第二章 大地の牙(5)



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『これが、マモント(マンモス)……』

 マシゥは、ごくりと唾を飲んだ。杖をついた右手に松明を掲げ、眼を凝らす。

 最初は、大きな岩の塊に見えた。それから、黒褐色の長い毛に覆われていることに気づく。マシゥの脳裡に、牡牛の姿が浮かんだ。牛と、ゴーナ(熊)が合わさったような獣だ。しかも、それらの何倍も巨きい。

 氷河が岩盤に乗りあげた狭間に、《それ》はいた。二本の前脚を折りまげ、跪くような姿勢で。後ろ脚の一方は凍土にしずみ、もう一方は見えない。盛りあがった肩の筋肉は頭より高くそびえ、その下には、ふちの裂けた耳が垂れている。

 特徴的な剛毛の奥に、小さな眼が見えた。闇を宿して、表情はうかがえない。角はなかった。しかし、上唇とひとつになった鼻は、子どもの胴ほどの太さがあり、長くのびた先は前脚に届いていた。その根元から、巨大な灰白色の牙が腕をひろげるように伸び、三日月形に反りかえった先端は、氷の壁を突きやぶっている。

 ソーィエは吼えるのを止め、首周りから背中の毛を逆立てた。尾を旗のようにあげ、四本の足に力をこめて、あるじの前に立つ。セイモアは、ビーヴァの皮靴に肩をこすりつけた。

 ビーヴァは二匹にかまわず、マシゥと同じように灯火を掲げ、佇んでいた。

 キシムは、少し離れて、彼らの様子を見守っている。

「…………」

 やがて、ビーヴァは軽く息をつくと、無言で《それ》に近づいた。左手に松明を持ち、手甲をはめた右手をのばす。そっと、マモントを包む氷の壁に触れる。こけた頬の筋肉をたどり、瞳を覗きこもうとしたが、彼の息がふれた氷の表面が白くくもったので、はっと瞬きした。

 マシゥは、ビーヴァがひどく悲しげな表情で、壁から手を離すのを見た。ほかの動物たちと同様、遠い昔にここへ閉じこめられ、時に置き去りにされた《彼ら》の境遇を、憐れんでいるのだろう……。


「それで?」

 マシゥは、キシムを振り向いた。男装のシャム(巫女)は、岩の上に胡坐を組み、火を熾しているところだった。

「どうするんだ。掘り出して、牙を採るのか?」

「そんなことはしない」

 マシゥの言葉に、ビーヴァも彼(彼女)を振り向いた。キシムは火のそばにかがんで、酒の入った木筒を温めていた。

「そんなことをしなくても、テティ(神霊)は力をかしてくれる……。二人とも、こっちへ来い」

 ソーィエが、期待に尾をふり、駆けていく。ビーヴァとマシゥは顔を見合わせ、ゆっくり《彼》について行った。

 セイモアは、マモントを護るかのように、その場に留まっている。

 キシムは荷をほどき、新しい樹皮や薪や毛皮を、焚き火の周りにひろげた。サルヤナギの枝から即席のイトゥ(御幣)を作り、ユゥク(大型の鹿)の角から削りだしたマラィ(刀)や翡翠の玉などとともに並べる。

 男たちは、薪に松明をたてかけ、毛皮に腰をおろして、キシムの作業を見守った。

「時間がない」

 キシムは、炭をつついて火を大きくしながら、硬い口調で言った。

「テティに逢えるのは、モナ(火)に護られている間だけだ。モナが去れば、オレ達は閉じこめられてしまう。目的を見失うな。帰りのみちすじを、たがえることがあってはならない。」

 ビーヴァは神妙にうなずき、声に出して応えた。

「わかった」

 彼らのやりとりを、マシゥは不得要領なまま聞いていたのだが、キシムが温めた酒を木の椀にそそぎ、赤い粉を振りかけて彼の方へさし出したので、ぎょっとした。

 ビーヴァも驚いた口調になった。

「マシゥも連れて行くのか?」

「もちろんだ」

 自分の酒と薬を器にそそぎ、あおるように干すと、キシムは、据わった目つきで言った。

「テティの加護がなければ、冬の森をこえて行くことはできない。だから、ビーヴァ、お前が頼りだ」

「…………」

 ビーヴァは、困ったように椀の中を見ていたが、マシゥの視線を受けると、あわく微笑んでみせた。無言で頷き、薬酒を口へはこぶ。

 器を受けとったものの、マシゥは畏れ、戸惑い続けていたが、キシムにじろり睨まれると――ここまで来て、今さら何を迷う? 私の生命は、既に彼らが握っているのだ。――赤く染まった酒を、ぐいと飲んだ。

