第24話 火花
三球目、直史の投げるボール。
ナックルカーブにスローボールと来て、観客や観戦者は、特に二球目のスローボールに呆れていた。
そもそもあれを、大介がミスショットしたというのが、大介を知る者からすれば信じられない。
だが実際に大介は、あの絶好球をスタンドに放り込めなかった。
どういう確信があって、直史と樋口は、サイン交換で首を振ることもなく、あんな配球が出来たのか。
樋口には、ゾーンだとかトランスだとか、そういう状態は分からない。
ただ彼も狙い球を絞る時には、集中力がきりきりと巻かれていくのを感じるのだ。
もしもこれを直史が否定するなら、首を振ればいいだけ。
しかし直史は頷いて、その通りのボールを投げたのだ。
結果として、賭けには勝ったと言えるのか。
まだこれは過程であり、結果は出ていないと思うのが正解であろう。
打ち取ったとしても、ホームランを打たれたとしても、まだそれが最終結果ではない。
忘れてはいけないが、野球は団体競技である。
最終的にどちらのチームが勝っているかで、二人の対決も判断すべきだ。
ただ向こうのチームは、明らかにこちらよりも打線が強力であるし、ピッチャーは短いイニングで投げていける。
意外と点が取れそうなのは、リリーフ適性のない武史が出てきたところだろうか、と樋口は思ったりしている。
三球目、直史の投げたのはツーシームであった。
角度をつけたツーシームで、大介はそれをスイングしていったが、わずかにそのスイングに迷いがあった。
なぜ迷ったかというと、それはNPBとMLBの、ストライクゾーンの違い。
迷うことなどなく、そのまま振ってしまえば良かったのに。
逃げていくボールであっても、大介ならばレフトスタンドに運べたかもしれない。
だがわずかな迷いが、その打球をファールスタンドに入れてしまうこととなった。
これでカウントはワンツー。
先に追い込まれたのは、大介の方である。
(大きく範囲を取るんだ)
落差のあるカーブによるストライクは注意するが、あとはバットの届く範囲なら、全て打っていけばいい。
迷うな。その迷いだけが、この勝負を分けるものとなる。
直史としてももう一度、今のような組み立ては出来ない。
思ったよりもツーシームが、外れていかなかったからだ。
(ツーシーム……)
直史がプロ入り後に磨いたのは、このツーシームとスライダーである。
しかしツーシームは基本的に、シュート回転がボールにかかる変化球。
高速シンカーなどと言われることもあるが、実際には投げ方は全く違う。
ほんのわずかにではあるが、ツーシームを投げる時は、肘への負担がストレートよりも大きい。
わずかに肘を捻っている感触があるからだ。
実際には握りによって、そのわずかな変化は生まれる。
しかし今の直史には、思ったよりも大きな反動があった。
ボール球を、あと二つ投げることが出来る。
(最後はストレートで……いや、打ち取れないか)
樋口のサインも、なかなか出ない。
今のツーシームの意味を、彼も分かっていたのだ。
肘の限界が近づいているのか。
あるいは単純に、直史の精神的な問題なのか。
(壊れることを恐れてるのか)
自分に対して問いかけるが、答えは返ってこない。
だがこんな状態では、全力で腕を振ることは出来ないだろう。
直史の迷いのような感情を、樋口も感じていた。
今の三球目を大介がミスショットしたのは、はっきり言って幸運であった。
(タイムをかけた方がいいのか)
