第五章 裏切の報酬(6)
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炎は薪にからみつき、ほそい煙をあげてくすぶっていた。チューム(円錐住居)のなかは、肌寒い。紫の宵闇が腕をひろげ、谷間の村をおおい隠そうとしている。
キシムは、チュームの入り口にたたずんで、次第に暗くなる西の空を眺めていた。左手にシャム(巫女)の杖を持ち、右手は柱にあてている。彼女のチコ(皮靴)の傍らでは、ソーィエと あいのこのスレインがじゃれている。
キシムは、二頭を一瞥すると、視線を空へもどし、かるく舌打ちした。
セイモアに憑依したビーヴァが出かけてから、丸一日が過ぎようとしている。ワタリガラスに憑依して月へ行ったロコンタ族の男など、ながく肉体を離れたシャマン(覡)の伝説はいくつかあるが、キシムには、そんなに長い間 身体を離れた経験はない。まして、ビーヴァは二度目の憑依だ。ふたりの安否が気懸かりだった。
薪にのこっていた最後の火が消えた。キシムは、溜息を呑んで踵を返し、火棚に載せられた魚の切れ端に手を伸ばした。ソーィエとスレインが、期待に鼻をならして寄ってくる。
キシムは、焚き火のそばに片膝をつくと、干し魚を裂いて二頭に与えた。ソーィエが、がつがつとむさぼり喰う。仔犬のスレインは、甘えた調子で鼻を鳴らし、《彼》(ソーィエ)の口を舐めておねだりした。ソーィエは、ちょっと戸惑った様子で食事を中断すると、噛みかけの魚を吐き出してやった。スレインが、小さな尾をぴこぴこ振って食べはじめる。
キシムは、乾いたヤナギの枝を手に取り、まだ熱い炭の上に重ねた。そっと息をふきかけ、眠ってしまった火の女神を熾そうと試みる。幾度か繰り返すと、炭化した薪のおもてに光の点があらわれ、ちろちろと瞬いたのち、金の焔をあげて燃えはじめた。
ほっとしたキシムは、ビーヴァと並んで眠る使者の男に目をむけた。
まただ……。
夜半から、マシゥはときおり呻いたり、歯ぎしりをしたりしていた。傷が痛むのか、庇うように片手をあげ、寝返りをうとうとすることもある。その回数はしだいに増え、初めのうちは警戒していたソーィエたちも、今では興味を示さなくなっている。
戻ってきた……同胞に裏切られ、ムサ・ナムコ(現世)から追われかけた男の魂が。
キシムには、マシゥとどう接すればよいか、明確な考えはなかった。王が信じ、エビとビーヴァが気に懸けている男だと、知っているだけだ。しかし、ビーヴァが帰ってくるまでは、自分がこの男を守らなければならない。
キシムは、シャムの杖を持ち直し、彼をじっと見つめた。
刺青のないエクレイタ族の男の顔は、実際の年齢より幼く、たよりなく見える。頬から首すじにかけて無数にのこる打撃の痕が、痛々しい。彼は、眉根を寄せて首を振り、ぐぐう、と唸った。二、三度、身を縮めるように肩をうごかしたのち、突然、はっと眼を開けた。
「…………」
キシムは、身動き一つしなかった。ソーィエとスレインも、静かに男の様子をうかがっている。
目覚めたとき、マシゥの意識を占めていたのは、追い詰められたものの恐怖だった。止めていた息を吐き、苦痛に身をよじらせる。折れた左腕をかばって寝返りをうち、目だけで辺りを見まわした。
火棚に載ったホウワゥ(鮭)や、チュームを支える柱に飾られたイトゥ(御幣)、ワタリガラスの羽根、明るく燃える炎などを眺めるうちに、男の頬のこわばりは、ゆっくり解けていった。
やがて、マシゥの目は、男装のシャム(巫女)を捉えた。キシムとソーィエを映す灰色の瞳に、理知のひかりが点る。
キシムは口をひらいた。
「オレが誰か、わかるか?」
マシゥは、彼女を凝視して肯いた。キシムは、表情をかえずに続けた。
「ここは、ワイール族のナムコ(集落)だ。お前は助けられた」
使者はこれを聞くと、不自由な身体を横たえたまま、ぐるりと眼球を動かして、もう一度 部屋のなかを見渡した。恐怖の色はうすれ、代わりに、不安が頬をいろどる。
キシムは、眼を細めてその様子を見守った。低く問う。
「何があったか、覚えているか?」
マシゥの瞳の翳が濃くなった。居場所を確認するのを止め、己の内面をさぐる。
ソーィエがキシムの側を離れ、彼に向って歩き出した。懐かしげに尾を振り、男の口のにおいを嗅ぐ。
マシゥの顔が、一瞬、泣き出しそうにゆがんだ。動かせる方の腕をのばし、赤毛の犬の背をそっと撫でる。首のまわりの
「王は?」
キシムは、さらに眼を細めた。
マシゥは彼女をまっすぐ見詰め、繰り返した。
「王はご無事か? ディールは? エビは? テサウ(砦)は、どうなっている?」
問いを重ねるほど、キシムの眼は細くなり、遂にはすっかり閉じてしまった。マシゥの唇が震えた。言葉はなくとも、理解する。
