第23話 三度目
このイニングには、大介の第三打席が回ってくる。
一番バッターに大介が置かれるというのは、つまり一人でもランナーが出れば、大介と四打席対決しなければならないということだ。
ただしこの場合は、悪いことばかりではない。
前のバッター二人をしとめておくと、ツーアウトから大介と勝負することになるのだ。
ホームランだけは打たれないようにするべし。
そうすればランナーとして出しても、次のバッターを打ち取ればいいだけ。
ただしこの試合の場合は、次がブリアンであるのだが。
プロ入り後に直史の打たれたホームラン数は、二進法を使うまでもなく、両手の指で数えるほど。
そんなホームランを打ったブリアンであるが、以降は完全に封じられている。
ただまずは、前の二人をしとめなければいけない。
下手に一人でもランナーを出せば、大介が長打で一点という可能性がある。
福沢も西岡も、数字だけを見れば立派な、日本代表クラスのバッターである。
ただし福沢はさほど足がないので、それなりに安全かな、と思い込むことは出来る。
もちろん希望的な観測は、絶対に安易に持たないのが直史であり樋口である。
塁審を時々、他の人間と代わっているが今は二塁塁審のジンである。
直史の性能を活かすという点では、いまだに自分と樋口、リードの点ではそれほど差があるとは思わない。
と言うかそもそものリードの質が、自分と樋口は似ているのだ。
最悪を想定しながらも、下手にその想像に捉われないようにする。
キャッチャーの役割は壁だ、などとMLB風には思わない。
特に直史の場合は、配球が命だと言える。
その球種とコントロールを考えれば、どんなバッターでも打ち取ることが、理論的には可能であろう。
だがバッターの読みと合ってしまった時は、もうどうしようもなくなってしまうが。
この試合やはり、直史をどうにか打ったのは、大介が最初であった。
ただあの打球は、打たせたとも思えるものであった。
ホームランにさえならなければいい。
高校時代の直史が、大介と紅白戦でやっていたことだ。
チームの主砲の自信を折らないよう、完全に抑えるのは避けていた。
(あの頃のことを思うと、ナオの方がずっと上だったのかな?)
直史もあの頃は、ずっと球速も出ていないし、変化球のキレも微妙ではあった。
対戦してきた相手を思えば、大介の方が経験は多かっただろう。
高卒でプロ入りして、一年目から上杉と対決などをしてきたのだから。
ジンの目から見ても、直史のスタイルはほぼ、大学時代に完成している。
少なくとも技術的な成長は、さほどないように思えるのだ。
だが実際には直史の数字も、プロ入り後にどんどんと伸びていった。
初対決はピッチャーが有利とは言われるが、直史はMLBでデータを取られても、その鋭いピッチングが鈍ることはなかった。
大介が勝ったこともあるが、総合的に見ると、直史の方が優勢がちであろう、とジンは思っている。
もっともそれは、バッテリーを組んでいた直史に対して、贔屓の目があるからかもしれないが。
このイニングも、まずは福沢を見送り三振に抑えた直史。
次の西岡も、日本代表の常連ではあるが、直史と対戦するには経験不足であろう。
(あいつも樋口も、データを蓄積すればするほど、ピッチングのクオリティは上がってると思うんだよな)
大学時代、ジンは正捕手としてリーグ戦に出ることは少なかったが、一年から控えとしてベンチには入っていた。
その頭脳を見込まれてのことで、それは大学を卒業後、選手を指導する上でとても役に立った。
高校から大学、そして指導者としても、多くの選手を見てきた。
だが結局、直史以上にジンの理想を描けるようなピッチャーは一人もいなかった。
どんなボールでも、どんなコースにでも投げられる。
それは技術だけではなく、メンタルが鍛えられていないと出来ないことだ。
バッテリーを組む樋口相手には、やや嫉妬もするが、そこまで育てたのは俺だぞ、と言いたい。
(ナオはわしが育てた)
実際は他にも、シーナから球種を教わり、セイバーから効率的なトレーニングを教わり、秦野などからは戦術を教わった。
しかし一番大きく成長した時期、共にいたのは間違いなく自分であったのだ。
日米の強打者たちを、ばっさばっさと片付けていく、その偉大と言ってもまだ言葉の足りない姿。
