第五章 裏切の報酬

第五章 裏切の報酬(1)



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 サルゥ川は、ヤナギやトウヒの生い茂る森のなかを、銀色にかがやきながら流れている。雪を頂くハヴァイ(山)からロマナ(湖)に至る傾斜は、オコン川に比べゆるやかだ。

 岸辺から少し離れた木立のなかを早足で歩いていたセイモアは、足を止め、鼻をあげて風のにおいを嗅いだ。

 夏の夜風は、湿気をふくんで重く、毛の間にしのびこむ。その風にのって、森で暮らすたくさんの生きものの気配が流れてきた。

 マツの葉のすがすがしい香りに、樹皮を剥がれて間もないシラカバの匂い。背中にしまのある小さな毛むくじゃらの生きもの(リス)は、赤ん坊を連れている――違う。これは、脚の間の膜をひろげて、木から木へ飛び移るやつ(モモンガ)だ。――きんいろ目玉の大きなやつ(フクロウ)が、どこかで見張っている。つんとくるのは、黄色い毛のとんがり鼻(キツネ)がつけた、縄張りのしるしだ。まだ、新しい。

 ぽちゃりという水音に、《彼》は右の耳を傾けた。考えるより先に、口の中に唾があふれてくる。

 緑のすべすべ肌の跳ねもの(カエル)は、夏の間のごちそうだ。皮を噛みきるときのぷちっという歯ざわりと、たっぷりの汁が美味い。

 思わずそちらへ踏み出した足の下で、土の中をこそこそ逃げる音(ネズミ)がした。

 セイモアは、両耳をぴんと立てて体の動きを止めると、口をわずかに開けて狼流の笑いをうかべた。――今は、空腹ではない。つまみぐいは後にしよう。

 《彼》は、首をかしげて風の向きを確かめると、川下に向かって、すべるように歩き始めた。


 ビーヴァは、若狼の目をとおしてものを見、鼻と耳をかいして世界を知覚していた。ロカム・テティ(鷲)に憑依したときには、世界の見え方があまりに異なっていたために恐慌をおこしかけたのだが、今はふしぎに落ち着いている。

 藍色にそびえる木々の枝の間から、ほの白い空の光がさしている。星たちが、脈打つように揺れている。――ムサ(人間)の目で見るときより、光と影の境界はあいまいで、色はややくすんでいた。低い位置から見上げるため、木々は高く、天ははるか遠い。一方、掌に触れる土はしっとりとしてやわらかく、ハンノキの茂みは深く、森はいっそう広く感じられた。

 流れる水にも、匂いがある。岸辺の草の葉をなでて通り過ぎるとき、岩にぶつかって飛沫を散らすとき、それぞれ異なった匂いがする。真夜中だというのに、辺りに満ちる濃厚な生の気配に驚かされる。

 雑多なにおいの入り混じった風を胸いっぱいに吸い込んだとき、ビーヴァは眩暈を起こしそうになった。

 どれも、ムサであったときには知らなかった感覚だ……。けれども、しばらく経つ間に、彼は、己がムサであったときの感覚を忘れてしまった。


 セイモアは、風の音と匂いの変化を楽しみながら進んだ。低く垂れたヤナギの枝をくぐり、苔むした倒木を迂回し、赤い実をつけたノイチゴの茂みをすりぬける。決して急ぐことはなく。時折、尾を水平にふって体のバランスをとる。

 《彼》の気配に驚いて、うす緑の翅のはえた虫が叢から飛びたち、ひらひらと舞った。

〈テティ(動物)はテティ、なんだな……〉

 そんな感想を、ビーヴァは抱いた。ロカム(鷲)やルプス(狼)に憑依したからといって、ムサ(人間)が交わす言葉のように、《彼ら》の言葉が理解できるわけではない。〈サルヤナギの噂話が、聞こえてくるわけではない〉

