白夜の星(2)
2
キシムは、ばつの悪い思いで、ラナの家を出た。
泊まるように誘われたが、とても、そんな気持ちになれなかった。長の家のうしろの森、ベニマツの巨木の陰に、自分用のチューム(円錐住居)を建てた。ユゥク(大型の鹿)をつなぎ、スレイン(狼犬)と並んで腰を下ろす。
『どういうことだ……?』
スレインに干し肉を与えながら、キシムは、ぎりりと奥歯をかみしめた。
テティ(神霊)となったビーヴァの霊力は強く、彼の
二人は、そうやって、しばしば逢瀬を重ねてきた。
キシムは、ラナもそうだと考えていた。
血によって受け継がれるラナの巫力は、キシムより強い。ビーヴァがセイモアに憑依していることを、彼女は知っているのだから、当然、言葉を交わし、逢っているはずだと。
事実は違っていた。
ビーヴァの死後――ニチニキ邑の門の前でセイモアと再会して以来、ラナは、彼のすがたを
ラナは、すっかり
彼女はそれを、自分の所為だろうと言った。おのれがシャム(巫女)として、未熟なためだと……。キシムを責めはしなかったが、心中穏やかでないことは、容易に察せられた。
キシムは、彼女を慰められなかった。
「…………」
日暮れたのちも薄明るい夜空を、キシムは仰いだ。スレインの金赤毛に指をさし入れ、掻きながら、意識を拡げる。
『帰っている』と、分かった。喚ばれている、とも……。
キシムは溜息を呑み、チュームの入り口をおおってなかに入った。毛皮の外套を敷き、スレインとともに臥床する。
「お前はいいよな、気楽で……」
甘えて顔を舐めるスレインの耳の後ろを、指をたてて掻いてやると、キシムは、改めて眼を閉じた。
ビーヴァは、昼間セイモアが狩りをしていた場所に近い、山の中腹にいた。湖畔の森と、アロゥ氏族のナムコを一望できる高さだ。氷河にけずられた斜面に咲く黄色いヒナゲシの花のなかに、佇んで、ぼんやり
青年の肩で、ロカム(鷲)が羽を休めていた。翼をひろげれば、彼の身を隠してしまえるほど巨大なテティだ。あわい紫の夜空を背景に、ふたりの輪郭は重なり、白く輝いていた。
ビーヴァの
たくさんのテティ(動物霊)に囲まれていても、ビーヴァは淋しげだった。……さびしくて、哀しくて、夜にとけて消えてしまいそうに観え、キシムは息を殺した。
《……キシム》
キシムが声をかけるのを躊躇っていると、ビーヴァの方が、彼女に気づいた。ほっと、表情を和ませる。
彼の肩にいたロカムが翼をひらき、音もなく舞い上がった。蒼白い
ビーヴァはキシムに近づくと、両腕を伸ばし、彼女を抱き寄せた。どちらかと言うと、しがみつく、といった風情だった。幽体どうしなら、触れることが出来る。重さもぬくもりもないからだを、キシムは受けとめた。
「どうした?」
ビーヴァは、ひどく疲れていた。身体がないのだから、疲労というのはおかしい。消耗、と言うべきか。
「マシゥ、と言っていたな……。あいつが、また、
キシムの肩に顔をうずめていたビーヴァは、無言で、少し身をはなした。キシムは舌打ちした。
「まったく……。誰か、あいつに、テティ(神霊)に対する礼儀を、教えてやる奴はいないのか? オレが、言ってやろうか」
エクレイタ族のマシゥは、ビーヴァの親友だ。
森を勝手に伐り拓いたエクレイタの開拓民は、ならず者の集団だった。特に、団長のコルデは、残忍きわまりない男だった。アロゥ氏族の集落を襲い、ラナを含む女性たちを凌辱し、子ども達を殺したのだ。
しかし、彼らの王は違っていた。エクレイタ王は、コルデ達の行為を知らず、森の民と友誼をむすぶために、使者を送っていた。マシゥは、王の使者としてやって来たのだ。
ビーヴァとエビと親しくなったマシゥは、森の民の味方をしたため、コルデに殺されかけた。王の許へ還り、争いを止めるために尽力した。
ビーヴァはマシゥを援け、そのために、命を落としたのだ。
今、マシゥは、エクレイタ族の開拓邑にいる。彼がとどまる限り、森の民との友好は続き、将来、共存することも出来るのではと、期待している。
――それはいい。そのこと自体は、とてもありがたい。
ところが、だ。
マシゥは嘆くのだ……。ビーヴァの死に責任を感じ、己を責めているのだろう、と思う。とにかく、その嘆き方が(キシムに言わせれば)尋常でない。冬の間じゅう、昼も夜も、ことあるごとに哭きつづけた。
森の民も、死者を悼む。だが、
彼らの信仰では、死んで霊魂となった者はムサ・ナムコ(現世)を離れ、テティ・ナムコ(神霊の世界)へ旅立つことになっている。生者がいつまでも悲しみ続けては、死者は旅立てなくなってしまう。
