第51話 祝日
MLBでプレイしていた頃、直史は実質、シーズン中はほぼ休みがなかったと言っていい。
中五日で投げて完投し、あるいは中四日で投げることすらあったからだ。
レックス時代と違って、移動に時間もかかり、先発ローテの上がりもないため、常にチームには帯同。
移動時間も仕事時間に含まれるというなら、確かにMLB時代は、自分の時間を切り売りしていたようなものなのだ。
弁護士として働き始めて、直史が感動したのは、基本的には定休日があるということだ。
修習後のわずかな期間や、オフシーズンに手伝っていた程度では、実感出来なかったことである。
顧客の都合に合わせて、稀に日曜に予定が入ったりもするが、基本的には日曜日と水曜日が休み。
瑞希と合わせれば五人も弁護士がいるので、サイクルを決めて休むことが出来るのである。
土日はもちろん、年末年始とお盆、GWにそして有給。
そんな大企業ほどではないが、しっかりと休むことが出来る環境。
「MLBで引退した選手がすぐ破産する理由が分かった気がする」
直史の言葉に、瑞希はふむふむと耳を傾ける。
「現役中なんてシーズン中は、とても金を使ってる暇がないからな」
いやそれは、特に直史がノースローの日まで、しっかりと練習をしていたからではないのか、と瑞希は思う。
しっかりと相手を抑えるために、やれることは全部やる。
そんな直史だからこそ、実際にあれだけの数字を残せたのではないか。
とりあえず直史は、食事の量が減った。
あれだけの運動をしていたのだから、同じだけ食べていたら太るので、これは当たり前のことであろう。
ただその代わりというのでもないだろうが、真琴の食事量が増えている。
元気を通り越してもう、お転婆と言うべきだろうか。
あのいつ死ぬか分からない、という幼児期を知っていれば、どうしても甘いものになってしまうのだが。
直史がコーチしたおかげもあるのか、白富東は地区予選を勝ち、県大会本戦への出場を決めていた。
ここで二回勝てば、なんとか第三シードは取れる。
だが三回勝って準々決勝まで進めば、第二シードまでを取れる。
夏のことを考えるなら、もちろん第一シードを取りたい。
しかし白富東の選手運用を考えるなら、むしろ強いチームとベスト16で対戦し、先に勝つということもあるのでは、という選択はないだろうか。
現在の千葉県の勢力は、トーチバや勇名館、東雲といった私立あたりが強いのだが、公立が時々甲子園に出ることもある。
その中でも特徴的なのは、かの国立が監督となったチームは、数年以内に甲子園に行くことが多い、ということだ。
国立自身が率いるのではないが、彼の鍛えた選手が最後の夏、奮起して甲子園にまで行ってしまう。
それが特にストロングポイントも見えないチームだけに、彼の名は名将として関東では知られている。
私立のチームからの招聘があったりもするのだが、彼は首を立てには振らない。
なぜなら彼のチーム作りは、甲子園を目指すことを、第一目標としていないからだ。
甲子園というのはあくまで象徴である。
全力を尽くすことに都合のいい、目標であるからなのだ。
本当に高校生にとって必要なのは、何かに対して全力であること。
その全力というのも、単純に無理をするのとは違うのだ。
高校野球は学生の育成の一環である。
国立はまさに、その建前を忠実に守る人間だ。
それまで出来なかったことを、出来るようになる達成感。
その成功体験を味わうことによって、人は成長するし、さらなる成長に挑もうとする。
国立はあくまでも、人を育てることを目的としている。
甲子園というのはあくまで、その結果であるのだ。
春季県大会本戦は、準々決勝以降は、ゴールデンウィークと重なる。
佐倉法律事務所は、基本的にこの期間、顧問として入っているところ以外、一見さんの仕事は引き受けない。
なのでそのまま、試合を見に行くことが出来る。
ただ直史はそれを見に行ってもいいのだが、瑞希や真琴はどう考えるか。
「行くー!」
はい、お姉ちゃんの一言で決まりました。
