第19話 チームメイト
大介を一塁にとどめたまま、ブリアンを打ち取ることに成功。
進塁さえもさせないというのは、まさに完璧な結果であった。
そしてバッターボックスに迎えるのは、アナハイムでのチームメイトであったターナー。
思えば彼の故障が、直史の人生を多少なりとも、変化させるきっかけとなったのだ。
最後のきっかけは樋口の故障であったが。
直史のピッチングによって、アナハイムがワールドチャンピオンになったという見方は、おおよその人間が同意することであろう。
ただそれにはターナーも大きく貢献していたというのも、確かなことであるのだ。
大型契約を結んだのも、ターナーへの期待の表れ。
実際にそれに相応しい契約は残しているが、ただそれでも世間の評価が、ターナーを直史の上に置くことはない。
当のターナー本人さえもがだ。
スポーツ選手というのはいずれ、全盛期を過ぎて衰え、下の者に抜かされていくものだ。
しかし直史という存在は、かなり常軌を逸している。
普通ならば最盛期であろうという年齢になって、ようやくプロ入り。
ただしそこからのMLB移籍は、とてつもない早さを伴うものであった。
一年目からあらゆるタイトルを受賞し、そして前人未到のことをいくつも達成。
あえて言うなら技巧派のため、ボールのスピードが落ちたなら、すぐに成績も下降するのではないか、という希望的観測だ。
ただそういった全ての想定は無意味となり、直史は引退を宣言した。
トミージョンをすれば、以前と同じ水準のボールを投げられるだろう、とおおよその専門家が言う。
そもそもこの試合で、まだ通用することを証明しているようなものだが。
しかし直史は、引き際を誤らない人間に、ターナーは見えていた。
そもそも二年も延長した時点で、本人としてはほとんど燃え尽きたつもりでもあったのだが。
ターナーはスプリングトレーニングのオープン戦などでは、直史とある程度の対戦はある。
またWBCでも敵と味方に分かれていた。
しかし本当のプロの舞台では、当たることはなかったと言っていい。
それが今となっては、ターナーにとってわずかなしこりとなっている。
そもそもMLBでは、同じリーグであっても地区が違えば、年に当たるのは三試合。
その中で直史が投げる試合とは何度当たるというのか。
むしろ対戦相手は、同じリーグで成績を伸ばし続ける、ブリアンなどと比較した方がいい。
ターナーとしてはそれらの理屈を全て受け入れても、直史との最後の対決を望んだのだ。
別にどうしても勝ちたいわけではないし、そもそも勝てるとも思っていなかった。
それがターナーの正直なところだ。
だがこれが最後の舞台と言われれば、そこに自分の足跡も残しておきたい。
そう思ってしまったからこそ、今こうしているのだ。
初球から打てるボールは打っていかなければいけない。
そう狙っていたターナーに投げられたのは、いきなりスルーチェンジであった。
肘にはそれなりに、捻りの動きが伝わってしまう。
負担はかかるが、それを使うのはターナーに対する敬意である。
ターナーは無理に合わせようとはせず、素直に空振りした。
遅いボールから入ってくるのは、直史としてはよくあることだ。
だがスルーチェンジは単に遅いボールなのではなく、一見すると速いがかなり失速するボールだ。
ターナーは色々と変化球は知っているが、直史ほどその組み合わせを自由自在に操るピッチャーは知らない。
緩急を使ってくるピッチャーは確かにいる。
だが速く見えるのに思ったより遅い、というこのチェンジアップは、ターナーとしては一番の魔球だと思うのだ。
そして二球目、これはナックルカーブ。
スピードと変化量を兼ね備えたこのボールは、大きくストライクゾーンを切り取った。
死神の鎌とも呼ばれるこの変化球は、審判によってどう判定されるか、かなり微妙ではあるのだ。
ただここではボールとなり、ターナーはほっと一息である。
だがこのぐらいの変化でも、キャッチするミットの位置が少し高ければ、ストライクとコールされていたであろう。
直史のボールの変化は、ほんのわずかでもコールが変化する可能性がある。
バッターのその時の姿勢でも、審判の判断は難しいのだ。
