第二章 大地の牙(6)
6
夢のなかで、夢をみているようだった。
マシゥは呆然と眼をこすり、瞬きをくりかえした。なにがどうなっているのか、さっぱり解らない。敵意と恐怖の闇は跡形なく消え、のどかな光景がひろがっている。
キシムも、言葉がみつからない様子だった。
草原に立っていたビーヴァの背に、巨大な灰褐色の翼があらわれ、ばさりと音をたてて舞いあがった。編んだ髪を鞭のようになびかせ、二人のところへ昇って来る。近づくと、翼はビーヴァの身体に生えているわけではなく、肩にとまったロカム(鷲)のものだと判った。――青年よりも大きなロカムだ。羽ばたきの起こす風が、魔よけの縁取りの施された袖をはためかせ、彼らの頬を叩く。鋭い黄金の瞳に見据えられ、マシゥは息を呑んだ。
ビーヴァは、鞘に収められたままの刀をかるく振って腰にもどすと、怪訝そうに二人を見た。キシムが、ほっと息をつく。
「助かった、ビーヴァ。ここは? ハヴァイ山の裏か?」
「違う」
青年の口調はいつも通り穏やかだが、その身体がやや透けていることに、マシゥは気づいた。
「俺たちは、氷河のなかにいる。テティ(神霊)の世界……《彼ら》の記憶のなかだ」
「記憶?」
キシムの声は、まだ掠れていた。ビーヴァは、かるく眉をくもらせた。
「そうだ……。マモント(マンモス)たちの生きていた頃は、こうだったらしい」
『何年前の話だ?』 マシゥは、声に出さず考えた。
『何百年……いや、何千年も昔のことかもしれない。』
万年雪に閉ざされた山のなかとは思えない。草の葉は青々とながく伸び、森の木々は濃い緑の葉をしげらせている。吹き渡る風はひやりとしていたが、陽光はぽかぽかとあたたかく、マシゥは故郷を思い出した。
太古は、気候が全く違っていたのだろうか?
改めて、畏怖の念を抱かずにいられない……。マシゥは、溜息まじりに呟いた。
「我々は、ここにいていいのか?」
マシゥの問いに、ビーヴァは彼をふりむいた。怜悧な瞳が、真っ直ぐ彼を映す。
「何故? マシゥ」
「ビーヴァ。だって、あの敵意は――」
「敵意?」
何のことか分からないという風に、ビーヴァは首をかしげた。数秒後、問いの意味を理解して、微かに唇を歪めた。
「ああ……。あれは貴方だ、マシゥ」
「え?」
「《彼ら》に、敵意はない。……先刻のあれは、貴方が生み出したものだ。マシゥ。危うく、自分で自分を圧し潰すところだった」
「……ええ?」
思わず、口をぽかんと開けてしまう。
ビーヴァはそれ以上言わず、視線を逸らした。キシムの背後から現れた胴の長いキツネや、白鳥のテティ(守護霊)に、手をさしのべる。キシムのテティたちは、どこか嬉しそうに、彼に身をすりよせた。
ロカム(鷲)は、金色の瞳を煌めかせて、仲間たちを見下ろしている。
マシゥは、ビーヴァの言葉の意味を考えた。『自分で自分を?』 生ある全てのものを圧し潰そうとしていたあの闇が、己の中にあると言うのか?