まして、ビーヴァはセイモアに憑依し、テティとなり、この世のちかくに留まることを選んだ。それを、マシゥは知っているはずだった。
毎日、毎日。己の死を嘆いて泣かれたら、本人がどんな気持ちになるか、想像できないのだろうか……。はじめは申し訳なさそうにしていたビーヴァだったが、やがて、すっかりひるんでしまった。これでは、逢いに行くことも出来ない。民族が違い、文化が異なる、とは言え――
「最近は、すこし落ち着いたと思っていたのになぁ」
《……違うんだ、キシム》
「違うって?」
ビーヴァは、項垂れたまま、呟いた。
《マシゥは、俺を探していたんだ》
キシムは、ぎくりとした。
「探すって……。お前の遺体を、か?」
ビーヴァは、うなずいた。
「それは……まずいな」
ビーヴァは、もう一度、肯いた。
キシムの口の中に、苦いものがこみ上げた。
エクレイタ族の王都から帰還する途中、病に倒れ、凍死したビーヴァは、ルプス(狼)たちの餌食となった。マシゥとソーィエ(ビーヴァの犬)を、助けるためだった。
のちに、彼の遺体を見つけたキシムとカムロは、ビーヴァの希望に従い、その地に彼を埋葬した。ロマナ湖畔の、美しい土地だ。いずれ、土に還り、木々を育むだろう。
しかし、マシゥとソーィエは、そのことを知らない。
「ソーィエは、分かっちまうよなあ……」
《ああ。だから……止めて来た》
低く低く、ビーヴァは応えた。キシムは、彼の横顔を観た。
「マシゥに会ったのか?」
《いや。ソーィエと、話をした。俺を探すのを、やめてくれるように。何とか、解ってくれたよ》
「…………」
キシムは、半信半疑だった。
森の民の習慣では、狩人の男が死ぬと、最も親しい犬は
ムサと犬は近しい。特に、橇の
そうしなければ、犬は、あるじの死を受け入れられず、魂を
ビーヴァは、ソーイエを遺して逝かなければならなかった。死の間際、マシゥを護れと命じた。その命令を守るため、決死の面持ちでマシゥについて行った赤毛の犬を、キシムは憐れんだ。
ビーヴァは、己に言い聞かせるように繰り返した。
《ソーィエには、俺が観えないから、声だけだったけれど……。わかってくれた、と、思う。たぶん……》
「そうか」
キシムを腕のなかに入れ、
キシムは、彼の胸をそっと押して身を離すと、ビーヴァの顔を覗きこんだ。
「大丈夫か? ……もう一度死んだみたいな顔をしているぞ」
ビーヴァはこれを聞くと、ぎこちなく微笑んだ。眉尻を下げ、困ったような、自嘲しているような苦笑を浮かべる。
キシムは、軽く嘆息した。――気苦労の多い奴だ、と思う。ムサ(人)がテティ(神)になるとは、こういうものなのだろうか。
伝説となっているシャムやシャマンは、天神の許へ行ったり、月へ登ったりして、そこで暮らしているという。ラナの母巫女は、祖先の霊たちと一体となり、生前のことはあまり覚えていないと言っていた。
ビーヴァは、神霊となって日が浅いからかもしれないが……。死んだあとのことは放っておいて、さっさとテティ・ナムコへ逝ける一般の死者たちの方が、よほど気楽だと思えた。
キシムは、ビーヴァに同情した。気の毒だとは思うが、訊くべきことは、訊かなければならない。
「ラナ様にも、お前は観えないのか?」
《え?》
キシムの問いに、ビーヴァは、一瞬、目をみひらいた。それから、ゆっくり瞬きをする。
《ラナ?》
「そうだ。今日、ロコンタ氏族長の話が出たときに、オレが訊いたんだ。『ビーヴァは、何て言っているんです?』と。そうしたら――」
キシムは、じっとビーヴァを
「――ラナ様に、言われたぞ。『キシムは、ビーヴァと話をするの?』って」
《…………》
ビーヴァは、再び項垂れてしまった。やはりと、キシムは思った。
「説明してもらおうか」
キシムは、胸の前で腕を組み、じろりと彼を睨んだ。
「どういうことだ? なんだよ、あの気まずさは」
《……ごめん。キシム》
「謝るな。っていうか、説明しろ。お前たち、いつから逢っていないんだ?」
しかし、ビーヴァは口をむすび、答えるつもりはなさそうだ。
青年の抵抗を意外に感じたキシムは、質問を変えることにした。
「ラナ様の巫力に、問題があるのか?」
ラナは一時期、巫女のちからを制御できず、テティの声が聴こえなくなっていた。またそういうことが起きても、不思議ではない。
ビーヴァは、首を横に振った。キシムは、舌打ちしそうになり、堪えた。
「契約の問題か? お前は、オレと契約している。オレのマムナ(真の名)も知っている……。その所為か?」
《……そうじゃない。俺は、ラナを守護している。マムナも契約も、かかわりがない》
「じゃあ、何だ?」
