第二章 大地の牙(2)



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 サルゥ川上流の流れは速く、川幅はせまかった。大きな一枚岩のうえを滑り落ち、ひとかかえもある石の間をすり抜ける。陽光を反射して銀色に輝くしぶきを、時折、紅い腹をしたホウワゥ(秋鮭)が跳びこえる。

 額帯ひたいおびを巻き、樹皮衣の裾をからげたワイール族の男たちが、数人、川の中に立っていた。目を凝らして、流れをさかのぼるホウワゥの姿を探し、ここぞという瞬間、手にしたマレク(突き鉤)を投げつける。

 ユゥク(大型の鹿)の角から削りだしたマレクには、ブドウツルの紐がついていて、魚を突いた瞬間、柄から外れる仕組みになっている。男たちは、魚を引き上げると、岸辺へ放り投げた。

 待ち構えていた仲間たちは、地面の上で踊るホウワゥをつかむと、特製のイトゥ(神幣)で頭を叩き、とどめをさした。黒曜石の小刀で腹を割き、内臓をとりだす。身はひらいて乾燥させ、燻製にして保存するのだ。

 籠を持った子どもたちが、内臓を集めてまわっていた。

 ワイール氏の族長は、岸辺の岩の上に立ち、腕組みをして、男たちの仕事を眺めていた。腰にはマラィ(大刀)を提げ、長槍を携えている。この季節、遡上するホウワゥを狙っているのは、ムサ(人間)だけではない。ゴーナ(熊)やアンバ(虎)、クズリといった大型のテティ(神霊)に出くわさぬよう、警戒しているのだ。

 長の上衣に描かれたワタリガラスの紋様が、風をふくんで翼のようにひろがった。

 ビーヴァたちの先を歩いてきたソーィエ、セイモア、スレインの三匹は、魚のにおいに鼻をひくつかせ、興奮気味に尾を振った。いちばん小さなスレインが、きゃんきゃん声をあげたので、ワイール族長は振り向いた。

 マシゥに合わせてゆっくり歩いてきたビーヴァは、ワタリガラスの長(ワイール氏族長)と目があい、足をとめて会釈した。キシムも、片手を挙げる。マシゥは、二人の仕草に気付いて顔を上げた。

 長は、仲間に長槍をあずけると、ひらりと岩から降り、彼らのもとへやって来た。

「使者どの。具合はどうだ?」

「ありがとうございます。ずいぶん、楽になりました」

 長は、鋭いまなざしをマシゥの顔に当て、言葉が嘘ではないと判断して、肯いた。

「確かに。顔色が良くなった」

「大漁ですか?」

 キシムが、マレクを投げる男たちを眺めて訊く。長は、腰にさげたマラィの柄に片手をのせ、彼(彼女)を見た。

「ああ。あのようなことが起きても、ロマナとサルゥのテティ(川の女神)は、いつもと変わらず、ホウワゥを授けて下さる。ありがたいことだ」

「本当に――」

「三日もすれば、我らは、ここを離れることが出来る」

「…………」

 キシムは口を閉じた。マシゥが、はっと息を呑む。長は、重々しく頷いた。

「エールベ(トゥークの父・犬使い)とトゥークが、奴らのところに居た、ということは……この地も、既に知られているということだ。我らは、北へ移動する。アロゥ族の同胞も、我らとともに行く予定だ」

