第三部 大地の牙
第一章 麦の民
第一章 麦の民(1)
1
ギギギイィーッと、悲鳴のような音をたてて、門の扉が開かれた。
ぬかるみの中、重い橇を牽いてきた犬たちは、これが最後とばかりに吼え、泥だらけの足に力をこめた。エクレイタの男たちが、傍らを行く。彼らも、橇犬たちと同じように引き綱を牽いている。
開拓団長のコルデは、手にした鞭の柄で、ラナの背を軽くこづいた。
ラナは、そっと足をふみ出した。両手は、衣の襟をしっかりとかきあわせている。テサウ砦から開拓の
コルデは、少女が門をくぐると後は構わず、部下たちに並んで歩いた。右手には鞭を、左肩には黒ずんだ皮製の袋を負っている。出迎えの男たちが集まると、団長は足をとめ、悠然と彼らを眺めた。
ラナは、コルデから出来るだけ離れて立ち、蒼ざめた唇をひきむすんで、辺りのようすをうかがった。
先をとがらせた丸太を並べた高い壁が、ぐるり周囲をかこんでいる。その内側には、ひとかかえもある石を積んで補強している。つくりはテサウ砦と同じだが、ベニマツ(チョウセンゴヨウ)の枝を払った切り口や、樹皮の剥がれた痕などは、テサウより古びている。
家々は、灰茶色をしていた。外からでも、石を積み、泥で固めて築いているのだと分かる。屋根にわたした丸太の断端が、すっかり枯れたモミの枝の間からのぞいていた。大地は黒く、人と犬にふみしだかれてゆるんでいる。草はなく、緑の梢もみあたらない。昼下がりの空さえ、うすい灰色の雲に覆われていた。
「…………」
首をめぐらせたラナは、軽いめまいを覚えた。砦のような閉塞感はないが、うねうねと続く壁は、建物のむこうに隠れて果てが見えない。外には、夏の濃緑の森がひろがり、万年雪を冠したアムナ山がそびえているはずだが、ラナの視線の高さでは、望むことは出来なかった。
銀に煌めくロマナの
男たちの歓声を耳にして、少女は我に返った。そして、軽く落胆する。テサウ砦にいたのと同数か、それ以上に多い男たちが、コルデを迎えていた。
「長、大丈夫ですか?」
「おう」
赤みがかった褐色の髪の男が話しかけると、コルデは片手をあげて答えた。団長の左耳の上には、ロカム・テティ(鷲)の爪に裂かれた傷が、生々しく残っている。眉をひそめる男に、コルデは、自嘲気味に唇をゆがめてみせた。
「今年のパンサ(麦)はどうだ?」
「まあまあです。いつでも収穫できますよ。新しく植えた方も。ご覧になりますか?」
「ああ。あとで行く。それから――」
ラナには彼らの言葉は解らなかったが、じろじろとこちらを見遣る視線から、自分のことを話しているのだと察しはついた。コルデの得意げな表情と、男の無遠慮な態度に、気分が悪くなる。うなだれ、顔をそむけてやりすごそうとしたが、どちらを向いてもエクレイタの男たちがいるので、いたたまれない。
コルデは、少女の態度には頓着せず、肩に負っていた袋を男にさし出した。
「こいつを、埋めておけ。犬に齧られないようにな」
「何ですか?」
無造作に受け取った男は、中をのぞいて目を瞠った。嫌なものを見た、というふうに袋の口を閉じ、顔をそむける。嫌悪と畏怖のいりまじった横顔を、ラナは平板なまなざしで眺めた。今はもう、何の感情もわいてこない。
袋に入っているのは、父王の首だった。身体は、テサウの門の下に埋められている。弔われず、テティ・ナムコ(神霊の世界)へ送られずに封じられた王は、もはや生まれ変わることは出来ない。あてもなくムサ・ナムコ(現世)を彷徨い、やがてケレ(悪霊)に堕ちるだろう。
男が乾いた血のついた袋を持ち去ると、ラナの思考もそれを離れた。
『…………?』
頬に視線を感じて、ラナは振り向いた。強奪品を積んだ橇のむこう、物見遊山な男たちの陰にかくれて、一団の人影が佇んでいた。あらい毛織りの長衣を頭からすっぽりとかぶり、壁のようにじっとしている。しかし、そこから投げかけられる視線は、遠慮なく少女を舐めまわす。