直史はまた、プレートの位置も少し変えてくる。
これによって投げるボールの角度が変わってくるため、外から内に変化するボールは、ミットがキャッチした位置ではストライクになっていたりもする。
もっとも内角をえぐるようでいて、実はほんの少しゾーンにかすっているというボールの方が、より判定は難しい。
三球目、まさにそんなカットボールが、内角をえぐった。
これはストライクとコールされて、ターナーも追い込まれる。
(よし、なんとか次のボールで、ターナーをアウトにするぞ)
ここまでの三球、ターナーには難しいコースばかりを判断させていた。
なので四球目は、分かりやすいコースを投げる。
もしも直史の肘に、いまだに大きな痛みが走るなら、これは投げられないボールだ。
そんな変化球であっても、全力投球というのが一番、体には負担がかかるのだから。
(これを)
(このコースにか)
樋口のサインに頷いた直史は、ほぼど真ん中にストレートを投げた。
ターナーのバットは、まさにこの絶好球とも言えるボールに襲い掛かる。
だがこのボールは、ターナーの予想した軌道よりも、さほど落ちなかった。
全力でバックスピンをかけたストレート。
ターナーのバットに当たったそれは、前進してきた織田のキャッチする、浅いセンターフライとなった。
(そこ、わざと落として白石を二塁で殺してほしかったなあ)
樋口などはそうも考えていたが、咄嗟の判断をするには、セカンドもショートも難しい位置関係ではあった。
ノーアウトランナー一塁を、ツーアウトランナー一塁にまで持ってきた。
だがまだピンチから完全に脱したわけではない。
ツーアウトになったということは、バッターが打った瞬間には、大介はスタートが切れるということだ。
そしてバッターボックスには、そういった長打の打てる西郷が入る。
彼もまた、直史と樋口にとっては、チームメイトであった。
大学で三年間、同じチームで戦っている。
もっとも直史にも樋口にも、チームへの帰属意識はほとんどなかったのだが。
それでも西郷は先輩であり、そして最終学年ではキャプテンでもあった。
また一年生の頃から既に、その貫禄で上級生をすら圧していった。
西郷が一年の時にそんなことをやってくれたため、直史と樋口が自由に出来たという点はある。
もし野球部が無体なことを言ってきても、直史も樋口も無視するつもりではあったが、西郷以外にも早稲谷の先輩には、細田に伏見といった人間もいて、直史や樋口は快適な生活を送ったと言っていい。
このバッテリーは野球部への帰属意識は全くないが、西郷などへの個人的な恩義は感じている。
それで勝負がやりにくいのかと言うと、全くそんなことはないのだが。
西郷はここで凡退すれば、三打席目は他のバッターと交代することになっている。
それは別に仕方のないことだが、出来れば塁に出てもう一度勝負をしてみたいとも思う。
自分は結局、MLBには行かなかった。
大卒であったため、アメリカに行くにはもう、年齢的に対応が難しい、と言われたこともある。
また大介が抜けた後であったため、西郷まで抜けるというのは選択しにくかった。
だが結局のところは西郷も、求められた場所で咲くことにしたのだ。
不思議な縁だ、と瑞希は思いながら記録をしていた。
高校時代もそれなりにではあったが、彼女の記録は大学に行ってからの方が、より詳細である。
それは彼女のマンションに、直史がかなり入り浸っていて、半同棲に近いこともあったのだが。
ちなみにその生活は、極めて低俗な週刊誌にすっぱ抜かれそうになったが、瑞希の父親が弁護士であったので、止められたという事情がある。
そもそも婚約者の家に泊まっても、全くセンセーショナルではないという判断もあったが。
有名人のシモの事情は、一般人にとっては興味深いものであるのだ。
瑞希の西郷の印象は、実はあまりいいものではない。
九州男児というのは今でも、かなり男尊女卑の傾向が強い地域がある。
西郷の場合は子供に対しては男女関係なく親切だが、妙齢の女性に対してはぶっきらぼうだ。
最初は実はホモなのではないかと思ったこともある瑞希であるが、実はただの照れ屋さんだったというのは、プロ入りして以降にようやく判明した事実だ。
