第五章 裏切の報酬(4)



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 砦は、そぞろに吼える犬の声、木戸を打ち鳴らす音、男たちの怒声や足音などに満ちていた。乾いた毛とすりきれた革紐、日向くさい汗と尿、腐った肉と酒のにおいがする。

 セイモアは、建物の壁と薪の山の間に、警戒しながら身をひそめた。ここは、他人(犬たち)の縄張りだ。不用意に動きまわるわけにはいかない。

 小さな牝(ラナ)は、どこにいるのだろう?

 《彼》は、片方の耳を倒して首をかしげ、ビーヴァの指示を待った。

 ビーヴァは、相棒から離れて空中に浮遊しそうな虚脱感に苦しみつつ、同時に、狭いところに押し込められた気分を味わっていた。世界が褐色のもやに覆われて、ものの輪郭が判然としない。音もにおいも、布を一枚かぶせられたようだ。

 しばらくの間、依りどころを失って消える恐怖と闘っていたが、やがて、状態がこれ以上悪くならないことに気づいた。

 何かが、彼をルプス(狼)の身体から引き剥がそうとしている。その力は、砦ぜんたいを覆っていた。生身のセイモアには影響がなく、ビーヴァの霊魂だけを狙っているらしい。だが、憑依を完全にほどくことはなく、中途半端な状態にとどめた。

 相棒に話かけることは出来ないが、消されるほどではない――そう悟ると、ビーヴァは少し落ち着いた。不安は残るが、この状態で出来ることをやろう。

 それにしても、いったい何故。

 ビーヴァは、意識をしばる力の糸に曳かれるように、背後の門を顧みた。亡き王の首と、その下の荒地から、力が伸びている。

 彼は、相棒の言葉を思いだした。

『彼(王)が、ここを護っている』

 シャム(巫女)とともにテティ(神霊)に仕える王が、よそ者に辱められ命を絶たれたあげく、死後に巫力まで利用されている。弔われることなく地下に封じられたために、テティ・ナムコ(神霊の国)に逝くことが出来ないのだ。

 ビーヴァを彼と認識することなく、侵入者として、拒絶している。

〈…………〉

 父のように慕ってきた王の変わり果てたすがたに、ビーヴァは、改めて深い哀しみを覚えた。


 日陰に身を伏せていたセイモアは、前足をそろえて起きあがった。ビーヴァの《声》は聞こえず、心なしか遠ざかった気もするが、気配がすっかり消えてしまったわけではない。待っていても《声》をかけられないので、自分の意思で歩きだした。

〈そうだ、セイモア。ラナを探してくれ〉

 ビーヴァは、うす暗い視界に悩みながら、《彼》を励ました。

 若狼は両耳を立て、地面のにおいを嗅いで進んだ。犬にも、尾のない獣の目にもつかぬよう、物陰をぬって歩く。いつでも逃げ出せるよう肘から脇腹の筋肉をはりつめ、尾を水平に挙げていた。

 森の木々の香りに慣れていた二人にとって、砦は刺激に満ちていた。魚脂くさい煤と酒のにおいに、なめし革のにおいが重なっている。アロゥ族のナムコ(村)にも共通するムサ(人間)の生活臭だが、より強く、不満と倦怠が雑じっている。

 血のにおいを嗅ぎとって、セイモアは足を止めた。ぬかるみを踏んだ足跡がそのまま固まった凸凹の地表に、牝(女)と、幼い子どものにおいが残っている。《彼》は、鼻をひくつかせた。交じりあう複数のにおいの中から、馴染みのものをいくつか嗅ぎ分けると、首を左右に振って方向をたしかめた。

 建物が赤茶けた土に紫の影をおとし、先を削ったマツの柱や、壁にたてかけられた梯子が、縞模様を描いている。セイモアは、慎重に、影を踏んで歩いた。においの強い方へ向ううちに、周囲の音が大きくなった。

 ひらけた場所へ出た《彼》は、腰をおろして様子をうかがった。

 門の前で、犬たちが吼えている。《彼》に気づいたわけではなく、暇を持てあましているらしい。防壁の上で立ち話をしている牡(男)たちからは、酒と干した魚のにおいがする。木の根を掘るための棒を担いだ牡たちが、建物の背後から現れて、広場を横切って行った。笑声、互いに呼び交わす声、怒鳴り声。

 牝と子どものにおいは、犬と牡のにおいと土埃にまぎれていた。

 セイモアは、当惑気味に鼻を鳴らした。血のにおいを辿れば、否応なく、犬たちの前を通らなければならない。そうなれば、騒ぎは避けられない。尾のない獣たちも気づくだろう……。ビーヴァがいい知恵を出してくれないかと期待したが、指示はなかった。

 セイモアは、仕方なく、広場を通ることを諦めた。地に鼻をこすりつけ、新しいにおいを探す。より直接ラナに結びつく痕跡を求めて歩きだしたとき、すぐ傍らで声がした。


 グウウウゥーッ……


 セイモアは跳びあがり、身をひねって向きなおった。橇を納める倉庫の入り口に、一頭の犬がいた。黒い、小柄な橇犬だ。肩の高さはソーィエより低く、毛並みは脂けがなくパサついている。

