第92話 バッティングピッチャー

 世界で一番器用なピッチャーが、バッティングピッチャーをやってくれる。

 この時点で白富東は、相当に恵まれている。

「体力落ちたなあ」

「いや、今日も暑いからな」

 連続して50球ほども投げ、一つの投げミスもない。

 そんな直史はベンチに引っ込み、水分補給を行っていた。


 機械よりも精密。

 現役時代に何度も言われていたことで、北村は高校と大学で、同じチームとしてそれを体験している。

 もっとも大学時代の直史は、あまり野球部の練習には出ていなかったが。

 特別扱いを、問答無用の実力で認めさせる。

 部長よりもさらに上の、学長からの指示があったからこそ出来たことではある。

 だが一年生の時点で、上級生全員を完封する。

 そんな実力は本当にあったのだ。


「変化球対策が出来るのは本当に助かる」

「サウスポーは難しいですけどね」

 確かに直史の持っていない球種には、利き腕側にそれなりの速さで大きく曲がる、というものはない。

 速いだけならツーシーム、遅くていいならシンカーがあるのだが。

 とは言っても、130km/hが出るようなスライダーを投げる、サウスポーは今の千葉県には見当たらない。


 マシーンを設定して、そんなボールを投げさせればいいのだ。

 直史がやることは、他のチームのピッチャーを見て、それを再現するということ。

 そんなことは普通に、プロのピッチャーでも出来ない。

 ピッチャーはそれぞれが、自分に最適化した投げ方をしているはずだからだ。

(方向性は違うけど、現役時代よりとんでもなくなってないか?)

