第一章 麦の民(2)



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 幅のせまい扉をくぐると、石段が二つあり、下へとくだっていた。床は、むき出しの地面だ。部屋のなかは薄暗く、マツヤニと獣脂のにおいがみちている。

 ニレと手を繋いで入ったラナは、立ち止まって面をあげ、瞳が暗がりに馴れるのを待った。

 褐色にけぶる闇のなかから、屋根を支える太い梁があらわれる。ベニマツ(チョウセンゴヨウ)の大木だ。すすけて、黒光りしている。部屋を区切る壁はなく、梁につりさげられた幾枚もの布が、空間を仕切っていた。草のもようを縫いとりした厚い布が、壁を飾っている。部屋の奥には、石造りの大きなかまどがあり、中で薪がくすぶっているのが見えた。

 ラナは、息苦しさを感じた。ここには、窓らしい窓がない。光は、壁と梁の隙間から斜めにさしこんで、重なった布の表面に、あわい金の帯を描いていた。

「ラナさま。こちらへどうぞ」

 ロキが少女を促した。女たちが道をあける。竈から最も離れた部屋の隅に、彼女たちの居場所があった。枯れ草と小枝を敷いたうえに、毛織の布や外衣を重ねた寝床だ。ゴーナ(熊)の冬ごもりの巣を想わせるその中心に腰をおろし、ラナは仲間の顔をみまわした。

「みんな……」

 口を開け、声をかけたものの、そこから先が出てこない。女たちは、感極まった顔で頷いてみせた。ハルキは、まだ泣いている。

 ニレが、抑えた口調で言った。

「あの部屋を出てすぐ、連れて来られたのです」

 子どもたちへ与える食糧とひきかえに、エクレイタの男たちに従った彼女だったが、その結末を既に知り、沈痛な面持ちになっていた。

「ここでは、男と女は、別々に暮らしています。塀のこちら側は、女と子どもと、ウシやヒツジたちの場所なのです。……昼間、女たちは家事をし、男たちは畑に出て働きます。女が畑に出ることもあります。日が暮れると、男たちがやってきて、食事をします。寝る時は、男は《表》の家へ帰ります」

「ウシ? ハタケ、って?」

 ラナの知らない言葉だった。男女が離れて暮らすというのも、理解しにくい習慣だ。

 ニレは表情をかえることなく、淡々と説明した。

「来る途中で、ご覧になったでしょう。柵の中にいた、大きなけもの……黒くて毛の長い、あれがウシです。力が強く、橇を牽いてくれます。畑は――」

 目だけでちらりとロキを見て、続けた。

「――ご覧になれば、解ります。あたしたちは、女たちの仕事を手伝っています。働けば、食べさせては、くれるのです」

 どこか歯切れの悪い口調だったが、ラナは気付かなかった。まばたきをひとつして、問いを重ねた。

「子どもがいるの? ここに」

 あれほど残虐なことを平気で行う連中が、邑に子どもを住まわせているというのは、信じがたい。だが、ニレはおもむろに肯いた。

「数人、ですが」

「…………」

 ラナは、絶句した。我知らず、眉間に皺をきざむ。エクレイタ族の子どもたち。彼らは、自分の親たちがしたことを知っているのだろうか。

「ラナさま」

 考えこむ少女に、ハルキが、震える声で話しかけてきた。目には、涙がたまっている。

「ロキから伺いました、ラナさま。王が――」

 唇がふるえ、嗚咽がもれた。薄闇のなかでも、涙が頬を伝うのが見えた。ラナが両手をのばして彼女の手をとると、ハルキは、ふかぶかとこうべを垂れた。

「私たちの、王が……」

「泣かないで、ハルキ」

 ラナの胸の奥からも、熱いものが湧き出て、声を詰まらせた。まばたきで涙を抑え、正面の壁を見据える。

 ことばは、少女の頭のなかに、自然に降りてきた。

「大丈夫。テティ(神々)は、私たちを、見捨ててはいないから」

 ラナの脳裏に、天空を舞うロカム・テティ(鷲神)のすがたがうかんだ。たわんだ翼の先が、日差しを反射する。高く、高く揚がって自身の影に重なると、風を切って空を滑り、怒りの叫び声をあげて、コルデに襲いかかった。虹色にかがやく瞳と、飛び散った血のあか

 犬たちに追いかけられ、傷つけられながらはしっていた、ルプス(狼)の仔。モナ(火の女神)の蒼い炎。疲れ、美しい銀の毛皮は血と泥によごれ、口の端から長い舌を垂らしていた。けれども、決して諦めず、誇りをうしなうこともない。