 途端に、のどが燃えあがる。

 酒の刺激だけではない。苦いものが口にひろがり、マシゥは噎せた。思わず、椀をとり落としてしまう。片手で口を覆い背を丸めて耐える彼を、ソーィエがのぞきこむ。

「大丈夫か? マシゥ」

 ビーヴァに答えようとしても、声を出すことが出来ない。呼吸とともに焼けつくような痛みが胸を走り、彼は呻いた。灼熱感に耐えきれず眼を閉じると、まぶたのうらが紅く染まって見えた。

 ソーィエが、くんくん鼻を鳴らす。キシムの叱責が頭にひびく。

「マシゥ! しっかりしろ」

「キシム。これは、いったい――」

 マシゥが喘ぎながら言いかけた時、殴られたような衝撃が胃のをえぐり、呼吸がとまった。たまらず倒れこむ彼の顔に、ソーィエが鼻を押し当てる。キシムに肩を掴まれながら、彼の意識は遠のいていった。

「マシゥ!」


 どれくらい経ったのか。

 肩をゆすぶられてマシゥが気づくと、彼は、洞窟の底に倒れていた。焚き火は、先刻と同様、明るく燃えている。キシムの声と、首筋を舐めるソーィエの舌にこたえて身を起こそうとした時、奇妙な感覚に襲われた。

「…………?」

 薬酒の熱は、嘘のように消えていた。キシムに肩を支えられて立ちあがると、何か、冷たいものが――するり、身体の中心を通り抜けた。ギョッとして振り返る。足元に倒れている己の姿が目に入り、マシゥは仰天した。

「キ、キシム」

「黙れ」

 キシムの口調は厳しく、素っ気なかった。見ると、彼(彼女)も焚き火のそばに横たわっていた。マシゥの腕を掴んでいる”もうひとりのキシム”は、蒼ざめた顔でこちらを見かえしている。その輪郭は、闇を背にぼうと輝き、肩や衣の裾が白く透けている。

 ソーィエは、マシゥの身を気遣って、クンクン啼きつづけている。

「…………!」

 マシゥはソーィエとともに、〈自分の身体〉を確認した。顔色が悪く、死んだように動かない。あらためて”己”の手を眺めると、痛みもなく自由に動かせるようになった左の掌から、焚き火の炎が透けて見えた。

「…………」

 彼は、曖昧に理解した。何故これが起きたのかはわからないが、何が生じているのかは想像することが出来た。――ただ夢を見ているだけかもしれなかったが。

 少なくとも、独りではない。


 マシゥの傍らには、ビーヴァも身を横たえていた。青白い顔をしているが、表情はきわめて穏やかだ。

 ソーィエは、三人の身を案じて、しきりに鼻でつついている。セイモアは動かず、氷河の壁の前に立ち続けている。

 キシムは、マシゥが落ち着いたとみると傍らを離れ、セイモアの方へ歩いて行った。マシゥは、彼(彼女)について行った。

「キシム。ビーヴァは?」

「先に行った」

 そう言って、氷河を指す。すらりと伸びた白い指先に視線を向け、マシゥは瞬きをくりかえした。

「行ったって……この中に?」

「そうだ」

 キシムは、右手にシャム(巫女)の杖を持ち、眼前にかかげた。そのまま、壁に押し当てる。かたい氷の表面に、一瞬、蒼白い光の波紋が拡がると、彼(彼女)の手はずぶずぶ中に沈み始めた。

 目をまるくするマシゥに、キシムは左手をさしだした。

「行くぞ! オレ達も」

「あ、ああ……」

 ひるむむ間もなく、再び腕を掴まれる。マシゥは覚悟した。眼を閉じ、氷河の壁に体をぶつけると、当然あるはずの硬さや痛みとは違う、重い衝撃に呑みこまれた。


『うわ、うわわーっ!』


 冷気も熱も感じなかった。絞めつける恐ろしい力に呼吸が出来ず、心臓が止まりそうな心地がした。『これは、耐えられない……』 キシムに訴えたくとも、声が出せない。

 死の恐怖に、マシゥは動くことが出来なくなった。

「ちっ……」

 キシムは舌打ちすると、彼の腕をぐいと引き寄せた。自身も息をつまらせながら、逃げ場をさがす。重圧のなか、上方にわずかな敵意の切れ目を察知し、マシゥを抱えて跳びあがった。

 そうだ。これは、敵意だ。

 キシムは――マシゥも、理解した。闇に充ち、彼らを圧し潰そうとしているのは、敵意だった。永年にわたって重い氷河にとじこめられ、潰され、流されてきた神霊(テティ)たちの嘆きと絶望が、生あるものへの憎しみと化したのだろうか。