 北村の戦慄は正しい。直史は、いまだに限界を迎えていない。

 故障して、もう全力では投げられないというのに、まだまだそのピッチングに先があるのだ。


 怪物とか超人とかは呼ばれない。 

 だがマウンドの上の悪魔だの、アウトを取るための機械だのとは言われる。

 この世界に顕現した魔王は、体力が回復するとまた、マウンドに立つ。

「こういっちゃなんだけど、あいつは治療に一年をかけてでも、まだプロの世界にいるべきだったんじゃないか?」

 本日は同行している瑞希であったが、彼女はその問いに沈黙を守った。




 チームの戦力をそれぞれ数値化していけば、勇名館はほとんどの部門で白富東の上を行く。

 だが全体の力が八割ほどもあれば、充分にひっくり返せるのが野球である。

 今のところはその八割もない。

 しかし白富東が、完全に勇名館に全ての面で負けているわけでもない。

「問題はピッチャーだ」

 再度の休憩の折、直史は汗を拭いつつ、瑞希と話す。


 直史が相手のピッチャーを再現しているため、バッティングの方はそれなりに期待できる。

 だがこちらのピッチャーが、勇名館の打線を封じられるか、それが課題だ。

「先は長いのに、もうベスト8の話?」

「選手たちは目前の試合に集中するべきだけど、外野は最大の難関突破を考えるべきだろ」

「やっぱり勇名館が強い?」

「頭一つとは言わないけど、頭半分は抜けてるかな」

 その程度であれば、どうにか出来なくはないと思うのだ。


 先攻を取れるかどうか、という問題もある。

 また勇名館がどの程度、こちらの力を評価しているか、というのも重要だ。

 エースを先発させてくるのか、それとも温存するのか。

 トーナメントも終盤に入ってきて、ピッチャーには相当の疲労がたまっているのが当然だろう。


 一応は主力のピッチャーを、三枚用意はしている。

 だが確実にエースは一枚で、それをどう使うかだ。

 トーナメントの山を、他のチームがどう勝ちあがってくるかも関係する。

 準決勝で当たりそうなのが実力通りであれば、今の白富東相手には、やや力を抜いてくるかもしれない。




 全ての試合でエースが完投。

 それが正々堂々と戦うことだと、教えられていた無茶な時代も長かった。

 おそらくそれで壊れたピッチャーは、プロで活躍したピッチャーの100倍はいる。

 また勝利至上主義であれば、逆にそこでエースを休ませる勇気を監督は持たないといけない。

 エースが投げてそれで負ければエースの責任。

 そんな監督であれば、いる意味はないのだ。


 勇名館の東郷は、まだ30代の後半というそこそこ若い監督だ。

 大学も名門で野球をしていて、そこから数年間社会人を経験している。

 しょせんは学生の野球と違い、社会人というのは金をもらって野球をやっているのだ。

 厳しい大学野球というのが、いかに自己満足的なものか、理解していてもおかしくない。

 名門の私立で、実績を残した人間の後に、監督をやるということ。

 それを承知の上でやって、去年の夏は甲子園に行ったのだ。


 秋の関東大会も、選ばれる可能性はあった。

 そして春も、本命と言われるぐらいの成績を残している。

 甲子園に行くのではなく、行ってどこまで勝ち上がるのか。

 そこまでを目標にしていても、おかしくはない。


 だが上を目指しているなら目指しているほど、足元が見えていないということはある。

 出来れば力を温存した上で、甲子園にたどり着きたい。

 そこの意識の差が、試合のモチベーションを左右するかもしれない。

(こっちは勇名館相手に、全力を尽くすしかないからな)