 少女には、彼らが自分をたすけに来てくれたのだという、確信があった。石に囲まれたあの部屋では、祈りはとどかなかったが。

 この地に棲むムサ(人間)が、どれほどテティの掟をないがしろにしようと、彼らは、自分たちを見捨ててはいない。

 ――その思いは、ラナのうちに、小さな炎となって燃え続けていた。『生きなければ』 と思う。生きて、還らなければ。セイモアが、待っている。ビーヴァが。

 それに、

「……ワイール族のナムコ(集落)は、無事だったわ」

 己の思索から視線をもどし、付け加える。ニレたちは、黙って少女の言葉を聴いていた。彼女がどうやってそのことを知りえたかという疑問より、シャム(巫女)のことばに集中している。

 ラナは、幽体となってみてきたことを、無意識に言葉に入れていた。

「みんなは、ワイールのところに身を寄せているのだと思う。シャナ族も、ロコンタの同胞きょうだいも、報せをきいて集まっている。待っていれば、きっと、たすけに来てくれるわ」

「待てば」

 ロキが繰り返した。ゆっくりと眼を閉じ、眼をあけて、ラナを見詰める。漆黒の闇の奥には、星があった。

 ハルキと他の女たちが、不安げに身じろぎする。ラナは、言い換えた。

「必ず……」

「そうですね、ラナさま」

 囁くように、ロキは応えた。痣ののこる頬は冷たく強張っていたが、あおい月の刺青をかすかに歪め、ぎこちなく微笑んだ。

「テティは、私たちを見捨てない。でも、待つだけでは、だめです。ここから出て行きましょう。私たちの力で」

「…………」

 ラナの呼びかけは声にならず、かわいた唇をふるわせたにすぎなかった。腕をのばし、ロキの胸にしがみつく。ロキは頷き、痩せた手で、少女の頭を撫でた。ほつれた髪を指で梳き、ほそい肩をあたためる。

 ニレは、神妙な表情で、この様子を見守った。ハルキと他の女たちは、眼のふちを赤くして頷き合い、互いの肩に触れた。


 その時、

「…………!」

 壁の外から、複数の足音と、話し声が聞こえた。女たちの間に、緊張が走る。ラナは顔を上げ、ロキとともに、音の方を見遣った。

 ラナたちが入って来たのは、この家の本来の入り口ではない。竈の隣にひとまわり大きな扉があり、声はそちらに近づいていた。ロキとニレは立ち上がって身をよせ、ラナを隠した。他の女たちが、それに倣う。ラナは、一拍遅れて立ち、ロキの陰から様子を窺った。

 一同が固唾をのんで見守る視線のさきで、扉が、きしみながら開いた。

 入って来たのは、数人の女たちだった。頭から外衣をかぶっているうえ、逆光のため顔立ちはよく判らないが、背格好から女性だということは見てとれた。男はいない……。喋っているのは二人。一方が指示し、もう一方が応じている。エクレイタ族の言葉なので、会話の内容は解らないが、おさえたその声を聴くと、ロキは肩の緊張を解いた。

「ロキ?」

「大丈夫です。ラナさまは、黙っていてください」

 早口に囁いて、視線を戻す。彼女たちの前に、一人、小柄な女が進み出た。他の者は、部屋のなかほどで立ち止まっている。

 女は、軽く首をかしげてロキを見上げ、話しかけてきた。

「あたらしい人が来たと、聞きました。ここにいますか?」

 流暢な森の民の言葉だった。恐れも敵意もなく、淡々と事実を問うている。ラナは怪訝に思い、瞬きをくりかえして、もっとよく相手の顔を見ようとした。

 ロキは、頷いた。

「ええ、います。しかし――」

 言葉をにごし、相手のうしろに佇む女たちに視線を投げる。女は、心得て頷き、振り向いて、エクレイタの言葉でなにごとかを言った。女の仕草とともに、薄明かりに頬の刺青がうかびあがり、ラナは息をのんだ。にわかに、鼓動が速くなる。

 ふたことみこと落ち着いたやりとりののち、待っていた女たちは踵を返し、家の外へ出て行った。扉が閉まると、残った女は、頭にかぶった外衣をはずした。灰色がかった長い黒髪があらわれる。額帯ひたいおびはなく、ギョクの飾りもなかったが、頬には、ワイール族の守護神・ワタリガラスの紋様が描かれていた。