そもそも明史は、まだ長い距離を歩くことも出来ない。
なので真琴の意見が、一番尊重されることが多い。
MLBもたいがい大味な試合が多いが、この間の白富東の試合も、8-1というほぼ一方的な点差の試合に見えた。
だが実際のところは、五回までは試合の行方は分からなかったと言える。
真琴はああいった試合でも楽しめるのか、と直史は少し不思議に思う。
それにしてもゴールデンウィークに家族でお出かけというのは、なんとも一般的な家庭のようではないか。
昨今ではそういった一般家庭が、あまりないようになっているのだが。
春季大会ではマリスタは使われない。
主に県立野球場で行われることが多く、ここでも一万人は入る。
のんびりと楽しむには、丁度いい試合になるのではないか。
もっともそれまでに負けてしまうと、ちょっと困ってしまうのだが。
少しは何かアドバイスでも出来ないかな、と直史は思った。
別にアドバイスでもないだろうが、彼が白富東側の応援団で一緒にいれば、それだけで試合の趨勢に影響はありそうである。
存在自体が危険という直史。
もちろん本人に、そんな意識は全くなかった。
直史自身はそう感じたことはないが、高校の現役時代に考えたのは、他のチームは甲子園よりも、予選の方が厳しい場合があるのでは、ということであった。
特に大阪、神奈川、愛知あたりであろうか。
甲子園は一つの球場を使うために、一回戦や二回戦は、それなりの間隔があって試合をすることになる。
だが地方大会は球場を分散して行うので、試合の間隔が短くなるのだ。
春季大会に関しては、地区予選は中一日は空ける。
それでも大丈夫と言えるのは、まだそれほど危険な相手とは当たらないからだ。
県大会本戦は、一回戦と二回戦が、間隔なく行われる。
そして三回戦以降も、間隔は短くなっている。ゴールデンウィークを使うからだ。
そこから先、さらに関東大会もあるが、こちらは出場したとしても、強敵相手の実戦経験が積めるだけだ。
それこそがまさにありがたいことなのだが、同時に情報が流れてもいく。
高校野球も情報戦ではあるが、情報の消耗戦とでも言おうか。
策が多ければ勝ち、少なければ負ける。
そしてその策というのは、トーナメントを進むごとに、段々と明らかになっていってしまうものだ。
既に白富東が、ピッチャーの継投策を使っているというのは、有名になっている。
こちらの手が全て明らかになってしまえば、あとは地力の勝負になる。
あるいは手を少しでも隠すために、地力をたかめておくべきか。
重要なのは目的を、どこに置くべきかということだ。
本気で甲子園を狙うにしても、どう戦っていくのか。
戦略と戦術だけでは、チーム数の多い千葉県を、勝ち抜くことは難しい。
勝ち進めば勝ち進むほど、その手の内が露になるからだ。
ただこれを直史の現役時代などと比較してみる。
戦術が多ければ多いほど、相手はそれに対する対応を見つけなければいけない。
そして分かっていてもどうしようもないことは、高校野球であれば必ずあるのだ。
佐藤家の面々は、白富東が勝ち進めば、三回戦から応援に行くことに決めた。
ゴールデンウィーク前の日曜日に、三回戦は行われる。
そこから連休の間に、一気に残りの試合がある。
これには同じ学校から、応援に来る生徒もいるだろう。
祝日であるので、OBなども集まるはずだ。
ただ北村には、そういった点ではプレッシャーはない。
なにしろ白富東が強くなったのは、彼が三年生の代から。
それ以降の強いOBは、全て北村の後輩であるのだから。
レジェンドと言われる白富東の世代は、直史たちからである。
だが北村も大学では早稲谷のクリーンナップを打ち、ドラフト候補と言われていたのだ。
本人にそのつもりはなかったが、志望届を出していたなら、おそらく指名はされていただろう。
ただ北村は、己の器を知っていた。
プロの世界でやっていくには、とてつもない精神力か、それすらをも凌駕する圧倒的な才能が必要であると。
そして北村は、自分にはそれはないと分かっていたのだ。