 そう言いつつも、そこにいたるまでのピッチャーを、再現していく直史であった。




 大会前の一週間は、疲労を抜いていく期間となる。

 ただ練習量を減らすのではなく、上手く調整していかなければいけない。

 ここで北村は、座学の復習などをする。

 白富東の野球は、頭でする野球なのだ。


 ここには直史の出番はない。

 なぜならば彼の野球は、MLB基準になってしまっているからだ。

 高校野球とは、プレイの優先度合いが違う。

 なので下手に口を出すこともなく、顔も出さない。


 開会式なども、わざわざ見に行くことはない。

 どうせしばらくは一回戦の消化に、日程は使われるのだ。

 白富東が出てくるのは、二回戦から。

 その初戦で、北村は普通に細川を先発で出すつもりらしい。


 自分だったらどうするかな、などと直史は考える。

 ただあくまでも思考実験であり、直史は自分の欠点を知っている。

 合理性の人間であるため、基本的には単純に勝てる采配しかしないからだ。

 思えば最後に我を通したのは、あの用意された引退試合よりも、ずっと前であったような気がする。

 そう、公式戦ではないが、準公式戦であったあの試合。


 大介と勝負し、そして勝利した試合。

 勝負を成立させるために、わざわざ前のバッターを無駄にランナーに出した。

 日本代表と大学選抜の壮行試合は、完全に直史の私情が入っていた。

 あの時はもう、万全の状態で大介と対戦する、最後の機会であると思ったのだ。

 後にプロでも対戦すると分かっていれば、あんなことはしなかった。




 高校野球は興行ではない。

 感動を与えるのが高校野球の価値だ、などという頭の緩いことは直史は考えない。

 大学野球などは神宮での試合にもさほど執着はなく、プロにおいても無双した直史は、高校野球だけは自分が、自分のためにやった野球だと思っている。

 まあおかわりとなった、MLBでの二年の延長は、さすがに同じ性質のものだとは思っているが。


 高校野球とは、実質は興行である。

 だからこそ新聞社は金を出すし、テレビでも大々的に放送される。

 高校生の大会が、ごく稀な例外を除いて、全試合放送される。

 そんな大会が他にあるだろうか。

 現在でこそネットによる多チャンネル時代になり、様々なコンテンツの需要が掘り起こされている。

 だがそれ以前のテレビとラジオの時代から、甲子園は全て中継されていたのだ。


 また甲子園以前の、地方大会。

 さすがにそれは全試合ではないが、地方大会でさえ地方局で、かなりの数が放送されていた。

 プロなら全部放送するというなら、相撲などもずっと続いていた。

 だがそれでさえ、あくまでプロであるのだ。


 高校生のアマチュアのコンテンツで、これだけの金が動く。

 また私立の学校にとっては、甲子園は学校経営のための、一発逆転のものであることも多い。

 トーチバは系列校が多いからともかく、勇名館などは明らかに甲子園のブランドに頼った経営をしている。

 また公立でも白富東が極端に受験者が多くなったのは、あの栄光の時代である。

 吹奏楽部で甲子園の応援をしたいために、白富東に入ってきた生徒などもいたのだ。

 考えてみればちょっと違うが、イリヤがそんな系統ではある。




 直史は甲子園になど、行く必要はないと思っている。

 これは本音であり、実際には勝てるところまで勝ちたかっただけなのだ。

 あの二年の春、センバツを経験するまでは。

 下手にノーヒットノーランなどをしてしまってから、次の試合での敗北。

 あそこでムキになってしまったのが、今となっては若さだな、と思う。


 素質的にはプロに行けそうな細川と、プロに行きたいという刑部。

 刑部は今も成長していて、下手に鍛えすぎることは出来ない。

 だが成長したいというだけではなく、試合に勝ちたいというのも当然あるのだ。

 甲子園は、特に夏の選手権は、特別な何かはある。

 むしろ上杉から始まり、直史と大介がやらかしたため、さらに価値が高まったとも言えるのだが。


 試合の前日にはもう、直史は顔を出さなかった。

 直前に相手のピッチャー対策はしたかったかもしれないが、そこで下手に打てなかったりすると、逆に調子を崩してしまう。

 幸いと言うべきか地方局が、ネット配信で試合を流してはいる。

 チャンネル数が増えたのは本当にすごいことなのだと言われるが、直史たちの世代としては、ネット普及以前のことを言われてもピンとこない。


 今日は事務所で予約を受けている。

 地元の商工会議所の役員が、また会員である小規模店の子弟の、不始末に関する相談である。

 直史が思うのは、18歳成年は失敗だったんだな、ということである。

 だいたい大学に入ったばかりの生徒が、騙されて変な契約を結んでしまうのだ。

 この時、重要なのは単純に法律的な手続きをするだけではない。

 相手が姿をくらますのを前提に、その身柄や背景などを、情報収集することだ。

 興信所や、あるいは警察などとも連携した動きが必要だ。

 弁護士は刑事事件で検察と戦う場面が多いので、警察と仲が悪かったりもする。

 しかし地域に根ざした弁護士であると、地域のお巡りさんとは普通に、仲が良くないとやっていられない。

 そんなわけで相談が終わる頃には、既に試合は始まっていた。




