第四章 巫と覡(5)
5
ソーイエ、セイモア、スレインの三頭は、許されてチューム(円錐住居)に入ると、興奮気味にあたりを嗅ぎまわった。小屋をささえるカラマツの柱、ユゥクの毛皮の壁、眠っているマシゥの髪や手足などを。ビーヴァとキシムは、彼らがひととおり嗅いで得心するまで、自由にさせておいた。
キシムは、粥の汁をあたため直して器にいれると、例の小袋から赤いキノコの粉を出してふり入れた。ほっそりした指でさじを操る仕草を、ビーヴァは見守った。
ソーィエは主人の傍らに腰をおろし、セイモアは甘えて肩をすりよせる。セイモアの首の毛に指を挿し入れながら、ビーヴァは訊ねた。
「ソーィエでは、いけないのか?」
「やめておいた方がいい」
キシムは、手を休めずに答えた。
「ルプス(狼)と違い、犬のテティ(霊魂)はムサ(人)に近い。離れられなくなることがある」
「…………」
「それに」
出来た薬をビーヴァの前に置くと、姿勢ただしく座っているソーィエを、眼を細めて眺めた。
「ソーィエは、お前の橇のかしら(リーダー犬)であり、狩の
ビーヴァは、赤毛の相棒のぴんと立った耳の間に片手を置き、指を曲げてそこを掻いた。ソーィエが、ぱふりと尾を振る。
キシムの言うことは正しいと、ビーヴァは思った。生まれたときから、ずっと一緒に暮らしてきたのだ。ソーィエは、自分のためなら命を投げ出すだろう……。
シャム(巫女)は、真摯なまなざしを彼に当て、続けた。
「覚えておけ。ロカム(鷲)であれルプスであれ、憑依した状態でテティが死ねば、お前の魂も、一緒に死ぬことになる。魂を喪えば、残った肉体は目覚めることなく、いずれ死を迎える」
「…………」
「お前がテティと同化してしまっても、ケレ(悪霊)に堕ちても、結果は同じだ。……ムサを殺してはならない。テティのなかに、永く留まってはならない」
「わかった」
ビーヴァは頷き、声にも出して応えたが、キシムは心配そうに彼を見詰めていた。紅をさしたようにあかい唇をもの言いたげに動かしたが、結局、それ以上は何も言わず視線をはずした。腕をのばし、チュームの壁を齧っていたスレインを捕まえて、膝のうえに抱き上げる。
セイモアはご機嫌で、太い尻尾で地面を掃きながら、いっそうビーヴァに身をよせる。ビーヴァは、感慨ぶかく彼を眺めた。
ルプスの仔は、すでに仔狼ではなく、立派な若狼に成長していた。肩高はソーィエに並ぶが、骨の太さや筋肉のしなやかさは、ソーィエを超えている。白銀色の毛皮は霜のように輝き、ラナに青い炎(セイモア)と称えられた瞳は、ロマナ(湖)よりふかい藍を湛えている。
ソーィエにはある忠誠心が、セイモアには欠けている、というわけではない。ソーィエにとって、ビーヴァは生きるための全てだが、セイモアにとっては、ムサ・ナムコ(人間の国)で暮らすための絆だ。
ビーヴァを失えば、ソーィエは生きてはいけないが、セイモアは、ルプス・テティが本来在る場所へ還るだろう。
今回は、その絆が頼りだった。
「たのむぞ」
ビーヴァは、彼にささやくと、薬の椀を手に取った。キシムは、片手でスレインをあやしながら、こちらを見詰めている。その視線を意識しつつ、赤い液体に口をつけたビーヴァは、思わず顔をしかめた。
最初、ウオカ(酒)に混ぜられていたときは、気にならなかった(あの時は、かなり酔っていた)。二度目、フウロソウ(ゲンノショウコ)のお茶に入れられていたときは、気にするどころではなかった(…………)。今回、改めて口にすると、独特の味とにおいが彼をひるませた。
こんな味、だったろうか。粥に入れた所為だろうか?
