第五章 裏切の報酬(2)



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「エビ、どうした」

 年老いたマツの根元に佇んでいたエビは、仲間の声に我に返った。踵をかえし、曖昧に笑う。

「何でもない。少し、ぼうっとしていた」

 追求をそらすための返事だったが、この場合は上手くいった。相手は、同情をこめて頷いた。

「無理もない。働きどおしだったからな。俺も、もう歩けそうにない」

 そう言うと、サンは溜息をついて木の幹に寄りかかり、自嘲気味に唇をゆがめた。エビは、無言で相槌をうった。思考は、さきほど目にしたルプス(狼)の後を追っている。

『あれは、確かにセイモアだった。あんな白いルプスは、そういない。こんなところで何をしているんだ。俺たちを、見送りに来てくれたのか』

 ――願わくば。テティ(神霊たち)には、ケレ(悪霊)に憑かれた自分より、ナムコ(村)に残る者を護って欲しいのだが……。

 狩人は、己の思いつきに苦笑した。もとより、王とのちかいを破り、神々の導きに背いて村を出た者が、加護をえられるはずがない。生命を捨て、悪霊と化してでも、護る覚悟ではなかったか。

 ディールがその命と引きかえに救けてくれた赤ん坊――氏族の女たちに託した我が子を想うと、エビの気は沈んだ。上の息子は王とともに殺され、ロキ(妻)は未だ捕らわれている。ワイール族に身を寄せても、かつての穏やかな暮らしは戻ってこない。

「…………」

 氷河に深くあいた亀裂を覗きこむように暗くしずむ思考から、エビは、軽く頭をふって意識をそらした。首をめぐらせ、今の自分の仲間を見遣る。

 同氏族のサンとマグ、シャナ族のカナとホゥク。ロコンタ族のワンダとチャンク。ワイール族のユイとルーナ。――王の護衛に名乗りをあげた男たちが、そのまま集まっていた。目の前で仲間を殺され、子どもたちを救けられなかった心の痛みが、彼らを結びつけていた。ある者は倒木に、ある者は大地に直に腰をおろし、項垂れている。なかには、膝の間に顔をうずめ、眠っている者もいる。

 エビは、我知らず眉をくもらせた。彼の身体にも、疲労は骨まで沁みている。立ち続けているのは辛かったが、魚皮製の靴は重く、ぬかるみに踏み込んだときのように、一歩も動かすことが出来ない。否――自嘲気味に考えた。――動くのが怖いのかもしれない。腰をおろしたが最後、二度と立ち上がれなくなるような気がして。緊張といきどおりで支えてきた気持ちが、一瞬で萎えそうに思われて。

 食欲はなく、からからに渇いた口からは、吐息とともに生気も抜けていくようだった。

 サンが、小枝を集めて火を熾す。それに手をかしながら、マグが声をかけてきた。

「これから、どうする?」

 怒りを露にしていた青年も、今では不安そうに彼を見上げている。エビは、胸の前で腕をくみ、言葉をさがした。

「……また砦を攻めても、同じことの繰り返しだ。奴らの根拠地を探そう。二度と戻って来られないようにするんだ」

「ああ。そうだな」

 マグは頷き、唇をひき結んだ。他の男たちも、緊張した面持ちで頷く。

 彼らには、亡き王が予言した未来が見えていた。戦いを仕掛ければ、コルデたちは、いずれ本国へ救援をもとめるだろう。観たことのない南の地から、どれほどの敵がおしよせてくるのか、予想できない。

 わずか九人の力で、抗えるのか。いつまで戦えば、この地に平和が戻るのか。

 自分たちは、生きて故郷に還れるのだろうか……。

『俺たちが戦っている間に、カムロが女子どもを逃がしてくれればいいが』 考えて、エビはわらった。逃げるか、戦うか。己の発想の貧しさに、苦いものがこみあげる。他にどうすればよいのだろう。

『ビーヴァなら、何と言うかな』

 瀕死のマシゥとともに残してきた友の顔を想いうかべる。親の仇と信じながらマシゥをたすけ(結局、それが正しかったのだが)、生きながら神霊に近づく術を身につけた青年には、どんな未来が見えているのだろう……。

 ニルパを亡くしてからというもの、エビのうちに日ごと降り積もったかげは、今や彼をくらく染め、地中へひきずりこもうとしていた。逆に、ビーヴァはつよさとしなやかさを増し、その瞳は磨きぬかれた黒曜石さながら、人の心を映している。母と王の死すら、一点の曇りも与えていないように想われる。 

