第二章 大地の牙(3)



          3


 翌朝、目覚めたビーヴァは、一瞬、己の目覚めた理由が解らず、瞬きをくりかえした。夏至をすぎた日の出は遅く、チューム(円錐住居)の中は薄暗い。隣で寝ていたはずのセイモアが、首をもたげ、冴えた蒼色の瞳で前方を見据えている。

 ビーヴァは、納得した。

『そう。これは、ユゥク(大型の鹿)だ』

 ユゥクの気配が、一、二、三頭……足音をたてることなく、チュームに近づいている。それで、起こされたのだ。

 先に気付いていたセイモアは、ビーヴァをふり返り、口をわずかに開けて牙を見せた。

〈狩りに行く?〉

『いや、このユゥクは重い。ムサ(人間)を乗せている』

〈ひとり(一頭)は、違う〉

『ムサが二人。それに、犬も』

〈まだ子どもだ。……もうひとり、来た〉

 ビーヴァは、ごく自然に、セイモアと意思を交わしていた。においと音で感知するユゥクの頭数に気をとられていると、聞きなれた声が飛び込んできた。

「ビーヴァ」

「…………!」

 キシムの声に、青年は我にかえり、軽く動揺した。――俺は、何をしていた?

 眠っていたソーィエが目を覚まし、ぐるりと身体をひねって起きあがった。セイモアが立ち上がり、ゆっくり尾をふりはじめる。そんな状況を知っているかのように、キシムの声は毅然と続けた。

「ビーヴァ、起きているんだろう?」

 それで、ビーヴァは身を起こし、チュームの入り口をおおう布をかきわけて外へ出た。ソーィエとセイモアが、彼の両脇につき従う。淡い紫の空気にひたされた森を背に、キシムとカムロが、ユゥクに乗って佇んでいた。

 カムロは、ビーヴァの様子を見ると、何故かしみじみ呟いた。

「なるほど……。お前の言うとおりだな、キシム」

 キシムはうなずくと、手綱を引き、ビーヴァの前へ進みでた。片手に、人を乗せていないユゥクの手綱を持っている。頭巾とつながった長衣の懐に、スレインの金赤毛がのぞいていた。

 キシムは、やや硬い表情で、彼を促した。

「マシゥを起こして、支度をしろ、ビーヴァ。出かけるぞ」



「いったい、どこへ行くのです?」

 マシゥは、ひときわ大きな牡ユゥクの首にしがみつき、おそるおそる訊ねた。突然 起こされ、有無を言わさずユゥクに乗せられ、ナムコ(集落)から連れ出されたのだ。キシムとシャナ族長(カムロ)は理由を告げず、ビーヴァも知らないようだった。

 彼の後ろで手綱をとるカムロが、肩をすくめて答えた。

「ワイール氏の長が、三日後に発ちたいと仰った。それまでに済ませたい、ということだ」

 何を? 何故、私まで?――的を外した返答に、疑問がつぎつぎ湧いてくる。しかし、カムロに答える気がなさそうなのを見て、マシゥは口をつぐんだ。そうでなくとも、走るユゥクの背に乗っていては、舌を噛みそうだ。

 キシムのユゥクが先頭を行き、ビーヴァが続く。ソーィエとセイモアは、主人の乗るユゥクの足もとを、前になり後になりしながら駆けていた。透明な日の光をあびて毛皮は輝き、高く揚げた尾は、ふさふさ楽しげに揺れている。

 木々のあいだから覗く景色に、マシゥは息を呑んだ。

 森は、南東へ向かって、ゆるやかな下り坂になっている。その先には、ロマナ湖が、銀の水面みなもをひろげていた。対岸の森は黒々と遠く、昇ったばかりの太陽が、湖に反射して煌めいている。空はどこまでも高く澄み、浮かぶ雲は白く輝いていた。