 若狼は身構えたが、相手がつながれていることに気づくと、戸惑って目をそらした。

 黒犬は勢いづいた。牙をむき、激しく吼える。血走った琥珀色の目をみひらいて口から泡をとばす剣幕に、セイモアは、首をふって後退した。

〈まずいな……〉

 ビーヴァは焦った。なわばり意識のつよい犬たちの間に、瞬く間に、警戒はひろがった。路地のむこうから、広場の端から、吼え声が湧きおこる。うるさいと、男の喚き声がした。どこからか板きれが飛んできて、《彼》の鼻をかすめる。

〈セイモア、逃げろ。隠れるんだ〉

 聞こえないと分かっていても、ビーヴァは思わず叫んだ。セイモアは身をひるがえし、倉庫と倉庫の間へかけこんだ。どたどたと重い足音が近づき、黒犬のあげるキャインという悲鳴が響く。殴られたらしい。

 しかし、犬たちの声はやまず、さらに煩くなった。こちらへ向ってくる足音と、ハッハッという同属の息遣いを聞きとったセイモアは、路地を走り出した。


 ワンワンワンワンワンッ!

 グルルルルゥーッ ウォウッウォウッ、グルルルウォーン!

 キャンキャンキャンッ! ギャンギャンギャオオゥッ!


「何の騒ぎだ?」

 部下に荷づくりをさせていたコルデも、騒ぎに気づいた。広場のそこかしこで声をはりあげている犬たちに、眉を寄せる。トゥークは、彼の側にいた。逃げることも、狭い砦の中で隠れつづけることも出来ず、結局、男たちの手下となって働いていたのだ。

 茶と白のぶちの橇犬が、革ひもをぴんと引くのを抑えながら、男が言った。

「誰かが犬を放したんでしょう。それで騒いでいるんじゃないですか」

「…………」

「犬使いがいれば、何とかなるんでしょうが」

 父のことを言われて、トゥークはどきりとしたが、コルデの表情は変わらなかった。眉間に皺を刻んだまま、砦の内庭をぐるりと見渡す。防壁の前を影がさっと横切ったのを見て、碧眼を細めると、同じ男に問うた。

「でかいな……。誰の犬だ?」

「さあ」

 トゥークにも、汚れた灰色の毛並みと、太い尾が見えた。

『違う。犬じゃない。あれは、ルプス(狼)だ……』

 少年は、ぎりっと奥歯を噛みしめた。なぜ、ルプス・テティがここに? どこから入ったのだろう?

 先日のロカム・テティ(鷲神)といい、急に姿をみせるようになったテティ(神々)の意図を、トゥークは怪しんだ。なぜ、今になって。王(アロゥ族長)が殺されたというのに――

 殺された、から?

 トゥークのなかで、門の上にそびえる影が濃くなった。恐ろしくて、まともに仰ぐことが出来なくとも、心に刻まれている。長髪をなびかせる王の首のまわりを、ワタリガラス(ワイール族の守護神)が飛んでいる。緋色にかがやく瞳で、彼の罪を睨みすえる。

 犬たちの声は、土の壁にぶつかって反響し、少年のなかでうずを巻いた。トゥークは、頭を抱えてうずくまりたくなるのを、堪えなければならなかった。

 開拓団長は、鞭を持った手を顎にあてて犬たちの狂乱を眺めていたが、にやりと嗤った。

「犬を放してやれ。面白そうだ」

「…………!」

 トゥークは、ぎょっとして彼を顧みた。



 かたい石の寝台の上で、ラナは目覚めた。

 男たちに弄ばれたのち、ひとり捨て置かれていた少女は、無意識に寝返りをうとうとして、痛みに呻いた。肩から背中、腰にかけ、無数のすり傷が出来ている。胸のまわりや上腕、大腿には、男の指につかまれた痕が、紅い痣になって残っている。彼女は裸だった。おざなりに肩にかけられていた皮の外衣を、胸元へひきよせる。

 見覚えのある石造りの部屋は暗く、火の気はなかった。床に、酒の入った土瓶や椀がころがっている。窓を覆う扉のすき間からさしこむ光の中で、細かな埃が舞っている。

 ラナは、ゆっくりと、己の置かれた状況を思い出した。

 すると、あれは夢ではなかったのだ……。幽体となってこの身を離れ、父と、母に逢ったこと。ナムコ(村)には誰もおらず、タミラの死を確かめたこと。やっと逢えたビーヴァはぬけ殻で、自分は悪霊に堕ちかけていたこと。

『何故、あのままケレ(悪霊)にならなかったのだろう?』

 現状に変化がないことに落胆しながら、ラナは考えた。どうして、自分はここに戻ることが出来たのだろう。くらいとぎれとぎれの記憶のなか、ソーィエに吼えかかられ、誰かに斬り伏せられたところまでは、覚えている。ビーヴァの側にいた、あれは

