誕生した。

 そしてあのチームが甲子園の頂点まで登りつめたからこそ、二人はさらなるステージに進んだと思うのだ。

 大学時代も直史は、プロになど行かないと言っていた。

 そしてそれを裏付けるように、野球部の練習などは完全に軽視していた。

 もっとも西郷は、直史が練習時間ではない時に、自分で練習をしていたことも知っていたが。

 そしてそれに樋口が付き合い、二人だけでピッチングを完成させていったのだ。

(どちらも、頑張れ)

 直史とも大介とも、同じチームになった経験のある西郷。

 それがこの舞台でも、重要な脇役として出場することになっているのだ。


 これが最後の対決になるのだろう。

 肘をやってしまったら、移植してからしか復帰はほぼ不可能。

 軟骨剥離などならともかく、靭帯の損傷は致命的だと、西郷自身も知っている。

 なにせ真田が、それをやってしまっているのだから。


 燃え尽きればいい。

 男として生まれたからには、その魂の炎を、歴史に焼き付ければいいのだ。

 これはプロの野球ではないが、だからこそお互いの意地だけが重要となる。

 西郷の大きな瞳は、その対決をずっと映していた。




 なお燃え尽きる気など、さらさらないのが直史である。

 腕が折れてでも投げきるというのが、勝利につながるならそれはやってみてもいい。

 だが現実的に考えて、そこまでやってしまった状態の腕で、まともなピッチングが出来るはずもない。

 それに直史にとって、本当に命を削るように投げていたのは、あのMLBの二年目のポストシーズンだと思う。

 脳がエネルギーを使いまくって、頭痛やめまいまで起こしながらも、それでも最適解を出し続け、肉体がその通りに動いていた。

 それすら上回ることのある大介も、たいがいだとは思ったが。


 今日の直史は、時間をたっぷりとかけて、この試合だけに全てを調整してきている。

 体格はともかく、身体能力では直史を圧倒する大介。

 だが唯一確実に上回るのは、その肉体をコントロールする能力である。

 コントロールと、相手との駆け引き。

 ただそのあたり直史は、プロ入りから既に完成していた。

 さらに変化球などを磨いたが、それがあるいはこの故障の原因となったのかもしれない。

 もっとも今年が最後だと、去年は思っていたので、自分らしくないプレイもした。

 別にダイビングキャッチなどせずとも、バウンドしてからの送球でも、一塁でアウトに出来ただろう。

 変な回転がかかっていたので、ラインを割ってファールになった可能性はあるが、それは単純にもう一球待てばよかっただけだ。


 これで最後なのだと、ずっと思っていた。

 本来なら引退の記者会見などはせず、適当に答えても良かったのだ。

 それがこうやって、一つの巨大なイベントになってしまっている。

(どうせなら真夏の甲子園が良かったかな)

 卒業してから15年を経過していても、直史の野球に対する情熱は、高校時代以上のものとは全くなっていないのであった。




 大介への初球、直史はスローカーブから入った。

 ゾーンは通っていても、落差があるのでストライクとカウントされないボール。

 だが大介はこれを、いきなりフルスイングしてきた。

 そしてボールは掬い上げられて、ライト方向のポールの向こうに消えていく。

 ただのファールではあると言えるが、飛距離が充分に出ている。


 直史はファールを打たせる時も、基本的にはライナー性の、絶対にスタンドインしないような打球に誘導する。

 それが飛距離だけは充分なフライになったので、スタンドからはざわめきが聞こえてくる。

 もっとも打った大介は、また誘導されていたな、と感じるだけだが。

 直史はゴロを打たせてくると思ったので、掬い上げるのに力が入りすぎた。

 そのためにボールを、引っ張りすぎてしまったということだ。


 事実だけを見れば、ストライクカウントが一つ増えただけ。

 つまり直史が己の有利にしたのである。

 もっともこれはメンタルの弱いピッチャーであれば、あそこまで飛ばされたということで、それなりにプレッシャーにはなる。

 だが直史はプレッシャーすらコントロールしているので、全く問題はない。


 この巨大なスタジアムで、直史と大介、そして樋口しかいないような感覚。

 宇宙が広がっていて、その中心は二人であり、全てが二人を中心に回っている。

(来たな)

 極限の状態が、直史を追い詰めると共に、その限界以上の能力を引き出していく。

 あまりに使ってしまえば、おそらく廃人になってしまうであろう超常の力。

 だが充分な調整の間に休息し、そしてこの試合が終わればもう投げなくてもいいとするなら、本当に壊れても、日常生活に困らない程度であれば、問題はないのだ。

 ただ勝ちたいと思ってきた。

 試合に勝てば勝つほど、もっと試合で投げることが出来たから。

 ピッチャーというのはその試合において、最も勝敗を左右するポジションである。

 他のピッチャーが打たれて負けても、自分だけは絶対に打たれない。

 ある意味孤高であり傲慢な信念を持ちながら、直史は第二球を投げる。


 ボールは速球でありながら、伸びるのではなく沈んでいく。

 スローカーブの後なら空振りするバッターが多いが、それでも大介ならば対応できる。

 もっともこれもまた見逃せば、ボールとカウントされたものであろうが。

 三塁線の向こうを、とんでもない速度で打球が飛んでいく。

 フェンスに当たっているので、これはフライの角度も足らない。

 内野の間を抜いていくだけの、充分な勢いのある打球。

 だが結論としては、二球でツーストライクに追い込まれたバッターがいるのみである。


 わずかにバッターボックスを外し、大介は深呼吸する。

 今の直史と自分の間にある差は、精神状態の差だ。

 ここで出し尽くす直史に比べ、大介はまだこれからシーズンが始まる。

 そういった調整まで含めれば、直史の方が圧倒的に有利と言えなくはない。

(怪我人に引退試合提案して、一本も打てなければ恥だよな)

 負けず嫌いの大介にとって、このまま直史を引退させたりはしたくない。

 せめて一つぐらいは後悔をグラウンドに残していってくれ。


 意地と意地のぶつかり合い。

 だがあくまで冷静なのは、直史の方である。

(こっちは樋口がいるからな)

 外部付属の計算機があるだけ、直史の方が有利なのは当たり前だ。

 それを冷静に考えているだけ、やはり直史の精神的にも優位に立っているのだ。

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