雷神と白樺(3)



          3.


 ビーヴァは、最初こそエビやニルパなど年長の友人について行ったが、雪が降り始める頃には、独りで狩りに出掛けるようになった。手ぶらで帰ることも多かったが、繰り返すうちに、ウサギやライチョウなどの獲物を持ち帰るようになった。

 狩人がひとたび家を離れれば、数日もどらないことは多い。タミラとラナは案じたが、ケイジは、心配をおもてには出さなかった。森のなかで獲物を追う方法、足跡の見分け方、天候の読みとり方、夜を安全に過ごす方法、狩猟の道具のあつかい方、食糧の保存方法、など……狩りに必要なことは、これまでに全て教えてきた。ビーヴァが自らそれをこなすのを、父は確かめるだけだった。

 ある日、ビーヴァは、一頭のユゥク(大型の鹿)を仕留めた。

 モミの枝を組んでつくった即席のそりにユゥクを載せ、雪の中をひとり曳いて帰って来たビーヴァを、氏族のひとびとは、よろこんで迎えた。

 ユゥクは、森の民にとって特別な存在だ。一頭しとめれば、ナムコ(集落)のほぼ全員で分けることが出来る、というだけでなく。イェンタ・テティ(狩猟の女神)が守護するユゥクを得られるのは、女神の祝福をうけた証。一人前の狩人になった証だった。

 刺青を入れてから最初のユゥクを得るのに数年かかる者も多いなか、ひと月あまりでそれを成し遂げた青年を、大人たちは 『さすが、一の狩人の息子よ』 と褒め、末頼もしく見守った。

 ビーヴァ本人は、いつもは帰宅した自分をみて頷くだけだった父が、口の端をきゅっと結ぶ笑みをうかべ、子どもにするように頭に手を置くのではなく、仲間にするように肩を叩いてくれたのが、一番うれしかった。

 その日から、父と息子は、ほぼ交互に狩りに出かけた。

 イノシシやゴーナ(熊)など、数人で追い詰める方が効率的な狩りもあるが、ライチョウやキツネなど、単独で行う方がやりやすい場合もある。タミラを独りで家に残すのを避けるために、或いは狩猟の成果を競うように、二人は数日をともに過ごすと、交互に出かけることを繰り返した。

 吹雪の日、以外は。そうして、ひと冬を超えようとしていた。


 長い冬が終わる頃、蓄えていた食糧は乏しくなり、ムサ(人間)も森のテティ(動物たち)も飢え始める。毎年のことだが、その年は、当初の予想よりホウワゥ(鮭)が獲れなかった。木の実も少なかった。男たちは、前年よりしげく狩りにでかけ、肉を得ようとした。

 ホウワゥと木の実を主食とする、ほかの森のテティも、飢えに苦しんでいたのかもしれない。

 その日、ビーヴァは数日前に狩りにでかけ、まだ戻っていなかった。エビも、アムナ山の方角へ、ニルパとともに出掛けていた。男衆がまったくいないわけではなかったが、ゴーナ狩りの経験をもつ者は少なかった。

 女が、赤子を抱いて、川のほとりを歩いていた。少なくなった根雪から作る水ではなく、融けはじめた新鮮な川の水を、赤ん坊に与えたいと思ったのだ。彼女は独りではなく、数歩うしろを、夫が木桶を手に歩いていた。

 夫は腰にマライ(刀)を佩いていた。だから、全く警戒していなかった、というわけではない。

 サルヤナギの木立を抜け、陽光に透ける氷の間から、流れが顔を出している場所で。若い母親は、赤子を腕に抱いたまま腰を下ろし、片手の先を流れに浸した。冷たさに微笑み、早春の恵みを掌にすくいとろうとした。

 我が子を夫にあずかってもらおうと、顔を上げた彼女は、サルヤナギの木陰に、黒い影をみつけた。

 若い母親とゴーナ(熊)は、数秒、互いの目を見つめ合った。

 ゴーナの方も、単に水を飲むために川へ降りて来ていただけかもしれない。しかし、女は甲高い悲鳴をあげてしりもちをつき、膝にのせていた赤子が啼きだした。夫が、マライを手に前に出ると、ゴーナは後脚で立ち上がった。傍らのサルヤナギに片方の前脚をかけ、牙を剥き、威嚇の声をあげた。


 グルルゥオーオオウ……!


