第二章 大地の牙(4)



          4


 岩の中に入ると、辺りはすぐに真っ暗になった。行く手はおろか、自分の身体すら見えない。掌にふれるごつごつとした岩肌と、鼻腔をとおる風の音、土をこする靴音が、かろうじて己の存在を示している。一年を通じて日の当たることのない洞穴は冷え冷えとして、からだの芯まで凍える心地がした。

 マシゥは、早くも後悔しはじめていた。森の民との差は、充分理解したはずではなかったか。寒さに耐える能力も、森を駆け抜ける脚力も、南方で暮らしてきた自分とは、比べものにならない。それなのに、こんなところまでついて来て、どうしようと言うのか……。

 大岩の裂け目から続く道は、マシゥがやっと通れる幅しかない。闇にはこちらを押しつぶしそうな威圧感があり、恐怖が波のようにおしよせて、彼の息を詰まらせた。

「気をつけろ。そこに段差がある」

 キシムは、時折ふりむいて注意を促した。しかし、左腕を吊り、杖をついて進むマシゥは、どうしても遅れがちだった。『そこ』が何処か判らず、足を踏み外してよろめき、尻もちをついてしまう。思わず、情けない声があがった。

「いててて……」

「大丈夫か?」

 キシムより先にソーィエが、くんくん鼻を鳴らして引き返してきた。後ろからセイモアが、肩に大きな頭をのせてくる。二匹に挟まれ、マシゥは、ますます身動きがとれなくなった。ざらりとした舌で首筋を舐められ、熱っぽい息をかけられて、悲鳴を呑む。

 微笑を含むなめらかな声が、降りてきた。

「大丈夫か、マシゥ」

「ああ、ビーヴァ。……どこだ?」

 ビーヴァが腕を掴み、立ちあがらせてくれた。ソーィエがマシゥの片方の袖を咥え、セイモアが額で腰を押してくる。すがたは見えないが、あたたかな気配が彼を支えた。

 ビーヴァが問う。

「キシム、ここは――」

「そうだ」

 闇の向こうから、ややくぐもった声が答えた。先へ進んでいるらしい。

「昔。オレたちの祖先が掘った、抜け穴だ」

『抜け穴。では、これがずっと続くわけではないのだな』そう考えるマシゥの思考を読むかのごとく、キシムは続けた。

「狭いが、我慢しろ。もう少し先へ行けば、火を点けられる場所へ出る」

「…………」

「ソーィエにつかまって、マシゥ」

 ビーヴァが、小声で促した。

「ソーィエが、案内する。……貴方のことが心配で、仕方ないんだ」

 言葉と同時に、豊かな尾が膝をたたき、マシゥは思わず微笑んだ。ソーィエにとって自分は、世話の焼ける仔犬のようなものなのだろう。ありがたく、厚意に甘えることにした。

 マシゥがソーィエの肩に手を置くと、ソーィエは、鼻を挙げて自信たっぷりに歩きはじめた。

 道は左右に曲がりながら、少しずつ下っていった。狭いのは相変わらずだが、人の手で整えられたと聞くと、マシゥの不安は和らいだ。何度目かの角を曲がり、つき出た岩の間をすり抜けていると、それが目に入った。

『光?』

 ぼんやりとした細い線が、縦に走っていた。近づくにつれて横にひろがり、周囲の岩肌や、ソーィエの毛並みを照らした。だが、外の明かりにしては薄暗い。しかも、

『青い……』

 マシゥは、溜息を呑んだ。

 目前に、巨大な氷の壁がそびえていた。岩の断崖をおおい、天をふさぐ。そこを通る陽光は、反射を繰りかえして白く濁り、青灰色に染まっていた。どれほど厚く、空がどれほど遠いのか、判らない。

 立ちつくすマシゥの後ろで、ビーヴァの声が、茫然とひびいた。

「これは、氷河?」

「そうだ」

 先にたどり着いて待っていたキシムが、振り向いて答えた。ソーィエが、マシゥの手を離れ、彼(彼女)の足元に駆けよる。その頭を撫で、キシムは天井を見上げた。

「日暮れ前に、間に合ったな。夏の間しか入れない、氷の洞窟だ」

「…………」

 マシゥは、声もなく辺りを見渡した。


 ハヴァイ山脈の谷間を埋める厚い氷河。何万年もかけて積み重なった氷の下、大地との間にできたわずかな隙間に、彼らはいた。巨人がのみで粗く削ったような天井は、高くまるく彎曲し、ごつごつした面には、細かな氷柱がびっしりと貼りついている。圧しつぶされた氷塊には、鋭い亀裂が幾本も走り、そこで反射する蒼い光は、重なるほどに影を帯びて、底へ近づくほど暗く、深い藍色に変わっていた。