九番西岡に対しても、無事に内野ゴロにしとめてしまった。
やや普段よりは球数が多いが、それは打線の強力さが、常識外にあるからであろう。
少なくとも自分なら、七番までは全員、敬遠してもいいのではと思ってしまう。
ただ、ここからまた、上位打線に回ってしまう。
一番ショート白石大介。
本日三度目の打席である。
二打席目にどうにか出塁したが、果たしてあれをどう考えているのだろうか。
先ほどのAチームの攻撃を考えれば、どうにか出塁したのなら、今度は盗塁をしかけてきてもいい。
直史の弱点とも言えない弱点は、球速がMLBの平均よりも、やや遅いことぐらい。
ただし変化球を使うのなら、樋口でも送球のために、わずかなタイムラグが生じるであろう。
あの場面、大介は盗塁をしかけるべきであったのだ、と今ならば思う。
後ろのブリアンやターナーが、果たして打てたろうかは別として。
直史の選択肢を、少しでも減らしていかなければ、勝利はない。
ジンは責任ある塁審をしながらも、この勝負の観戦を絶好の位置で楽しんでいた。
この盛大な引退試合は、ものすごく小さなスケールで言うと、直史と大介による対決ということになる。
だが二人は義兄弟でもあり、それはとてもよく知られていることだ。
武史も今日は大介の味方となっているので、こちらのVIPルームに招待されているのは、瑞希とその娘である真琴の他には、樋口の妻である美咲と子供たち、という構成になっていたりする。
もちろん他にも、鬼塚のところなども、息子たちは奥さんと一緒に来ているが、あちらはスタンドで応援をしていたりする。
瑞希は直史の応援をしているが、スタンドから声をかけたりはしない。
彼女は事実の記録者である。
もしも家が弁護士事務所ではなく、それと体力が充分であったら、新聞記者などを目指したかもしれない。
実際にスポーツ新聞に、コラムなどの連載を持っていたこともある。
三度目の対決。
一度目は直史が勝って、二度目は大介が勝ったと言えるのだろうか。
だが最初の打席も、大介の打球はかなりいい当たりであった。
ただ二打席目の当たりも、長打にはなりそうにないものであった。
単打までならOKと考えるなら、直史の勝ちとも言える。
点につながらなければ、ヒットを何本打っても同じこと。
直史も大学時代、完全にコントロールがおかしくなった時があったが、どうにか点だけは取られないという試合に収めた。
ピッチャーとバッターの対決は、果たしてどういう結果になれば、勝敗がはっきりとつくのか。
それは直史と大介のみならず、過去からずっと議論されていたことではある。
瑞希はそこは、単純に考えている。
勝ったと思ったほうが勝ちで、負けたと思ったほうが負けなのだ。
ただワールドシリーズで、大介は見事に逆転サヨナラホームランを打ったことがあるが、あれでも勝ったとは思っていなかった節がある。
直史の方は、あれで負けたと思ったらしいが。
「お父さん、小父ちゃんに勝てるかな?」
真琴はVIP席からではあるが、実際はモニターの方を見ている。
正直なところその方が、見やすいことは間違いないのだ。
真琴は義理の叔父である大介に、かなり懐いている。
活発であちこちを走り回るのは、赤ん坊の時を思えば信じられないことだ。
ただ直史にはあの頃の真琴が印象に強いらしく、あまり運動をさせようとはしない。
そもそも彼自身が、必要な時以外はインドアな人間ではある。
大介は正月の集まりなどでも、真琴を振り回して遊んでいた。
直史がそういったことをしなかったのは、真琴をおしとやかに育てようという以外に、自分の怪我も心配したからだ。
大介と違って直史は、鉄人のような肉体は持っていないのだから。
「勝つわね」
そんな直史であっても、勝つという確信が瑞希にはある。
いや、これは果たして確信というものだろうか。
「勝つの~?」
樋口家の少女たちも、年上の二人は、うろうろしながらも試合のポイントではモニターを見ている。
「貴方たちのお父さんと一緒だと、おばちゃんの旦那さんは、ものすごく強くなれるからね」
自分で言うのもなんだが、もうおばちゃんと言われても仕方のない年齢なのだな、と瑞希は自らショックを受けていた。
単打までならOKと、冷徹に直史は判断している。