西郷からすると直史や樋口が外出して女の家を渡り歩くのは、不健全に見えたのだろう。
実際には何人もそういう関係の女がいたのは、樋口の方だけである。
なおこちらもすっぱ抜かれそうになったが、アマチュアの学生野球はある意味、強い力で守られている。
出版社や新聞社には、早稲谷閥というのがあるのだ。
直史と樋口のいた四年間に、武史もいたプラス一年間は、早稲谷の黄金時代とも言われる。
春と秋のリーグ戦において、優勝できなかったのが一度だけであったのだ。
またその中には、東大が躍進して、早稲谷に勝利したこともあった。
それもまた佐藤家の力ではあったのだが。
実のところあのチームに恵美理がいたら、早稲谷は負けていたのではないかと、恵美理の特殊能力を知った今は、瑞希は思っている。
全ては過去の仮定の話だ。
だがIFの世界というのは、魅力的であるのも確かだ。
この世界には色々なIFがある。
プロ野球ファンにとっての一番のIFというのは、おそらくこれかもしれない。
『もしも直史が、高校からプロ入りしていたら』
そんな選択は直史には、絶対にありえないと瑞希は言えるのだが。
そもそも直史が、高校ではもう野球をやめてしまったら。
春の大会に出なかったらというだけでも、かなりの変化が存在すると思う。
ただその場合でも、自分とは出会っていたであろうな、というのが瑞希に欠片ほど残った乙女ちっくな部分である。
30歳過ぎて乙女もクソもないものだろうが。
この試合も直史の人生にとっての一区切り。
だがそれ以上のものではないし、かといって全く無価値というものでものない。
大介との対決は、一般の常識からすると、ここまで大介リードと言えるだろう。
しかし二人の価値観、特に直史の考えからすると、塁に出してしまったことはまだ問題ではない。
結果的に試合に負けなければいいし、さらに縛りをきつくしても、ここで点さえ入らなければいい。
ブリアンとターナーを打ち取ったのだから、打線を相手にした話としては、ここまではまだ敗北ではない。
ただ、その後の西郷。
瑞希からすると、メジャーリーガーの二人よりも、この西郷の方が恐ろしい部分はあると思う。
特にこの場面、ノーアウト一塁であったら。
おそらく西郷は、最低でも大介を進塁させるだろう。
桜島のイメージからするとありえないと思うだろうが、西郷は本当に重要な場面では、チームバッティングを出来る。
この打順もまた、この場合だけは運が良かった。
瑞希はそう思い、試合の展開を見守る。
ツーアウトまで追い込んだら、ランナーが大介であろうと、一塁にいるなら問題はない。
危機が去ったというわけではなく、バッターに集中すればいいだけになったのだから。
ただ西郷に関しては、直史と樋口も別方向で危険さを感じている。
二人は西郷にとって、大学の後輩であったのだから。
一学年上のキャプテンであり、実際にはその上の学年からも、一目置かれているものだった。
大学というのは基本的に、学年が完全に一番優先する。
高校時代もある程度それはあるが、直史も樋口もそういった因習とは無縁であった。
正確には樋口の方は、一人だけ特別扱いであったのだが。
この三人に共通するのは、プロ志望届を出していたなら、間違いなく指名されていたであろうということ。
それも三人とも、その人気や実力から、一位指名が濃厚であったことだ。
キャッチャーである樋口だけは、わずかに微妙であったかもしれないが。
ただ西郷との違いは存在する。
それは野球をするために大学に入ったか、野球などどうでもいいと思って入ったかの違いだ。
三人に共通することは他にもあり、それはU-18のワールドカップで優勝したメンバーだということ。
特に直史などは、投げたイニング全てでパーフェクトに抑えたという、信じがたい記録を持っていた。
そもそも甲子園で、15回をパーフェクトに投げた翌日、完封して勝利するという時点で、常人ではないと分かる。
かといって直史は野球エリートなどといった感じは見せず、むしろ野球に興味を持っていないように見えた。
そしてそれは正しかったのだが。
学業優先で、ろくに練習にも出てこない、野球部の寮にも入っていなかった二人。
