第四章 巫と覡(6)



          6


 夜があけても、少年の頭は、混乱したままだった。

 コルデの部屋から逃げだしたトゥークは、農具をおさめる小屋と防壁の間の、人目につかない空間に身を隠した。ひとばん、そこで膝を抱えてすごし、まんじりともしなかった。

 辺りが明るくなってから、おそるおそる這い出す。防壁に背中をおしあて、跳ねる心臓をなだめながら窺うと――狭い砦のなかをほろ酔いで歩き回る男たちに、動じている気配はなく、悔い改めている風もない。

 少年は、そこを離れようとしたが、誰かが鞭打たれる音を耳にし、慌てて元の場所にひきこもった。そのまま、男たちの邪魔にならぬよう身をひそめていたが、そもそも誰も、コルデすら、彼に注意を払ってはいなかった。

 夕暮れになると、またあの狂った宴が始まった。

 砦のあちらこちらから、酔った男たちの怒声や、女の悲鳴が聞こえてくる。空腹をおぼえたトゥークは、今度こそ隠れていた場所を出ると、まとまらない思考のまま、砦を囲む防壁にそって速足で歩きだした。

 土と石を積んだ厚い壁のそこかしこから、太い梁が突き出している。補強のためにたてかけられたカラマツが、ずらり並んで影を落としているさまは、まるで、森の奥で命をおとしたのち誰にもかえりみられることなく朽ちはてた、ユゥク(大型の鹿)のあばら骨のようだ。

 時折、松明を手にした見張りの男とすれ違う。少年は、自分の足元に視線をおとし、顔をみせないようにした。

 門にさらされた王の首級は、そのままだ。

 トゥークは恐ろしくて、近づくことが出来なかった。王と目を合わさぬよう顔を伏せ、頭の奥にひびく声を消すため、わざと乱暴に歩く。靴底で地をこすり、石を蹴り、耳障りな音をたてる。

 けれども、兄が呼ぶ声と、少女の悲鳴は、途絶えることがない。

 門に近づけない以上、砦からは逃げられない。トゥークはじっとしていられず、両手で耳を覆い、ぐるぐると歩き続けた。箱罠に閉じこめられたネズミになった気がする。

 こんなはずではなかった……。父を追放した氏族と、民を見棄てたテティ(神々)。彼らにどんな災難がふりかかろうと、関係ない。こちらが傷つくことなどないと思っていたのだ。

 むしろ、心のどこかで、彼らの災難を小気味よく感じていた。父と自分を傷つけた人々が、コルデたちに苦しめられるのを観れば、さぞ気が晴れるだろうと考えていたのだ。

 ところが、現実はそうではなかった――まったく違っていた。エクレイタの男たちの残虐さは、予想をはるかに超えていた。

「…………」

 トゥークは足を止めると、おそるおそる顔を上げ、青紫色の天を仰いだ。闇色にこごった防壁のうえに、槍の穂先に掲げられた黒いかたまりが見える。ほつれた髪が、太い蛇のように風になびいている。

 風は、少年にどっとおしよせて血の臭いを浴びせ、皮膚の毛穴という毛穴からはいりこみ、彼のなかを駆けぬけた。同時に、身体の芯から、なにか熱のようなものを奪い去った。

 トゥークは、膝がくずれそうな心地がした。眼を閉じ、拳をにぎって掌に爪をたてる。

 はじめて――今ごろになってようやく、起こったことの重大さを正確に理解したのだ。氏族を束ねる王は殺され、巫女は穢された。神霊はこの地を見棄て、手をさしのべてはくれない。父の行方はわからず、兄は殺された。子どもを含む仲間がおおぜい殺され、女たちは陵辱された。

 足下から、寒気とともに小刻みな震えがのぼってくる。己の置かれた状況の厳しさに、眩暈がする。


 もう誰も、自分をゆるし受けいれてくれる者はいない。

 もう何処にも、帰ることの出来る場所はない。


 これからどうすればよいのだろう……。目前に雪崩のようにおしよせるできごとに心を奪わて、先のことを考えていなかった。このまま、砦の中に閉じこもって一生を過ごすのか。あの男たちと一緒に? 生き残った女たちと、シャム(巫女・ラナ)の視線を浴びながら?