 エビは彼をうらやみ、そんな自分を嫌悪した。口の中で呟く――お前は、お前の道を行け。テティが護ってくれるだろう。

 音のない溜息とともに、天を仰ぐ。

 夜明けが近づいていた。



 昼の太陽の光を抱きしめた、紫の空。その東の端が白くなり、針葉の木々の梢が銀色にかがやきはじめる。地におちる木影はいっそう濃く、森は鮮やかに浮かびあがる。

 けれども、ラナの目には、全てが灰色の霧におおわれて見えた。己の目指すところも判らぬまま、歩きつづける。シラカバの林をとおりぬけ、嵐に倒れたベニマツの根を迂回する。彼女の袖や足からは、嘆きと怨みが、ながく尾をひいてたなびいた。

 蒼白く透けながら、ラナの足は細い水の流れをわたり、谷を滑りおりた。

『ビーヴァ』

 くりかえし呼ぶ。森をさまよう数え切れない霊たちの、さまざまな感情――嘆き、怒り、戸惑い、絶望、断末魔の苦しみ――を呑んで膨れあがった意識では、己を保つことは難しい。ただひとつ、乳兄妹への想いだけが、彼女を彼女たらしめていた。

『ビーヴァ、どこ?』

 冷たいハァヴル(西風)に頬をなでられ、ふわり宙に浮く。ラナは、長い髪をなびかせながら、サルゥ川にかかる丸太橋を渡り、寝静まったワイール族の集落へとはいっていった。しかし、現身とはちがう視野はせまく、黒や褐色の影の集まりにしか見えない。

 シラカバを組んで毛皮を貼った三角形のチューム(円錐住居)も、そのおもてに描かれたロカム(鷲)やハッタ(梟)の紋様も、彼女には意味をなさなかった。

『ビーヴァ』

〈びーヴぁ〉

〈ヴァアァァァ……〉

 ラナが呼ぶと、身体のなかから複数の声がわきおこり、響きあった。無秩序に集まった霊たちは、彼女の巫力を得て、そのかたちを現そうとしていた。少女の輪郭はゆらぎ、肩から第二、第三の腕が生え、胸にはひとのものではない眸があらわれた。耳を得、口を得て、各々がこの世に留まる因となった情念を訴える。

 ラナは、己のものとは異なる記憶と感情に翻弄され、身悶えた。心さえ、自分のものではなくなっていく――

『たすけて、ビーヴァ』

〈あぁアァァ……〉

 広場をよこぎり、まだ熱ののこる火葬の灰の中を歩くと、小さな風が起こり、彼女の髪をなびかせた。ラナは背をまるめ、よろめきながら進んだ。異形と堕していく己を恥じ、隠れられる場所を探す。

 そうして彼女は、ビーヴァのねむるチュームへたどり着いた。


 キシムは、消えかかった焚き火の側に腰をおろし、左腕をソーィエの肩にのせ、右手でスレインを抱いた姿勢のまま、まどろんでいた。金赤毛のあいのこも、ふわふわの毛に包まれて、気持ちよさそうに目を閉じている。傍らには、巫女の杖が、切っ先を男たちの方へ向けて置かれている。

 横たわった男たちのうち、マシゥは、生と死の境界から戻りつつあるのか、時折苦痛に顔をしかめたり低く唸ったりしていたが、ビーヴァの方は、ぴくりとも動いていない。ソーィエは眠らず、静かに身を伏せて、そんな主人を見詰めていた。

 ――と。

 何か……が、チュームの壁をとおりぬけて、部屋のなかに入ってきた。音もにおいもない気配に、真っ先にソーィエが気づいた。赤毛の犬は両の耳をぴんと立て、鼻に皺をよせた。唇がめくれ、白い牙があらわれる。のど元へせりあがってきた威嚇の唸り声は、しかし、そこで止まった。

「ソーィエ?」

 ソーィエの肩に走った緊張は、肌を通じてキシムに伝わった。ソーィエは、彼女をちらりと顧みたものの、すぐに視線を戻した。かすかに、当惑気味に鼻を鳴らす。前足を動かし、そわそわと身じろぎする。

「…………」

 キシムは、黙ってスレインを懐へいれると、杖を握りしめた。片方の膝をたて、ソーィエの肩に身を寄せる。《彼》が観ているものを観ようと、瞳を凝らす。

 ソーィエが、ひくく唸った。


 グウウウゥゥーッ……


 壁際でうずくまっていた《影》は、その声で我にかえった。かすむ意識に裂け目が生じ、その間から、眠っているビーヴァが見えた。ラナは息を呑み、崩れかけた手を伸ばして、おそるおそる頬に触れようとした。

 ――けれども、彼女はすぐ、彼がそこにいないことに気づいた。これは、ビーヴァの脱け殻だ。息はしているが、彼の魂はここにいない。いったい、どういうことだろう。

『ビーヴァ?』

 ラナは、彼の上に身をかがめ、もっとよく観ようとした。


 ガウッグルルルッ、ワンワンワンワン!


