第70話 故郷
あまり関係のないことであるが、日本シリーズの終了後には、ドラフト会議も終了している。
夏の甲子園を制覇した春日部光栄からは、エースがドラフト二位で指名されて、他にも一人支配下契約で指名されていたりする。
また千葉であれば勇名館からも、一人ドラフトでプロ入りしている。
高校生は一人だけであったが、千葉の大学からは二人、社会人からも一人、指名されることになった。
現在のドラフトにおいて、指名出来る人数は何人か。
意外とこれに、ぱっと答えられる人間は少ない。
支配下登録選手に限れば、120名である。
これは一球団最高10名というわけではなく、全球団を合わせて120名、つまり一つの球団が、11人以上を指名することも、制度上は可能なのである。
またこれも意外と知られていないことだが、育成選手はどれだけ指名出来るのか。
支配下登録選手が120名に達していなかった時、120人に達するまで育成指名を行うことが出来る。
ただ独立リーグの選手はこの人数制限に入ることはなく、育成契約を結ぶことが出来る。
NPBは各種表彰が改めて行われていたりするが、MLBも11月は次々とMVPなどの式典が成されていく。
大介はそのほとんどに選出され、また武史も相変わらずサイ・ヤング賞に選ばれたりしているが、ハンク・アーロン賞とサイ・ヤング賞に選ばれた選手が同じチームにいれば、それはメトロズも優勝しようというものである。
「そういえばお前、FAになったんだよな?」
そう、今年で武史とメトロズの契約は終了している。
そしてメトロズは今年のシーズン前などに、武史に契約の延長などは持ちかけなかった。
メトロズは確かに、選手の総年俸が、高くなりすぎてはいる。
だがエースでありローテーションを守れる武史は、絶対的に必要なピッチャーではあるのだ。
ただしそれに相応しい年俸を用意するなら、どれだけの金額になるか。
あるいは単年にすればやや低めであっても、長期大型契約で、ここから10年ほどを契約するというプランもあったとは思う。
現在の武史は33歳。
これから10年分の契約を結ぶ代わりに、単年あたりは抑える。
そういった契約の仕方も、確かにMLBでは前例がある。
しかし本格派の武史を、あと10年という契約は、かなりリスキーであろう。
よって年俸を抑制するために、武史の放出は充分に考慮しているということだ。
そして武史は、移籍先を述べた上で代理人に任せてきた。
ラッキーズが無理であったら、安くてもメトロズで構わないと。
このあたりアメリカの代理人は、頭を抱えたらしい。
普通のメジャーリーガーは、少しでも年俸のいいチームを望む。
もっとも西海岸や東海岸などや、ある程度絞って交渉することはあることだ。
だが武史の場合は、ニューヨークにいることを何よりも優先した。
ただラッキーズは今、確かにチーム再建中で、若い選手が多くなっている。
とはいえ若手だけでは安定感がないので、安定感抜群の武史を獲得するというのは、ありうる選択なのだ。
ただ代理人とすれば、もっと高い年俸を、大型契約で結べるチームの方が、自分の代理人フィーも多くなる。
なのに武史は、金を目的とはしていないのだ。
妻の仕事に便利だから、という理由でニューヨークを考えている。
契約年数もそれほど、長い期間ではなくてもいいと。
金でも名誉でもなく、単純に住み慣れた、そして妻の意向を優先する。
なんとも代理人泣かせの武史の要求である。
直史の助言は特に必要ともせず、武史は恵美理の実家に向かった。
また年末には、こちらに戻ってくるのであるが。
程度問題はあるが、佐藤家の人間は、家族をとても大切にする。
およそ四人は性格や嗜好もかなり違うが、これだけは共通している。
直史は家族と、そして家のために、日本に戻ってきた。
プロに進んでアメリカにまで行ったのは、そもそも真琴の病気のためである。
これがなかったら、直史の作った数々の記録は、生まれなかったのだ。
武史は妻の恵美理が一番働きやすいように、ニューヨークに住むことを選んでいる。
確かにアメリカには大都市は多いが、音楽に関してはやはり、ニューヨークが一番であろう。
もっともアメリカはあれだけ国土が広いので、場所によってはかなり違いがあるのだが。
そしてツインズは、大介を第一に考えている。
ちょっとどころではなく人間離れした、その知能や身体能力を、大介をサポートするために全力で注いでいる。
おそらくあと何人かは子供を産むのではないか、という予感もする。
少子化に喧嘩を売るなら、大変にありがたいことである。
シーズン中は難しいであろうが、年末年始は集まることが出来る。
そんなこの実家を、直史は全力で守るつもりである。
なんといっても直史は、長男であるのだから。
それはずっと昔から、変わらずに決めていたことだ。
そしてそのためにも、昔は公務員になることを希望したりもしていた。
公務員にはならなかったが、直史は資格の必要な自営業となり、また法人格の顧問にまでなっている。
想像していたよりもずっと、安定した大人になってしまった。
人生というのは分からないものだ。
そう考える直史であるが、彼の激動の人生は、まだ半分も終わっていない。
超一流のスポーツ選手は、基本的にオフでもトレーニングを行っている。