 ビーヴァたちが殺し合いをしていても、森のひとびと(生きものたち)の暮らしは変わらない。そもそも、関心がないらしい。

 セイモアは、歩調を変えることなく、しずかに歩み続ける。その心に、ビーヴァたちのような焦りや悲しみはなかった。単に、彼の目的を知って、付き合ってくれているだけなのだ。

 テティ(神々)は、ただテティとして在り、ムサ(人間)の営みとは関わりがない。世界はムサを中心に成り立っているわけではなく、ムサもまた、無数のテティの一員でしかない。

 ――ビーヴァは、自分たちの争いに《彼ら》を巻き込むことを、今さらながら申し訳なく思った。


 何個目かの茂みをくぐり、幾度目かの斜面をくだる。川の匂いがいっそう濃くなったとき、ふいに、セイモアが立ち止まった。

〈セイモア? どうした〉

 《彼》は、応える代わりに、鼻をかるくひくつかせた。嗅ぎなれた匂いが、ビーヴァの意識にのぼってくる。

 ユゥクの毛皮の匂い、ゴーナのあぶらと、干した魚の匂い。かわいた血と汗と、ヌパウパ(ヤマニラ)を漬けた酒などを細かく嗅ぎ分ける思考のうらがわで、それらがまとまって一つのかたちを成した。

〈エビ……〉

 ビーヴァは息を呑んだ。実際には、セイモアが頭を下げ、尾の先端をかすかに揺らしたにすぎなかったが……ノブドウの絡みあう枝の向こう、三パス(約十二メートル)程はなれたところに佇む人影の注意を惹くには、充分だった。

 エビが、《彼》を見た。逆光で細かい表情の変化までは判らないが、仮面をつけていないことは見てとれた。逆に、夜目のきく森の男にとって、姿を隠そうとしていないルプスを見つけるほど容易なことはなかったろう。それが、星の光を浴びて白銀色に輝くルプス・テティであれば、なおさら。

 人影の動きが止まった。視線を、強く感じる。

 セイモアの鼻と耳に、エビの背後にひそむ仲間の牡(男)たちの存在が知れた。くつろいで腰をおろし、小声で話し合っている。出発のときに嗅いだ怨恨は影をひそめ、いまは不安と悲しみが勝っている。

 犬たちが、《彼》に気づいた。ごそごそと身じろぎ、ふんふん鼻を鳴らして警戒する。

『…………』

 ビーヴァは、セイモアが哂ったように感じた。口を開け、舌をわずかに垂らし、ふさりと尾を振って身をひるがえす。

 ハァヴル(西風)にのって、遠くルプスの歌声が聞こえてきた。一頭、二頭……。生のよろこびを謳い、夏の夜の美しさを讃え、仲間に集結をよびかける。狩りに誘っているのだ。

 セイモアは次第に足を速め、やがて、音もなく駆け出した。同族の呼びかけには背を向けていても、胸には、彼らと同じよろこびがあった。

 自分の群れは、ここにあると――。

 風にのって走る相棒のなかで、ビーヴァは、こちらを見送るエビの視線を、いつまでも感じていた。


          *


 ラナは、硬い土のうえで身を起こした。咄嗟に周囲を見まわし、コルデがいないことにほっとする。

 風が、苦い草の香りを運んできた。それで、砦の外にいるのだと判る。しかし、何処だろう? あわい夜にうかびあがる山の稜線に、またたく星の光に、覚えがない。

 ラナは、ゆっくりと立ち上がり、己が未だ肉体から離れたままなことに気づいた。

 黒くよどむ木々の影。その手前に建つものに、目を凝らす。

『私の、家……?』

 ベニマツの木を組んで造られた、新しいシャム(巫女)の家。ナムコ(村)を一望する場所に建つ館のかたちに、見覚えがあった。だが、隣にあった王の家は、跡形もない。

 違う……。

 ラナは眉根を寄せ、もういちど、己の周囲を見まわした。かすかに、焦げたにおいがする。広場の北、シャムの家の傍らに積まれた柱の山をみつけると、身体からすうっと力が抜ける心地がした。

