第85話 バッティング開花
直史が世界一のピッチャーであったことは、誰も疑いようがない。
その時期の世界一ではなく、野球の歴史を通算しても、まず誰からも文句は出てこないであろう。
そんな直史の娘の真琴であるが、ピッチャーをやりながらも先に開花した才能は、バッティングの方であった。
忘れてはいけない。真琴は直史の娘であり、つまりはあのデビル・ツインズの姪であるということなのだから。
ゴムボールでやっていた野球と比べると、硬式球で行うリトルリーグのマイナー野球は、それなりに危険である。
なので直史としては、もしぶつけられても痕が残らないような、平和なスポーツを選んでもらいたかったのだ。
ただ結果論であるが、あのゴムボールの変化球が曲がる野球をやったことは、真琴の変化球への対応力が高くなった。
リトルリーグはまだ、変化球を使うにしても、負担の少ない一種類ぐらいが多い。
なので真琴の対応力であれば、硬式球のあまり変化しない変化球は、簡単に打っていけるのだ。
ピッチングはピッチングで、ほぼサイドスローのサウスポーとなると、それなりに珍しい。
この年齢にしては球威があるということで、これまた充分に通用しそうなのである。
ただ弱点と言えるのは、守備であろうか。
走塁に関しては、リトルリーグルールであると、まだあまり重視されない。
しかし左利きで統一している真琴は、内野守備だけ右利きに戻すと器用なことは出来ず、基本的にファーストか外野を守ることになる。
足が速い真琴であるが、外野守備はインパクトの瞬間、そのボールの飛距離を判断する経験が必要になってくる。
意外とファーストの守備は、それなりに上手くこなせた。
ゴムボールの野球をやっていたことで、打球に対する恐怖心がない。
なので強い球を受けることも出来たし、また関節が柔らかく手足が長いので、送球されたボールを受けるのは、かなりの適性があったのだ。
そして試してみれば、他の内野もそれなりに出来る。
結局このぐらいの年齢であればまだ、上手下手のレベル差がそれほど大きくはないため、身体能力が高く運動神経もよければ、わずかなロスがあろうとサードやショートも出来るわけだ。
スナップの利いた投げ方で、ファーストまでしっかり投げられるというのも大きかった。
急速にチーム内での存在感を増していく真琴。
だがバッティングに関しては、彼女にはとんでもないアドバンテージがあった。
それはバッティングセンターを、大量に利用できるという親の資本力ではない。
「よし、じゃあ次はサウスポー対策するからな」
実の父親が、技巧派の世界レベルのピッチャーであるということだ。
右肘の故障で、引退を決断したということになっている直史。
実際のところその故障は、バッティングピッチャー程度ならば、どうにかなる程度のものではある。
そして左手で投げれば、カーブとスライダーも混ぜて、120km/hぐらいのスピードは出るのだ。
さすがにプロでは通用しないだろうが、SBC千葉にやってきて、娘相手にバッティングピッチャーをやっている。
軽く右で投げても、今でも140km/hぐらいは出る。
NPBのスカウトが見たら、今からでも復帰しないか、と言ってくるであろう。
マシーンのボールと違うのは、球が生きているということ。
バッティングセンターのボールでも、変化球を再現しているところはあったりする。
またチームにもそういったマシーンはあるが、それもかなり限られた時間しか使えない。
それに対して直史であれば、ストレートを主体にしながらも、カーブで上手く緩急差をつけられる。
注意しなければいけないのは、本気でやってしまうと真琴の心を折ってしまうことだ。
バッティングにおいて素人が最初に壁と感じるのは変化球。
そして次が緩急である。
さらに上には色々な投球術があるが、直史に投げられない球はない。
サウスポーでないことだけは残念かもしれないが、それもカーブとスライダーなら投げられる。
これで真琴が上達しないわけがないだろう。
ピッチングやバッティング、またフィールディングにおいても、お手本のようなプレイというのはある。
これがMLBにまで行ってしまうと、非常識な体勢から、打ったり投げたりしたりもする。
だがやはり最初は、最もパワーの伝わりやすい、正しいフォームを手に入れなければいけない。
骨格に個人差があるので、これは下手に手を出してはいけない分野である。
だが直史ならば可能だ。
結局のところ、英才教育である。
プロアマ協定があるものの、リトルリーグは学生野球憲章の範囲外。
それに直史も、指導資格を回復させている。
なので何も問題はないのだ。
そもそもあの決まりは、高校野球や大学野球からの、プロの囲い込みを防ぐという、今ではあまり関係なくなった環境が、元にはあるのだから。
元々この男女差のない年齢では、真琴は体格も優れている。
プラスチックバットから金属バットに持ち替えて、だんだんと馴染んできた。
出来れば木製バットを使った方が、将来的にはいいのだが、女子野球に将来はないであろう。
チーム屈指の打撃力を誇るようになるまで、半年もかからない真琴である。
真琴のバッティングが開花しつつある頃、練習試合が組まれた。
リトルリーグの練習試合というのは、監督としてもなかなか気を遣うものである。
