第五章 裏切の報酬(3)



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 朝焼けのきらめきが過ぎると、澄んだ青空が頭上にひろがった。餌をさがす小鳥の声が木立にひびく。波は、穏やかに日差しを反射している。一昨日、大勢の子どもたちが殺されて投げ込まれた湖だとは、とても思えないのどかさだ。

 セイモアの腹の中で、小さな虫が鳴いた。つづいて、胃のよじれる軽い痛み。《彼》は、水のにおいを嗅ぎながら湖岸を歩きまわり、数匹のはねものを捕まえて、ぱくりと呑みこんだ。とんがり鼻にやられたのか、翼が折れて死にかけているユキホオジロもみつけた。首をひねってとどめをさし、羽毛を散らしてかぶりつく。

 ビーヴァは、《彼》が腹ごしらえする間、黙って待っていた。なんとか砦に忍びこみ、ラナたちを救い出したい。ルプスにとっては夜の方が動きやすいが、あまり永く憑依しているわけにはいかない。急がなければならないが、セイモアの協力がなければ何も出来ない。

 若狼は、口のまわりを朱に染めながらも、耳をぴんと立てて辺りの様子をうかがっていた。

 風向きがかわり、濡れた土のにおいが濃くなった。ユゥクの体臭、ゴーナの糞、木の葉や苔や腐った魚の臭いが、入り混じって鼻を突く。ビーヴァはくらくらした。まるで、額をがんと殴られたような衝撃だ。

 ところが、セイモアは、ほとんど終えかけていた食事を中断すると、興味津々で鼻をあげた。尾をふって立ちあがり、においの元を探す。

 ビーヴァは嫌な予感がした。

〈おい。ちょっと待て、セイモア〉

 春に産まれた仔ユゥクが、好奇心にかられて歩き出したところ、ぬかるみに足をとられて動けなくなり、そのまま息絶えたのだろう。とんがり鼻やカラスに食い荒らされた屍体は、腐って骨がむきだしになっていた。そこへ、雪解け水とともに土砂や落葉が流れこみ、新しい他のテティ(動物)の痕跡とまじりあって、異臭を放っている。碧の目と黒い翅をもつ小さな虫が、ひくいうなり声をたてて群がっていた。

 セイモアは嬉々として鼻を鳴らし、泥のなかへ跳びこんだ。虫たちが、煙のように舞い上がり、怒ってぶんぶん翅を鳴らす。《彼》はかまわず、腐った屍体に身体をこすりつけはじめた。

〈やめろって。そんなことしている場合じゃないだろう……〉

 ビーヴァの抗議は、邪気のない喜悦の感情に呑まれ、弱々しく消えた。ルプス・テティ(狼神)に、将来さきのことを思いわずらう習性はない。ビーヴァは、相棒の脳のなかで溜息をついたが、結局、《彼》の気がすむまで放っておくしかなかった。


 ぬかるみのなかを夢中で転げまわり、肉のおちた骨に齧りついていたセイモアは、ふと顔を上げ、辺りを見回した。太陽は、すでに高くのぼっている。銀色の《彼》の毛皮は、落葉とユゥクの毛と、糞と古い血と泥にまみれて、すっかりまだらになっていた。背中には、水鳥の羽根と小枝の飾りまでついている。雑じりあった強烈なにおいで、わけがわからない。

 ビーヴァは、天を仰いで嘆きたい気分だった。

〈お前、何しに来たんだよ〉

 セイモアは、骨を捨てて立ち上がると、尾を下げ、片方の前足で鼻を掻いた。ぶるりと身をふって落葉と泥を落とし、後足で耳の後ろを掻く。――いちおう、反省しているらしい。

