第68話 助演
この世界の主人公は自分ではない。
人間がそれに気づくのは、いつ頃なのであろうか。
ただし自分は、自分の人生の主人公ではある。
それを覚悟した上で、人生は生きていくしかない。
才能も環境も、与えられたものの中で勝負するしかない。
だが努力や工夫といったものは、自分の力でどうにかするものだ。
そういった考えさえ、ある程度は傲慢なものであったりするのだが。
才能も環境も、ある程度自分には備わっていたのだな、と鬼塚は思う。
今でこそ言えることであって、中学生の自分には、とても言えないことではあるが。
(なんだかんだ言って、三橋シニアには通わせてくれたし)
問題を起こした鬼塚が、他のシニアに移籍した。
今から思えばなんであそこまでムキになっていたのかとも思うが、そろそろ一番上の子が思春期の鬼塚にとっては、逆に共感性羞恥をかきたてられたりもする。
(高校に入ってからは、全部がいい方向に進んでいったよな)
自分よりはるかに巨大な才能を間近に見て、それでも環境は自分の方が恵まれていたのだ。
武史はそもそも野球をしていなかったし、アレクは野球人気の低いブラジルで、どうにか選ばれて日本に来たのだ。
プロになって自分の稼ぎで食べていくようになって、結婚をして子供も三人も生まれた。
同じ時期にプロになった選手で、まだ生き残っているのがどれだけいるか。
先輩選手はもちろん、後輩選手もどんどんと、この世界からは脱落していった。
才能だけを見るならば、自分に比類すべきか、あるいは上回るものさえあったであろうに。
(自分はむしろ恵まれていた)
挫折は早めに経験し、そしてそこから立ち上がる術を教えてもらった。
あの悪魔のような双子には、出来るだけもう関わりたくない。
もちろん色々と、感謝するところもあるのだが。
日本シリーズ第五戦が終了し、この日は本来なら移動日となる。
もっとも場所が千葉と東京の対戦であるため、実際にはそんな間隔は必要なかった。
タイタンズはホームゲームを戦うわけで、小川が第六戦に投げてくることは間違いない。
中四日で使ってくるのかな、とも思っていた。
それでも小川は割りと、完投の多いピッチャーである。
対して千葉は、エース黒崎が既に二度の先発。
最終戦までもつれ込めば、リリーフでは出てくるかもしれない。
鬼塚は疲労が残らない程度に、フリーバッティングなどをしていた。
残り二日、どちらかに勝てば、優勝となるのだ。
(日本一か……)
高校時代は四季連続甲子園優勝という、直史や大介でも達成できていない、輝かしい実績を持っている鬼塚である。
だがプロ入り後は一度も、日本一どころか日本シリーズにさえ残ることはなかった。
セ・リーグ優勢の時代というか、上杉、大介、武史、直史と、レジェンドとも言える選手が、セ・リーグに固まった結果とも言える。
上杉がようやく少しは衰え、他の三人はMLBか引退となり、ようやく日本一のチャンスが巡ってきた。
ここを逃せば来年、同じようにチャンスがあるかは分からない。
黒崎が沢村賞候補となるほどの成績を残した今年、勝たなければチャンスは逃れると思っている。
鬼塚ももう、若くはない。
プロの日本一というものの味を、一度ぐらいは味わっておきたい。
(せめて親父として、息子にちょっとぐらい、いいところは見せないとな)
そして同じように、自分を育ててくれた両親に対しても、今なら大人の対応が出来るだろう。
練習を終えて、マンションへと車で戻る。
姉さん女房である妻は、子供たち三人を相手にして、今日も取っ組み合うような日常を過ごしていたらしい。
明日の試合には、東京ドームに観戦に来るという。
元はと言えば彼女も、千葉の球団職員であった。
鬼塚がこの年まで、パフォーマンスを落とさずにプレイできているのも、彼女のおかげということが大きい。
簡単なトレーナーとしての知識もあるし、食事の栄養バランスも考えてくれている。
