第五章 裏切の報酬(5)
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グワオォウッ! ガルッ、グルルルル……
ひときわ大きな咆哮に、砦のなかは、一瞬しずまりかえったほどだった。灰色がかった褐色の体に、背中と耳の黒い犬は、ルプス(狼)に匹敵するほど大柄だ。セイモアは、咄嗟に横に跳んで牙をさけると、唸って相手を威嚇した。すぐに止め、走りだす。
背黒の犬は、いっそう敵意を強め、他の犬を従えて追いかけはじめた。
ビーヴァは、いぶかしんだ。先刻から、セイモアは逃げるばかりで、戦おうとしていない。相手が圧倒的に多くてこちらが不利なだけではなく、戦意が全く感じられない。――そうして、《彼》が、同属の犬たちに遠慮していることに気づく。砦は、彼らのなわばりだ。勝手に侵入した自分の方が悪いと思っているらしい。
さらに、背黒の犬に対するセイモアの態度に、ビーヴァはあることを思い出した。
『牝だ』
相手がそうと気づいた途端、《彼》は威嚇を止めた。ルプス(狼)をふくむ一部のテティ(動物たち)には、牡は牝を決して傷つけてはならないという掟がある。ムサ(人間)にも共通する掟だが、あまり守られてはいない……。セイモアは、こんな状況でも守っているのだ。
犬たちが、《彼》に噛みつこうとして空を噛み、パクッパクッと音をたてる。よけるセイモアの足が、わずかによろめいた。舌は、口の横に長く垂れたままだ。
ビーヴァは、相棒の胸の痛みを感じ、その身を案じた。
「お願い。逃げて……!」
背黒の犬がセイモアにとびかかった瞬間、ラナは、思わずかたく眼を閉じた。祈るような気持ちで瞼を開け、《彼》を探す。十数頭の犬に追われて
水瓶が倒され、ガランと音をたてて割れた。男たちの怒声がひびく。犬たちの不甲斐無さに、苛立っている。石が飛び、鞭がビューンとうなった。
コルデとトゥークの姿をみつけ、ラナは息を呑んだ。
「いつまでかかっている。捕まえろ!」
コルデが右腕を振って命じると、トゥークと数人の男たちが駆けだした。ある者は長槍を持ち、ある者は革製の鞭を携えている。人垣をつくって包囲するつもりらしい。
ラナは、急いで砦内を見渡し、セイモアがこちらへ向かっているのをみつけた。
「来てはダメ! 逃げて、セイモア!」
だが、セイモアは舌をだらりと垂らし、犬たちの牙をよけるのに必死だ。男たちの動きに気づいていない。
ラナは、焦る頭で《彼》に知らせる方法はないかと考え……思いついた。
《―――! 逃げて!》
彼女が叫んだとたん、それは起こった。
〈…………!〉
ビーヴァには、言葉ではなく、突風のように感じられた。衝撃がセイモアを襲い、《彼》に宿るビーヴァをうちすえた。亡き王の巫力のように、生易しいものではない。
セイモアの呼吸が止まり、心臓が止まるかと思われた。全力疾走していた《彼》は、つんのめり、裸の土の上を転がった。土煙を派手にまきあげ、薪の山にぶつかって止まる。背が弓なりに反りかえり、苦痛の呻きがもれた。すぐには、起き上がることが出来ない。
犬たちは大喜びで、動けない獲物に襲いかかった。
ビーヴァは叫んだ。
〈セイモア!〉
背黒の犬の牙が、若狼の左耳を切り裂き、血しぶきをあげる。ラナは悲鳴をあげた。
《―――!》
再び、衝撃に頬を殴られ、ビーヴァは理解した。ラナは、セイモアの真の名を使ったのだ。《彼》の霊魂をしばり、身動きをとれなくしている。こんな時に……だが、彼女にも解っていないのだろう。
数頭の犬が、宙を蹴ってもがくルプスにのりかかり、肩や大腿の毛を噛みちぎった。セイモアは青い目をみひらき、歯をくいしばって耐えた。背黒が《彼》ののどをくわえ、体重をかけておしつぶそうとする。セイモアの牙の間から、ヒューヒューと息がもれた。
男たちが、歓声をあげて駆けてくる。このままでは、殺される。
ビーヴァは意を決した。
《セイモア! ―――!》
ラナが叫ぶ。巫力に耳元を叩かれる苦痛に耐えながら、ビーヴァは、セイモアの身体を動かそうと試みた。たちまち、亡き王の巫力が、きつく絡みつく。ラナの力が、重圧となってのしかる。
《―――!》
〈その名を呼ぶな……ラナ!〉
狭い穴に、無理やり身体をねじこむような感覚だった。
眼の前がいちど暗くなり、また明るくなった。視界に、血の霞がかかっている。ビーヴァは、相棒の代わりに、《彼》の前脚を動かした。息苦しさと、四肢をひきちぎられるような痛みにあえぐ。
彼は、あらい息を吐き、勢いをつけて起き上った。
犬たちがぱっと跳びさがり、背黒が低くうなる。ビーヴァは《彼女》を睨み、声をかぎりに吼えた。
グルルルウォオオーヨーン! グウォウ! ヨオーオーオーウォーヨーン!!