そうは思うが直史は、プレートを外す。
MLBのルールが適応されないこのゲームには、ピッチクロックはない。
自らの意思で、プレートを外したのだ。
そして天を仰ぎ、そこにドームの天井を発見する。
MLBならばそこには、星空か街の光に染められた雲が、目に見えていたであろう。
今さらながらこの勝負が、ドームでされているのだと、直史は思い出す。
下手にボールが上がってしまったら、大介のパワーなら天井に当たってしまうかもしれない。
またドームはその性質上、ホームランがそこそこ出やすい。
もっとも大介の打つホームランには、それは関係ないだろう。
打たれるとしたら完全に、二人の勝負の結果である。
再びセットポジションに戻った直史に、今度は樋口は迷わずにサインを出す。
そしてそれに対して、直史も即座に頷いた。
壊れてしまうなら、燃え尽きろ。
全てを出し尽くして、そして舞台から去っていけ。
樋口は直史と心中するような、そんな気分になっている。
その長い野球人生において、間違いなく直史は、樋口と最も多くのバッテリーを組んだ。
そして樋口がMLBにいる限り、その記録を上書きする者は出ないだろう。
直史の勝利の150勝以上は、樋口と組んだものである。
大学時代や国際大会を含めれば、その数はさらに増えていく。
最高のピッチャー、とは樋口はあえて言わない。
上杉と組んだこともあるし、単純にスペックだけならば、武史も超一流ではあったのだから。
なので樋口に言えるのは、最高の相棒ということ。
その相棒の投げるボールを、樋口は最後まで見届けるのだ。
四球目、何を投げてくるのか、おおよそ大介は絞っている。
ツーシームを投げたからには、球速差を活かすか、あるいはストレートを投げるかなど、いくつかの選択肢はある。
だが今のツーシームを捉えられなかったのは失敗であった、と大介は思っている。
もっとも直史がその後、プレートを外したことには、少し違和感があった。
今のツーシームは、直史の予定通りのものだったのか。
あと少しだけ踏み込んでいれば、スタンドまで運べたような気がする。
NPBとMLBのゾーンの違いから、迷いが出てしまった。
それで打ち損なったのだが、あの二人ならあとボール半分は外に投げていたのではないか。
左打者の大介へのツーシームなのだから、当然逃げていくボールになる。
それが不充分だったのか?
単純なコンビネーションの読み合いではなく、心理戦になりつつある。
(ナオのやつ、もしかして肘が……)
ツーシームは本来、握りで投げるものだ。
しかしシュート回転をつけようと、肘を少し入れて投げてしまうピッチャーもいるのだ。初歩的な勘違いであるが。
もっともこのバッテリーが相手だと、何が正解かなど分からない。
重要なのは、自分が打ちにくいボールを絞るということ。
ここで一番ジャストミートしにくいのは、やはりスルーチェンジである。
スルーとスルーチェンジの組み合わせが、大介の知る中では最も、面倒なコンビネーションだと思う。
他にはカウントを整えるために、ここでスローカーブなどを入れてくるかもしれない。
だがスローカーブならば、待ってから打つことも出来る。
四球目、何を投げてくるのか。
カウントで追い込まれているのは大介だが、逆に集中力は高まっている。
対して直史も、殺気が消えた。
気配を消して、タイミングを外して、何を投げてくるのか。
その足が上がって、四球目。
(スルー!)