五歳も年上であるが、相性が良かったことは間違いない。
何より子供たちが、父親のことを尊敬している。
これだけでも嫁さんとして大当たりなのだと、最近は分かってきていた。
子供たちが眠りについた後、鬼塚はもう少し眠るまでに間がある。
シーズン中のプロ野球選手というのは、だいたいが深夜に眠ることが多くなるのだ。
ただデイゲームもあるため、そのあたりのコンディション調整も難しい。
ピッチャーなどは特にそうだろうなと思うのだが、高校時代のあの先輩のことを思い出すたび、どうしてあそこまでパフォーマンスが変わらないのか不思議に思ったものだ。
嫁さんは鬼塚に完全に合わせるというわけでもなく、上手くマイペースを保ってもいる。
この時期は禁酒する鬼塚と違って、缶ビールをここで開ける。
上手く行けば明日にも、ビールかけをすることになるだろう。
もっとも現在のプロ野球においては、日本一になった時のビールかけは、ノンアルコールビールを使って行われるが。
「眠れる?」
「まあ、なんとか」
「英一君は最後のところでは、ちゃんと決められるからね」
「懐かしい呼び方だな」
ぽつぽつと語り合う二人。
鬼塚の緊張をほぐすための、穏やかな時間が過ぎていった。
日本シリーズ第六戦、場所は東京ドームに戻る。
タイタンズも随分と長く、日本一にはなれていない。
ただクライマックスシリーズに出場する、Aクラスにはかなりの確率で入るように、この五年ほどで戦力は整えてきた。
千葉もこの数年は確かに、Aクラス入りが増えてきた。
そこに今年は黒崎がエースとして覚醒し、ついにここまでたどり着いたのだ。
ここまで二試合に先発し、どちらもエースに相応しいピッチング内容であった。
だが打線の援護が足らず、第一戦は勝ち投手になることが出来なかった。
そして中四日で投げた第五戦では勝ち投手になり、あるいは第七戦にも投げるかという状況。
さすがに投げるにしても、短いイニングになるだろう。
つまり第六戦では、先発で投げることはない。
タイタンズはこの試合、第一戦で投げた小川を先発として当ててきた。
中六日であり、絶対に負けられない試合としては、当たり前の起用である。
このあたりやはり、タイタンズの方がピッチャーの事情は楽である。
千葉は初回からタイタンズに先制点を奪われる。
そして小川の投げる七回まで、一点しか取れなかった。
タイタンズはこの七回に、一挙六点を入れて、試合を決める。
球数が100球に達したこともあって、小川はここで降板。
翌日の最終戦にも、あるいはリリーフ投入を考えた上で、継投に入る。
最終的なスコアは10-1でタイタンズの勝利。
三勝三敗と星の数では五分でありながら、勢いはタイタンズに傾いていた。
フォアボール一つを選んだものの、ランナーがいるところで三打席凡退。
鬼塚が打っても、単純な計算では勝てなかった試合である。
だがそれは結果から逆算してのもので、実際には点が途中で入っていれば、試合の流れも変わったかもしれない。
そう考えると今日の戦犯の一人は鬼塚だ。
もちろん大量点を取られたことも、敗北の原因の一つではあるが。
単に接戦を負けたのではなく、圧倒的に負けた。
勝ち星は等しいはずであるが、次の試合もまたタイタンズのホームゲーム。
この勢いからすると、おそらくまたタイタンズが勝つだろう。
残っている先発のピッチャーを比べると、タイタンズが圧倒的に有利と言える。
ハイスコアゲームにどうにか持ち込むか、あるいは守備の偶然に頼るか。
野球が偶然性の高いスポーツというのは確かで、ほとんどの場合点が入らないロースコアのゲームは、偶然が作用する。
高校野球と違って、プロは守備の能力は、最低限は誰もが備えている。
そんな中では三振を奪えるピッチャーは、高い価値があるのだ。
直史のように、本当に狙ってゴロを打たせることが出来るピッチャーは、空想の産物だと思われていた。