勝利至上主義というのは、この段階では存在しない。
どれだけ野球を好きになってもらうか、あるいは嫌いにならないでいてもらうか。
それが重要なのだと、さすがに最近は指導者も気にしている。
昔なら選手が我慢していたものだが、今は親が我慢できず、他のチームに移籍してしまうのだ。
ある程度の競争は必要であるが、機会も出来るだけ与えなければいけない。
アメリカなどの野球においても、この年代であったりすると、普通にベンチのメンバーを全員使いきる。
そもそも試合には、全員を出すのが当然なのだ。
なぜならアマチュアであるのだから。
野球をしたいのに、試合に出してもらえない。
これが高校野球にまでなると、一気に話が変わってくる。
甲子園の悪しき側面と言えるだろう。
いや、甲子園と言うよりは、勝利至上主義と言おうか。
これは実は日米においては、プロ野球でも同じようなことが言える。
日本の野球はまず、勝つことが重要である。
もちろんアメリカのMLBでも、ワールドチャンピオンを目指していくのは変わらない。
ただMLBはその構造上、勝たなくても球団には利益が配分される。
そのため重要なことは、やはり選手を上手く育成すること。
そしてピッチングとバッティングを、いかに魅せるか、ということだ。
このあたり直史のピッチングなどは、本当の当初はやや物足りないとさえ思われたのだ。
もっともレギュラーシーズン最初の登板で、いきなりパーフェクトで、しかも72球での球数の少なさを見せられた。
それはパワーとパワーの激突というMLBの価値観の中に持ち込まれた、奇術と言うよりは魔法のようなものであったろう。
既存の価値観を上回った大介は超人である。
そして既存の価値観を破壊した直史は、得体の知れない何かであった。
練習試合、真琴は先発のピッチャーに選ばれた。
それを懐かしい思いで見守る瑞希である。
皮肉なことにお稽古事の一環であるようなリトルリーグは、弱小の高校野球部よりも、環境が整っていたりする。
「まあ長くても3イニングまで、ちょっと投げてみようか」
そう言われた真琴は、緊張することもなく前日にぐっすり眠り、万全の状態で試合を迎えた。
チーム内の紅白戦は、これまでも何度か行っている。
だが見知らぬ相手と対戦するというのは、まさに実戦という感じがする。
観戦する瑞希は、保護者の集団の中にいる。
直史ほどの露出はないが、瑞希もまた業界の中では、それなりに顔が知られている。
なので対策として、メガネなどをしたりする。
佐藤という日本で一番多い名字に、瑞希は名前はあえて言わず、佐藤とばかり名乗っている。
こういう場合だいたい、誰々くんのママ、という呼び方をされたりするものだ。
実はこのチームは、小学校時代に豊田が在籍していたチームであったりする。
鷺北シニアのエースであり、大阪光陰に進学した後、レックスでリリーフとして活躍した豊田である。
リトルリーグの中では、やはりプロを輩出したというのは、大きな看板となる。
もちろん直史たちが選んだのは、そんなものが理由ではないのだが。
娘の初試合を、見逃す直史ではない。
だが普通に観客として行ってしまうと、えらいことになってしまう。
このえらいこと、というのは大騒動という意味である。偉いことではない。
丁度高台と言うか、ジョギングコースから見えるのが、今日の試合のグラウンドだ。
そこで星と男二人、試合を観戦するのである。
直史ほどではないと言っても、星もまた元プロ野球選手。
地元の千葉から一度、甲子園にも行っているのだ。
それが下手に顔を出すと、周囲が色々と話しかけてくる。
普段はそれでもいいのだが、今日は直史に付き合って、遠いところから試合を観戦である。
本日のスタメンでは、真琴は二番でピッチャー。
打撃も回してあげよう、という監督の配慮である。
そして一回の表、こちらの攻撃から始まる試合は、先頭打者は聖子である。
親への忖度とかそういったものは一切ない。
純粋に聖子が、バッティングが上手くて足も速いからだ。
「うちの子、かなり打つよ」
ニコニコと星が自慢してくる。親馬鹿か。……親馬鹿で問題ないな。
言葉通りにライト前に運び、そして真琴の打席である。
これはひょっとして、送りバントもあるのではないか。
直史はそう思っていたが、星が解説する。
「大丈夫、一回の攻撃から送りバントは滅多にないよ」
じつはノーアウト二塁であったりすると、それもあるのだが。
ワンナウトで二塁にするというのは、期待値的にも得点の確率が上がるわけではない。
それに初めての試合での打席であるのだから、打たせてやるのが指導者である。
バッターボックスに入る前のスイングは、直史から見てもなかなかのものだ。
そして初球は見逃してからの二球目、リトルリーグでは基本的に、コントロールはストライクが入れば充分。
それを真琴は痛打した。
打球はライトの頭を越えて長打となる。
ノーアウト二三塁の先制チャンスを作る、真琴のバッティングであった。
真琴は体質的には、直史にかなり似ていた。
正確に言うと、環境から体質が似ていったというべきだろうか。
全身の柔軟性の高い、すらりと伸びた肉体から投げられるストレート。
小学生だからと甘く見ていると、このサイドスローが打てないのである。