 マシゥがかろうじて眼を開けると、闇のなか、うごめく巨大な影が見えた。いくつも……盛り上がり、渦を巻き、ときに押し寄せ、二人を圧倒する。

 冷厳な絶望。

 腕をのばし押しとどめようとするキシムの手の中で、シャムの杖がよわよわしい光を放つ。彼(彼女)のなかから、淡い黄色の光が出て、二人を包んだ。……数秒後、キャンと啼き、はじけ、縮こまり、小柄なキツネの姿に変わった。耳を寝かせ、尾をまいてふるえながら、キシムの足元にうずくまる。

 鳥やリスなど、マシゥにも判る姿のテティたちが、彼らの周囲に現れては消えた。

 キシムは歯を喰いしばった。

「オレのテティ(守護霊)では、敵わない……」

「かなわないって――」

「このままでは、消される」

「…………!」

 マシゥは、ぞっとして彼(彼女)の横顔を見詰めた。身体の芯が凍りそうに感じた。

 キシムは毅然と顔をあげ、かすれた声をはりあげた。

「ビーヴァ!」

 押し寄せる闇に、杖をかざして抗いながら、彼(彼女)はんだ。

「ビーヴァ、何処にいる?」

『ビーヴァ、ビーヴァ! 助けてくれ!』

 両手で耳をおおい、声にならない声で、マシゥは叫んだ。と――遠く、犬の吼える声が聞こえた。あれは、ソーィエかセイモアか……。逃げる方向を教えているのか?

 出口を求めて周囲を見渡す、マシゥの視界の隅で、蒼い光が瞬いた。

 キシムの声に安堵が交じった。

「ビーヴァ!」

「……そこにいるのか。キシム?」

 闇の底から、涼しい声がした。ビーヴァの言葉は、二人の頭の中に反響した。

 あわい光の中に佇む、ビーヴァの姿が見えた。片手を額帯ひたいおびのうえにかざし、不思議そうに二人を見上げている。かざした掌が、ぼんやり光っている。

 青年の口調は、腹立たしいほどのんびりしていた。

「マシゥ、どうしたんだ?」

「どうした、って……」

 絶句する。その間にも胸を締めつけられ、彼は喘いだ。キシムが、外衣の襟元を掴んで引き起こしてくれる。苦い声だった。

巫力ちからをかしてくれ、ビーヴァ。オレたちでは、敵わない」

「…………」

 二人がどうして苦しんでいるのか理解できない、といった表情で、ビーヴァは彼らを観ていたが、キシムの言葉を聞くと、何かないか周囲を探す身ぶりをした。そうして、腰に佩いていた短刀を鞘ごと抜き、辺りを掃く仕草をする。

 なめらかな声が、歌うように唱えた。


「プルシュヌギン クゥイヌィギン テヤグァル ウル ヴィヤ(モミとサルヤナギの木立を歩いて行け)

 タ ウィキラン クォグル イヴル、クォグァル ヴィヤ(よからぬ考えを抱かず、滑らかな心で歩いて行け)……」


 マシゥには、ひどくじれったい時間だった。

 ビーヴァの刀から風が生まれ、闇を動かした。濃い霧を吹くように、風が闇をふき祓う。その下から、碧色にかがやく草の波が現れた。風は、渦を巻きながら上へと昇り、宙に浮かぶ二人のもとへ届いた。頬に冷たい空気の流れを感じたマシゥは、急に、呼吸が楽になった。

 キシムは、凝然と眼をみひらいた。

 闇がすっかり消え去ると、キシムとマシゥは、夏の森の上空を飛んでいるのだと分かった。晴れた空に白い雲が浮かび、はるか頭上では、太陽が金色に輝いている。雪を頂いた山々が、日差しを反射している。風にゆれる木立の葉ずれの音と、鳥たちの鳴き声が、辺りに響いている。

 足下のビーヴァは、腰ほど高さのある草の中に佇んでいた。風が、青年の長い黒髪と、外衣の裾をはためかせる。その傍らを流れる小川は、空と日光を反射して、銀色に煌めいている。

 くさむらを跳ねる、ウサギの姿が見えた。綿のような尾が、ぴこぴこ揺れて行く。キツネの赤毛が、流れるように後を追う。

 ユゥクの群れが穏やかに草を食み、長い牙のテティ(サーベルタイガー)が、木立のなかからそれを見詰めていた。

「ここは、いったい……」

 キシムは呟いた。先ほどまで苦痛に喘いでいた彼(彼女)の守護霊たちは、今はすこやかに伸びをし、或いは羽ばたいて、二人の周囲に浮いていた。


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