 自問して、激しく首を横に振る。頭蓋のなかで脳が揺れ、眩暈がひどくなる。

 父がいたから、これまでやってこられたのだ。コルデたちとともに生きることなど出来ない……。

 ガタリ、と背後で音がして、トゥークは内心とびあがった。男たちの嗤い声が聞こえ、足音がちかづいて来るのを聞くと、彼は恐慌に陥った。辺りをすばやく見まわし、倉庫の扉が開いているのをみつけると、急いでそこに駆け込んだ。

 駆け込んでから、彼らが入ってくる可能性に気づいたが、もうどうすることも出来ない。積んである荷の間に身体をおしこみ、息を殺す。足音は、トゥークがいた場所を通り過ぎ、何事もなかったかのように談笑する男たちの声をのせて、ゆっくり遠ざかった。

 彼らが思いついて引き返し、倉庫の中を探したり、扉を閉めたりする気配はない――そう判断すると、トゥークは、ふうっと息を吐き出した。途端に、吐息がふるえ、嗚咽がこみあげる。

 いったい、どうして自分はこんなに怯えているのだろう。これからずっと、死ぬまで隠れて暮らさなければならないのだろうか。

 トゥークは、両の拳で目をおおった。荷の山にもたれ、ずるずると座りこむ。

 倉庫には、コルデたちがアロゥ族から奪った干し肉や毛皮が収められていた。少年は空腹を忘れ、その谷間で泣きつづけた。


       *


 ラナは、悪夢のなかにいた。

 コルデは、一晩じゅう彼女を放さなかった。少女の身体は、開拓者の荒れた手によっていいように弄ばれ、何度も突き立てられた。身を裂かれる痛みと心に受けた打撃から、ラナが気を失いかけると、頬をはられて引きもどされた。快楽を感じるどころではない。明け方になってようやく解放されたが、休む間も与えられずに苛まれた身体はくたくたで、息も絶え絶えになっていた。

 コルデは、昼間はラナを部屋に閉じこめて仕事に出かけ、夜になると、仲間を二人連れて戻ってきた。三人とも、すっかり酒に酔っている。男たちは、美しい少女とその肌を彩る珍しい刺青に歓声をあげ、大喜びで彼女を貪った。ひとりが幼い胸のふくらみに吸いつけば、もうひとりが大きくひろげた脚の間に顔をうずめ、ひとりは酒を飲みつつその様を眺めているといった調子だ。ラナは、屈辱を感じる余裕もなく追い詰められ、はじめての高みに押し上げられた。少女が果てると、男たちは細い肢体にのしかかり、順番に彼女を味わった。

 男たちの欲望を受けとめかねて、ラナは朦朧となっていき、黒曜石の瞳をうつろにみひらくばかりとなった。

『死にたい』 と思った。『このままでは、殺される……』 とも。

 昨日から何も食べず、水も飲んでいない。叫びつづけ、喘ぎつづけた喉はからからで、口の中は血の味がする。おおいかぶさる男は影にしかみえず、もはや自分のものではないところの感覚は、麻痺している。

『父さま』

 少女の世界はくずれ、かたちあるものは意味をなくした。つらぬかれ揺さぶられながら、彼女の意識は身体をはなれ、浮遊をはじめた。

『ビーヴァ……』

 涙がひとすじ、頬をつたい落ちた。

 男たちが、酒を入れた器を唇におしあて、流しこむ。喉が焼ける感覚に噎せる。ラナの視界はぐるぐる回り、石造りの壁と天井を突き抜けて、夜へ溶けていった。



 北の地の夏の夜空は、太陽の名残でうす明るく、灰色の雲の流れや湖面にたつ波の動きを見ることができた。ラナの巫力が、そう感じさせているのかもしれない。なまあたたかいクルトゥク(南風)に頬を撫でられながら、砦の上空に浮かんでいたラナは、ゆるやかに渦巻く雲のなかで我にかえった。