だいたい野球のピッチャー指導などというのは、普通は最初はオーバースローで投げさせる。
そのオーバースローでも、コントロールやスピードを総合的に判断して、ある程度の腕の角度は変えていく。
ここで下手に理想を追求しすぎると、壊れやすいフォームになってしまったりする。
どんなフォームでも壊れない変態がいたりするが。
初回に先制したその裏、真琴はマウンドに立つ。
紅白戦などとは違う、本番のマウンド。
実際にピッチャーというのは、ブルペンで投げていてもあまり真価が分からない。
性格的な有利不利は、必ず存在する。
その点で真琴は、まず合格であった。
抑制された高揚感が、全身を包んでいく。
コントロールの出来る範囲内で、肉体が喜んでいる。
ブルペンで肩を作っていたのとは、また違う感覚。
その感情は、セカンドを守っている聖子からも分かった。
(ピッチャー向きなんやな)
ならばそのバックもしっかりと守ろう。
この年代であれば、女子相手だからといって、そんなに油断することはない。
もちろん蓄積された文化的な背景で、そもそも女子が野球をするということは少ない。
ただそんな少ない中に、わざわざ飛び込んでくるのが、普通であるわけもない。
そしてサウスポーのサイドスロー。
甘く見るわけもなかった。
先頭打者は初球を見て、二球目にファールを打ったものの、三球目で三振。
やはり左バッターに、左のサイドスローは相性がいい。
続く二人のバッターも凡退し、幸先のいいスタートを切る。
見ている直史もにっこりである。
「やっぱり娘は可愛いよね」
傍の星からも言われてしまった。親馬鹿である。
サウスポーは5km/h増し、などとも言われる。
実際にはスピードは上がらないが、右と左ではボールの入ってくる角度が違うため、一瞬で判断するその時間が、さらに短縮されるから、こんなことが言われるのだろう。
それがさらに角度の違う、サイドスローともなればどうなるか。
アンダースローやサイドスローのボールは、スピードに比較してホップするように見えると言われる。
それはリリースポイントが、オーバースローよりも低い位置になるからだ。
左右の角度だけではなく、上下の角度。
そのあたりも計算すれば、サイドスローは有効である。
ボールの軌道に慣れさせないためには、星のようにオーバースローも混ぜていくというピッチングも有効であるが。
ともあれ真琴のサイドスローは、今の段階では有効なことが分かった。
二回の裏も三者凡退に抑えて、そして三回の表。ワンナウトから打順は一番に戻り、聖子がバッターボックスに入る。
「聖子ちゃん、頑張れ~」
隣で星が小声で応援しているが、まあ普通に声は届かないだろう。
ミート力のある聖子だが、この打席は打ったボールがショート正面。
残念ながらツーアウトで、真琴の二打席目である。
一打席目、上手く打てたと思う。
上手くというか、とても簡単に打てた。
マシーンのボールとは違うが、父の投げてくれるボールとも、全く違う球質。
はっきり言えば、打ちやすいボールであったのだ。
真琴はそろそろ理解してきている。
もちろん親の世代は、世界的なスーパースターが揃って、ゴムボールで遊んでいてくれたのだ。
ただ従兄弟である司朗や昇馬も、ゴムボールで充分に速いボールを投げていた。
あとは使っているボールが、硬いものの代わっただけだ。
バッティンググローブを使って、グリップを強める。
そして下手に力が入り過ぎないように、バットは支える程度に。
小学生のピッチャーが、変化球でカウントを稼ぐことは、滅多にない。
ストレートだけに注意して、それをジャストミートしていく。
また、芯を食った感触があった。
外のコースであったが、ボールはまたも外野の頭を越えていく。
レフトオーバーの二塁打で、これで二打席連続の長打。
つまるところ今日は、二打数二安打の10割バッターな真琴であった。
予定通り真琴は、三回を投げたところで降板する。
一本ぐらいはヒットが出るかとも思ったが、打者九人に対して、三振五つの素晴らしい出来であった。
そんな真琴の活躍もあって、チームも見事に勝利。
真琴は早くも、勝利の喜びを覚えたらしい。
「さて、そんじゃ帰るか」
直史としては試合だけを見れば、それで満足である。
個人的にはピッチングよりも、バッティングでしっかり活躍してくれたので安心した。
ピッチングに関しては自分の技術から、必要な部分だけを伝授すればいい。
しかしバッティングに関しては、理論が先行していたからだ。
星もまた満足げに、助手席の乗っていく。
あまりビールは飲まない直史であるが、野球の試合を見た後は、なんだか無性に飲みたくもなるのだ。
真琴がチームの中でしっかりと働いて、楽しそうにプレイしている。
それだけで直史は満足だ。
「将来はどうするんだろうね」
星としては、自分の娘の聖子もそうだが、真琴も他のスポーツをやれば、女子の世界ならかなり活躍出来そうな気がするのだ。
「それは子供たちが、自分で決めることだからな」
親がしてやるのは、失敗したときの全力のフォローである。
その部分だけは、ブレない直史であった。
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