 吐息が白くなり、マシゥは洞窟の寒さに気づいた。冷気が頭上から降りてきて、足元に溜まっている。身ぶるいがして、岩の中はまだここより暖かだったのだと思い知らされた。

 そして、

「ああ。日が沈む……」

 キシムが囁いた。

 ビーヴァとマシゥは、彼女の視線を追って上を見上げた。深い湖の底から、空を仰いでいる気分になる。

 遠くかがやく光源は、黄色から燈色、緋色へと染まり、碧から紫色へとうつり変わる光の環を描いていた。太陽が西へ傾くにつれ、より鮮やかな紅へ変わり、氷の裂け目から斜めに差しこむ、長い光の帯となる。迫りくる宵闇との境界で、光は金と銀の粉を散らした。

 マシゥは、刻々と移り変わる日差しを見詰めながら、レイム(太陽神)の聖句を呟いた。

 ……やがて、陽光は濃紺へ融け、彼らは再び、つめたい闇に包まれた。


 カチリと音がして、小さな光が閃いた。キシムが岩に腰をおろし、持参した苔に火を点けたのだ。乾燥した苔は、またたく間に明るく燃えあがる。キシムは、樹皮と小枝を積んで火を大きくした。

 ビーヴァが近寄り、獣脂をぬった木の枝に炎をうつしとった。明かりが増えると、気温も上がったように感じられる。マシゥは、火のありがたみを痛感した。

「今夜はここで休もう」

 キシムが言った。荷袋のなかから、木の実を潰して焼きかためた食べ物(シム)を取りだす。ソーィエとセイモアの尾が、元気にゆれ始めた。

 ビーヴァも腰をおろし、肩にかけていた袋から、木の皮に包んだホウワゥ(鮭)の身を取りだした。ソーィエとセイモアに一切れずつ与え、人間の分は、火のそばに並べる。キシムは、シムと、シラカバの木筒にいれた酒を、薪の上に置いた。

 マシゥは、彼らの荷物のほとんどが、燃料だと気付いた。

 彼らは毛皮の外衣を着ていたが、氷河の洞窟は、真冬なみに冷えこんだ。三人は、出来るかぎり火に近づき、間にねそべるソーィエとセイモアの毛皮に手を入れた。炙ったホウワゥから、香ばしい香りが立ちのぼる。

 シムをかじり、あたたかい酒を一口呑んで、ようやくマシゥは人心地がついた。

「これから、何があるのですか?」

 炎に照らされて、吐息が白く渦を巻く。キシムは、口の中のホウワゥを飲みこんでから答えた。

「オレたちのテティ……森を守るテティ(守護神)がいるんだ」

 そう言って、ビーヴァを見る。青年が、セイモアの肩を掻きながら、真摯な眼差しでこちらを見ているのを確かめて続けた。

「森に棲む、全てのテティ(神霊)の長。大地のテティ。かつて、ムサ(人間)を導き、北へと去って行った……最後のひとりが、眠っている」

「…………?」

 マシゥが理解できずにいると、ビーヴァが穏やかな口調で説明した。

「マモント(マンモス)だ」

「マモント?」

「俺達は、《大牙のテティ》と呼んでいる。ゴーナ(熊)よりも巨きい、小山のような身体を持ち、長い毛と、鼻と、太い脚と、曲がった牙を持つ。……聞いたことは?」

 マシゥは、首を横に振るしかなかった。想像するのも恐ろしかったが、ビーヴァは、さして驚く風もなく頷いた。キシムへ向きなおる。

「俺も、会うのは初めてだ……。いるのか、本当に?」

 キシムは肯くと、腰につけていたシャム(巫女)の杖を取り出した。乳白色にかがやく細い杖の、尖った先端を指でたどる。

「オレの氏族に伝わるものだ。昔、マモント・テティの牙から削り出したと言われている」

 ビーヴァは思い出した。以前、意図せずロカム(鷲)に憑依してしまったとき、彼の霊魂を身体にもどした杖だ。左の掌に、あの時の傷痕が残っている。

 キシムは、底光りのする瞳で彼を見据えた。

「テティ(神霊)は、オレたちをたすけてくれる。霊力ちからのあるテティは、それだけ、大きなたすけとなる。今、オレたち森に棲むものを救うのに、マモントほど強いテティはいないだろう」

「…………」

 ビーヴァは、否定も肯定もしなかった。ソーィエの肩に手を置き、首周りを掻きながら、黙ってキシムを見返した。黒曜石を想わせる澄んだ瞳が、何か考えに耽っていることに、マシゥも気付いた。

 キシムは軽く肩をすくめ、話を打ち切った。

「寝よう。明日は、もっと歩くからな」


          *


 翌朝、マシゥは、あつい毛に包まれて目覚めた。ソーィエとセイモアが、彼の両側にねそべっていた。ビーヴァが指示したのだろう。もふもふの毛に半ば噎せながら見ると、キシムとビーヴァはすでに旅装を整え、焚き火が消えるのを待っているところだった。

 火の神を崇拝する森の民は、熾した火を故意に消すことはせず、自然に燃え尽きるのを待つ。焚き火のかたわらに片膝をついていたキシムは、マシゥが目覚めたことに気づいて声をかけた。