敵を威嚇し、仲間に集結をよびかけるルプス(狼)の咆哮は、砦の防壁を超え、ロマナ(湖)を渡り、夏草の生い茂る森を抜け、蒼い氷河のねむる谷を駆け登った。シラカバの若葉を揺らし、ベニマツの梢をざわめかせる。リスやワタオウサギの背中の毛が逆立ち、木の芽を食むユゥクの耳が、ぴんと跳ねた。
サルゥ川沿いの森を無言で歩いていたエビたちにも、その声は届いた。おのおの足を止め、耳をすます。
エビは、サンと顔を見合わせた。
「今のは、ルプスか?」
「ああ。そうらしい」
「だが、ロマナからだったぞ?」
サンは、解らないというように肩をすくめた。
この時期のルプスは、北へ移動するユゥクの群れを追って、ハヴァイ山で狩りを行うのが普通だ。森には、ウサギやカエルなど、彼らの獲物となるテティが大勢いる。わざわざ危険を冒して湖に近づく理由はない。
まして、今のロマナには、あの連中がいる。
エビは眉を曇らせた。彼の脳裡には、星明かりを浴びてたたずむ銀のルプスの姿がうかんでいた。まさか、たったひとりで砦に向ったわけではなかろう。ビーヴァがいるのに……。
風にのって、小さく、犬たちの吼える声が聞こえた。カンカンと板を叩く音も。エビだけでなく、ホウク(シャナ族の男)とワンダ(ロコンタ族の男)も首をかしげた。砦で、なにか起きているらしい。
「行ってみよう」
エビは、早口に言って荷を負いなおすと、歩く速度をあげた。
身体じゅうの怒りを声にのせて吐き出すと、ビーヴァの視界は、また緋色に曇った。頭がふらふらして、まっすぐ立っていられない。四肢をふんばって身体を支え、牙をむいて犬たちを牽制しながら、相棒の様子をうかがった。
〈セイモア、大丈夫か?〉
左耳が燃えるように熱く、どくどく脈を打っている。血が首すじを伝い、地面にぼたぼた滴り落ちる。身体は急速に冷えていった。血と一緒に、生命も流れだしている。
セイモアは、自身の意識のいちばん奥で、丸くなっていた。すっかり怯え圧倒されているさまは、ビーヴァに拾われた日の仔狼を思い出させた。青年の呼びかけに弱々しく応じたが、心の臓を握られて息も絶え絶えだ。
ビーヴァは、初めてシャム(巫女)の力を知った。真の名の威力とも言おうか……。ただ一つの
ぐらりと大地が揺れた。彼は頭を上げ、足に力をこめなおした。犬たちが吼えかかる。ビーヴァは、後ずさりして牙を避け、逃げ道を探した。
王とラナの巫力が、容赦なく襲いかかる。血も流れつづけている。早くナムコに戻って手当をしなければ、セイモアが死んでしまう。
ビーヴァは、ラナが閉じ込められている建物を見やった。彼女を救い出せないのは悔しいが、少女の望みどおりルプスを救いたければ、巫力の及ばないところまで退かなければならない。
背黒の牙が脇腹をかすめ、あさく皮膚を切り裂いた。灼きつくような痛みが走る。コルデの鞭が飛び、ビシリと音をたてて足元の土をえぐった。
これ以上、留まることは出来ない。
ビーヴァは、二重に絡みつく巫力の網と、自身の未練をふりきって身をひるがえした。
犬たちが、跳ねるように後を追う。男たちの声が響く。
「そっちへ行ったぞ」
「捕まえろ!」
ビーヴァは、立ちふさがる男の腕をかいくぐり、脚の間をすりぬけ、薪の山から倉庫の屋根によじ登った。血の跡をひきずりながら。己のものでない身体は重く、目はかすみ、息切れがする。速い鼓動をうつ心臓は、破れそうに思われた。
彼は防壁にとびうつると、ふらつきながら南西の角を目指した。数頭の仲間をしたがえた背黒が、石段をのぼって追いかけてくる。男たちの投げる小石が、ばらばらと降りかかる。
湖に突き出た防壁の端に、ようやくたどりついたビーヴァは、足を止めてロマナを見下ろした。
垂直にそびえる壁の下には、ごつごつした岩が積み上げられ、敵の侵入を防いでいる。女神は穏やかに、日差しを浴びて輝いている。金色のさざなみが藍にかわる境界に、対岸のシラカバの森が影をおとしているのを眺めると、ビーヴァは、もういちど砦を振り向いた。
獲物が弱っていることを察した背黒が、勇んで駆けてくる。手に鞭を持った男たちが、じりじりと近づく。
ビーヴァは、乾いた土埃のたちこめる内庭から、雲一つない青空に視線をうつし、軽く吼えた。
ウォッフ!