『あのひとは、誰……?』

 ラナは、男装のキシムを女性だと見抜いていた。シャム(巫女)の能力は、生き物を姿かたちではなく、その霊性によって捉えるからだ。入巫して間がなく、最初の夏至祭りを迎えていないラナは、シャナ族の巫女を知らなかった。乳兄妹のかたわらに若い女性がいた、意外さがのこる。

 そして、

『ビーヴァ、どこにいるの?』

 青年を想うと、ラナは泣き出したくなった。逢いたくて、逢いたくて。切なさに、身を絞られる心地がする。彼の身体に霊魂が宿っていなかったという事実は、少女の胸に穴をあけた。冷たい絶望の闇に、吸い込まれそうだ。

 傷だらけの肌はひりひりし、頭はしめつけられるようで、吐き気がした。ラナは、途方にくれた。

『これから、どうすればいいの』

 死ぬことも、ケレに堕ちることも出来なかった自分に、どんな未来が残されているというのか――。

「…………?」

 窓からさしこむ光は白く明るい。ラナはふと、その中にまぎれた遠い喧噪に気づいた。

 犬たちが、さかんに吼えている。あれは、獲物を狩りたてるときの吼え方だ。男たちの笑い声もする。扉を叩いているらしい、ガンガンという音もする。

 何をしているのだろう?

 ラナは、身体をひきずるようにして起きあがった。途端に、ぐらりと視界が揺れ、倒れそうになる。壁にもたれて眩暈をやりすごし、呼吸をととのえると、頭上の小さな窓に腕をのばした。

 壁を削って作られた窓には、粗末な木の扉がはめ込まれていた。ラナはその表に触れ、爪をたててひっかき、ガリガリこすり、小さな隙間をつくった。指をかけて引き開けると、光と風が流れ込んできた。

 背伸びをして、やっと顔がとどく高さだ。彼女は、縁にしがみついて外を見た。


 グオゥッ グルルルッ! ワンワンワンワンワン!


 激しい声に驚いたラナは、悲鳴を呑んで顔をひっこめた。改めて、おそるおそる首を伸ばす。

 革紐をひきずった数頭の犬が、彼女の前を、我先にと駆けていった。男たちの声が、後を追う。いさめる風はなく、けしかけ、煽っている。ピーピーと、指笛が鳴る。

 声と足音は、建物の間を駆けぬけ、防壁の上を走って行った。砦内を、ぐるぐる廻っているらしい。

 何を追いかけているのだろう? 

 犬たちの動きは速く、姿をとらえることは容易でなかった。強い日差しに眼を細めつつ、風にのって流れる声の行く先を見遣ると、狩り犬たちより ひとまわり大きな灰色の影がみえた。

 ラナは最初、ユゥク(大型の鹿)の仔が迷いこんだのかと考えた。とがった耳と細長くのびた鼻、白くひかる牙の間から垂れた紅の舌、胴体に比して長い脚と、ふさふさの尾などを眺めるうちに、彼女の眼は大きくみひらかれた。

「セイモア?」


 セイモアは奔った。倒れた柱を跳びこえ、井戸を迂回し、防壁の石段を駆け上がる。待ち伏せしていた男の眼前で横とびにとんで隣の家の屋根にうつると、薪の山を伝って地に下りた。壁にたてかけられた橇の下をくぐり、投げつけられた石を避けて路地へ入る。

 興奮した犬たちが、にぎやかに吼えながらついてくる。その数は、増える一方だ。

 若狼のなかで、ビーヴァはほぞんでいた。逃げ出したことで、かえって犬たちの狩猟本能を煽ってしまった。騒動は砦じゅうにひろがり、隠れられる場所はない。

 今や、自分たちの生命を守るだけで精いっぱいで、少女を探す余裕はない。ビーヴァは、相棒を助けられないことに歯噛みした。指示も、励ますことも出来ない。

 いくら持久力に優れたルプスとはいえ、多勢に無勢。このままでは、早晩、疲れて捕まってしまうだろう。自分も、いつまでこうしていられるか分らない。

〈どうする……?〉

 ビーヴァは、あのとき、相棒の躊躇をうけいれなかった己の浅はかさを嘆いた。無理をせず、砦の外から様子をうかがうだけに留めておけば、ラナたちの居場所をさぐることが出来ただろう。後でカムロに報告し、次の策を考えればよいのだ。

 彼は出直すことを考え、不自由ながら意識をひろげた。相棒の逃げ道をさがす。――その時、

 土埃に黄色くけむる砦の内庭に、甲高い声が響いた。

「セイモア!」

 若狼は、走りながら耳を動かし、迷うことなく声の出所をみつけた。防壁にちかい石造りの建物。その窓から、小さな顔と手がのぞいている。

「セイモア! 逃げて!」

〈ラナ?〉

 亡き王の巫力の網に絡まれながら、ビーヴァもそちらへ注意を向けた。少女の声は、悲鳴に近かった。セイモアは、割れた酒瓶のころがる内庭を横切り、彼女に近づこうとした。

 ふいに、物陰から現れた褐色の犬が、牙をむいて《彼》に襲いかかった。

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