灰色の風景に溶ける一団の表面を、風が撫でて通った。長衣の面にさざ波がたち、一部がひるがえり、細い肩の線があらわれる。ラナは、軽く息を呑んだ。
栗色の髪を、胸にながく垂らした女だった。一人……数人。ふちどりのないうすい衣を重ね、手には籠をもち、皮製の前掛けを着けている。そのどれもが月日に色あせ、ささくれていた。橇に積まれた戦利品――アロゥ族の人びとが必死に集めた食糧とオロオロの毛皮と、傷つき汚れた異族のむすめを、こわばった表情で眺めている。
憐れむようでも蔑むようでもある同性のまなざしに気づいた時、ラナは、なんともいえない気持になった。
ここに女性がいたのかという驚きは、仲間のうけた仕打ちを想うと、いらだちに変わった。何故――言葉が解れば、少女は問うただろう。『何故、
コルデたちは、女子どもを連れていて、どうしてこんなことが出来るのだ……。
「あっ」
少女の声にならない叫びは、橇に群がる男たちに突き飛ばされて途切れた。ぬかるみに両手をついて顔をあげると、女たちの姿は、すでに見えなくなっていた。
我先にと食糧をうばい合う男たちを、コルデが、薄嘲いをうかべて宥める。ユゥク(大型の鹿)やゴーナ(熊)の毛皮が宙を舞い、丹精こめてつくられたシラカバの小函が壊され、中にあった琥珀の首飾りがひきちぎられるのを、ラナは、地面に尻もちをついたまま、呆然と見守った。
――と。
「ラナさま!」
押し殺した囁きと同時に、背後から上腕をつかまれ、ラナは、びくりと身をすくませた。振り返り、目を瞠る。黒髪にふちどられた顔には、見覚えがあった。
「ニレ!」
「ラナさま、よくご無事で……」
左頬にモナ神(火の女神)の刺青をもつ女は、震える声でそういうと、少女を抱きしめた。仲間を生きながらえさせるため、最初に己が身を犠牲にした、勇敢な女性。欠けた頬とやせ細った腕は、別れたのちの苦労を表していたが、瞳の輝きは、失われてはいなかった。
そして、
「ラナさま」
かすれ、悲嘆のこもった低い声に、そちらを見たラナは、思わず涙ぐんだ。ロキが、いた。背をかがめ、少女に手をさしのべている。捕らえられた後も抵抗をやめなかったため、暴行を受けたのだろう。彼女の頬から首筋は、赤黒く腫れていた。
「ロキ」
「こちらです。さあ」
ロキは、早口にいうと、ラナの手をひいて立ちあがらせた。ニレとともに、少女を両側から抱えて歩き出す。疲れた足は棒のようにしびれていたが、ラナは、滑って転んでしまわぬよう、必死にそれを動かした。
仲間とともにその場を離れながら、ラナが肩越しに振り返ると、コルデは橇の傍らに立ち、部下と談笑しながら、目だけでこちらを見送っていた。
男たちの騒ぎを後に、建物の間の小路をぬける。二人の女に脇を支えられたラナは、小走りにはしり続けた。息があがる寸前、ロキの声に足を止める。
「ここです」
呼吸を整えて視線を上げると、ラナの前には、木製の柵が立っていた。扉がひとつついている。
「ここは……」
扉に手をかけながら、ニレが答えた。
「女たちの庭です」
「女たちの?」
意味がわからず、ラナは繰り返した。そうしながら、背後をかえりみる。少女の不安を察して、ロキが付け加えた。
「大丈夫です。男たちは、ここへは来ません。……しばらくの間は」
「どうぞ。ラナさま」
ニレが開けた扉をささえて促し、ロキがそっと背中を押した。ラナは、外衣の裾をからげて中へ入ると、追われるユゥクの仔さながら、きょろきょろ辺りを見渡した。
人通りは多くないのか、ここの地面は乾いていた。女ものらしい小さな足跡と、たくさんの犬の足跡が、凹凸を残している。ラナの知らない蹄の跡もあった。毛皮のにおいが、風にのって流れてくる。生きもののにおいだ。ニレが扉をとじると、それはさらに強くなった。
クワッグワッ、ココココッ。イィーエッ、ヤエッエッエッ……。
犬の吼え声にまじって、聞いたことのない鳴き声が聞こえた。ラナが見上げると、ニレは黙って頷いてみせた。ロキが、少女の腕をとって歩き出す。