ここでギアを上げて、ボールのパワーで押すという選択は取れない。
なぜならこの打席で勝負は終わり、というものではないからだ。
あと一打席、大介には打順が回ってくる。
それに地味に球数が嵩んできていて、体力よりも精神力を削ってきている。
お祭り騒ぎで調子に乗ってしまったが、あちらはピッチャーをいくらでも使えるし、完全に不利ではないか、と投げている途中で今さら気づいた。
判断が遅い。いや、判断と言うかこれは、普通に考えておかしいのであるが。
日米最強の打線に加えて、日本代表ピッチャーが次々と交代していく。
それでもこちらはどうにか、点が取れそうな場面を作っているのだが。
ツーアウトであろうと、大介は三本ヒットを打てば、その内の一本はホームランという化物である。
これが低打率ならともかく、四割前後の打率で達成しているのだ。
そしてこの先、あちらの残っているピッチャーを思えば、一点で勝負が決まってしまう可能性は高い。
それ以前の問題として、やはり大介に打たれたら、それは本来の目的からして、やはり敗北といっていいだろう。
このままこの打席を含めて、凡退がずっと続いていく。
すると九回の裏、ツーアウトランナーなしで、ラストバッターが大介となる。
こういう状況においては、大介の得点力はさらに上がる。
もちろん敬遠という手段を取ってしまうなら、話は別なのだが。
直史は圧倒的に不利な状況で戦っている。
だがそれらも全て、自分で納得した上で、この試合を開催したはずだ。
やってみたら想像以上に、大変であったというだけである。
(まあここまでやってきたら、やりきるしかないだろうしな)
相棒の樋口も、散々に組み立てを考えながら、四番を打ってくれている。
先ほどの場面などは、先制点となってもおかしくなかったものだ。
だが、それは忘れよう。
大介との三打席目の勝負。
樋口のサインに頷いて、二人の対決が始まる。
大介としても本日の対決は、どちらも微妙なものであった。
一応ヒット扱いは一つあるのだが、勝敗の基準というのは、二人の間でも曖昧なものだ。
唯一、完全に勝ったと周囲に思われている、ワールドシリーズの逆転サヨナラ弾。
あれも大介としては、南無三といった感じで、運を天に任せてバットを振りぬいた結果であったのだ。
結局のところ、勝敗が重要なのではない。
勝負を何度となく、続けていくことが重要なのだ。
直史はほとんど例外的に、ほとんど全ての試合を勝っているが、本来なら野球という勝負は、よほど弱いチームで会っても、プロレベルなら四割ぐらいは勝てるものだ。
その中でピッチャーとバッターの対決も、ある程度はお互いに安定する。
直史以外にも、上杉なども例外であるが。
ずっといつまでも、体が衰えて、思い通りに動かなくなるまで、野球をやっていたい。
いや本音を言えば、衰えてもずっと、野球をやっていたい。
大介は野球に対して、そういった真摯な気持ちを持っている。
対して直史は、衰えてなおかつしがみつこうという意識は持たない、潔さというものを持っている。
ただしその潔さは、自分の美意識を反映したものでもあろうが。
結局のところ、負けず嫌いではあるのだ。
そしておおよそ勝ち逃げが出来るからこそ、引退を決めた。
本来の予定であった五年目で引退しなかったのは、大介との勝負に負けたからであろうと、思わなくもない。
もちろんそれはそれで、その後も圧倒的に勝っていたのだから、無責任であるとか、そういうことでもないはずだが。
そんな直史が、本当に全力で投げてくるのは、大介ぐらいだ。
ブリアンや織田のような、強打者や好打者相手でも、直史の戦闘の気配は濃密なものにならない。
対峙した大介に対して、直史はその気配を消している。
自分が投げるボールに、下手に戦意が乗ってしまって、大介がそれに反応して打たないように。
ほとんどオカルトの域であるが、直史にとっては実感でもある。
そしてセットポジションから、ゆったりと第一球を投げた。
直史はセットポジションからクイックで投げるのを、基本としている。
正確にはそのモーションでさえ、相手のタイミングをずらすのに使う。
そんな直史が大介相手に、ゆったりとした動作から投げた第一球は、スピードのあるナックルカーブであった。
(打てるか?)