腰より低め、落ちながら伸びていくボール。
大介はそれを見逃して、判定はもちろんボール。
これで並行カウントになったが、まだボール球を一つ投げられる。
投げられたら厄介な球種を、脳裏に置きながらも大介は待つ。
直史の呼吸はひっそりとしていて、大介がそれにリズムを合わせることは出来ない。
他のおおよそのピッチャーに比べて、直史のボールというのは、戦士の一撃ではなく、暗殺者の一撃を思わせる。
その例えが悪いとしたら、他のピッチャーは巨大なハンマーを使ってくるのに対して、直史だけは切れ味抜群の日本刀とでも言うべきか。
次に何を投げてくるか。
スルーチェンジであれば、さすがにカットしていくしかないと思う。
その他のボールであれば、どうにか打つかカットしていけると思う。
一番つまらないのは、フォアボールで出塁してしまうことだ。
樋口としてはこの二人の勝負は、始める前から圧倒的に、直史に不利な条件から始まっているのだ。
直史は大介に限ったことではないが、バッターを敬遠しない。 むしろ下に見たときは、敬遠もしたりする。
樋口の知る限りで敬遠したのは、正確には大学時代にコントロールが定まらなかった時、相手の主砲を敬遠した時ぐらいだ。
あれは放っておいても、歩かせることになったかもしれないが。
大介を相手に、ゾーン内で勝負する。
ゾーンから一個外した程度のボールなら、内でも外でも高くても低くても、ホームランにしてしまうバッター相手に。
(馬鹿馬鹿しいほど、面白い)
コンビネーションで打ち取れるピッチャーは直史だけであろう。
この並行カウントから、次に何を投げるか。
樋口のサインに対して、直史は頷いた。
そしてクイックモーションから投げられたのは、先ほどよりも高めの球。
凡百のバッターであれば、今度はゾーンに入るスルーと、勘違いしてしまうことだろう。
もちろん大介は、ぴたりとバットを止める。
途中から失速して、想像以上に落ちてゾーンから外れる。
スルーチェンジを完全に見逃した。
フルカウントになった。
だが前の二球は、バッテリーにとって布石である。
ボールを受け取った直史は、マウンドを軽く均した。
次のボールで決めるぞ、というつもりで足場を固めているのだ。
バッターボックスの中の大介も、バットをくるりと回してから、呼吸を整えている。
わずかでも相手に隙を見せないようにと。
その呼吸をほんのわずかに、樋口は確認している。
バッターを打ち取るのに、とても簡単な原理。
相手が息を吸っている時に投げる。
筋肉が収縮するのは、息を吐いている時というのは、全ての運動の基本である。
吸っている時には、全力を出すことは出来ない。
同じような原則には、奥歯が噛み締められていない人間、歯並びの悪い人間も、全力を出すことは出来ないと言われている。
ウエイトリフティングの選手などが、口を開けた状態で歯を食いしばることが出来なければ、自分の限界に到達しないのと同じである。
大介の場合、バッターボックスの中では上手く、息を止めた状態で、スイングの瞬間に吐き出す。
これは普通に、バッターであってもピッチャーであっても、まず全員がやっていることであるが。
直史はセットポジションから、呼吸を吸う。
そしてその吸っている状態から足を上げて、素早く体重移動をしている間に、強く息を吐き出す。
そこから投げられるのは、全力のストレートだ。
落ちる球に慣れた大介に対して、一番落ちないストレート。
それに対する大介のスイングも、タイミングだけは完全に合っていた。
落ちるボールを続けた後に、一番落ちないボールを投げる。
それも一番スピードのある、高めの球を。
これはミスショットすれば、グラウンドの守備範囲内のファールフライになるだろう。
だがジャストミートすれば、間違いなくスタンド入りか、そうでなくともフェンス直撃の打球にはなる。
空振りを狙うバッテリーからすれば、ライナー性の打球を打たれてしまっていたとしたら、それは事実上の敗北である。
だがフライ性の打球で飛距離が出れば、そのままスタンド入りもありうる。
大介の呼吸から、その肉体の稼動範囲、そしてバットの軌道までも推測する。
そうした直史の投げたストレートは、実のところわずかに大介のバットの軌道の上を進んでいた。
大介はスイングの途中で、このわずかな差には気づいている。
直史のストレートは、今日投げた他のストレートと比べても、一番力が乗ったボールになっていた。
ジャストミートのライナー弾で、スタンドまで持っていくのは無理だ、と大介も分かってはいるのだ。