本来なら完全に孤立するはずであったが、一年生はこの二人を中心にまとまっていた。
なによりその実力が、比較にならないほど傑出していた。
一年生から後に四人もプロに進む選手が出たのは、わずかな練習時間などで、競い合うことが多かったからだ。
結局四年間の間に、圧倒的な数字を残した直史。
最初の三年間はキャッチャーに専念して、重要なところでしか打っていなかったのに、プロ志望に舵を切ってからは急に打ち出した樋口。
ある意味完全に大学野球を舐めていたという意味では、樋口の方が周囲のヘイトを稼いでいたかもしれない。
ただ樋口がいると、合コンなどを手配してくれるのがスムーズだったので、その点では上手く折り合いをつけていたものだが。
大学で三年間、西郷と被ったバッテリー。
プロで戦うのは、直史のプロ入りが遅れたため、わずか二年間だけであった。
西郷は直史に、勝てたとは全く思っていない。
だからこそここで、最後の対決を挑んでいるのだ。
まず投げられたのは、アウトハイストレートであった。
西郷ならば充分に届くそのボールを、振り切ろうとして右方向に飛ばしてしまった。
飛距離は充分であるが、方向は大きく外れて、ポールの外でスタンド入りする。
少し高すぎたので、スイングがわずかに遅れてしまった。
見逃すべきであるが、打てると思ってしまった。
ゾーンばかりで勝負するのが、プロ入り後も変わらない、直史のスタイルであった。
だがこの試合においては、かなりボール球を使ってきている。
それでも100球を少し超える程度で終わりそうではあるのだが、直史は充分に休養したとはいえ、肘には爆弾を抱えている。
(まずファーストストライクを取れた)
気合でボールを打つ西郷相手には、直史は完全に気配を消して投げる。
機械的に投げるのが、得意なのが直史なのだ。
それでも大介などに投げるのは、かなり気配を殺すのが難しい。
西郷もまた、そういった相手の一人だ。
(さて、次に)
西郷を相手にゴロを打たせたら、内野強襲のヒットとなる可能性が高い。
だが意外なほどに空振り三振も少ないので、フライを打たせるか見逃しを狙うか、選択肢はあまり多くないのだ。
スローカーブが樋口のミットに収まる。
これはまたゾーンを大きく切り取ったものだが、かなり真ん中に近く入っている。
そしてスピードも遅いため、審判としての判断はストライク。
西郷としてはもっと、速いボールで勝負してもらいたいのだろう。
だが野球というのは、相手の嫌がることをするスポーツである。
力と力のぶつかり合いという理屈は直史は大嫌いだし、直史がそういったものを嫌っているのを、西郷は分かっている。
しかし相手が分かっているなら、逆の選択をするのも直史である。
ツーストライクまで追い込んだのだ。
ならば微妙なコースであっても、バッターは手を出さざるを得ない。
どのコースに投げるのか、どの球種を投げるのか。
単純に考えれば、カットボールやツーシームなどが、わずかにゾーンを外すコースに投げてくるだろう、と西郷は考える。
しかしそういった思考が、西郷にあるだろうな、ということも直史は分かっている。
樋口と共に、球種もコースも合致する。
そして投げられたのは、ストレートであった。
打てる、と西郷は思ってしまった。
このボールの軌道は、スルーでもないと判断した。
その直感にしたがって、スイングは開始する。
コースがそこそこ上に外れていると気づいたときには、もう遅かった。
大飛球が、センターに向かって飛んだ。
空振りをさせるつもりだったのだが、織田は大きく後退した。
それでもフェンスまで退いてから、数歩前に出てくる。
グラブに収まって、スリーアウトチェンジ。
出来れば三振で終わってほしかったが、わずかに懸念はしたものの、無事にアウトが取れた。
西郷はこれで、次の打席は交代である。
バッターボックスから一塁に走っていたが、途中でそれも止めていた。
ベンチに戻るバッテリーと、その視線が合う。
お互いに目礼して、元チームメイトはそれぞれのベンチに戻るのであった。
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