 迷いながら背中の毛をさかだてていたソーィエが、激しく吼えて跳び出した。キシムの腕をすりぬけ、主人と《影》の間に立ちふさがる。ラナは驚き、恐れながら後退した。切れ切れの視界のなかで、赤毛の犬がこちらに牙をむいている。

『ソーィエ?』

 ラナは、目を疑った。意識がぐらぐら揺れ、自我を保つことが難しい。それでも、己に向けられた明確な敵意は解った。

『待って、ソーィエ。私よ』

 ふるえる声で呼びかける。しかし、ソーィエには通じなかった。ビーヴァを背にかばい、吼えながら、ゴーナ(熊)狩りのときのように右へ左へ跳びはねる。大きく口を開け、隙あらば彼女を噛み裂こうとする。

 ラナは愕然とした。

『ソーィエ……』

「何者だ?」

 キシムも、ようやく赤毛の犬の前に立っているものに気づいた。彼女には、それは少女ではなく、透明な灰色の煙のかたまりに見えた。その場でうずをまき、盛り上がったりへこんだりしている。無数の腕が生えた根元から、沢山の眸がこちらを見詰めていることに気づくと、ぞっとした。

 キシムは杖を構え、鋭い威嚇の声を放った。

「ケレか! 下がれ! ソーィエ、来い!」

『ケレ……!』

 ラナは、悪霊と呼ばれたことに衝撃を受け、目に飛びこんだキシムの姿にはっとした。突き出された杖とソーィエの牙を避け、身をひるがえす。

 キシムは攻撃の手をゆるめず、ケレとビーヴァの間に駆けこんだ。応援を得て勢いづいたソーィエも、《影》に跳びかかる。

 ラナは恐れおののき、さらに後ずさった。ビーヴァに逢えず、ソーィエに気づいてもらえず、悪霊と成り果てた自分が情けなく、涙があふれだす。

 キシムは、マラィ(長刀)のように杖をふりあげ、立ちすくむ《影》を両断した。

『ビーヴァ……』

「…………?」

 手ごたえは全くなかったが、《影》は、巫女の杖が触れたところから、蒼白い光の粉になって崩れおちた。チュームの入り口からさしこむ朝日の中で、ふわりと舞い、融けて消える。

 ソーィエが吼えるのをやめ、牙をおさめる。キシムは、杖を振り下ろした姿勢のまま、呆然と瞬きをくりかえした。《影》を斬り捨てた瞬間、彼女には、こちらを見詰めて泣いている少女の顔が見えたのだ。

 今のは、本当にケレだったのだろうか?



〈ああ。夜が明ける――〉

 森のなかをサルゥ川にそって駆けるルプスのなかで、ビーヴァは、金色に輝く東の空を見詰めていた。虐殺の日から、二度目の夜明けだ。王とディールたちの魂は、もうテティ・ナムコ(神霊の国)へ到着しただろうか。

〈セイモア、大丈夫か?〉

 意識を内へむけ、話しかける。セイモアは、ぱふりと尾を振ったが、歩調をゆるめることはしなかった。結局、一晩中、一度も休まず走り続けたことになる。若きルプスの速さと体力に、ビーヴァは舌を巻いた。

 間もなく、ロマナ(湖)へたどり着く。ひと足ごとに濃くなる水の匂いと、風にのって聞こえる波のざわめきで、そうと知る。朝日にふちどられる森の木々が、見覚えのあるサルヤナギとシラカバに変わっていることでも。

 セイモアは、口の横に舌をだらりと垂らし、熱い息を吐いている。ビーヴァも《彼》の鼓動を感じた。

 ふたりの感覚はひとつになり、今では、最初からそうであったかのように違和感がなくなっていた。ビーヴァは、キシムの警告を思い出した。『お前がテティと同化してしまっても、ケレに堕ちても、結果は同じだ。』 『テティのなかに、永く留まってはならない。』――だが、今はそれについて考えている場合ではない。

 足裏に触れる大地が湿り気をおび、水草の匂いが強く感じられるようになった。木の葉の間から降りそそぐ光は次第に強く、あたたかくなり、遂には直視できないまばゆさになる。湖面は藍と銀にきらめき、吹き渡る風がそれを揺らしている。

 セイモアは、河口に近い湿地のなかで足をとめた。シラカバの木陰、濡れた腐葉土にあしゆびをひらいて立ち、ハッハと弾む息を吐く。木の上では、早起きの小さい奴(リス)が、《彼》に気づいて慌てて巣穴に駆け戻り、足下では、数匹のはねもの(カエル)が、水に飛びこんだ。

〈…………?〉

 ビーヴァは、ふと意識を宙へひろげた。一瞬、誰かの声が聞こえたような、呼ばれたような気がしたのだ。気を取り直し、目前の事象に集中する。

 ここでも、ふたりの記憶は一致していた。テイネ(ニルパの妻)を送って行った帰りに、エビとともにユゥクを狩った場所。初めて砦を目にした場所だ。

 今、砦は朝日を背に、あのときよりもさらに巨大な影となって、彼らの前にそびえていた。

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