 長がビーヴァを見ると、青年は眼を伏せ、己の考えに沈んでいた。片手で、白いルプス(狼)の頭を撫でている。

 マシゥは、苦い思いを噛みしめた。

「申し訳ありません。私の力が足りず、こんな――」

「いや」

 長は、首を横に振った。眉間に皺をきざむ。

「そういう状況でなかったことは、聞いている。使者どのが、ディールを庇って傷を負われたことも……。改めて、礼を言う」

「いえ……」

「トゥークのことは、私にも責任がある」

 長の口調は淡々としていたが、表情は苦渋に満ちていた。眼を細め、対岸を一瞥し、改めて彼らを見る。髭に覆われた唇をゆがめ、囁いた。

「もう、誰も傷ついては欲しくない故、ここを離れるのだ」

「…………」

「ところで、」

 言葉を失くすマシゥから、長は、キシムへ視線を戻した。ゆっくりと、歩き出す。ソーィエが、早速、前にたって尾を上げた。

「シラカバの兄弟(シャナ族の別称)の支度はよいのか? 魚を獲る姿を見かけぬが」

「オレ達は、ナムコ(村)へ戻るから、よいのです」

 キシムは、軽く肩をすくめた。足もとを跳ねるスレインを踏んでしまわぬよう気をつけて、氏族長と歩調を合わせる。

「カムロの指示で、ナムコ(集落)にいる者が、移動の準備をしています。ロコンタ族も。オレ達は、一度帰ってから、ハヴァイ山へ向かいます」

「そうか……。ならば、貴公に頼めるだろうか」

「何ですか?」

 氏族長は、ロカム(鷲)のように遠いまなざしで、キシムを見た。

「ディールの母のことだ。他へ嫁することなく、これまでずっと、息子と二人で生きてきたのだ。無論、我らが養うつもりだが……その、辛いのではないかと思って、な」

 己の思索に耽っていたビーヴァが、『息子と二人で生きてきた』言葉に反応して、おもてを上げた。未だ夢の中にいるような表情だ。それを視界の隅にとらえつつ、キシムは、複雑な気分になった。

「もとは、ロコンタ族の人でしたね。カムロに言ってみます。しかし――」

 自分の義母になるはずだった女性の気持ちを推しはかると、キシムは、胸が苦しくなった。

「今は、どこへ行こうと、辛さに変わりはないと思います」

「……余計な気遣いか」

 長は溜息をつき、首を振った。キシムは、慰める言葉を思いつけなかった。



 一行は、ワイール族の集落へ戻ってきた。森の木々のあいだに、特徴的な三角の家(円錐住居・チューム)が建っている。においを嗅ぎつけて、ナムコの犬たちが吼え始めた。よそものを警戒しているのだ。

 ソーィエは足を止めて鼻を鳴らし、スレインとセイモアは、背中の毛を逆立てた。

 ビーヴァは腰をかがめ、ソーィエとセイモアの首に腕をまわした。ソーィエはすぐに落ち着いたが、セイモアは耳をぴんと立て、四本の足に力を入れている。――先日、テサウ砦で受けた傷の所為だろうと、キシムは思った。

 ナムコの中心には、丸太の椅子が並んでいた。カムロ(シャナ族の族長)とロコンタ氏の族長が、それぞれ数人の氏族の男を連れて座っている。族長たちは、各々の氏族の集落とこの地を往復して、準備を整えてきた。今日は、久しぶりに顔を合わせたのだ。