 空を映す女神(ロマナ湖)の頬を、クルトゥク(南風)が細波をたてて走り、谷を一気に駆け上がって、木々の梢を揺らす。

 ユゥクの毛皮からは、熟れたマツの実と濃いコケの匂いがした。


 ビーヴァは、自分たちが南西へ向かっていることに気付いた。キシムのユゥクが速度をおとした機会に、轡を並べ、話しかける。

「どこへ行くんだ?」

 キシムは、瑪瑙色の瞳で、ちらりと彼を一瞥した。

「分からないか?」

「ああ……」

「そうか。お前の仲間は、知っているようだがな」

 キシムは、じゃれながら駆けている二匹を顎で示し、ぶっきらぼうに言った。ビーヴァは、返事に困って眉根を寄せた。ソーィエとセイモアがはしゃぐのはいつものことで、何処へだろうと、出かけられれば嬉しいのだろうが――

 そうして、気づく。

 風がふわりと巻き、ベニマツの梢を、黒い影がかすめた。ワタリガラスだ。一羽、二羽……巨大な翼をひろげ、悠然と、彼らを見下ろしている。周囲には、小鳥たちの姿があった。くるくると軽快に鳴きながら群れ飛び、ワタリガラスを恐れている風はない。

 木々の枝から枝へ、長い尾を旗のようになびかせて、跳ねる影があった。リスたちは、時折立ち止まって大きな瞳で彼らを見詰め、先端に毛の生えた耳をひくひく動かすと、また跳ぶことを繰り返した。彼らの速度に合わせ、遊んでいるらしい。

 地上にも、気配があった。草と木々の幹の間を、茶や灰色の影が駆けぬける。セイモアとソーィエを警戒して、すがたは表さないが、低くうなる声が聞こえた。

 速い息づかいが、前方から、或いは、後ろから追いついては去っていく。ウサギやキツネ、ネズミといった小さなものたちだけでなく、ユゥクやルプス(狼)、アンバ(虎)といった大型のテティ(神霊)の気配まで……。

 ビーヴァは、風の音を聴くように彼らの声を聴き、においを嗅ぎ、意思の流れに身をひたした。思考の輪郭が融け、彼我の境界があいまいになる。ムサ(人)とテティ、肉体と魂、喰うものと喰われるものの差異を超え――雪解けのしずくが集まって小さな流れとなり、やがて川となるように――ひとつのものを目指す、おおいなる意志を感じた。

「…………」

 ビーヴァは、ユゥクの手綱を取りながら、一瞬のためらいも畏れもなく、意識を拡げていた。その様子に、キシムとカムロは気づいた。

 カムロは感嘆をこめてキシムを見遣ったが、男装のシャム(巫女)は眉根を寄せ、苦々しげに首を振った。


          *


 一行は、途中、ユゥクのため二度休憩した。マシゥは、ビーヴァがいつも以上に無口だと思った。移動中はユゥクの首筋に掌をあてて考えこみ、食事中も、ソーィエかセイモアと無言で《会話》をしているように見える。

 常に森の気配に耳をかたむけ、人間の仲間といることを意識していないようなビーヴァを、マシゥは不思議とこそ思え、嫌だとは感じなかった(なのだと、認識していた)。青年の思索を遮らぬよう、キシムとシャナ族長も、気を遣っている。

 彼らは、ゆるやかな山の斜面を登っていった。

 ユゥクの歩調は次第に遅くなり、やがて、ひと足ひと足を踏みしめる、力強い歩みとなった。セイモアとソーィエも、頭を下げ、口を開けて舌を出し、荒い息を吐いている。それでも、左右に揺れる尾は楽しげだ。キシムの懐にいるスレインは、疲れを知らぬ涼しい顔をしていた。

 太陽が西へ傾き、山々の影がながく伸びて森をおおう頃。一行は、目的地にたどり着いた。

 天高く伸びたベニマツが日差しを遮る、うすぐらい森の深部。突然あらわれた崖が、行く手を遮った。苔むした巨大な岩が、ほぼ垂直にそびえている。土をかぶった岩肌には、木の根や蔦が這い、上方から滴る雪解け水が、そのおもてを濡らしていた。