いまだに直史の成績は、ものすごく運がいいだけ、と回答するAIすら存在する。
ただ本格的に質問すると、AIがバグるのだ。
存在自体がバグの直史である。
翌日、試合前練習。
引きずってはいけないと思いつつも、圧倒された翌日のことである。
タイタンズは島が先発で、かなり厳しい序盤が予想される。
重たい空気のロッカールームに、誰よりも先に来ていた鬼塚。
「おう」
そう挨拶した鬼塚の姿を見て、チームメイトは固まる。
鬼塚と言うと、高校時代から散々物議をかもしてきた、その金髪。
技術や能力とは全く違うところで、それについては論議がなされていた。
実際のところ本人は、毛根を痛めるし、そろそろ年齢的にも痛いので、やめたいと言っていたことを数人の後輩などは知っている。
その鬼塚の、髪がなかった。
髪を黒く染めなおしているとかではなく、青くピカピカに剃っていたのだ。
この人は本当に、なんというか昭和の野球に反発しながらも、どこか昭和の野球の名残を感じさせる。
多くのチームメイトが、そう思った。
ただ別に鬼塚としては、パフォーマンスでこういうことをしているわけではない。
今のチームのコンディションで戦えば、第七戦は負けると思っていたのだ。
空気を完全に変えるために、何をすればいいか。
もちろんそんなもの、色々と手段はあるだろう。
しかし鬼塚が選んだのは、ショック療法である。
敵も味方も、そして観戦者たちも、全てがその視線を己の頭に注いでしまう。
そのための過激な自己主張が、この丸刈りであった。いや、もっと純粋に、丸坊主と言うべきか。
今でも大学の野球部では、こんな時代錯誤なことをしているところが、しっかりと残っていたりするが。
注目をしっかり集めた上で、鬼塚は告げる。
「流れは無理やり変える」
鬼塚のピカピカスキンヘッドは、これまた逆の方向に怖いものではある。
「とにかく今のままで試合をしても、負けることは間違いないんだ」
なりふり構わない鬼塚のこの姿勢は、首脳陣さえ驚かせるものであった。
基本的の鬼塚は、気合とか根性とかは言っても、実際は計算された技術を重要視する人間だ。
根本的なところでは、頭がいいのである。
それがこれほど、分かりやすいアピールをしてくる。
笑ってはいけないのかもしれないが、とにかくチーム内の空気は変わった。
「この試合だけに勝てばいいんだからな!」
チームのスタメンの中でも、もう年齢は高い方になっている鬼塚。
優勝したいという気持ちは、それだけ大きいのだとは分かる。
確かに間違いなく空気を変えて、千葉は最終戦に挑むのであった。
鬼塚はプロ入り直後から、注目の選手ではあった。
なにせ昨今、頭髪は選手の自由に任せる、などというチームが甲子園に出てきてはいるし、それが一般的だろう、という風潮はあったのだ。
だが完全に髪を染めている高校球児が、甲子園に出ているというのは衝撃であった。
それで内容がしょぼければ批判の対象にもなったのだろうが、チームの中でも主力の一人であった。
プロでは外野を守ることが多いが、高校時代はユーティリティ性にも優れていた。
そしてプロでもずっと金髪を続けていた鬼塚が、今そのトレードマークを完全に排除したのである。
日本一を決める試合において、この奇襲のような行為。
明らかに空気は、試合の勝敗だけではなく、この鬼塚の失われた頭髪について注目するものとなっていた。
(これでいい)
とにかく何か、空気を変えなければいけない。
そう考えた鬼塚の作戦は、少なくとも味方には上手く作用した。
そして相手チームはまだしも、観客にもこれは伝わっているだろう。
東京ドームでの圧倒的なアウェイ感がなくなれば、それで成功なのだ。
日本シリーズ最終戦、奇妙なざわめきが観客席を満たす。
鬼塚の期待通りに、タイタンズは選手も応援団も、こちらにある程度注意を向けている。
完全には集中できていないのだ。
もちろん選手たちは、試合開始までには、フラットな状態には戻ってくるだろう。