キシムは項垂れた。
「王は、殺された……ディールも。子どもたちも。エビの赤子は助かったが、女たちはまだ、あそこにいる。ロキも、ラナさまも……。オレたちは、救えなかった」
「…………」
今度は、マシゥが
コルデのような男を説得するのは、不可能にちかい。そう思いながら、何故 王を止めなかったのだろう。命を懸けて自分を信じてくれた人々に、何ということをしてしまったのか。
同胞に裏切られた孤独より、怒りより、その思いの方が強かった。マシゥの心は嘆きによじれ、裂け、悲鳴をあげてのたうった。ディールを想い、王を想うほど、傷口から血があふれだす。
この損失をどうやって埋め、どう償えばよいのだろう。
彼の悲しみに感応したソーィエが、くうんと鼻を鳴らした。掌を通じて、鼓動が伝わる。マシゥは、ぬくもりにしがみつき、嗚咽をもらした。
どれほどの時間、そうしていただろうか。
マシゥを支えていたソーィエが、両耳を立て、足を踏みだした。スレインも、チュームの入り口に向って身構える。二頭の動きに気づいたキシムは、杖を手に振り向いた。
マシゥが顔をあげてみると、小屋の外は、すでに紫に染まっていた。太陽のなごりを残す夏の夜空は、淡く輝いている。重なり合う木々の影が、暗く淀んでいる。影の中で、何かが動いた。風のように目に映らず、とらえどころがない。――と、
白いルプス(狼)が、湧き出るように現れた。
キシムは息を呑み、マシゥは目を瞠った。
若狼は、二人の反応には頓着せず、チュームのなかへ入って来た。毛皮は血と泥にまみれ、落ち葉や小枝がからみついている。左耳には、赤黒い血のかたまりがこびりつき、後方へ引き攣れていた。口から舌を垂らし、脇腹を波うたせて呼吸する。疲労困憊していたが、足音をまったくさせないところは流石だった。
ソーィエは牙をむき、背中の毛を逆立てたが、唸ることはしなかった。やや困惑気味に、耳を伏せている。スレインは、尾をまいて後脚の間にはさみ、ソーィエの後ろに隠れた。とがった小さな鼻を突き出して、おそるおそるにおいを嗅ぐ。
キシムは、胸の前にシャムの杖を構え、眼を細めて《彼》をみた。銀の毛皮が蒼みをおび、ぼんやり輝いている。彼女は、唇を舐めて囁いた。
「セイモア……。いや。ビーヴァ、か?」
「…………」
ルプスは足を止め、彼女を顧みた。
疲れ、傷ついた《彼》の眼は、熱をもったときのように潤んでいた。白目部分に、緋色の点が散っている。藍の瞳は、相変わらず深く澄んでいたが、底には、金と銀の焔がゆれていた。狂おしい煌きを目にしたキシムの背を、冷たいものが走った。思わず、杖をもつ手に力がこもる。
悲しみと怒りと、強い
ケレに堕ちたルプス・テティ(狼神)は、ムサ(人間)にとって最も
若狼は、そんな彼女の懸念など知らぬげに視線をそらすと、マシゥの前を横切っていった。ビーヴァの傍らに立ち、彼の顔を覗きこむ。
「え、ビーヴァ? ……セイモア?」
青年の異変に気づいたマシゥは、説明を求めてキシムを見遣ったが、彼女はルプスを見続けた。
若狼は、人の溜息ににた息を吐くと、ビーヴァの脇に腰をおろし、前脚をのばして寝そべった。彼の胸に顎をのせ、眼を閉じる。
ソーィエとスレインが、そわそわと身じろぎする。キシムは息を殺し、マシゥは、ごくりと唾を飲み込んだ。
しばらくの間、ビーヴァとセイモアは、死んだように動かなかった。それから、青年の胸が持ち上がり、ながい息を吐きだした。瞼がふるえ、黒曜石の瞳が現れる。
キシムは安堵した。ビーヴァは、ケレに堕ちてはいない……。
ソーィエが、ぱさぱさ盛大に尾を振って、主人に駆け寄った。マシゥが呼びかける。
「ビーヴァ」
ビーヴァは、己の顔を舐めるソーィエの肩につかまって、身を起こした。マシゥにむける眼差しの怜悧さは変わらなかったが、深い哀しみを湛えていた。
彼は、黙ってセイモアを抱きよせ、頬ずりをした。ルプスの顎を両手でささえ、首まわりの毛をかき撫でる。
セイモアは、うすく眼を開け、クゥと喉を鳴らして彼に応えた。ソーィエが、仲間の傷ついた耳を舐める。スレインも、こわごわ近づいて、《彼》の毛についた血を舐めはじめた。
マシゥとキシムは、相棒をいたわるビーヴァの目に、涙がたまっていることに気づいた。炎を反射して輝き、日焼けした頬を伝い落ちる。
ビーヴァは、右手の甲でぐいとそれをぬぐうと、セイモアを撫で続けた。
~『EARTH FANG』第二部 裏切の報酬~
完
ここまでお読み下さり、ありがとうございました。
第三部へ続きます。
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