第二章 大地の牙

第二章 大地の牙(1)



          1


 ヒュイイィーッという高い声が、雲ひとつない蒼天に響いた。数秒後、力強い羽ばたきが風をおこし、ベニマツの梢を揺らした。黒い影が、大地をさっと横切る。

 大木の根元に腰をおろしていたマシゥは、思わず首をすくめて仰ぎ見た。ぱらぱらと降りかかる木の葉の向こうで、ロカム(鷲)の白い尾羽が、ちらりと閃く。彼の足もとで苔に鼻を突っ込んでいるスレイン(金赤毛の狼犬)と、隣で胡坐を組んで木を削っているキシムは、動じる様子はない。

 マシゥは、すっかり臆病になってしまった自分に、溜息をついた。

 王が殺されたあの日から、一か月が過ぎようとしていた。

 アロゥ族の危機に集結した森の民だったが、氏族長たちは、攫われた女たちを救いだす、有効な手段を見いだせぬままだった。故地を離れ、ハヴァイ山脈の向こうへ避難することになったが、まずは、移動と次の冬を越せるだけの食糧を蓄えなければならない。折しも、魚が産卵のために川を遡上する時期であり、男たちは漁と狩りに、女たちは木の実の採集に、忙しく働いていた。

 マシゥは、ようやく寝床を離れることが出来るようになったものの、折れた左腕は使いものにならず、歩行は頼りなかった。(怪我をしていなくても、彼らの役に立てるとは思えなかったが……。) ビーヴァとキシムは何も言わず、氏族長たちも相変わらず親切に接してくれていることが、心苦しくてならなかった。

「ほら。これでどうだ?」

 しずんでいるマシゥに、キシムがぶっきらぼうに声をかけてきた。削っていた長い棒を手渡す。立ち上がり、膝に積もった木屑を払うと、両手を腰に当てて彼を見下ろした。

 マシゥは、一連の彼(彼女)の動作を眺めてから、渡された棒に視線を落とした。木目の細かな堅い木を削って作られた杖だ。丁寧に磨きあげられ艶をはなつ木肌に、溜息を呑む。両端には、風の紋様が刻まれている(キシムが彫ってくれた)。片方の端は二股に分かれ、腋にあてがう部分には、ユゥク(大型の鹿)の毛皮が巻かれていた。

 感嘆しているマシゥを、キシムは、軽く顎をふって促した。

「当ててみろ。使えるかどうか」

「あ、ああ」

 マシゥは、少し焦って身体を動かした。エゾマツの幹を支えに、立ち上がる。右の腋に杖をあてがい、体重をのせてみた。ゆらりとゆれる体躯を、キシムは、眼を細めて眺めている。

「長さは足りているな。歩けるか?」

「待ってくれ」

 左腕を首に吊っているため、すばやく動くことが出来ない。マシゥは、木の根に足をとられぬよう気をつけて、一歩、二歩と歩いた。方向をかえ、ぐるりと辺りをめぐる。

 キシムは、腕組みをしてその動作を見守った。

「長すぎることはないか? 痛みは?」

「大丈夫だ。ありがとう」

 マシゥが礼を言うと、キシムの目元がふと和んだ。片手を伸ばして杖に触れ、安定性を確かめる。

「チクペニ(エンジュの木)は、強いテティ(神)だ。ケレ(悪霊)や病のテティを寄せつけない。お前を護ってくれるだろう」

「え……」

 男装のシャム(巫女)の言葉に、マシゥは眼を瞬かせた。

 キシムは、マシゥに軽く肩をすくめてみせ、杖から離れた。片手を自分の腰にあてがい、森の奥を見遣る。涼やかな切れ長の眼を細め、呟いた。

「さて。あいつの杖も、何とかしないとな」



 ベニマツの梢から飛び立ったロカム(鷲)は、ウサギを見つけて一旦高度を下げたものの、相手が灌木の下へ逃げ込んだのを見て、再び舞い上がった。しばらくの間、上空を旋回したのち、強く羽ばたいて風に乗る。森をはるか見渡せるところまで昇ると、次の獲物を求めて、北西へ進路をとった。氷河を超えてきたアムバイ(北風)が、彼の胸の羽毛をなで、風切り羽をたわませる。