しかし渾身のフルスイングは、ここから軌道を調整することは出来ない。
振りぬいて、ボールがスタンドに届くことを祈る。
ほとんど運任せというか、確証が持てない結果となるだろう。
そしてボールとバットが激突した。
ボールは高く高く飛んだ。
だがこれはあまりにも高く飛びすぎて、おそらくはせいぜいがセンターフライ。
本来ならば、確かにセンターフライであったのだろう。それは打った大介も認めるところであった。
だがボールは、ドームの天井にぶつかったのである。
センター織田が慌てて前進して、二塁ベースのほど近いところでこれをキャッチ。
アウトであるはずだが、ジンは念のために確認する。
東京ドームの特別ルールでは、スタンド上部の天井ならホームラン、天井に当たってからスタンド入りしてもホームランとなっている。
そして普通に天井に当たって、落ちてきてキャッチしたならそれは、インプレイでフライアウトとなる。
この特別ルールをそのまま使用していいのか、ということである。
一塁手前で止まっていた大介は、苦笑しながらもはっきりと言った。
「東京ドームのルールでいいぞ!」
つまりこれは、センターフライということである。
潔いことではあるが、単純にルール通りでもあるのだ。
あと数ミリ、あるいは1ミリでもミートポイントがずれていれば、どうなっていたか。
この飛距離がそのまま、前方方向に発揮されていれば。
薄氷の勝利とは言えるが、想定どおりの勝利でもある。
それでもベンチに戻ったバッテリーは、どっかりと座り込んだ。
「やばかった……」
「まあ、白石相手ならいつものことだろ」
表情にこそ出さないが、二人が今の勝負で疲弊しているのは、味方から見れば明らかであった。
もしもこの後、ブリアンとの対決が続いてあれば、わずかなミスで打たれていたかもしれない。
大介との勝負は、いつもこんなものである。
ぎりぎりで勝つか負けるか、ピッチャーの方が勝利する確立は、本来は高いのだ。
しかし大介の場合、出塁率が平気で五割を超えるし、ポストシーズンともなればOPSが平気で2をオーバーしてくる。
それをどうにか凡退で終わらせているのだから、たいしたものだと言っていい。
ただ、これがあと一打席あるのか。
そこでどう封じるのか、他のバッターをそっちのけで、考えるバッテリーである。
そんなことをしていては、それこそ他の強打者に、一発を食らう可能性は高くなるのであろうが。
もっとも樋口の心配は、もう一つあった。
それは直史の球数である。
普段は平気で100球以内で完封し、また80球以内の完封の記録なども、残しているのが直史である。
しかしこの試合においては、ようやく六回が終わったこの時点で、既に球数が81球となっている。
もちろんシーズン中のローテーションに入っているわけではないので、疲労が蓄積しているというわけではない。
この試合に完全に合わせて、しっかりと体力は満タンにしてきたのだ。
しかしそれでも、このペースでいけば完投までには120球を超える。
また単純に体力だけの問題ではなく、肘への負担はどうなのか。
樋口は直史に対して、そのことについては尋ねなかった。
本当に無理になったら、無理と言うべきだと分かっているはずだ、と直史のことは信頼しているのだ。
少し疑問というか、大介との対決に関しては、例外になるのかもしれないが。
この試合は一応は、多くの選手を巻き込んだ一大イベントとなっている。
だが始発点は、直史と大介との私闘から始まっている。
二人の対決が、試合の展開より優先されるのか。
そのあたりが微妙なところであるのだ。
残り3イニング、直史は投げきることが出来るのか。
少なくとも肘に痛みが走ったり、違和感をおぼえるということはないようだ。
「さっきの、ツーシームな」
「ああ、ちょっとコースが悪かった」
そういう認識はしているらしいが、肘への負担は何も口にしない。
そして樋口が問いかけなければ、他の誰も話しかけたりはしないのだ。
三巡目、招待選手であるブリアンとターナー以外は、バッターが交代していく。
これまた各球団の中核となるバッターたちであるが、それでも西郷や柿谷といったあたりが消えるのは、直史にとっては楽になるのではないか。
(そうは言っても今度は、若手の伸び盛りとの対決になるわけか)
ここからは駆け引きが重要になるのかもしれない。
試合が終わるまで、まだ何も油断が出来ない二人であった。
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