白富東は県大会の二回戦を突破し、ベスト16に進出した。
これでどうにか第三シードには入ったので、最低限の目的は果たしたと言える。
夏こそ本番と考えるなら、ここで全ての手の内を晒してまで、上を目指す必要はない。
だがあと一つ勝って第二シードに入れば、それは間違いなく夏を少しでも楽に戦うことは出来る。
関東大会に出場できるのは、今年は決勝まで残った2チームのみ。
そこまでの相手となると、こちらも全ての作戦を披露しなければ、一方的に敗退するであろうという予感がある。
ただ本番の夏のためには、少しでも情報は秘匿したい。
しかし負けてもいいぞ、とは選手にはとても言えない。
また負けるにしても、負け方というものがある。
そんな北村のところに、また直史からの連絡があったのである。
三回戦の相手は、秋季大会のシード校である。
当然ながら今までの相手とは、また違った心構えで挑む必要がある。
基本的には格上であり、単純に正面から対戦しても勝ち目は薄い。
もちろん戦術を全て駆使して戦うなら、話は別であろうが。
白富東の野球は、本当に高校野球らしくないな、と直史は思う。
だが白富東らしい野球ではあるのだ。
スポーツではあるが、単純にフィジカルに上回れば勝てるというものでもない。
もちろんどうしようもない圧倒的な戦力差というものはあるが、次の対戦ではそれほど絶望的な差はない。
なので問題は、どれだけの引き出しを晒して勝負するか。
目の前の勝負に全力を出して、全ての切り札を晒してしまっては意味がない。
あくまで本番は夏なのだ。
そして目標は甲子園に行くことで、甲子園でどれだけ勝ち進むかは考えない。
正直なところ直史の時代の基準でも、今年の白富東で全国制覇を狙うのは無理がある。
もちろん対戦相手の戦力や、くじ運に頼るところもあるが、評価A以上のチームに勝つことは難しいだろう。
そして勝ち進めば勝ち進むほど、その難しさは大きくなっていく。
高校野球というのは不思議なもので、甲子園に行けるか行けないかで、満足度が全く違う。
多くのチームは甲子園に行けば、一回戦負けでも満足するのだ。
代表校を選出する地方大会のレベルが、都道府県ごとに違いすぎるというのもあるだろう。
甲子園では一度でも勝てれば充分。
直史の目からすると、今年の白富東の戦力は、その程度のものであった。
悔いなく戦う、ということがどれだけ難しいか、北村は分かっている。
全力を出し、ミスらしいミスがなかったとしても、まだ向上の余地はあったのではないか、と思うものだ。
北村自身は高校時代、後悔などない野球生活を送った。
ただ一つ後悔があったとしたら、あの夏の決勝で、後輩を泣かせてしまったことであろうか。
野球はチームスポーツだ。
和気藹々とするのではなく、それぞれが己の最善を尽くし、それがチームとしてまとまる、というエゴの処理も大切だろう。
だが北村が指揮するチームでは、そういった形のチームワークを必要としない。
根本的に白富東は、文化系の体育会野球部だ。
根性や熱血や理不尽といったものはなく、メンタルコントロールは計算して行う。
あれだけのことをやったのだから、負けるわけがない。
そう思うだけの練習やトレーニングも、確かに一つのメンタルを鍛える手段ではある。
だが北村は大学時代に、教育心理学などを学んでいる。
そして人間の人格形成において、挫折や成功体験がどれだけ重要か、分かっているるつもりである。
挫折は重要だ。それも早い方がいい。
そしてそこからどれだけ早く、次のステップに進めるかが、もっと重要なのである。
挫折とは単なる失敗ではなく、経験の蓄積である。
それが分かっていない人間が、単純に失敗を嫌って歩みを止める。
戦わなければ、成長することはない。
人生というのは挫折を何度も経験し、それでも生きていかなければいけないものなのだから。
直史がまた、練習を見に来てくれた。
またこんなただの練習であっても、野球好きのおっさんどもは、普通に見物にやってくる。