 よほどの運の偏りがない限りは、勝てるはずの試合であった。

 だが白富東は、初回に二点を取られている。

 先発の細川は、それでも続投。

 その後は五回まで、無失点のピッチングを行っている。


 ここいらで継投してもいいのでは、と見ている直史は思った。

 だがベンチ内の空気が分からないので、はっきりとそうとは言えない。

 先発が立ち直っているなら、もっと投げさせてみるべきなのかもしれない。

 幸いまだ二回戦なので、試合間隔がそれなりにある。


 六回の裏に、一気に逆転した。

 五点を奪って、ビッグイニングを作れた。

 高校野球はこれだから怖い。

 おそらくこれまで0で封じていたのが、切れてしまったからこその注意力の喪失。

 集中力が途切れたところで、あちらはピッチャーを代えてくる。

 だが二番手は、エースに比べればかなり落ちるはずだ。


 ここで白富東も、ピッチャーを交代する。

 出てきた内田のアンダースローは、三者凡退で相手の反撃を防ぐ。

 そして白富東は、次の回にも四点を追加する。

 これで七回七点差となり、コールド成立。

 序盤こそ恐れた展開になったものの、二回以降は無失点。

 見ていた限りでは、守備がしっかりと機能していた。


 試合後のダイジェストで、先制された場面を見ることが出来る。

 エラーからの相手の走塁で、わずかに混乱したことが、主な原因であると言えた。

 ただそれは事象を見ただけであり、本質的な問題は、メンタルの動揺だ。

 普段から先制点は大事だと言っていたこと。

 逆に相手に先制されてしまえば、こういうことにもなるのだ。




 ともかく初戦は突破した白富東である。

 トーナメント序盤なので、次の試合までにある程度は体力も回復する。

 夏の初戦は番狂わせがあるため、とりあえずマモノの餌食にはならずに済んだ。

 ただ他の対戦も、おおよそは順当に前評判の高いチームが勝ちあがっている。

 微妙なところでは確かにそこそこの番狂わせがあったが、第三シードまでで負けたチームは一つだけ。

 これぐらいならばジャイアントキリングとは言われないだろう。


 五回までは負ける雰囲気が少しはあったらしい。

 だがそこでグラウンド整備があったのが、幸いと言うべきだろうか。

 普段の練習から、メニューは短いスパンでしっかりと変えている。

 そういった部分からも、気分の切り替えが上手くいったのだろう。


 相手のエースはともかく、二番手もしっかりと打てたのは、バッティング力の向上と言っていいだろう。

 やはり問題は、相手ピッチャーの攻略ではなく、相手打線への対応だ。

 そんな向上したバッティングでも、初回に二点を取られたことで、内心はそこそこ慌てたということは確かだ。

 一気に逆転して点差がついて、変なプレッシャーがなくなる。

 それによって次の回には、突き放してコールドにしてしまえたのだから。


 ここで学ぶべきは、一つはもちろん、先制されれば不利であるということ。

 そしてもう一つは、点を取られてもビッグイニングにしないこと。

 白富東が逆転をしたイニングであるが、相手側に守備の選択ミスがあった。

 二点差であるのだから、一点は許容すべきという場面だ。

 もちろんそこまで優位に進めていたのだから、守備でも強気に考えた、ということはあるだろう。

 心で負けたらそこで負け、という場面は確かにある。


 だが結果論とも言えるが、確実にアウト一つを取っていれば、失点は一点で住んだ可能性もある。

 そこで崩れなければ、先発のエースはまだ投げていただろう。

 何よりも白富東としては、コールドで勝てたことが大きい。

 少しでも消耗せずに勝つこと。

 夏を戦う上では重要なことだ。




 理想だけを言うならば、ピッチャーは投球の感覚を忘れない程度に、消耗を抑えておきたい。

 試合勘というものもあるだろう。

 どういうピッチャーの運用をしていくか、それが監督の仕事である。

 試合日程はまだ、少し間隔がある。

 頂点に近づけば近づくほど、日程は過酷になっていく。


 白富東の最大の壁は、今年のトーナメントの場合、勇名館ではあるだろう。

 だが基本的に白富東は、他のどのチームよりも優っている部分がある。

 それはマインドだ。メンタルではない。


 具体的に言えば白富東のピッチャーは、ややこだわりのある刑部以外、敬遠を屈辱と感じない。

 北村はむしろ、勝負して打たれるのもいいだろうと考える。

 だがチームの選手たちは、あくまでも勝つことが目標。

 そのためなら勝つための戦略を考える。

 選手の成長などというのは、あくまでも教育者目線。

 試合に勝たなければ面白くないのは、プレイヤーなのである。


 このあたり北村は、高校野球の監督をするには、あくどさに欠けているとは言えるであろう。

 だが下手に正々堂々などと言い出さないあたり、昭和の人間ではない。

 野球にルールがあるからには、その範囲で勝負して、勝利を狙うのは当然のことなのだ。

 しかしここに、将来を考えたりしている選手がいると、ノイズになる。

 上を目指す人間と、この場で最高を目指す人間のギャップ。

 そういったものを上手く調整するものこそ、監督の仕事なのだろう。

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