 観れば、ほかにも見覚えのある家や、高床の倉庫がある。けれども、村の雰囲気は変わっていた。建物のいくつかが、歯の抜けたようになくなっているからだ。

 ラナは慎重に足をはこび、一軒一軒、家をみてまわった。記憶をたどり、在りし日の村のすがたを思い出そうとする。

 あれは、マグの家。隣には、ニルパの父が住んでいたはず。その向こうは、ニレの家。彼女はどうしているだろう……。サンは、歳の離れた姉と一緒に暮らしていた。その家も見当たらない。

 残っている建物に火の気はなく、人々のぬくもりは消えうせていた。犬たちもいない。火棚にならべられたホゥワウ(鮭)やシム団子の束、食器や狩猟道具などは、持ち去られていた。代わりに、そこかしこに、炭と化した柱や毛皮を剥がれた滑り板(ミニスキー)、火棚の欠片などが積まれている。

 ここがアロゥ族のナムコなら、タミラはどうしているのだろう? ビーヴァは。他のみんなは。

『…………!』

 ラナは、はっとして駆け出した。広場を抜け、通いなれた道を駆けくだる。乳母の家にたどり着き、愕然とした。

 懐かしいタミラの家は、きれいになくなっていた。土に燃えた跡がある。炭化した板きれと、枯れたモミの枝が数本、ちらばっている。

 誰に訊かずとも、ラナは理解した。――タミラは死に、家財とともにテティ・ナムコへ葬られたのだ。

 ここにはもう、誰もいない。

『タミラ……!』

 ラナは、今まで必死に保っていた心の弦がぶつりと切れた衝撃に、跪いた。地面に突っ伏し、泣き崩れる。

 少女に最もあたたかく、最も深い愛情をそそいでくれたのが、タミラだった。生きていて欲しいと、祈っていた。

 それなのに。


『どうして』 泣きながら、ラナは思った。――どうして、こんなことに。

 私たちが、何をしたというのだ。こんな目に遭わなければならないほどの。


 大地に身を投げだし、肩を震わせて、ラナは啼いた。湧き起こる感情が激しく、翻弄されてしまう。

 父王は死に、仲間たちとは引き離された。テティ(神霊)と同化した母は手をさしのべてくれず、この身は穢され、帰るところはない。

 優しい思い出も、未来への夢も、奪われ、打ち壊され、ばらばらに棄てられた。ラナ自身も、こなごなに砕かれた。全てを失い、この先、どうやって生きてゆけばよいのだろう。


 疲れはてて声と涙が枯れるまで、少女は啼いた。夜の底で震える姿は、湖に散った白い花びらだった。それから、少女はむくりと身を起こした。右手にモミの枝を持ち、宙を見詰め、ふらふらと歩き出す。

 ラナの巫力は、ナムコに残る人々の思念を感じとった。突然の襲撃に対する驚き、仲間を喪った嘆き。故郷を捨てなければならない哀しみ、諦め。絶望に抗おうとする、焦りと苛立ち……。

 それらは、ユゥクの腱糸さながら細く伸び、り集まって西へ向かっていた。ラナは、曳かれて歩いた。吹けば消える魚油灯の炎のように、右へ左へ揺れながら。

 裸足の足を踏みだすたび、大地から蒼白い煙のようなものが湧き出て、彼女の周りをふわり、ふわり漂った。

 村の中心を通る道をすすみ、オコン川にかかる橋を渡る。森の木々の間から、晴れた夜空から、うすい煙が降りてきて、彼女を包んだ。ラナの輪郭はゆらぎ、ほつれた黒髪とともになびき、長い長い尾をひいた。音もなく拡がって夜に融け、かたちを崩す。

 声にならない声が、囁いた。

『ビーヴァ』

 虚無の闇にまたたく、ただひとつの光。

『ビーヴァ、どこ……?』

 少女は、森をさまよう無数の霊をひきこみながら、歩き続けた。

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