「…………」

 キシムは、無言でユゥクを立ち止まらせると、細い身体をしならせ、すらりと降りた。すかさず、スレインが彼(彼女)の懐から跳びだし、やわらかな下草の上に降り立つ。前脚をつっぱって気持ち良さそうに欠伸をする仔狼には構わず、キシムは、大岩に近づいて行った。

 ビーヴァがユゥクを降り、カムロも降りた。マシゥは、彼らのように軽やかとはいかず、氏族長の手を借りなければならなかった。苦労して自分の足で立ち、ユゥクの背にくくりつけて来た杖を外す。

 カムロが、キシムに声をかけた。

「ここか」

 同時に、ふうーっと息を吐く。訊くというより、確認する口調だった。

 人ひとりがやっと通れるくらいの岩の裂け目に手をあてていたキシムは、肯いて、男たちを振り向いた。

「そう、ここだ」

 彼の足もとでは、ソーィエたちが興味津々、岩のにおいを嗅いでいる。カムロは、軽く肩をすくめた。

「本当に、使者どのも連れて行くのか?」

「ああ」

 キシムは迷うことなく肯き、強い眼差しをマシゥに当てた。彼の動揺を見透かし、毅然と言う。

「お前も、オレたちと同じ。テティ(神霊)の加護をうけ、ふたつの世界の間で生きる者だ。解るだろう?」

『いったい、何の話ですか……』 マシゥは問いたかったが、キシムの気迫に呑まれ、黙っていた。ごくりと唾を飲む。

 キシムは、ビーヴァに視線を移し、呼びかけた。

「ビーヴァ」

 セイモアたちをぼんやり眺めていたビーヴァが、顔を上げる。

 キシムの声が、低く変わった。

「ビーヴァ。タミラの息子、アロゥ族のシャマン(覡)……テティの声を聴き、テティとムサ(人)の間に生きる者よ」

 ビーヴァは黙っていたが、その眼がわずかにみひらかれ、黒曜石の瞳に澄んだ光が宿るのが、マシゥにも分かった。

 カムロは、胸の前で腕を組み、片方の脚に重心を移した。

 キシムは、腰帯に差していた細い骨製の杖を抜き、先端をまっすぐビーヴァへむけた。

「我、汝に問う。汝、テティの霊力ちからを得て、シャマンとして、ムサ・ナムコ(人間の世界・現世)に留まるか。それとも――」

 キシムの眼が、射るように細められた。

「ムサたるを捨て、テティ(神霊)とともに、かの世界へ赴くか」

「……キシム」

 ビーヴァは、はっとして口を開いた。躊躇いが言葉になる前に、キシムは続けた。

「いずれをも拒み、ムサともテティともつかぬものになり果て、世界の狭間を永遠にさまようか」

「俺は――」

 ビーヴァは囁いた。視線が揺れ、マシゥとカムロを顧みる。しかし、マシゥには意味がわからず、カムロは眼を伏せていた。

 キシムの口調が、元に戻った。杖の切っ先を下げ、いたわるように言った。

「自分でも解るだろう? ビーヴァ。お前は森で、己を保つことが出来ない。このままでは、テティに呑まれ、半端なケレ(悪霊)になってしまう」

「…………」

 ビーヴァは、傍らのセイモアを見下ろした。

 若いルプス(狼)とソーィエは、次に何が始まるのかと、期待に満ちた瞳で彼を見上げていた。二匹とも両耳をぴんとたて、豊かな長い尾を、ぱふぱふ振っている。待ち切れずに駆けだし、キシムの足元をすり抜けて、岩の裂け目にたどり着く。暗がりに鼻を突っこんでふんふん嗅ぎ、ビーヴァのもとへ駆けもどると、誘うように跳ねる動作を繰り返した。

 二匹の興奮を理解しながら、ビーヴァの気持ちは沈んでいた。

 セイモアたちとともに、〈狩り〉へ行きたい。ユゥクの群れを追い、森を抜け、ハヴァイ山を越えて。或いは、ロカム(鷲)の翼に乗り、渡り鳥を追って、北の空へ。湖にもぐり、川をさかのぼる、ホウワゥ(鮭の仲間)のごとく。母の死も、王との別れも、ラナとエビのことも忘れて――