 ハリエニシダの根元に身をひそめていたユキウサギは、ロカムの翼の音が遠ざかると、ぴくりと片方の耳を動かした。ひくひく髭をふるわせる。キツネやムサ(人間)など、他の敵のにおいが近くにないのを確かめて、そっと前足を動かす。

 ユゥク(大型の鹿)の母親は、幼い我が子とともに、木陰に隠れていた。コゲラの鳴き声が戻って来たのを聴いて、鼻を鳴らす。傍らの仔の肩を優しく噛むと、頭を下げ、地表の苔をはむ動作を再開した。彼女の周りに、一頭、二頭と仲間があらわれ、同様に苔をはみ始める。

 蹄が小枝をふみ折る音、カエルや翅をもつ昆虫の跳ねる音が、かすかに響く。シラカバやサルヤナギの枝を揺らして、ハァヴル(西風)が通り過ぎる。

 流れる水の囁き、川魚の匂い。それを突く男たちの、興奮した汗のにおい。子どもたちの歓声……。

 ――セイモアとソーィエの耳は、これらの音をとらえ、鼻は、ひとつひとつの匂いをかぎ分けていた。半径十パス(約四十メートル)ほどの事象にとどまらず、遠く、ハヴァイ山の氷河のきしむ音や、ルプス(狼)たちが互いを呼ぶ歌声まで。

 二匹の間に腰をおろし、ビーヴァも、テティ(神霊)の存在を感じていた。

 ロカムの翼が風をつかんだ感触、仔ユゥクの甘いにおい、川面を跳ねるホゥワウ(秋鮭)が散らす水しぶき……。普通のムサ(人間)にはとらえ得ない鮮明さで、濃厚な世界に身を浸し、同化する。

 セイモアが、膝に預けた彼の掌に鼻を押しあて、ぱさりと尾を振った。ビーヴァの意識が、つと集束する。身体をこすりつけてくる《彼》の首の周りの毛に指をさしいれ、無造作に梳く。首すじから片方の耳へ達する傷跡に触れると、セイモアは首をすくめ、ビーヴァの身体の同じ部位に、ちりりと痛みがはしった。

「…………」

 憑依を解いてからも、ビーヴァの一部は、若狼の内に在り続けているように感じられた。ルプス(狼)だけではない。ロカムや風や、木々の中にも。身体は一つ処に在りながら、同時に、複数の場所にいる感覚だ。

 青年が己に戸惑うのは、それを、むしろ心地よく感じていることだった。

『テティの中に永く留まれば、離れられなくなる』と、教わった。憑依した状態でテティが死ねば、シャマン(覡)の魂も死ぬ。魂が死ねば、当然、離れた肉体も死んでしまう、と。

 警告されたときには、軽い恐怖を覚えたのに。今では、ほとんど気にならなくなっている。

 セイモアの内に、永く居すぎたためかもしれない。――ビーヴァは自問した。テティの意識を通じて知るナムコ(世界)は、繊細で、美しく、絶対的に厳しく、平穏だった。いまムサ・ナムコ(人間の世界)を覆っている怒りや憎しみ、嘆きからは、全く無縁だった。

 だから、魅かれてしまうのかもしれない……。

 ビーヴァは、自嘲気味に唇をゆがめた。


 ウォッフ


 ソーィエが、かるく吼えて尾を振った。セイモアが、ビーヴァの掌を舐めるのを止め、耳をぴんと立てる。青年には、二匹の視線の先を見ずとも、理由が解った。

 金赤毛の仔犬(スレイン)が、彼らの前に、跳ねるように駆けてきた。舌をだらりと下げ、短い尾をちぎれんばかりに振って挨拶する。ソーィエとセイモアは、熱心に彼女のにおいを嗅いで歓迎した。