かつてはオフには遊びまわり、またシーズン中でも遊びまわるという選手もいたそうだが、時代が違う。
単純に現在は、もうそんな余裕をもって挑めるほど、競技のレベルが低いままではないからだ。
なので大介も、一日に二時間ほどは、じっくりと集中してトレーニングをする。
だが同時に、完全にシーズン中と同じような、ハードな状況からはメンタルを解放する。
あまり緊張しすぎであると、張り詰めすぎた弦が切れるように、どこかでぽっきりといってしまうと思うからだ。
野球は集中力のスポーツである。
そして集中するためには、普段は逆にリラックスしておかなければいけない。
ただリラックスと言っても、単純にだらだらと過ごしていてもいけない。
なので子供たちを連れて、山を巡ったりもする。
日本に戻ってきている大介は、下手に東京などにいたりすると、取材がどんどんと入ってくる。
それにある程度は応えるのも、スーパースターの宿命ではあるだろう。
だがMLB流の考え方も身についてきた大介とすれば、シーズン中とオフとでは、やはり考え方も変わってくる。
スーパースターで合っても、休暇は必要だ。人間だもの。
特に家族との関わり方は、アメリカ社会でも重要視される。
離婚大国のアメリカであるが、それに対して親子の関係というのは重視される。
親権が母親に絶対有利な日本とは、かなり違うのだ。
そして面会に関しても、かなりの権利を持つ。
もっとも大介は、どうやってもアメリカの考え方には、なじまないところがあるのだが。
他の外国には、ほとんど行ったことはない大介である。
だがそれでも日本とアメリカを比べると、自分が日本人だと実感する。
アメリカには様々な国から人間がやってくるのだが、ちょっと印象的なことを言っていた。
各国を巡ると、自分の母国を意識する。
だが日本に限っては、ここは自分の母国ではないと意識するそうだ。
日本はいまだに、その人口構成は圧倒的に、純粋な血統としての日本人が多い。
そして他国の文化が入っても、それを自分たちのものとして変えてしまう。
20世紀にはハロウィンという行事などは、まだあまり一般的でなかったとも言う。
またバレンタインの習慣が、日本流で広まったのも、戦後からである。
大介は東京でも、そこそこ田舎の方で育った。
ただそれでも街中ではあり、日本人の原風景を感じるのは、直史の家にやってきてからである。
「田舎と言っても実際は、かなり人の手は入ってるからな」
直史は現実を知っている。
いまだに佐藤家のものである山は、間伐もされており、山の林の中を歩くことが出来る。
しかし国有となったり、他に売り払った山では、うっそうと茂る森のようになっていたりする。
「林業って全然儲からないイメージがあったけど」
「それも良し悪しがあってな」
子供たちの監視のために、直史も一緒に山に入ってきたりしている。
野生児というイメージからすると、大介やあるいは武史の方が、それに相応しいであろう。
だが実際に幼少期から山に入っているのは、直史の方である。
山に何があって、何が危険であるのか。
籠を背にして山菜取りなどをして、また目的のものを収穫する。
基本的に佐藤家の山も、杉や檜といった、建築用樹木を植林することが多かった。
それは当時の林業からすると、常識的なことではあったのだ。
だがそれは全てではなく、一部には特別に植林した樹木がある。
松である。
杉や檜に比べると、成長も遅く木材としての加工も微妙。
だが80年代ぐらいから、改めて一部の山林には松を植えておいたのだ。
その結果、存在するのがこの高級食財。
中国産ではない、今となってはほぼどこにもない、日本産の松茸である。
現代の日本人からすれば信じられないかもしれないが、少なくとも戦後の十年以上の間、松茸というのは高級食財でもなんでもなかった。
普通に管理されている松の生えた林では、簡単に取れるものであったのだ。
弁当のおかずには、いつも松茸。
しめじや椎茸の方が、よほど美味いというのが常識であり、それを証明付けるように、匂い松茸味シメジ、などという言葉もある。
また現在の中国産松茸というのは、その肝心の匂いが日本産のものとは違う。
なのでこの山は、ある意味とてつもない財産なのである。
松茸は別に、美味い食材ではない。
それが分かっている佐藤家においては、ごく一部を季節の産物として食べる以外は、全て仲買人や、料亭に直接卸してしまっている。
案外この収入は馬鹿にならなかったりする。
山菜取りの知識は、直史が特に教えて憶えたものだ。
もっともこの季節には、それほど多くの山菜などはない。
ただ秋のこの時期には、普通に秋の実りがある。
栗をはじめとして、秋に実をつける木々が、佐藤家の山にはたくさん生えている。
その中にはこれまた、ある意味珍しい食材である、銀杏もあったりする。
銀杏は銀杏から取れる食材であるが、実は丸一年ほどは寝かせて、果実の部分を腐らせてから食す。
そういった知識さえも、あまり現代人にはないし、武史たちも直史からさらに聞かされているのみだ。
あとは食材ではないが、夏にはカブトムシやクワガタがたくさんいる。
それを捕まえて東京に持っていけば、いい値段になったりもするのだ。
単純にコストパフォーマンスを考えるだけなら、直史のやっている行動は、効率が悪いことのように思えるだろう。