 咆哮は、周囲の木々の梢をふるわせ、数羽の小鳥を飛び立たせた。

 ケイジは妻とともに、王の家の前にいた。王と、今年の夏至の祭りについて話をしていた。傍らでは、ラナが、タミラに作ってもらった毬を手に、数人の子どもたちと遊んでいた。

 日差しは明るく、春の訪れを感じさせる暖かさで、不吉なことが起こるとは、誰も想像すらしていなかった。

 耳の奥を切り裂くような悲鳴につづき、猛るゴーナの咆哮が響いた。王とタミラがはっと息を呑んで方向を見定めたのとほぼ同時に、ケイジは走り出していた。不覚を悟り、舌打ちする。

 もう、遅い。

 ムサ(人間)が怒るゴーナと遭遇することは、即ち死を意味する。逃げても、ゴーナの方が足が速い。必ず追いつかれてしまう。戦っても、こちらは二本の腕とせいぜい槍一本だが、向こうは前脚だけでも十本の鋭い爪と、牙と顎がある。何より、恐ろしい膂力りょりょくにたちうちなど出来ないからだ。

 それでも、ケレ(悪霊)と化したゴーナがナムコ(集落)を襲うのなら、守らなければならない者たちがいた。

「タミラ、大人を集めろ! ラナ様は、子どもたちを!」

 ケイジは、振り向きざま、早口に指示を下した。タミラとラナが、頷いて動き出す。

「王はここで」

「いや、私も行く!」

 ケイジは自分の家に駆け戻ると、ゴーナ狩り用の槍を取りだした。犬たちを放つ。王は、弓矢と投弾帯を手にしていた。

 ケイジは、興奮して騒ぎ立てる犬たちとともに、川へ向かった。

「誰か、たすけてくれ……!」

 グルグルという遠雷のような唸り声に、かすれた男の悲鳴が重なって聞こえた。濃厚な血のにおいに、ケイジは眉根を寄せた。そこかしこに、鮮血が飛び散っている。

 折られたサルヤナギの枝の向こうに、川の流れが見えた。水辺に、若い女が倒れている。逃げようとしたところをゴーナの爪にやられたのか、背中から脇腹にかけ衣が破れ、どくどくと血が溢れ出していた。肉が裂け、血だまりのなかに黄色い大腿骨がのぞいている。まだ、息があった。弱々しく呻いて身をよじらせようとする傍らには、夫らしき若い男が、跪いていた。

 男の頬から首すじにかけても、べったりと血がついていた。折れたマライ(刀)をかざし、懸命に振っている。ケイジは、若者の名を思い出せず、彼の襟首をつかんで引っ張った。

「下がれ! どうした?」

「子どもが……」

 犬たちが、すかさず主人とゴーナの間に駆け込み、牙を剥いて威嚇する。筋肉が小山のように盛り上がったゴーナの足元を見遣り、ケイジは眼を細めた。

 己の血か、母親の血か。緋色に染まったおくるみの中に、赤子の頭が見えた。

 ゴーナの左肩には、男のマライの破片が刺さっていた。そちら側の毛皮が、血に濡れて光っている。ケイジは、絶望的な気持ちになった。

 手負いだ。

 ゴーナが吼えた。怒気と生ぐさい口臭が、ケイジの顔に、突風となって吹きつけた。


 ゴアアアァァァ……!