戸惑う彼をみかねて、キシムが声をかけた。
「マシゥ」
「キシム。……すまない。あんなことになるとは」
「お前の所為じゃない」
キシムは、ゆっくり首を横に振った。蒼白い光にふちどられた髪が、仕草に揺れる。
「敵意は、
キシムは、肩をすくめた。
「オレに、余裕がなかった。ゆるしてくれ」
「いや、キシム。私こそ――」
それで、マシゥとキシムは、互いにあやまり合うことになった。
恐縮しあう二人を尻目に、ビーヴァは草原を眺めていた。キツネのテティの下顎を掻いてやりながら、何かを探している。やがて、目標をみつけると、愉快そうに瞳を輝かせた。肩にとまったロカム(鷲)に、小声で囁きかける。
「見つけた。先に行くぞ」
そう、二人に告げるや否や、ロカムの翼をたたみ、急降下を始めた。
「おい、ビーヴァ!」
キシムは慌てて後を追おうとしたが、
「ええい、仕方がない!」
後を追い、飛び下りる。
マシゥは、再び声にならない悲鳴をあげる羽目になった。
『わあああーっ!』
マシゥの眼に、ビーヴァはロカムとひとつになって見えた。頭を下に石つぶてさながら落下していく姿に、恐れや迷いは感じられない。
ロカム・テティは木々の梢の高さまで降下すると、すばやく翼をひろげ、速度をゆるめた。風切り羽が笛のような音を立てる。一瞬遅れて、ビーヴァの衣の袖が、風をはらんで帆のように膨らんだ。
やわらかな風になびく草地へ、ロカムは環をえがきながら、ゆっくり降りていった。それと交叉する軌跡を描いて、ビーヴァがふわりと着地する。キシムも、音もなく降り立った。
優雅な彼らとは対照的に、マシゥは、どさりと尻もちをついた。反射的に腰に手をやり、痛みのないことに気づく。
地上に降りてはじめて、草原が膝下まで水に浸っていることが分かった。透明な流れと草の茂る島の間を、ビーヴァは真っ直ぐ歩いていく。
キシムは、行き先を知っているかのように、彼について行く。
マシゥは草に足をとられ、すぐには立ち上がることが出来なかった。それ以上に――怪我はなく、痛みもなかったが。心が痛かった。もとより、彼らの足手まといだという自覚はあるのだが。
『待ってくれ、二人とも』という言葉を、彼は呑みこんだ。
ビーヴァは、森へ向かって歩きつづけた。木立の手前で、湿原を流れる数本の川が合流し、浅い池をつくっている。その岸に、大きな岩があった。――否、
赤褐色の岩肌が、風に撫でられて色を変える。灰色から緋色の波が、
『岩ではない……』
マシゥは息を呑み、キシムは自分の腰に片手をあてて立ち止まった。
まだ子どものマモント(マンモス)だった。濡れた草の中に、うずくまっている。牙は生えていない。くるくる巻いた毛の間から、黒い小さな瞳が、彼らを見詰めた。
「ビーヴァ」
マシゥは、息だけで青年を呼んだ。キシムも、どうしたものか、という顔をしている。
ビーヴァは二人に構わず、怯むことなく《彼》に近づくと、手甲をはめた手でそっと鼻に触れた。低い声で、穏やかに話しかける。
マモントの仔は、大きな耳を動かし、短い鼻をぷらぷら揺らしながら、ビーヴァの声を聴いた。
ロカム(鷲)は、マモントの仔を驚かさないよう、彼らの頭上をゆっくり旋回している。
「キシム。あれ」
マシゥは、キシムの腕に触れて囁いた。キシムが無言で頷く。
二人は、マモントの仔の後ろ脚が、何かに捕らわれていることに気づいた。崩れた池の岸辺、木の根と草が複雑にからみあった隙間に、はまりこんでいるらしい。――どれくらいの時を、そこで過ごしていたのか。腹の毛まで濡れたマモントは、おとなしくビーヴァに背を撫でられていたが、疲れているようにも見えた。
「…………!」