だが確実に、勢いを殺すことは出来た。
(さあ、ここからが本番だ)
日本プロ野球、今年最後の試合が始まる。
鬼塚はベンチ入りメンバーの中でも、かなりの年配になっている。
そのトレードマークを切り捨ててでも、優勝への渇望があるのか。
確かに今年、ここまでやれたからといって、来年も同じように勝てるとは限らない。
そもそもペナントレース自体は、福岡に負けているのだから。
タイタンズは島が先発し、初回から先制はしていった。
だが千葉は千葉で、初回からブルペンを動かしている。
第一打席、鬼塚はヒットでランナーに出て、味方の得点に貢献。
タイタンズは島が先発としての役割を果たすが、千葉は継投でどうにかしのいでいく。
日本シリーズには日本シリーズの戦い方がある。
それがこの場合は、継投であるのだ。
島は六回を二失点と、充分にクオリティスタートの範囲で投げきった。
だがピッチャーをコロコロと変える千葉の方も、タイタンズにビッグイニングを作らせない。
タイタンズ一点リードのまま、セットアッパーへの継投となる。
このまま島に投げさせてもいいのでは、という場面であった。
ただ球数が、この試合は多くなっているのも確か。
リリーフで残りのイニングをしのぐというのも、間違いではないだろう。
ただセットアッパーに、今年ブレイクした若手を持ってくるというのは、タイタンズの失敗であったかもしれない。
岩崎の安定感がいいので、左打者の続くここと、交換したのが安易であったのか。
ツーアウト一二塁から、迎えたバッターは本日無安打の哲平。
左対左の対決だが、スタメンのセカンドを代えるのは危険度の方が高い。
そしてここで、哲平の打った打球は、三塁線のライン上を転がっていった。
かなり運があった、とは言える。
他の試合に関しても、守って勝った試合などは、打球の方向はある程度運任せなのだ。
一打逆転、ベンチの前でハイタッチ。
セカンドベース上の哲平が、ガッツポーズをした。
一点リードの千葉は、八回から黒崎を投入した。
中二日で、回またぎクローザーとしての起用。
まさに全力の、この試合に全てを賭けるというピッチャー運用である。
高卒プロ三年目のピッチャーが、この大舞台で最後を任される。
ああ、こいつが今日は、主人公なのだな、と思った鬼塚である。
八回を封じて、残り1イニング。
日本一を知らない選手が多い千葉であるが、緊張感は高校野球とは、また違ったものがあるな、と思った。
九回の表、千葉に追加点はなし。
これで勝てば今日のヒーローは、逆転のヒットを打った哲平と、最後にクローザーとして出てきた黒崎になるだろう。
移籍してきた選手に、まだ三年目の若手。
世の中の流れというのはあるのだな、と感じる鬼塚である。
残り三人。
一人が内野フライで、あと二人。
そしてここで三振を取ったが、黒崎が疲れているのも見ていて分かる。
外野からも内野からも、声をかける千葉のナイン。
思えば今、フィールドに出ている中で一番若い千葉の選手が、優勝のマウンドに立っているのだ。
残り一人。
黒崎のストレートは、フライのボールとなった。
センターに浮かんだフライは、ほぼ定位置の平凡なもの。
それでも鬼塚は、カバーのためにセンターの後ろへとポジショニングする。
おかしな逆転劇など起こらず、センターフライでゲームセット。
四半世紀ぶりの、千葉の日本一。
マウンド上の黒崎が吼えていた。
マウンドに駆け寄るナインに、ベンチから飛び出す選手やコーチ。
敵地ではあるが、とてもいい試合にはなった。
プロ入り15年目にして、初めての日本一。
だがプロに入っても、優勝どころか一軍にさえ上がれず、この世界を去っていく者のなんと多いことか。
騒ぎまわる中、鬼塚の帽子が落ちる。
テカテカと光る頭が、笑いを誘った。
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