キシムは、苛々してきた。自分が苛々していると、ビーヴァが理解しているのが、腹立たしい。
「逢えると知っていれば、ラナ様は、お前に逢いたがったろう。話をしたいだろう。そのちからもあるのに、出来ないのは変だ。お前……わざと、避けているのか?」
ビーヴァは、さらに深く面を伏せた。図星だったらしい。
キシムは、溜息をついた。……まったく。この二人は、どこまですれ違うのだろう。
「どうしてだよ……」
《……俺は、死んでいるんだ》
「その理屈はおかしいぞ」
やっと反応がかえって来た。小声で答える青年に、キシムの追求は容赦なかった。
「シャム(巫女)がテティ(神霊)と逢えないなんて、何のための巫力だ……。オレとは、逢っているじゃないか」
《キシムは違う。俺が、望んだからだ。……そうじゃない。ラナは――》
答えかけて、ビーヴァは、にわかに混乱した様子でかぶりを振った。
途方に暮れた口調になった。
《ラナは……今でさえ。セイモアが狩りに出掛けただけで、取り乱すんだ。俺がいたら、どうなるか……。ますます、離れられなくなるだろう。……だけど、俺は、死んでいるんだ》
「…………」
《俺がすがたを見せて、話をしたら……ラナは、四六時中、俺を呼ぶだろう。セイモアを。……でも、俺は、普通は観えない。死んだムサ(人間)だ。そういうのは、よくないんだ……》
キシムは、眉間に皺を刻み、この言葉について考えた。すぐには、かえす言葉が見つからない。
キシムの脳裏に、昼間のラナの姿がうかんだ。セイモアを探して、右往左往していた。若狼の傍をかたときも離れず、世話を焼いていた。
あれは、ビーヴァがセイモアに憑依していると、知っている所以なのだろう。
たしかに……ビーヴァの姿がラナに観えたなら、どうふるまうか、予想できなくはない。だが、慣れるのではないか? 今の自分たちは、幽体にならずとも、言葉を交わしているのに――
「勝手だな」
――キシムの口調は、自分でも驚くほど暗く、冷たかった。
「お前の望みで、オレとは逢い、お前の都合で、ラナ様からは隠れるのか」
《……悪かったと、思っているんだ》
ビーヴァは、片手で顔を覆い、ゆっくり首を振った。額帯からこぼれた髪が、頬を隠した。
《死ぬ
「…………」
《それをすると、俺は、ケレ(悪霊)に堕ちてしまう。セイモアを巻きこんでしまう……。でも、》
「…………」
《どうしても……キシムに、逢いたかったんだ……》
話しながら、ビーヴァの声はどんどん小さく、か細くなり、遂には消えてしまった。
キシムは、小さく嘆息した。それから、彼に近づき、そっと抱きしめた。
ビーヴァは、きょとんと、眼を瞬いた。
《キシム?》
「ごめん……。お前が、死にたくて死んだわけじゃないってことを、忘れていた」
《…………》
「どんな形であれ、還って来てくれて嬉しかったって。伝えるのを、忘れていたよ……」
ビーヴァは、何もいわず、彼女を抱きかえした。しがみつくように。
そうだ。――キシムは、考えた。ビーヴァがケレ(悪霊)にならなかっただけでも、稀有なことなのだ。
現世につよい思いを残した死者の霊、テティ・ナムコへ旅立てない霊魂は、ときにケレとなる。特に、未練や恨み、憎しみといった負の感情は、
ビーヴァは若かった。ラナよりは上でも、キシムより年下で、カムロやエビより、ずっと若い。結婚もしていなかった。過去より未来が多く、将来への夢も、希望もあったはずだ。
故郷を、母を失い、乳兄妹(ラナ)を捕らわれた。シャマン(覡)の責を負い、
巫力のあるビーヴァが、理不尽なできごとに怒り、憎しみ、ケレに堕ちていても、不思議ではなかったのだ。
――いまさらのように、キシムは気づいた。
テティは、本来、自らムサ・ナムコにはたらきかけるものではない。巫覡が霊魂になって身を離れ、やっとまみえることの出来る存在だ。
テティ・ナムコへも地下の世界へも行かず、ムサ・ナムコを彷徨い、生者に影響をおよぼす霊魂を……ケレ、という……。
「…………!」
ビーヴァの腕のなかで、キシムは、ぞっとして眼を瞠った。
マシゥの礼儀どころの話ではない。自分と逢う度、ソーィエと話をする度に……青年がケレと化す可能性に、思い至ったのだ。
「ビーヴァ。お前……大丈夫なのか?」
改めて、彼に問うた。その声に含まれる不安に、気づいたのだろう。
《…………》
ビーヴァは顔をあげ、彼女を見た。かすかに、泣きだしそうな微笑を浮かべる。
そして、すうっと薄れ、消えてしまった。
キシムは、呆然と立ち尽くした。
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