 ビーヴァは、気持ちを切りかえることにした。水平に静まりかえったロマナの湖面、その上の砦に視線を戻す。

〈行こう、セイモア〉

 彼が促す前に、セイモアは歩き出した。すぐに、なめらかな駆け足となる。

 湖岸にひろがる湿原には、青緑色の細い葉をもつ草がいちめんに生え、その根元を、浅い水の流れが網目のように走っていた。苔むした石やぬけたユゥクの角、倒れたマツの幹が、流れをところどころで遮っている。シラカバの梢からこぼれ落ちた陽光が、大地に金と緑の模様を描いている。

 セイモアは、砦の見張りにみつからぬよう、慎重に木陰をぬって進んだ。オコン川の河口に出て、水際で足を止める。

 ビーヴァは、ムサ(人)より劣るルプスの目で、対岸を眺めた。

 中州には、木が一本も生えていなかった。コルデたちが、残らず伐ってしまったのだ。テサウ砦のむこう側も荒野になっているはずだが、こちらからは見えない。

 前回、王とエビたちは舟を使い、カムロと自分はユゥクに乗って、東側から砦に近づいた。今回は、どうやって中州に渡ろう。――などと、ビーヴァが考えていると、

〈セイモア?〉

 水のにおいを嗅いでいたセイモアが、川へむかって歩をすすめた。すぐに、ひやりとする感触が、毛の奥へ忍び込む。胸が水に漬かると、川床から足が離れた。輪をえがく波紋のなか、静かに岸を蹴って泳ぎだす。

〈セイモア、大丈夫か?〉

 《彼》の動きに迷いは感じられない。けれども、ビーヴァは、相棒のなかに、コルデに蹴られて川へ落ちた記憶があることに気づいた。そうでなくとも、ロマナ(湖)は決して優しい女神ではない……。だが、セイモアは鼻を空へ突き出し、半ば沖へと流されつつも、一心に足を動かした。指をひらいて水をつかみ、対岸の砂利を踏むと、一気に斜面をかけのぼる。這うように背をかがめ、防壁の下に身をひそめた。


 泳いだおかげで先刻の汚物がすこし落ち、においがマシになった。セイモアは、そっと身体を振ってしずくを落とすと、耳を立てて砦の様子をうかがった。

 防壁の上で、足音がする。歩調がゆっくりしているところをみると、こちらに気づいてはいないのだろう。誰かが、あくびをしている。

 セイモアは、鼻をひくつかせた。ムサの汗と尿のにおい、酒と焼いた肉のにおい。新しい血のにおいを嗅ぎわけて、《彼》は背中の毛を逆立てた。首だけでふりかえり、痕跡をさがす。

 地上にながくのびた門の影。そこから、どぎつい血のにおいが降りてきた。ビーヴァは、相棒とともに意識を上へむけ、愕然とした。

〈王……!〉

 石と泥を積んで築かれた壁、その上に立つ柱の頂に、黒い塊が載っていた。濡れた長髪が、数条の束となって風に揺れ、むせるような血の臭いをまき散らしている。逆光で顔はわからなくとも、ルプスの鼻を得たビーヴァには、誰の首か判った。衝撃が彼の魂を貫き、相棒を身ぶるいさせた。

 セイモアは、かなしげに鼻を鳴らした。ビーヴァに憑依されていなければ、彼の掌に鼻を押しあてただろう。それが出来ない今、主の感情を、直に胸に受けとめる。

 《彼》の心臓が数回うつ間、ビーヴァはなにも考えることが出来なかった。それから、諦めと哀しさと、妙に納得する気持ちがわいてきた。憤りはない。自責や激しい怒りは、既に彼を通り過ぎていた。

 冴え冴えとした悲しみを噛みしめながら、彼は相棒に声をかけた。

〈セイモア。どこか、中に入れるところを探そう〉

 セイモアは、ゆっくり、慎重に尾をふった。ビーヴァは、相棒の躊躇いを察した。

〈セイモア?〉

『……ここは、彼の縄張りだ』

 ムサ(人間)のように言語を用いる思考は、ルプス(狼)の性ではない。故に、畏れを含む拒否の感情を、《彼》はそう表現するしかなかった。耳を伏せて顔をそむけ、これ以上ここにいたくないことを示す。それは、砦の中にいる者に対してではなく、頭上の首に対することだった。