その軌道を一瞬で予測したが、大介は見逃す。
そして審判のコールも、ボールではあった。
落差が大きく、スピードもそれなりにあるナックルカーブは、ストライクカウントを取られることが少ない。
これも完全に機械判定したら、ストライク扱いになってしまうボールだ。
今のは、打てなくはなかったと思う。
だが打ったとしても、スタンドにまで届くイメージがなかった。
直史は基本的に、ストライク先行で投げてくる。
ただそのセオリーを外す場合は、必ずその後の布石になってくるのだ。
遅いボールを投げた後は、速いボールを投げてくる。これは直史に限らず、普通の組み立てである。
するとナックルカーブを投げた次には、何を投げてくるのか。
(ストレートの可能性が高いかな)
落ちる球に続いて、落ちない球を投げる。
あまりにも常識的過ぎるので、ここはスローカーブを投げてくるかもしれない。
基本的には速い球を待った上で、スローカーブも頭の隅に入れておく。
だがそこに投げられたのは。
(チェンジアップ!)
いや、それも違うのか。
単純に遅い球ではなく、そして落ちる球でもない。
これはただの、スローボール。
大介のバットが一閃したが、ボールは完全にポールの向こうに飛んでいく。
一歩間違っていれば、充分にホームランに出来たボールだ。
(そんな球は投げてこないと、俺が思い込んでいたからか?)
ともかく効果的なボールで、ストライクカウントを取られたことになる。
直史のピッチングは基本的に、勝つか負けるかを賭けたような、博打を打つことはない。
たとえ打たれても単打か、よほど運が悪くてもライン際の長打になるような、そんな打球を打たせるものである。
しかし大介相手であると、どうしてもリスクを取る必要があった。
実際にスローボールというこのホームランボールで、カウントを取ることが出来た。
これは単純に組み立て以上に、大介のメンタルの動揺を誘うものである。
無表情で直史は、大介と対峙する。
新しいボールを渡されたが、内心ではかなり息をついている。
ホームランになってもおかしくないという、そんなボールを投げること。
本来の直史のピッチングに、そういった思考はないのだ。
ただ、大介自身もそう思っていたために、今のは効果的になったが。
これでもまだ、ストライクカウントを一つ稼いだだけ。
だが大介は今ので、絶好球を逃してしまった、という意識が焦りとなってはいないだろうか。
そう期待はしたものの、一度バッターボックスを外した大介は、バットのグリップを軽く額に当てた。
目を閉じて、そしてそれを開いた時には、既に感情の揺らぎが消えている。
直史としてはその、メンタルの揺らぎをすぐに沈静化させるのは、確かに想定の範囲内ではあるのだが。
(簡単に打ち取られてはくれないか)
ここからはまた配球を組み立てて、どうにかアウトにしなければいけない。
単打までならいいというのは、最悪の事態がそれだというだけだ。
大介を打ち取ってこそ、試合にも勝つ意味が生まれると言える。
忘れてはいけないが、直史もとんでもなく、負けず嫌いな人間ではあるのだ。
三球目、何を投げるか。
直史と樋口、二人の間で意見が交錯する。
考えてみれば、ピッチャーとバッターの勝負としても、直史には樋口がいてくれるのだ。
これで勝てないのであれば、直史の負けとは言える。
本当に、勝敗の判断というのは、難しいものであるが。
(さて)
セットポジションから、また緊張の瞬間がやってくる。
野球というスポーツが、優れているところ。
それは明らかに、注目する瞬間が、観客からも明らかであるからであろう。
世界で競技人口が多い、サッカーとバスケットボールなど、試合の中でボールの運ばれる展開が早い。
だからといってそこで点が入るか、サッカーは入らなさ過ぎるし、逆にバスケットボールは入りすぎる。
もちろんバスケットボールなど、一試合に何点取るかなどの、違った得点の楽しみ方は出来る。
野球においてもっとも注目すべきタイミングは、間違いなくピッチャーの投げたボールが、キャッチャーのミットに収まるまで。
そしてそれがミットに届かず、バッターに打たれるまでだろう。
イニングの表と裏で、それなりのタイムがかかるため、席を中座することも容易。
風呂に入っていたら逆転されていた、という悪夢も稀に良く起こるが。