 ひと呼吸遅れて、キシムの声がした。

「ビーヴァ、そこにいたか」

 サルゥ川の方から、くさむらをかきわけて、男装のシャム(巫女)がやってきた。今日は、なめした革の短衣に脚絆きゃはんを穿き、矢筒を負っている。立って迎えるビーヴァに、片手を挙げて合図した。

「待っていてくれ。マシゥが来るから」

 そう言うと、二パス(約八メートル)程の間をあけて立ち止まり、後ろを振り返る。ソーィエとセイモアとスレインが、尻尾を振って、彼(彼女)のもとに駆けて行った。

 ビーヴァは首をかしげた。

「マシゥが? 大丈夫なのか?」

「ああ」

 キシムは、じゃれつく犬たちをおざなりに撫で、ゆっくり彼に近づいてきた。眉間にしわを寄せている。

「歩く程度なら、大丈夫なんだ。……問題は、気持ちの方だ」

 ビーヴァは肯いた。

 川下から、マシゥがやってくるのが見えた。杖をつき、身体を左右に揺らして、あらい呼吸をしている。二人の姿を認め、片手を振る。ソーィエが、早速むかえに駆けだした。スレインは、キシムの靴のにおいを嗅いでいる。

 ビーヴァは、傍らのセイモアの頭に手をのせ、傷ついた耳の形をたどりながら、口を開いた。

「キシム。教えてくれ」

「うん?」

 キシムが、ひとつにまとめた長髪を揺らし、振り返る。赤みがかった眸をさけて眼を伏せたビーヴァは、『こんな時に、こんなことを考えている俺は……おかしくなっているのかもしれないな』と考えた。

「シャム(巫女)は、テティ(神霊)を、支配するものなのか?」

「…………」

 キシムが黙っているのでおもてをあげたビーヴァは、彼(彼女)が心底おどろいた――思いもよらない事を言われた、という表情をしているのを確認して、相棒の額に視線を落とした。

「支配する? シャムが?」

 キシムの声音は、ビーヴァを安心させた。

「そんなことが、出来るわけないだろう。イェンタ・テティ(狩猟の女神)やスカルパ(雷神)を、支配できると思うのか? ロマナ(湖の女神)やクルトゥク(南風)を?」

 セイモアは、ビーヴァに額を掻いてもらい、気持ち良さそうに眼を閉じている。ビーヴァは、その様子を見ながら、キシムの言葉を聴いた。彼(彼女)がきっぱり否定してくれることが、心地よい。

 キシムの声に、不審が交じった。

「オレたちは、テティの一部だ。テティが認めてくれているから巫力ちからを使えるだけで、その逆はないぞ。ビーヴァ」

「ああ、そうだよな……」

「どうして、そんなことを言う?」

 マシゥは、一歩一歩、足もとの地面をたしかめながら歩いている。たどり着くには、もう少し時間がかかりそうだ。

 ビーヴァは、おさえた口調で説明した。

「セイモアと一緒に、あそこへ行ったとき……ラナが、セイモアの真の名を呼んだ。それで、セイモアは動けなくなった。俺が、代わりに、動かさなければならなかった」

 ビーヴァの手が止まったので、セイモアは眼をひらき、ふるると首を振った。主人を見上げ、機嫌よく尾をゆらす。ビーヴァが見ると、キシムは真顔で、彼とセイモアを見比べていた。

 やがて、キシムは、やや呆然と言った。

「マムナ(真の名)は、別だ」

「そうなのか?」

 こくりと頷く。彼(彼女)も、声をひくく抑えた。

「マムナは、テティ(霊魂)を支配する。シャムでなくとも、マムナを知れば、誰でも相手を支配できる。ルプス・テティ(狼)が動けなくなるとは、聞いたことがないが……ラナ様の力は、それほどのものなのか?」