彼らの頭上を旋回していたロカム(鷲)が、つと離れ、ひときわ高いシラカバの梢に羽をおろした。何気なくそちらを見遣ったマシゥは、今度こそ息を止め、瞠目した。
キシムも気がついた。傍らで、するどく息を呑む。
森の入口に、闇が口を開けていた。
「お、おい。ビーヴァ……」
そろそろと息を吐きながら、青年を呼ぶ。マシゥの足は、地に生えたように動かなかった。
キシムは、シャム(巫女)の杖を手に取った。ビーヴァの身に危険が及ぶようなら、すぐ跳び出す覚悟だ。
「…………」
ビーヴァは、マモントの仔の肩に片手を置き、しずかに森と対峙していた。木陰に融けるように佇む、闇色の影に。――いつからそこにいたのだろう。長い褐色の毛におおわれた成獣のマモントが、彼らを見下ろしていた。
とがった三角形の頭は、ベニマツ(チョウセンゴヨウ)の頂きに達している。先の黒い剛毛は、小さな目を覆いかくそうとしている。太く長くのびた鼻は、前脚の先に届いていた。そこから伸びる牙は、一本……ぐるりと長大な円を描き、乳白色に輝いている。
敵意は感じられなかった。……だからと言って、おそろしくないとは言えない。マシゥは、ごくりと唾を飲みこんだ。キシムは、杖を構えている。
ふと、マモントの仔が身じろぎをした。背後の森を振りかえろうとする仕草に、ビーヴァは気づき、《彼》に視線を向けた。そうして、あわく微笑む。
「お前の親たちか。良かったね」
『なにがいいんだよ、ビーヴァ』
マシゥは、背筋を冷たい汗が流れるのを感じた。それまで一頭だと思っていた成獣のマモントが……森にひそむ影が、ひとつではないと気づいたのだ。声がふるえるのを、どうすることも出来ない。
「ビ、ビーヴァ……」
「待っていて」
ビーヴァは、普段と変わらない平静さで呟くと、マモントの仔の足元に身をかがめた。浅い水の中に片膝をつく。衣が濡れるのも構わず腕をつっこみ、《彼》の後ろ脚に絡んだ木の根と草を、ほどこうとした。
「…………!」
マシゥは、キシムが舌打ちをしたことに気付いた。森の中から、今度ははっきりと、マモントたちが姿をあらわしたのだ。
音をたてず、小枝ひとつ折ることもなく、五頭の巨大なテティ(神霊)たちが、ビーヴァの行為を見ようと近寄って来た。先頭の個体の牙は一本だったが、ほかの四頭には、それぞれ立派な二本の牙が生えていた。
マモントの仔は、溜息のような息を吐くと、成獣にくらべれば短く細い鼻を持ちあげた。一本牙のマモントが、握手さながら鼻先でそれに触れる。身体のわりに小さな黒い瞳が、ビーヴァの作業を見守った。
マモントたちは、じわじわと、彼らを囲む環を狭めていった。
「ビーヴァ。――」
キシムが、眼前に杖の切っ先を構えた姿勢で、何事かを言いかけた。青年は、木の根を解くことに専念している。シャムは、彼に任せることにしたらしい。口を閉じ、わずかに杖の先を下げた。
「……よし。これで大丈夫」
ビーヴァが満足げに言って、立ちあがった。マモントの仔も立ち上がり、一歩を踏み出した。後ろ脚がするりと抜け、二歩、三歩と歩み出す。
成獣のマモントたちは、後ずさりして環をひろげ、《彼》を迎える仕草をした。よろめくマモントの仔を労わり、鼻でしきりに撫でさする。
一本牙のマモントは、仲間を護るように前に出ると、ビーヴァたちの正面に立った。
「…………」
ビーヴァは、恐れる風もなく《彼ら》を見上げた。気負いのない態度は、普段から《彼ら》の傍らで暮らしているかのようだ。――ビーヴァなら、そうかもしれない。と、マシゥは思った。
この、神霊とひとの世界の狭間で生きる青年には、魂の所属する過去と現在の時間差など、どうでもよいのかもしれない。