 ビーヴァはいぶかしんだ。

〈入れないのか?〉

『彼が、ここを護っている』

 ほかに数人、うるさい奴もいる。――セイモアは、犬のにおいを嗅ぎ取って、唇をゆがめた。眼を細め、片方の耳を動かし、壁の向こうの気配をさぐる。

 ビーヴァは戸惑い、わずかに苛立った。覡(シャマン)になったばかりの彼には、ルプスの言わんとしていることがよく解らなかった。《彼》に従うべきと思われたが、せっかくここまで来たのに、という思いが勝った。

 いつもは自分の方が主人だという、驕りもあったかもしれない。

〈頼む。ここに、ラナたちがいるんだ〉

『…………』

 セイモアは唇を戻し、むき出しにしていた牙をおさめた。耳を前後に動かして、さらに周囲の音をさぐる。気乗りしない様子で足を踏み出すと、ビーヴァがまた言った。

〈ラナも通れそうなところを探してくれ〉

 助けに来たのだから、帰りのことを考えておかなければならない。けれども、これはルプスには難しかった。今いない牝が通る場所とは、どこだろう? ――相棒が混乱しているさまを見て、ビーヴァは、それ以上 注文しないことにした。


 セイモアは、砦の防壁にそって歩いた。天頂から降りそそぐ金の光が、濃い影を地上に落としている。影が壁と接するぎりぎりのところを、音をたてずに進む。鼻を下げ、わずかに開けた口から舌を垂らし、前足の踏んだところを後足でたどる。ときおり顔を上げて、壁の高さをうかがった。

 北から西、そして南へ。日差しを反射して銀色にかがやくロマナ(湖)に眼を細めつつ、歩き続ける。平らにならされた大地には、湖に近づくにつれ砂利や岩が増え、やがて、歩くのが困難なほど狭くなった。防壁は厚みを増し、四角い窓をもつ建物に変わり、湖にせり出した角で終わっていた。波打ち際には、人頭大のごつごつとした岩が積み上げられている。

 外からの侵入も、中からの逃亡も、不可能に思われた――ムサには。

 セイモアは立ち止まり、首を思いっきり伸ばして水のにおいを嗅ぐと、フンと鼻を鳴らし、灰色の建物を仰ぎ見た。ビーヴァが訊ねるのを待たず、背をまるめて力をたくわえると、ひらり跳んで岩と岩の間に降り、もういちど跳んで別の岩の上に立った。太い尾を水平にのばして平衡を保ち、内側から閉ざされた窓を目指して、一気に跳びあがる。狭い窓枠にあとあしの爪をひっかけると、精いっぱい身体を伸ばし、壁をよじ登った。

 ガリガリザリザリ、土壁をけずる派手な音が響いたが、窓は開かず、砦の男たちが騒ぎはじめる風もなかった。ひらたい屋根にあがったセイモアは、くるりと回って呼吸をととのえ、マツの木に板をくくりつけた梯子をみつけると、大急ぎで駆け下りた。

 この間、ビーヴァは黙って相棒のすることを見守っていた。身体があれば、息を殺していただろう。セイモアの前足が土を踏み、砦の内庭に下り立つと、ほっとした。

 直後、異変が起きた。

〈…………?〉

 突然、ビーヴァは、のどが詰まったような心地がした。そんなはずはない、霊魂に肉体はないのだから。と思っても、みるまに視野がせばまり、息苦しくなってきた。視界がかすみ、手足の力がぬけ、まるで無理やり相棒から引き剥がされるように頼りなくなる。

〈何だ? これは〉

 セイモアは平然としていた。人目を避けて建物の影に入り、腰をおろすと、前脚についた汚れを舐めとりながら、彼の指示を待っている。ビーヴァはぞっとした。自分の変調に相棒は気づいていないばかりか、彼の《声》も聞こえていないらしい。

 憑依が解けはじめたのか?

〈セイモア!〉

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