そこへたとえ臨時コーチだとしても、直史がやってきている。
生の大サトーである。
それがグラウンドで現役の高校球児たちに混じっているのだから、鼻血ものの光景だ。
本当に、色々と問題もあるが、日本の野球はおっさんファンに愛されている。
直史が北村と話し合ったのは、戦術についてである。
次の三回戦、対戦相手は県立三里高校。
直史にとっては最後の夏、県内では最大の難敵ではあった。
そしてそれを率いるのが、大学やNPBでは戦友であった星。
正直監督向きの性格ではなかったと思うのだが、人間の適性は本当に、やってみないと分からないものだ。
もしも順当に勝ち上がっていったら、準々決勝は勇名館が相手となる。
準決勝は微妙だがおそらく東雲で、決勝はたぶんトーチバ。
大学とのつながりを利用して、トーチバはこの数年、安定したチームを作り続けている。
ただ千葉県全体の傾向としては、白富東が活躍していた時代に比べ、全国大会レベルではあまり勝ちあがれていない。
関東ならば東京と神奈川、そして最近では埼玉が強いのだ。
チーム数を考えるなら、それに千葉が加わってもおかしくないはずなのだが。
直史と北村の見解は一致していた。
関東大会まで勝ちあがるのは、おそらく無理である。
そして無理であるのと同じく、無意味に近い。
白富東の戦略が、一発勝負に特化しているからだ。
夏の大会までに、出来るだけ露出は限定して、さらに戦術を積み重ねていく必要がある。
白富東の強みは、頭脳班が別個にあることだ。
野球は好きだが、やるよりも調べたり考えたりする方が好き。
そういったファン層を取り込んだことにより、白富東のバックアップは重厚なものになっていると言ったほうがいい。
これまで直史は、対戦相手ではなく、白富東のチームの方を見て、その戦力の底上げに協力してきた。
だが三里が相手であると、対戦チームの分析も必要になる。
星は基本的に善性の人間であるが、野球においては相手の嫌がることをするのに躊躇はない。
やってはいけないものは、故意死球ぐらいと考えているだろう。
直史も北村も、星とはそれなりに縁がある。
そして三里の戦略と戦術も、基本的には白富東と同じ、スモールベースボールである。
ただあちらの方が、集まった戦力が高いという事情はある。
正面から戦ったら負けるのは、まず間違いない相手。
しかしこれまでの相手と違って、戦術やメンタルに関しても、互角程度には戦ってくるかもしれない。
なにしろ星は、直史ですら認めるメンタル超人だ。
それを上手く選手たちに伝授しているなら、単純な戦力とは別に、チームとしての総合力が高いと見るべきだろう。
星は直史以上に、身体的な才能がなかった。
だがプロ野球に進み、しっかりと一軍で結果も出し、戦力となりながらも故障によって引退した。
しかし大学時代から、監督をやってみたいというのは分かっていたのだ。
むしろあのメンタルやスタイルからすると、球団側からさえオファーがあったかもしれない。
だが彼が戻ってきたのは、この高校野球の世界なのだ。
集団スポーツとは面白いものだ。
かつての敵が今日の友となり、かつての友が今日の敵となる。
いや、味方と友は別であろうか。
大介などは敵でも味方でも、友ではあった。
そして星に関しても、直史は頼りになる仲間という意識が強かった。
もしも通用しなければ、すぐに引退して教員の道を歩むはずであった。
そんな星がかなり、レックスの日本一には貢献したのだが。
負けたくない、などという傲慢さはない。
お互いにチームの勝利に全力を尽くす。その上で結果が出てくる。
「高校野球らしい試合になりそうですね」
直史の言葉に、北村は難しい顔で頷いたのであった。
×××
日本WBC優勝おめでとうございます。
フィクションはノンフィクションに勝てないと証明する大谷さんとササローさんはもうなんというか、名誉フィクション認定してさしあげましょう。
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