「起きたか。食べるか?」

 今朝は、干したユゥク(大型の鹿)の肉を火であぶっていた。新鮮な木の実もある。マシゥは身を起こし、フウロソウのお茶で口を湿らせ、肉を齧った。ソーィエとセイモアが、分けてくれと言わんばかりに鼻を寄せてくる。しかし、マシゥが肉を裂いて差しだしても、二匹はにおいを嗅ぐだけで、食べようとはしなかった。

「もう、食べている」

 ビーヴァが、新しいたいまつに、最後の火をうつしとりながら言った。

「腹は空いていない。気にしないでくれ」

 青年は、火を掲げると、洞窟の壁際にそって歩き始めた。ひとつひとつ、岩の割れ目をのぞきこむ。

 焦ったマシゥが、肉を飲みこんで噎せると、キシムは笑った。

「急がなくていい。今日は、ここよりずっと深くまで行く。しっかり食べておいた方がいいぞ」

『深く?』

 声を出せないマシゥに、キシムは肯いた。

「テティの棲む氷河の底まで、氷の下を通って行く。寒いから、毛皮を着ておけ」

 マシゥは茶のぬくもりを噛みしめるように飲み、外衣の襟を合わせ直した。彼の支度が出来たころ、ビーヴァが戻って来た。気のせいか、頬は少しこわばっている。

「確かに深いな、キシム。それに暗い……。灯りを増やした方がよさそうだ」

 それで、彼らはさらに二つのたいまつを作り、一つずつ持つことにした。夜目と鼻の利く二頭が、先に立つ。終始はしゃいでいるソーィエとセイモアは、先に在るものを知っているようだった。


 洞窟は、彼らが横に並んで裕に歩けるほど広かった。キシムの言葉通り、道は下り坂だ。氷の天井ごしに淡く輝いていた朝日は、すぐに暗くにごり、遠い光の点でしかなくなった。

 三人は、藍色の闇と冷気がよどむ氷河の底を、灯火をかざして進んだ。ごつごつした岩壁がせり出して狭くなっている場所では、ともしびを持ちかえなければならなかった。マシゥの左腕と弱った脚は、しばしば持ち主の期待を裏切り、彼を苛つかせたが、キシムとビーヴァは辛抱強く、彼の速度に合わせていた。

 どれくらい、歩き続けただろう。

 寒いだけでなく、乾燥している洞内で、マシゥがのどの渇きを覚え始めた頃。ソーィエとセイモアの二匹が、ふと立ち止まった。

 二匹とも、とがった耳をぴんとたて、鼻を挙げて空気のにおいを嗅いだ。すんすんと音を鳴らし、豊かな尾を横に振って身構える。――ソーィエとセイモアは、ほぼ同時に駆けだした。凍った岩盤に爪が当たり、硬い音をたてる。

 氷河が大地とぶつかる場所、時と雪がその重量で山をけずった断面に、二匹は駆け寄ると、氷の裂け目に鼻を突っ込み、ガリガリと掻いた。


 ウオッフ、グルルル……、ワン、ワン、ワン!


 ソーィエは振り返り、獲物を報せる声で吼えた。ビーヴァが追い付くのを待って、氷河の壁に向き直る。セイモアは、低く唸り続けていた。毛でおおわれた足指をひらき、凍土を掻く。

「どうした。いったい――」

 二匹の行動を訝しみつつ近づいたビーヴァは、息を呑んだ。

「ビーヴァ。……!」

 後ろから声をかけたマシゥも、絶句してしまう。

 果てが見えないほど高くそびえた氷の中に、黒い影が沈んでいた。にごった雪に埋もれ、凍りついている。……セイモアが唸って掘りだそうとしているのは、ユゥク(大型の鹿)のようだった。曲がった枝角と耳の形は判るが、首から胴はあらぬ方向へよじれ、圧し潰されている。

「…………」

 ビーヴァは、一歩後ずさりして、松明を掲げた。緋色に揺れる炎に照らし出される雪壁に、眼を凝らす。

 ひとつ……ふたつ。ユゥクの他にも、氷に埋もれた影が見えた。みっつ……よっつ。ウサギやリス、小鳥の姿を見分けて、ビーヴァは眼を細めた。何百、何千年という歳月の間に、氷の割れ目に堕ち、凍りついたテティ(動物)たちだった。氷河に運ばれ、ここに集まっているのだ。

 小さなゴーナ(熊)や、アンバ(虎)。信じられないほど長い牙を生やした獣(サーベル・タイガー)の姿をみつけ、マシゥはぞっとした。もしかしたら、人もいるかもしれない。

 氷河の中では、生き物のからだは腐ることなく、往時の姿を留めている。みひらいた眼も、毛のひとすじも。想いさえ、永久にそのまま――

「キシム」

 キシムは黙って、仲間の様子を眺めていた。ビーヴァが呼ぶと、彼(彼女)は頷き、シャム(巫女)の杖の先で、行く手を示した。

 氷と闇が接する境界に、ひときわ巨きな影が、うずくまっていた。



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