 ラナは呼吸をとめ、眼をおおきく見開いて、この見知らぬ女を見詰めた。としのころは、ロキと同じくらいだろうか。額にきざまれた皺と、軽く曲がった背のせいで、年齢以上に老けて見える。印象的な、まなざしだった。黒い瞳は澄んでいたが、深く、底がわからず、途方もない悲しみを湛えている。

 彼女は、ロキからニレに視線をうつし、再びロキに視線を戻した。

「……それで。私に、出来ることがありますか?」

「…………」

 ロキの肩がゆれて、音のないため息を吐いた。体をずらし、相手から少女の姿が見えるようにする。ラナの肩を抱き、前へと促しながら、ひそめた声で言った。

「ラナさまです。今は亡き、王の娘。先代のシャム(巫女)の、ただ一人の御子……。私たちとテティ(神々)をつなぐ、唯一の御方です」

 言葉が相手に理解されるまでに、数秒、間があった。理解した故の戸惑いに、数秒。それから、女は自分ののどに片手をあて、するどく息を吸いこんだ。誰かに殴られたかのようによろめき、数歩あとずさる。

 ラナは、みひらいていた眼を細め、眉をくもらせた。女の反応に、ハルキが示したのとは別の種類の情動を察し、不審をおぼえる。再会のよろこびとも、畏怖とも違う……どこかうしろぐらいざわめきが、女の瞳にはあった。

 誰だろう? 何故、彼らの言葉をはなしているのだろう?

 女は、ラナから顔をそむけると、ごくりと唾をのんで、気持ちをなだめた。改めて向き直り、腰をかがめる。

「……はじめまして、ラナさま。私は、ルシカといいます」

「ワイール族の方ですね。何故、ここにいるのですか?」

 しかし、ルシカは面を伏せ、すぐには返事をしなかった。数秒のためらいののち、その姿勢のまま答えた。

「どうか、おゆるし下さい……。私は、テティの掟にそむいた者です。氏族はなく、帰るナムコ(集落)もありません」

「掟にそむいた、って……」

 ニレを顧みると、彼女は眉をよせ、困った顔で少女を見返した。ロキは、微動だにしない。うなだれるルシカの項を眺め、憐れむように言った。

「本来なら、シャムの御前に現れることは、許されないのです。ルシカは、同じ氏族の男を――妻子のある男を慕い、ともにナムコを追放されました」

「え」

 ラナは、どきりとした。『同じ氏族の男』……。ロキの言葉を、ルシカは、かすかに肩を震わせながら聞いている。ラナは、やや呆然と呟いた。

「それが、どうして……」

「彼らに、命を救われました」

 ルシカは顔を上げて答えたが、ラナと目が合うまえに、再び伏せた。白い頬には苦悩がうかび、まなざしはいっそう悲しげだ。

「一昨年のことです……。私は病を得て、死にかけました。この邑の人びとに、助けていただいたのです。以来、ここで暮らしています」

『エクレイタ族が、彼女を救った?』 意外さを感じつつ、ラナは、女の言葉に耳を傾けた。

「仲間がいるのね?」

「二人です。エールベと、トゥーク。トゥークは、エールベの息子です。コルデ団長と、一緒に行動しているはずです」

「…………」

 ラナは、考えこんだ。


 トゥーク……。くらい、敵意にみちたまなざしを想い出す。使者とともにアロゥ族を訪れ、王を陥れた、刺青のない少年。彼がコルデに従っていたのは、彼女のためだったのだろうか。エールベとは、誰? 今は、どこにいるのだろう。

 イングとリングゥンの物語、ニルパとアリの事件を思い出し、ラナは陰鬱な気持ちになった。テティの掟を破り、ナムコを追放されたものたち。だが、それはトゥークの罪ではない。

 かの少年は、テティ(神々)を憎んでいるのだろうか?


 ビーヴァの面影が心にうかび、ラナは、首を横に振ってそれを打ち消した。途端に、眩暈におそわれ、その場に座りこむ。ハルキが、慌てて手を差し伸べた。

「大丈夫ですか? ラナさま」

「ええ、大丈夫よ……」

 ラナは、目を閉じて症状を落ち着かせると、ハルキの手を押しやった。体が、ひどく重い。ここへきて、疲労が押し寄せてきたらしい。仲間の不安げな視線を浴びつつ、首をあげた。

「ルシカ」

 ラナが呼ぶと、ルシカは腰をかがめた姿勢のまま、さらに深く頭を下げた。ほとんど二つおりになった背に、少女は囁いた。

「ここでの暮らし方を、教えてちょうだい。エクレイタのことを」

「仰せのままに……」

 かすれた声を聞きながら、少女の想いは、壁のむこうに広がる神霊の森へ向かっていた。


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