そして、湖に向って跳んだ。
「セイモア……」
ラナは、傷ついたルプスがよろめきながら立ち上がり、コルデの振り下ろす鞭をくぐって走り出すのを、涙のたまった瞳で見送った。
彼女には、己の力が《彼》にしたことは解らなかった。真の名を呼ぶことで危険を知らせることが出来たのかと、ぼんやり推測する。
〈その名を呼ぶな……ラナ!〉
ビーヴァの放った苦し紛れの言葉は、ラナの耳には届かず、意味は伝わらなかった。しかし、彼女の巫力に、かすかな波紋を起こしていた。
ラナは、首を一方へ傾けた。何故そう感じるのか、理由はわからない。けれども、セイモアがこちらを見たとき、《彼》がひとりではないと感じたのだ。
『父さま……母さま?』
窓枠に切りとられた、狭い空を仰ぐ。死んだ父王やテティになってしまった母が、守ってくれているのなら嬉しい。或いは、タミラが。
「セイモア、ビーヴァ。どうか、無事でいて……」
少女は、小声で祈った。
*
「エビ、あそこだ」
木々の枝のあいだから湖が眺められる場所までくると、サンは、腕を伸ばしてテサウ(砦)を示した。ちょうど、四角い防壁の頂に、灰色の獣が姿を現したところだった。ワンワンと、犬たちが吼えている。彼らの連れた犬たちが、その声に反応して身じろぎする。
エビとマグは、眼を細めた。シャム(巫女)のルプスを知らない他氏族の男たちも、怪訝そうに顔を見合わせる。
血と泥によごれたルプスが、防壁の上で追い詰められている。エビは、かるく歯ぎしりした。マグが問う。
「あれは、セイモアか? エビ」
「落ちたぞ!」
サンがささやき、マグは息を呑んだ。エビは動かず、セイモアが跳ぶというよりは落ちるように、ロマナへ身を躍らせるのを見詰めていた。
蒼碧の森を背景に、ルプスの身体は、土を詰めた革袋さながら、まっすぐロマナに吸い込まれた。水しぶきがあがり、湖面が揺れる。
砦では、しばらく犬たちの騒ぐ声が続いていたが、男の怒声が二・三度響くと、静かになった。
「…………」
足元で、狩犬たちがふんふん鼻を鳴らす。エビは、ロマナが完全に滑らかになるまで、じっと待っていた。首だけで、仲間たちを顧みる。
「ここにいてくれ」
一の狩人は、そうマグに告げると、腰をかがめて歩きだした。砦の男たちに見つからぬよう、木陰に身を隠して進む。サンが弓を手に後にしたがい、マグと他の男たちは、犬たちをなだめながらその場にとどまった。
あたたかなクルトゥク(南風)が、女神の頬をそっと撫で、陽光を散らしていく。シラカバの梢で小鳥がさえずり、芦の根元をひたす水のなかでカエルが跳ねる。狩人たちは、先刻の騒ぎが嘘のようにうららかな湿原を進んでいった。
やがて、
「エビ」
サンが呟き、エビは肯いた。サルゥ川の流れがロマナと混じり合うところ、流木と芦に遮られて流れがよどんでいる場所で、水音がした。
エビは、すばやく砦に視線を走らせた。数人の見張りの頭が、防壁の上にのぞいている。あちらこちら見まわしているが、こちらに気づいてはいない。
エビは、波打ち際に視線を戻し、唇をゆがめた。彼が気づくより早く、ルプスは陸に上がっていた。
やはり、セイモアだ。
叢を音をたてずに歩き、湖からじゅうぶん離れたところで立ち止まる。美しい白銀色の毛皮は汚れ、左の耳からは、まだ鮮やかな血が滴っていた。肩や脇腹にも、血がにじんでいる。
若狼は疲れ、傷つき、腹をたてているようだった。おざなりに身をふるって水滴を払うと、腰を下ろし、首をひねって脇腹の傷を舐めはじめた。肩や大腿、前脚の噛まれた痕も舐めたが、耳の傷はどうすることも出来ない。流れこむ血に眼を細め、イライラと首を振ると、ふいに、男たちを顧みた。
エビは、ドキリとした。
狩りをするもの同士、ルプス・テティから隠れおおせるとは思っていない。だが、相手は傷を負っているし、こちらは風上だ……。セイモアの眼差しは、見事に彼の油断を衝いた。傷ついていない方の耳が立ち、頭がひくくなった。唇がめくれ、白い牙がのぞく。
唸り声はなかった。彼らは、ただ互いを見つめた。
白狼の瞳は、夏の夜空より
「…………」
狩人が声をかけようとする間もなく、ルプスは踵をかえし、森の奥へと歩み去った。
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