 ワイール族長は、片手を挙げて挨拶しながら、彼らに近づいて行った。

「ワタリガラスの兄上、サルゥ・テティ(川の女神)のご機嫌は、いかがか?」

 年下のカムロが、立って迎える。ワイール族長は頷いた。

「上々だ。おかげで冬を越せそうだ」

「それは何よりだ」

 長が腰をおろすのを待って、カムロは座りなおした。ビーヴァは、セイモアとソーィエの傍らに片膝をつく。キシムとマシゥは、立ったまま、長たちの後ろに控えた。

 ロコンタ族の長が、胸をおおう髭に片手を当てて言った。

「我らの支度もできた故、そろそろ発つべきかと、話していた。同胞(ワイール族とアロゥ族)のために、ユゥクの群れは置いて行く。世話する者を残して行こう」

「そうしてくれると、助かる」

 ワイール族長の声に、安堵が交じった。

「生きたユゥクの群れを連れて移動するのは、我々には難しい故」

「承知した。では、この二人に任せよう」

 ロコンタ族長は、身振りで傍らの仲間を示した。ワイール族長は、眼を細めて彼らを見た。

「よろしく頼む。ブルカ(シャナ族とロコンタ族の集落のある川の名)沿いに、ハヴァイ山へ向かわれるのか?」

 ロコンタ族長とカムロは、同時に頷いた。カムロが説明する。

「夏のナムコ(シャナ族とロコンタ族は、冬と夏とで集落を使い分ける)を片付け、南からハヴァイ山を越えるつもりだ」

「そうか。気をつけて行かれよ。無事に合流できることを、祈っている」

 親密な交流をつづけてきた族長たちは、やや寂しげだった。


 会話がひと段落したのを見計らって、キシムが声をかけた。

「カムロ、ロコンタの長も。ご相談したいことがあります」

「なんだ、キシム。改まって」

 カムロは、片方の眉をあげて彼(彼女)を見た。ロコンタ族とワイール族の長も、振り返る。キシムは、かしこまるマシゥの肩に片手をあてた。

「使者どののことです。マシゥを、どうやって、故郷へ帰したらよいでしょうか」

「…………」

 氏族長たちは、顔を見合わせた。ロコンタ族長は、亡き兄(アロゥ族長)によく似た黒い眸で、マシゥを見詰めた。

「その問題があったな」

「帰すって?」

 カムロは、半ば怒ったように問い返した。

「何処へだ、キシム。今さら、奴らのところへなど。殺されてしまうぞ」

「そうではない。ロマナの南、エクレイタ族の故郷へだ」

「ええ?」

「どれくらい、遠いのだ?」

 ワイール族長が、胸の前で腕を組みなおして問うた。ビーヴァも、犬たちの背に手を置き、興味深げに首を傾けている。

 マシゥは、この地までの行程を思いだし、静かに答えた。

「王のいるむらから、船で十日、川をさかのぼりました。湖まで七日間、森を歩きました。犬橇で迎えに来ていただき、そこから十二、三日はかかったと思います」

「三十日……ほぼ、ひと月か」

 ワイール族長は、片手の指を折って数えたのち、溜息をついた。

 ロコンタ族長は、眉を曇らせた。

「時期が、よくないな。今から食糧を集め、舟を作っていたのでは、冬になってしまう。ロマナは凍り、川も凍る。その身体では、犬橇は使えまい」

「俺達とともに行けばいい」

 カムロが、勢いよく言った。腕を伸ばし、マシゥの肩を掴んだ。

「使者どの。我々とずっと一緒に暮らしてはどうだ。シャナ族は歓迎するぞ」

「カムロ」

 キシムがたしなめる。マシゥは、微笑みを浮かべて答えた。

「ありがとうございます。しかし、やはり私は……帰ろうと思います」

「…………」

 初めて口にした決意に、一同は口を閉じ、彼を見詰めた。

『そうだ。私は、帰らなければならない』――口に出すことで、心が決まった。マシゥは、ひとことひとことを、己に言い聞かせるように続けた。

「皆さんのご厚意に、感謝します。でも、私は帰って、この地のことを王に伝えます。貴方がたのことを」

 ごくり、唾をのむ。マシゥは、長たちの視線を、まっすぐに受け止めた。

「コルデの非道と裏切りを、伝えます。エクレイタの民は、戦いを望んでいません。王のちからで、奴らを罰していただきます」

「…………」

 氏族長たちは、顔を見合わせることはしなかった。他の男たちも。無言でマシゥを見詰め、彼の言葉の意味を考える。

 やがて、ロコンタ族長が、穏やかに応えた。

「そうなれば、よいな」

「必ず……」

「あまり、無理をするな、使者どの」

 カムロが、深いいたわりをこめて言った。

「貴公はもう、我々の仲間だ。せっかく助かった命を、無駄にして欲しくない」

「…………」

「まずは、身をいとえ」

 ワイール族長が、カムロの言葉を継いだ。

「時間は、まだある。傷を癒やし、その間に、よく考えるがいい。それに――」

 猛禽をおもわせる氏族長の瞳に、獲物をねらう鋭い光が宿るのを、マシゥは見た。ひくく抑えた声で、長は続けた。

「――我らとて。女たちを救いだし、王と仲間の仇を討つことを、諦めたわけではない」

「…………」

 マシゥは呼吸を止め、それから、深く頭を下げた。ワイール氏族長だけではない。カムロも、ロコンタ族長も――その場にいる男たち、全員の内に宿る決意を、理解したのだ。


 この様子を、キシムは胸の前で腕を組み、ビーヴァは、セイモアの額を指先で掻きながら、見守っていた。


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