マモントは、穏やかな眼差しで青年を見詰め、太い鼻をわずかに動かした。おもむろに、体を左右に揺らす。ゆっくり、ゆっくりと。そうすることで、巨体を動かすことが可能になるかのように。しずかに向きを変え、森へ戻ってゆく。
巨きな成獣たちに護られて、マモントの仔が《彼ら》の足元をちょこちょこと歩く姿を目にし、ビーヴァは微笑んだ。
ワォンワォンワォン! ウォッフ、オッフ。
ヨーオーオー、グルルル……グォオン! オン、ウォッフ、ウォッフ……。
どこか遠くから聴きなれた声が聞こえ、マシゥは耳をすませた。ビーヴァとキシムも、はっとする。
「……ソーィエか」
ビーヴァが呟いた途端、空から冷気が降りてきたように感じられ、マシゥはぶるっと身を震わせた。ほんとうに、ズンと
マモントたちは彼らに構わず、森の中へと入っていく。
突然、世界が現実感を失くした。きらめく水面も、風にそよぐ草の葉も、青空にそびえる木々の梢も……全てが平板に、薄くなったように見えた。淡い霧を透かして眺めているかのように。……霧はまたたくうちに濃くなり、辺りは急に薄暗くなった。
「ビーヴァ」
キシムが、硬い声で呼んだ。
「ビーヴァ。これ以上、ここにいるのは無理だ」
「ああ」
寒さはいよいよ重く、厳しくなっている。狂ったように彼らを
ビーヴァは肯き、キシムとともに、両側からマシゥの肩を支えた。
「帰ろう」
*
「どうやら、無事なようだな」
岩の裂け目の前で。三頭のユゥクとともに、腕組みをして佇んでいたカムロ(シャナ族の族長)は、一同をざっと眺め、こう言った。スレインが、さっそく駆け寄り、ソーィエとセイモアに挨拶をする。嬉しげににおいを嗅ぎ合い、尾をふって駆け回る三匹を見おろして、キシムはほっと息をついた。
「おかげさまで」
「逢えたのか?」
カムロの問いに、キシムは目でビーヴァを示した。青年がマモントの牙を背負っているのを見て、カムロは頷いた。
マモントたちと別れたのち、マシゥたちは、もといた洞窟内で意識をとりもどした。霊魂だけで、ほぼ一日テティ(神霊)の世界にいて、戻って来たのだ。火の消えた洞内は闇にしずみ、冷え切っていた。体温の低下した三人を心配して、ソーィエとセイモアが、喚び戻してくれたのだ。
テティとの邂逅が自分にとって何を意味するのか、マシゥには理解できなかった。しかし、ビーヴァの傍らには、あのマモントの大牙が横たわっていた。
そこからまた一日をかけて、岩の前に戻って来たのだ。
カムロの眉間の皺は消えず、この男には珍しく、眼差しは沈鬱だった。
「どうした?」
無事に任務を遂行したというのに。族長の表情が晴れないことをいぶかしみ、キシムは首をかしげた。
「ナムコ(村)で、何かあったのか?」
「ああ……」
右手を顎にあてがい、言いよどむ。カムロは、キシムからビーヴァへ、ビーヴァからマシゥへ視線を移し、またキシムを見ると、眼を伏せた。舌打ちし、唇を噛む。
なんとも歯切れが悪い。
キシムは、いらいらと片方の眉を跳ねあげた。紅玉髄の瞳がきらりと光るのを見て、カムロは肩をすくめた。
「ラナ様が、還って来たんだ」
溜息まじりに告げる。その言葉に、ビーヴァは目をみひらき、キシムとマシゥは顔を見合わせた。
マシゥは訊ねようとした。
「それでは――」
「だが、」
言葉を遮る勢いで、カムロは続けた。一同に横顔を向け、ぎりりと歯ぎしりする。
「トゥークが、一緒だ」
「…………」
ビーヴァは、目をみひらいたまま、呼吸を止めた。咄嗟に何と言ってよいか、わからない。
それは、キシムとマシゥも同じだった。
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