 そうして、眼下に掲げられた父の首に気づく。

 ラナは、夢うつつに門の上へ舞い降りると、腕をひろげてそれを抱きしめた。(実際は、霊魂がかたちをとっただけの彼女の腕は、物体をとおりぬけてしまうのだが……。) ほつれた髪をかきあげ、血に汚れた顔を清めようと、撫でさする。果たせずに、胸に抱いて泣き崩れた。

 このまま、消えてしまいたい……。

 そう願う彼女の周りに、雲は音もなく集まり、次第に濃いむらさき色をおびてきた。銀色に輝くロマナの湖面を覆い、砦の中庭でゆれる松明の灯を隠す。反対に、頭上の空は澄んで晴れわたり、小さな星のまたたきが数えられるほどになった。

 低い声が、話しかけてきた。

《未だテティ(守護霊)を持たぬ者よ。私をんだか?》

『ええ、ええ。何度も』

 ラナは、泣きながら頷いた。激しい嗚咽がこみあげ、言葉は声にならない。彼女の涙は頬をつたわり、王の顔をとおり抜けて地上へと消えていった。

 《声》は、相変わらず単調だが、どこか沈んだ調子で言った。

《仲間が死んだか……。王が、殺されたのだな》

 女は、杖を持っていない方の手をのばし、そっと王の額に触れた。ラナは、顔を上げて彼女を見た。

 女は仮面をかぶっておらず、白い頬に、炎と生命の樹の紋様がくっきり現れていた。輪郭は蒼白い光にふちどられ、その光のなかから、時折、鳥やキツネのテティが現れては消える。

『どうして助けてくれなかったのですか。今まで何処にいたのですか』

 ラナの喉に、責める言葉がつぎつぎとこみあげたが、彼女は唇を噛んでそれを呑み下した。女のしなやかな手が、いとおしむように王の顔を撫でるのを眺め、掠れた声で問う。

「父さまを迎えに来て下さったのですね、母さま」

《…………》

 女の手がぴたりと止まり、黒い瞳がラナを見下ろした。ラナは、ひるまずに見詰め返す。女の表情はまったく動かず、声と同様、そこから内心を推し量ることは出来ない。

《これは、汝の父か》

「…………」

《そうか。だが、この者の首は胴から斬りはなされ、胴の方は埋められている。私が連れていくことは出来ぬ》

「…………」

《巫力のある者は、死後にケレ(悪霊)となって害を加えることがないよう、そうして力を封じられるのだ。見よ》

 女は、ふわりと袖を振って森を示した。衣に縫いつけられた石のかけらがぶつかって、シャランと涼しげな音をたてた。

《ケレを含め、ほかのテティはこの者を畏れ、近づいて来ない。汝の父は、この地を護るテティ(守護霊)になった。私が動かすことは出来ぬ》

『ああ……』

 他人事のような口調に、ラナは、心が寒々としてくるのを感じた。母はもう、ムサ・ナムコ(人の世)の住人ではないのだ。そして、《我らは、テティにしか、はたらきかけることは出来ない》 という言葉を思い出す。

 現し身をもたぬ神霊に、あの男たちの蛮行を止めることは出来ない……。

《憐れな娘よ》

 女は、そんな彼女の気持ちなど全く頓着していない様子で続けた。

《汝は、汝の王をみつけなければならない。真の王をみつけよ。何故、離れるのだ?》

「母さま」

 ラナの唇がふるえ、声が震えた。ほかに言葉を思いつけず、繰り返す。

「母さま……!」

《己の務めを果たせ。この世界を変えるのだ》

 女は、言いたいことを言い終えると、高々と杖をかざした。途端に、強い風が顔に吹きつけ、ラナは目を開けていられなくなった。

 風は、少女の髪を躍らせ、細い身体を持ち上げた。雲が晴れ、ロマナの湖面が現れる。ラナが腕を挙げて顔をかばい、母を見ようと目を凝らした瞬間、天と地がひっくりかえり、彼女は悲鳴をあげながら、どことも知れぬ空間へ飛ばされていった。


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