「分からない」

 ビーヴァは、首を横に振った。

「あそこには、長(アロゥ族長、ラナの父)もいたから……。長と、俺と、ラナと。三人で、セイモアの邪魔をしたのかもしれない」

 キシムはこれを聞くと、難しげに眉根を寄せた。

 ビーヴァは、申し訳ない気持ちで、セイモアの頭を撫でた。自分やラナの力が、ロカム(鷲)やルプス(狼)のテティ(霊魂)を支配するものなら、シャマン(覡)であることについて、考えなければならないと感じていたのだ。

 その点を、キシムが疑うことなく否定してくれたのはありがたかった。しかし、真の名の問題なら、今後も、あのようなことが起こり得る。

 キシムも困惑していた。

「セイモアが、ラナ様のマムナを知らないのは、まずいな。普通、マムナは、互いに交換して釣り合いを保つものだ。それにしても――」

 半ば呆れ、半ば感嘆した口調で続けた。

「『代わりに、動かした』のか……。ビーヴァ。お前はオレの知る限り、最もテティに近いシャマンだ。だが、自分がムサ(人間)だということを、忘れるなよ」

「ああ、分かっている」

 ビーヴァは頷いたが、己と同様、キシムがその言葉をほとんど信じていないと確信していた。


 マシゥが、ソーィエとともに、息をはずませてやって来た。ビーヴァに、ほっとした微笑を向ける。チクペニ(エンジュ)の杖を突きたて、右の腋に抱えると、感謝をこめてキシムを見遣った。

「この杖のおかげで、だいぶ歩きやすくなった。ありがとう、キシム」

「それは良かった」

 男装のシャムの態度はそっけないが、態度以上に優しいことを、マシゥは既に知っていた。

「しっかり練習してくれ。一日も早く、故郷に帰らなければならないのだろう?」

「えっ……」

 マシゥは絶句した。その様子を見て、キシムは憮然とした。ビーヴァが口を開く前に、たたみかける。

「まさか、オレたちと一緒に行くつもりだったのか?」

「…………」

「キシム」

 咄嗟に答えられないマシゥを、ビーヴァは庇った。

「キシム。マシゥは……帰ることが出来ないんだ」

「だが、オレたちと一緒に暮らすことは出来ないぞ」

 キシムはビーヴァに向き直り、真剣に続けた。

「今はよくても、マシゥに、ここの冬は耐えられない。雪が降れば、この腕は腐って落ちる」

「…………」

「まして、オレたちは、ハヴァイ山を超えて行く。ついて来られると思うのか? 腕一本では済まなくなるぞ」

 マシゥは、己の左手を見下ろした。首から吊りさげた布の中で、指を動かす。紫色に変わり、浮腫んでいる。確かに、寒くなれば凍傷になるだろう。

 ビーヴァは黙りこんだ。キシムの言うことはもっともで、反論の余地がなかった。マシゥの健康を考えれば、帰った方がよい。

 しかし――

「……あの」

 マシゥは、右手で己の左腕をつかみ、おずおず口を開いた。

「私のことは、気にしないでください。これ以上、迷惑をかけるわけにはいきません。自分で、何とかしますから――」

「そういうわけにはいかない」

「そんなのは、だめだ」

 キシムとビーヴァの言葉が、ぴたりと重なった。二人とも、マシゥをまっすぐ見詰めて。マシゥが驚いたことに、ビーヴァは(この物静かな青年が)、いつになく強い口調になっていた。

「だめだ、マシゥ。貴方は、何も悪いことをしていないのだから。……ちゃんと、家族のもとへ、帰るべきだ」

「…………」

「お前がしてくれたことを、オレたちは、皆、よく知っている」

 キシムが、ややしんみりと言った。

「お前の身に何か起きたら、オレたちは、王に顔向けが出来ないからな……。どうしたらいいか、一緒に考えよう」

 キシムは腕を伸ばして、マシゥの肩に軽く触れた。ビーヴァが踵を返し、先に行く。マシゥは、二人の間を、複雑な気持ちで歩きだした。

 ムサ(人間)の事情など知ったことではないソーィエたちは、楽しげに跳ねながら、彼らの後をついていった。

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