近づくと、板壁をめぐらせた囲いがあり、獣が閉じこめられているのだと分かった。つながれた犬が三頭、番をしている。ソーィエに比べれば、どの犬も小柄で痩せていて、褐色の毛並みは、油気がなくちぢれていた。
ラナは、琥珀色の瞳とうなり声を警戒しつつ、板の隙間からなかを覗いてみた。黒く長い毛をもつ巨きな獣――四本足で、蹄がある。――と、茶色やぶちの羽色をした鳥が数羽、地面をつついている。
ニレとロキは、立ち止まることなく、少女を促した。
獣の囲いのそばには、泉があった。水をたたえた穴の縁には、石を積んである。(アロゥ族は川の近くに集落をつくり、井戸を掘ることはしないので、ラナにはそう見えた。) 傍らには、丸太を削ってつくられた大きな器が据えられ、手桶や、濡れた衣などが掛けられている。
そして、ここにも集落があった。
やはり石と土を固めたエクレイタ族の建て方だが、今度の家は横に長く、ひときわ大きかった。丸太で支えた屋根に、厚く土をかぶせ、上には草を生やしている。どこか、シャナ族の冬の住居に似ていた。
ラナは、ごくりと唾を飲んだ。
家の前に、数人の女たちがいて、立ち話をしていた。ある者は頭から外衣をかぶり、ある者は、明るい緋色の髪をあらわにしている。家事の途中なのだろう。籠や衣を手に話しているのは、先刻到着した男たちの噂に違いない。
「…………」
ラナたちが気づくのとほぼ同時に、エクレイタの女たちも、彼女たちに気づいた。会話が止まり、蒼や碧の瞳がそろってこちらを向く。
ロキとニレは目を伏せ、ラナを身体で隠すようにして歩いた。ラナも、二人に倣って面を伏せる。
女たちの前を横切るのを避け、建物の裏へまわると、そこにも数人の女がいて、洗濯物を干していた。ラナは一瞬ひるんだが、ちょうど家の中から出てきた女の顔を見ると、思わず叫んでいた。
「ハルキ!」
「ラナさま……!」
籠を手に、腰を屈めて出てきた女は、ラナを見た瞬間、真っ青になって籠をとり落とした。へなへなとその場に座りこみ、両手を少女に向かって差し伸べる。凝然とみひらかれた瞳から、涙があふれだす。
ハルキの後から出てきた女たちも、連れ去られた仲間だった。少女の姿を認め、口々に歓声をあげる。
「ラナさま!」
「よかった。無事でいらっしゃったのですね、ラナさま!」
「みんな。ハルキ……」
ラナが駆け寄ると、ハルキは地面にひれ伏し、肩をふるわせて泣きはじめた。引き離されていた全員の顔が集まっているのを見て、ラナは、身体じゅうの力が抜ける心地がした。
少女が跪き、ハルキの背に片手をあてると、彼女は嗚咽とともに謝罪を繰り返した。
「申し訳ありません、ラナさま。どうかお赦し下さい。わたし――」
「あやまらないで、ハルキ。私の方こそ、ごめんなさい。何も出来なくて……」
エクレイタ族の女たちの目を
幼子を喪い、絶望して部屋を出て行ったハルキ。あのまま、死んでしまうのではないかと案じていたのだ。今の彼女は、やつれてはいるが、冷静さを取り戻している……。
仲間たち、ひとりひとりの顔を確かめる、ラナの視界がにじんだ。みな疲れ、決して朗らかな表情はしていないが、死ぬ目に遭わされていたわけではないらしい。
女たちは抱き合い、泣きぬれた互いの頬に手を当てて、再会を喜んだ。
騒ぎを聞きつけて、エクレイタの女たちが集まってきた。遠巻きにして、中心にいる少女を、怪訝そうに眺めている。
ロキは、ラナの肩を抱き、低い声で囁いた。
「ここは、女たちだけが暮らしている場所なのです。なかへお入り下さい、ラナさま。男たちがやって来る前に、お話ししましょう」
「わかったわ。……さあ、ハルキ」
ラナは頷き、ハルキの両手をとって立たせた。ニレが、彼女の籠を拾いあげる。
女たちは、少女を守るように身を寄せ合い、家の中へ入って行った。
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