 いにしえのシャマン(覡)が月に惹かれたように、遠く、遠くへ。うつしみを離れる彼の魂に、キシムは気づいていた。

『当然か……』ビーヴァは、自嘲気味に思った。セイモアに憑依している間、あれだけはっきり、王とラナの巫力を感じたのだ。キシムに、解らぬはずがない。


『世界の狭間を永遠にさまようか。』


 シャム(巫女)の言葉は、ビーヴァの胸に重く響いた。

 彼は眼を閉じ、眼を開け、改めてキシムに顔を向けた。

「――いや、キシム」

 答えながら、ビーヴァは、自分が淡く微笑んでいることに気づいた。言葉にすることで、何かが心の中で落ち着くところを得たようだった。

「俺は、まだ、テティにはなれない。ここ(現世)で、しなければならないことがある」

『だから、ごめん。狩りは、もうしばらく待っていてくれ』胸の奥で呟き、片目を閉じる。足元のセイモアとソーィエが しゅんと尾を下げる仕草が、見えるようだった。

「…………」

 カムロはビーヴァの言葉を聴くと、腕組みをしたまま、キシムに視線を向けた。マシゥもまた、二人を交互に見遣った。こちらは、言葉の意味が解らない。

 キシムは、身体の横に杖を下げ、眉を曇らせてビーヴァを見詰めた。青年の答えに納得していないどころか、かえって不安をかき立てられたようだ。軽く息を吐き、かすかに首を横に振り、片手を挙げて男たちを促した。

「……ならば、行こう。早くしないと、日が沈んでしまう」

「ああ」

 ビーヴァは肯くと、ユゥクの手綱をカムロに預け、歩き出した。全て承知している風情で、セイモアとソーィエが、いそいそと従う。マシゥは、カムロに背中を押され、うろたえた。

「私も、ですか?」

「ああ、そうだ」

 キシムはスレインを抱き上げ、ユゥクの手綱とともに、カムロに手渡した。三頭のユゥクと〈あいのこ〉とともに残る氏族長は、眼を細めて岩の裂け目を眺めると、厳しい表情をキシムへ向けた。

「三日後に、迎えに来る」

 キシムは、皮製の荷袋を肩に負い、シャムの杖とマラィ(刀)を腰に佩きながら、紅い瞳で氏族長を見返した。

 カムロは、硬い口調で繰り返した。

「三日後の日暮れまでに、戻ってこい。必ずだ」

「分かった」

「ビーヴァ」

 男たち二人を順に見て、カムロは頷いた。

「使者どの。キシムを、よろしく頼む」

「わかりました」

 マシゥは声に出して答え、ビーヴァは頷いた。キシムは、ぴくりと片方の眉を跳ねあげたが、黙って踵を返した。

 毛の生えている面を内側にした頭巾をかぶり、荷を負いなおしたキシムは、最初に岩の裂け目に入って行った。痩身で肩幅も決して広くはない彼女だったが、数歩いくと、身を縦にしなければ進むことが出来なかった。それでも、迷うことなく奥へ進んでいく。

 続いてソーィエが、とがった耳をぴんとたて、尾を旗のように掲げて入って行った。

 マシゥは戸惑っていた。ビーヴァに着るよう勧められ、彼らと同じ毛皮の上着を着たものの、まだ自分の参加する理由について考えあぐねていた。……今さら引き返せないと思いなおし、意を決して足を踏み出す。セイモアが、彼を護るようについていった。

「…………」

 ビーヴァは振り返り、シャナ族長に頭を下げると、最後に穴に入った。

 カムロは、ふんふん落ちつきなく鼻を鳴らすスレインを抱いたまま、彼らを見送った。湿った岩壁を荷袋がこする音、ソーィエの鼻息、マシゥが息を呑む声などがかすかに聞こえていたが、やがてそうした音も聞こえなくなる。

 彼らは、闇の中へ、完全に消えた。

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