 ケイジは槍をかまえ、若者とゴーナの間に踏み出した。

「逃げろ、速く!」

「脚が……駄目だ。潰された」

「…………!」

 くずおれた男の下になった大腿から膝にかけて、血が溜まっていた。あらぬ方へ捻じれた膝関節は、ぴくとも動かない。急速に血の気を失っていく若者の顔を見て、ケイジは呼吸をとめた。

「ケイジ!」

 王の声とともに、数本の矢が、ゴーナの背に降って来た。ゴーナは、煩わしげに前脚を振って、一部を叩き落とした。犬たちが、《彼》の後脚に噛みついては、跳びさがる。ケイジは、ゴーナがひるんだ隙に、若者の身体を押しのけようとした。

「ケイジ!」

 王の声は悲鳴に近かった。ゴーナが、ふたたび後脚で立ち上がったのだ。血走った目でケイジを見据え、両の前脚を振りかざす。

 仕方がない。

 ケイジは、ゴーナの懐に踏み込んだ。磨いた黒曜石の槍をかまえ、下から、ゴーナのくびの急所を狙った。

 ゴフッという重い手ごたえと同時に、ゴーナの振った前脚が眼前に迫り、ケイジは跳びのいた。しかし、ゴーナの爪が、彼の左肩をかすった。肩から首にかけ、燃える松明を押し当てられたような痛みが走り、顎を殴られたケイジは、くらりとよろめいた。倒れている若者の傍らに、かろうじて踏みとどまる。

 ケイジの槍は、ゴーナの喉元に刺さっていた。苦痛と憤怒に我を忘れたゴーナは、左右の前脚を力任せに振り、槍の柄をへし折った。逃げ遅れた数匹の犬が、前脚に叩かれ、悲鳴をあげながら飛ばされた。

 ケイジは身をかがめ、折れた槍の柄を拾ったが、状況は悪くなる一方だった。頚動脈を斬られたゴーナは、赤い血を大量にまき散らしながら迫って来る。ケイジの頬もえぐられ、血が流れていた。

 断末魔のゴーナの狂気は、周囲にいるすべての生命を奪おうとしていた。

 ゴーナは、若者をかばうケイジに襲いかかった。一方の前脚を傷ついた肩にかけ、爪をめり込ませながらし掛かる。メキメキと鎖骨の砕ける音を聞きながら、ケイジは、折れた槍の柄を、眼前に迫ったゴーナの開いた口に突き刺した。

「ケイジ!」

 王は叫び、友を助けようと斬りかかったが、ゴーナの前脚に跳ねとばされた。男たちが、次々に矢と石の雨を降らせてくる。苦し紛れにゴーナの掻いた前脚は、ケイジの腹を引き裂いた。

 ケイジの意識は、そこで途切れた。


          **


 ビーヴァとエビが帰って来たとき、事件は、ほぼ終わっていた。

 若夫婦と赤子は、たすからなかった。ケイジが命懸けで救おうとした赤子は、既に体の半分をゴーナに食べられた後だった。悪霊に憑かれたゴーナが、ムサ(人間)を餌だと認識していたのかどうかまでは、わからない。

 ムサを襲うゴーナは、ケレ(悪霊)憑きだ。正常なゴーナは、決してナムコを襲わない。

 ナムコ(集落)の男たちは、総出で、ゴーナにとどめを刺した。およそ、彼らが普段おこなう『神送り』とはほど遠い、残虐な殺し方になってしまった。

 王は、ケイジからゴーナをひき離そうとしたとき、脚に傷を負ってしまった。ケイジに致命傷を負わされていたゴーナだったが、まだ力が残っていたのだ。

 ケイジは、重傷だった。

 仲間を助けようとした『一の狩人』は、左肩を砕かれ、美しい刺青の入っていた頬をえぐられ、右の腹部を引き裂かれていた。流した血は多く、どう見ても、救かるとは思われなかった。

 王は、親友のすがたに涙を流した。タミラとラナは勿論。むらびと達はみな、彼らの英雄に敬意をはらい、別れを惜しんだ。

 ケイジは自宅に運びこまれた。タミラとビーヴァが、夜を徹して看病したが、意識は朦朧としており、殆ど意味のある言葉を発することは出来なかった。何も食べることは出来ず、高熱を発し、五日後に還らぬ人となった。

 王は、泣き叫んだ。自らも傷を負っていたが、もがりの間じゅう、タミラとともに友の枕頭に寄り添い、霊魂をび戻そうとして声をあげた。

 けれども、死者が応えてくれることはなかった。


 ビーヴァは、茫然としていた。

 大人になったばかりの青年は、起きたことの重大さを受容しきれず、喋らなくなっていた。悪い夢を見ている気分だった。……父が死に、母が自分を抱いて泣き崩れても、彼の涙は、わずかに頬をぬらした程度だった。