この試合でも瞬間的に視聴率が高くなるのは、直史と大介の対決であった。
あとは放送を流しつつ、パソコンなどで実況しつつ楽しむのだろうが、この二人の対決だけは、タイピングを止めて見守ってしまう。
ほんの一瞬で、勝負が決まってしまう。
この二人の対決だけで、他の二時間以上のプレイと、対価が釣り合うと言ってもいいかもしれない。
応援をしているはずの人間が、この場面だけはグラウンドに集中し、音がほぼ消える。
この二人の対決においては、何度か見られた情景だ。
しかし今日が、その最後の機会となる。
これが三打席目で、おそらく四打席目が最後。
あるいは延長になったとしても、故障を公言している直史が、そのイニングまでもずっと投げるのか。
ずっと投げ続けてほしい、という気持ちを持つ者もいるだろう。
それこそグラウンドの中の、相手のチームの中にさえ、いるはずなのだ。
そういう特別な選手が、去っていく舞台なのだから。
これからもプロ野球を見ていく人々は、ここで直史が勝って、伝説を残したまま去っていくのも、逆に打たれて引導を渡されるのも、両方を見てみたい。
複雑な感情の中で、観客たちはこの勝負を見守っている。
大介が思い出すのは、あのトランペット。
イリヤからツインズがもらったものではなく、大介の大ファンだったという男性が残した、あのトランペット。
鳴り物が基本は禁止のMLBでも、大介の耳にはずっと、甲子園での応援が届いている。
そしてそれが完全にやんだ時、大介はゾーンに入る。
ゾーンに入ってなお、直史を確実に打てるとは言えない。
この打席も既に、ゾーンには入っている。
しかし聞こえてくるのは、夏の嵐。
メロディーに合わせて、世界がこの舞台を、大きく盛り上げていくのを感じる。
(そこにいるのか)
お前はナオの方が好きだったんだよな、と大介は心中で呟く。
大介が試合を決めるホームランを打つと、それに不機嫌になっていたイリヤ。
まあ直史の芸術的なピッチングと比べれば、自分のバッティングは不協和音なのだろうな、と大介は思っていたものだ。
実際は後に恵美理が言ったが、イリヤは不協和音も大好きであったそうだが。
もしも、死後に人が、なんらかの形で残るのだとしたら。
おそらくイリヤはこの試合を、誰よりも集中して見ているのではないか。
そして直史が勝つことを祈っている?
いや、そんな予定調和は、彼女も望んでいないだろう。
イリヤが求めているのは、彼女の想像も出来ない、未知の領域であったという。
芸術家の難しい話は分からないが、とにかくいまだ、自分の達し得ない領域に、直史のピッチングは連れて行ってくれるのだとか。
大介はイリヤのことを、それほど好ましく思っていたわけではない。
いや、友人としては充分に、面白いやつだとは思っていた。
ただあの、音楽のためなら自分も他人も、誰もいらないと思っていたイリヤ。
そういうところだけは、さすがについていけないと思ったのだ。
彼女は絶対に、この試合を見たかったはずだ。
大介が絶対に、この試合を成立させたかったように。
直史がどう考えているかは分からないが、このまま引退を許してしまえば、それは直史の勝ち逃げである。
敗北しても仕方がない、と大介はあっさりと認められはしない。
直史という存在が、野球においては自分より、格上の存在だと思うからこそ、逆にここで敗れて、限界を見せてほしい。
これまでに多くの名選手が、そうやって引退していったように。
自分もまたいずれは、そうやって引退していくことを、覚悟して大介はプレイしている。
(遠くまで来たもんだ、とアメリカでは思ってたけどさ)
大介はこの東京ドームから、東の方に思いを向けるのだ。
(お前が寝転んだあのマウンドまでは、意外なほどに近くないか?)
ここで、最後の勝負が終わる。
引退後の、それこそ老人になってからの、誰にも注目されないプレイとは違う。
大介はこここそが、自分の求めた場所だと、魂で感じていた。
直史が投げて、自分が打つ。
周りを見回してみても、これまでずっと自分たちを支えてくれた者や、あるいは敵味方として戦ってきた者。
これ以上の舞台など、どこにも用意出気はしないだろうから。
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