だがそれはコストに対するリターンというのを、あまりにも単純化しすぎているからだ。
この場合は金である。
単純に利益を求めるのであれば、松茸の収穫などは他の人間に任せてもいい。
だが直史は自分の時間を使って、金ではないものを求めている。
子供たちにも教えながら集めるのだ。
こうやって先祖代々伝わってきたことを、次の代に継承していく。
これは金には換算できない財産であろう。
「そういえば、今度またコーチに行くんだけど」
直史はおおよそ月に一度ほどは、白富東を訪れている。これもまた金にはならない、純然とした自分の趣味である。
人生というものの価値は、いかに金を稼いだことにあるわけではない。
いかに価値のないものを楽しめたか、にもよるのだと思う。
本当に貧しい人間というのは、そもそも好きなことが出来ない。
また本当に自分がやりたいことを、はっきりとは分かっていない。
なのでプロスポーツの選手が、自分の存在証明であるプロを引退すると、無駄に金を浪費してしまう。
豊かであるということは、金に困らないことでもないし、金を好き放題に使うことでもない。
自分のやりたいことがしっかりと分かっていて、それが具体的なものとしていくことが出来る人生。
それこそが、豊かであるということだ。
直史は大介を、コーチに行く時に一緒に、白富東に行かないか、と誘った。
もちろん現役のプロである大介が、学生を教えることは出来ない。
だがここに、一つの抜け道はあるのだ。直史はコーチとして教えることは出来る。
そして直史と大介が対戦して、それを見ているだけならば、何も問題にはならない。
また大介が見本を見せるのはまずいが、勝手に素振りをしているのを、直史が解説するのは問題もない。
そういったことはなくとも、北村に会いにいくというのは、大介にとっても魅力的な提案であった。
「そういうことならタケも誘わないのか?」
「あいつは東京で嫁さんといちゃいちゃするので忙しいらしい」
「……あいつは、ここには戻ってこないんだろうなあ」
「それはそれでいいことだ。自分の場所さえ見つけられたなら」
武史だけではなくツインズも、本当ならば都会に出ようとは思っていたのだ。
だがツインズは都会などといった漠然とした場所ではなく、自分たちの居所を見つけた。
この時期、瑞希はまた自分でも、仕事を抱えている。
弁護士としての仕事ではなく、出版社からの要望に応えたものだ。
「ならあいつらに弁当でも作ってもらって、差し入れ持参で見物にでも行くかな」
「それもいいな」
大介は教えることは出来ないが、ツインズは当然ながらコーチも出来る。
大学時代には六大リーグで、スタメンとして出場したような二人だ。
練習試合も禁止となったこの時期、それぞれのチームがフィジカルの底上げに入っていく。
白富東も基本的には、その方針は同じなのだ。
次の週末、直史は大介とツインズを連れて、白富東を訪れた。
プロテインドリンクなどを差し入れに、グラウンドを訪れる。
だが選手たちの刺激になったのは、それらよりもまず、直史と大介が揃ってここに来たという事実であろう。
直史と大介は、まさしく白富東のレジェンドと言うよりは、日本のレジェンドである。
いくら卒業生だからといって、そう出会えるものでもない。
そしてその日、北村が持ってきた話は、単純なコーチというだけではなかった。
来年白富東を受験予定の生徒の中に、ガチのプロ志望がいたのである。
それを直史の訪れる日程に合わせて、また見学に来させた。
さすがにユニフォームなどは着せていないが、野球道具一式まで用意させた上で。
首を傾げる直史である。
「プロまで志望するなら、素直に強豪校に行けばいいのでは?」
「まあそれが、家庭の事情もあってな。それに万一怪我でもした場合や、プロは無理だと思ったら、進学とかに切り替える。お前ってそういう小賢しい計算高い人間好きだろ?」
「好きというか、将来を現実的に見据えている人間は、中学生でも尊敬に値するとは思いますが」
話に聞く限りでは、今の段階ではまだ、強豪に特待生で行くほど、フィジカルなどが優れているわけではないらしい。
だがその体の使い方などを見る限り、北村としては才能を感じるのだそうな。
「ちなみにポジションは?」
「もちろんピッチャーだ」
なるほど直史に話を持ってくるなら、それはピッチャーというのが普通であろう。
「しかし……大介まで一緒に来るのは、何があったんだ?」
「いや、単純に暇だから、一緒に見物に来たんですけどね」
現役のスーパースターの来場ともなれば、選手たちの注意がそちらに向かってしまっても、無理のない話である。
「それにほら、現役の学生が大介に投げるのは禁止ですけど、俺が大介に投げるのは問題ないでしょ?」
「なるほど、それは確かに」
あとはノックを打ったりということなら、ツインズも出来ることであるのだ。
今でもオフのトレーニングや練習には、嫁たちに付き合ってもらっている大介である。
つまり二人から教えを受けるというのは、メジャーリーガーがやっているのと同じレベルで、練習が出来るということである。
なんとも贅沢な環境が、白富東には再び、整いつつあるようであった。
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