 葬儀のために、父の亡骸をきよめ、衣をととのえている間も。狩り道具とトレン(板琴)と、テティ・ナムコ(霊魂の世界)へ案内する犬を二匹殺している間も――心は、どこか別のところに在って、身体は、他人から命じられるまま動いているように思われた。

「ビーヴァ」

 毛皮に包んだ父の遺体を祭壇においたとき、エビが話しかけてきた。後ろには、子どもを抱いたロキが、沈痛な面持ちで立っている。

「トレンも送るのか?」

「父さんが、好きだから……」

 エビは、心配そうにビーヴァを見詰め、頷いた。それからケイジを見て、唇を噛む。項垂れるビーヴァの視界のなかで、友は、身体の横にたらした拳を、力のかぎり握りしめていた。

「俺が、ナムコにいれば――」

 エビは、ぎりっと歯を噛み鳴らし、唸るように呟いた。

「そうしたら、アロゥ(氏族)は、狩人をもう一人喪っていただろうよ。」

 タミラが、ずずっと洟をすすりあげて言った。振り返るエビ夫婦に、泣き腫らした眼で応えた。

「エビ。ビーヴァも。ケレと戦うなんて、しとくれよ。かないっこないんだから……。ありがとう。気持ちだけで、充分だよ」

 ビーヴァは、エビが言いたいのはそんなことではないような気がした。しかし、エビはタミラの嘆きを受けとめ、素直に頷いた。

「そうですね。自重します」

 ロキは、葬儀の支度を手伝うため、タミラに寄り添ってその場を離れた。エビは二人を見送り、ぼそりと、ビーヴァに告げた。

「……ただ。俺は、ケイジを独りでは行かせなかった。独りきりで、戦わせたくなかったよ」

 ビーヴァは、無言でうなずいた。それが、彼らの悔いだった。

 ムサ(人間)がゴーナ(熊)に敵わないことなど、ケイジはよく知っていた。仲間の到着を待っていられないから、独りで向かっていったのだ。そこには、迷いも計算もなかった。考える余裕はなかったはずだ。

 自分ならどうしただろう……と、ビーヴァは考えた。同じ場面で、ひるまずにいられただろうか。けれども、『きっと、父さんがいれば出来た』と思えた。

 一緒なら、戦えたはずだった……。

「ずるいよ、ケイジ」

 エビは拳を握り、背筋を伸ばして、ケイジの遺体を見据えていた。まるで睨むような、熱い眼差しだった。

「俺は、あんたを超えたかったんだ。こんな死に方をされたら、もう一生、超えられないじゃないか」

「エビ」

「なあ? ビーヴァ」

 振り向いた友は、泣いていた。苦笑いをしながら。涙が、雪焼けした頬に透明な線を描いていた。

「ずるいよな、お前の親父。格好良すぎるぜ……」

 ビーヴァは、何と返事をしたらよいか解らなかった。エビが彼流に父をいたんでくれたことは理解できたが、言葉が見つからない。ただ、自分も泣きながら笑っていることに、彼は気づいた。ひきつった苦笑いを浮かべた頬を、涙が伝い落ちた。

 エビは腕を伸ばし、ビーヴァの背中を叩くと、そのまま肩に手をのせた。ぐいと引き寄せる。ビーヴァは、右腕の袖で目元をこすりながら、頷いた。

「ビーヴァ、よいか?」

 王が、火のついた松明を掲げ、声をかけてきた。肯いて場所を開ける青年の前で、目礼をし、祭壇に火を点ける。乾燥したベニマツの枝に放たれた炎は、緋く輝いて、ケイジを包んだ。

 弔いが始まる。いにしえの誓約に基づいてムサ(人間)を育てたモナ・テティ(火の女神)が、養い子の魂を、天の父の許へ還すのだ。

 王と母たちがうたう葬送のうたを聞きながら、ビーヴァは、炎の行方をいつまでも見詰めていた。





~『雷神と白樺』 完~

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