ビーヴァが躊躇っていると、キシムが唇を歪めた。
「手伝ってやろうか?」
くらい皮肉をふくんだ口調にビーヴァは戸惑い、台詞の意味を理解すると、いそいで首を横に振った。キシムは、フッと嗤う。
ビーヴァは、眼を閉じて薬をのどへ流し込んだ。
キシムは、真顔に戻って彼を観ていた。左手でスレインを抱き、右手で彼女(スレイン)のほそい顎を撫でていたが、注意はすべて青年の一挙手一投足に注がれていた。
青年と、白いルプスに。
薬が効いてきたのだろう。ビーヴァは、二、三度あらい息を吐くと、決めていたとおりマシゥの隣に横たわった。ソーィエとセイモアが、心配そうについていく。
セイモアは、彼の左掌に鼻をおしあて、ソーィエは、目に見えない敵から護ろうとするかのごとく、彼の傍らに腰を据えた。
静寂が降りる。期待と緊張がチュームを浸し、キシムの項の毛をちりちりと逆立てた。
やがて、ビーヴァは腕をあげると、両掌で顔を覆い、長くふるえる息を吐いた。拠り所をうしなったセイモアが、不安げに、くすんくすん鼻を鳴らす――と、その動きがぴたりと止まり、鼻先から尾の先端へ向かってさざなみのような震えが走った。
ソーィエが、ぱっとふたり(ビーヴァとセイモア)から跳びさがる。緑がかった金の瞳を大きくあけ、牙をむき、警戒のうなり声を発した。
『始まったな……』
キシムは、かわいた唇を舐め、息を殺した。肘を引き、スレインを抱き寄せる。衣のうえから懐をさぐり、そこに収めたシャムの杖に触れる。
灯のないチュームのなかで、キシムの目は、ビーヴァをつつむ淡い光を捉えていた。蒼白く、茫とゆらめき、霞のようにたなびく。徐々にひろがって境界を脱し、煙さながら渦をまき、小屋のそこかしこに溜まる陰に融ける……。一部は、青年によりそうセイモアの身体を覆い、毛皮の奥へはいりこもうとしていた。
白いルプスの仔は、キュンキュン声をあげて啼いた。声は次第に甲高く、せつない調子をおびる。ふるえながら頭を下げ、肩と腰を順におとし、地面に腹をこすりつける。
親犬に甘える仔犬か、上位のものに服従を示すルプスの仕草だ。
そうして青年に這い寄ると、セイモアは、彼の胸に額をおしあてた。啼き声が、くぐもって消える。身体の震えが止まる。
この間、ソーィエは、遠雷のようにうなり続けていたが、ビーヴァとセイモアを包む光が消えると、耳を伏せ、戸惑った鼻声をたてはじめた。キシムは、シャムの杖に触れていた手を離し、彼の首に腕を絡めた。かたくこわばった筋肉に掌をおしあて、鼓動とぬくもりを感じとる。
ビーヴァを真似て、囁いた。
「ヨゥ、ヨーウ。ソーィエ」
スレインも震えていた。金赤毛の仔犬は、髭から尾の先まで怯えきって、キシムの腕のなかで小さな身体をさらに小さく縮めている。
どれくらい、そうしていただろうか――。
腹ばいになっていたセイモアが、突然、むくりと身を起こした。ぶるっと大きく身震いをして、何事もなかったかのように伸びをする。頭を上下にふって夢の霞をはらい、ゆびをひらいて大地をつかむと、四本足で立った。
キシムは呼吸を止めた。ソーィエの鼻声が止まる。
セイモアは、しばらくじっと佇んで、ビーヴァとマシゥを見詰めた。片方の耳をたおし、首を一方に傾ける。まるで、己の
わずかに開いた入り口の被いをくぐり、表へ出る。
途端に、時が流れはじめた。
風が木々の梢を揺らす音が聞こえた。隣のチュームで、誰かがひそめた声で話をしている。狩犬たちが、地面を掘って寝床をつくる。渡り鳥のはばたきと、仲間を呼ぶ声が、天高く響きながら去っていく。
物音がいちどに耳に飛び込んできたので、キシムは、それまで止まっていた時が動き出したように感じた。
ソーィエは、当惑しきって鼻を鳴らし、スレインは、小さなくしゃみをした。
蒼い闇にぼうと浮かびあがるセイモアの後姿が、木立に隠れて見えなくなると、あとには、ビーヴァとマシゥ、二人の男が残された。
生と死の境界に身を横たえている、男たちが。
「…………」
キシムは、溜めていた息を吐くと、ソーィエの首を、親愛をこめて掻いた。再び、スレインを膝にのせる。セイモアの去った方角を見詰め、その行く先を思い、眉間に皺を刻んだ。
小声で呟く。
「気をつけて行けよ、ビーヴァ……」
*
白いルプスは、林立するチューム(円錐住居)の間を、足音をたてずにすりぬけた。犬とユゥク、干した魚、血と煤とマツヤニのにおいの漂うナムコ(村)を出て、森のなかへ入っていく。ベニマツの倒木の、からみあう根の陰で足を止め、集落を顧みた。
ルプスの本能からではなく、ビーヴァのために――彼がそれを望んでいると感じたのだ。
セイモアは、わずかに伸びをして、次第に深くなっていく夜のにおいを嗅いだ。
ふしぎだった……。つねに、《彼》が世界を知るための手段――においは、ビーヴァがとがった洞穴(チューム)のなかに留まっていると告げている。尾のない牝(キシム)と、赤毛の兄貴(ソーィエ)とともに。
灰色の牡(マシゥ)は死にかけていたが、ビーヴァがそうではないことは、分かっていた。
《彼》が歩き出せば、起き上がって一緒に来るかと思ったが、ビーヴァはそうしなかった。――否、彼の身体は。
離れているのに、青年の存在を身のうちに感じ、彼の意思を、己のもののように理解する。
その感覚は、いつもより身近だ。
セイモアには、わけがわからなかった……。しかし、不安や恐怖は感じない。むしろ、ふたりの間にこれまで存在していた(セイモアには理解できない)ある種のかべが、取り払われ、いっそうビーヴァに近づけた気がして嬉しかった。
『さあ、狩にいこう!』
躍るような気分で、考える。ビーヴァの《声》が、穏やかにたしなめた。
〈そうじゃない、セイモア。俺たちには、しなければならないことがある〉
『…………』
《彼》は、ふんと鼻を鳴らすと、森へ向き直った。
水の流れる音が聞こえる。ユゥクや野ネズミや、折れたヤナギの枝など、雑多なにおいのなかに、嗅ぎ慣れたにおいをみつけた。
エビだ。
他にも、数頭の、知っている牡(男)のにおいがした。削りたてのシラカバの樹皮のにおいや、なめしたホウワゥ(鮭)の革のにおい、猟犬のにおいとともに、血と汗と、闇色の怨恨を連れている。
それらが、ぬかるんだ土に残る足跡さながら、ハンノキの茂みをかきわけ、ベニマツの重なり合う陰のむこうへ、点々と続いているのを知ると、《彼》は首筋の毛をさかだてた。
行きたくはなかった。このにおいは不吉だ。それが向かう先にあるものは……。
しかし、
頭のなかで、ビーヴァが促す。
〈行こう。セイモア〉
《彼》は、鼻をひくく下げ、歩きはじめた。
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