第四章 巫と覡(3)



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 夜明けが近づいていた。

 人の侵入をこばむ深い森の奥にも、その気配は伝わっていた。藍色の夜にとけこんでいたモミやカラマツの輪郭が、淡い銀色に輝きはじめる。氷河のにおいを乗せたハァヴル(西風)が、朝もやを払いながら通り過ぎる。

 空はますます白く透きとおり、夏至の近いことを示していた。

 ワイール族の集落では、夜通し火が焚かれていた。広場の篝火の周りに、男たちが集まり、太鼓とトレン(板琴)を奏でている。湖から引き上げた遺体を安置するために建てられた、急ごしらえのチューム(円錐住居)のなかからは、女たちのすすり泣きの声が、やむことなく続いている。

 連絡を受けたアロゥ氏族の人々が、集落を棄て、続々と到着していた。遺族が変わり果てた子どもたちに再会するたびに、ひときわ大きな泣き声があがり、清冽な空気を震わせた。

 キシムは、人々の嘆きの輪の中心にいた。篝火を背に、祭壇に向かって佇み、厚い木製の仮面の下で、弔いの歌をうたう。

 サルヤナギとモミの枝を積んで作られた祭壇では、今しも最初の火葬が行われようとしていた。

 ディールだ。

 エビたちが彼を湖から引き上げたとき、ディールは既に息をしていなかった。骨を砕かれ凍てついた身体は、清められ、今は苦痛の表情は消えている。

 キシムがハッタ(梟)の羽根のついたばちで彼の額を軽く撫でると、並んでいる男達のなかから数人が進み出て、死者の魂をテティ・ナムコ(神霊の国)へ案内する犬の遺骸を、祭壇の下へ横たえた。

 キシムは、シャム(巫女)の太鼓を打ち鳴らし、いっそう大きな声で歌いながら、ディールの顔を見下ろした。脳裡に、在りし日の彼とのやり取りがよみがえる。

 キシムがまだ、幼い少女であった頃――頬に氏族の守護神の印を刺し、髪をふたつに分ける日を夢見ていたころ。少女から女となり、誰かの母となることを、何の疑いもなく信じていたころ。――シャナ族のナムコ(集落)を訪れたディールもまた、少年の線の細さを残した若者だった。

 父から、彼が自分の夫となるべく定められた相手だと告げられたときの、驚きと気恥ずかしさ。母に教わって手甲を縫ったときの、ときめき――ディールからは、おかえしに、琥珀の首飾りと口琴を贈られた。

 やわらかな春の日差しにつつまれながら、ぎこちなく言葉を交わし、半ば以上、恐れながら歩み寄っていった日々。

 ディールは、キシムの父の許可を得て彼女の家に留まり、狩人としての腕前を示す機会を与えられた。未来の夫として、家族を養う能力のあることを証明するために。

 キシムの胸は期待で高鳴り、左頬に枝をひろげる生命の樹も、熱く脈をうっていた。

 それが、突然、途絶えた。

 氏族から報せを受けたディールは、大急ぎで自分のナムコへ帰った。彼を待つキシム一家のもとに届けられたのは、ワイール氏族長からの謝罪と婚約破棄の連絡だけだった。

 父は憤り、事情を知った母は、口を閉ざした。

 そして、キシムは――

「キシム」

 カムロが小声で促した。キシムは我に返り、彼から松明を受け取ると、朝日に青白く照らし出されたディールの顔を見詰め、しばし考えこんだ。巫女として、彼の魂をおくるのに適切なことばを探そうとする。

 しかし、型どおりの弔辞を唱えようとしたところ、思いがけなく唇が震え、息が詰まった。

 キシムは、片手に松明を掲げたまま、戸惑って動きをとめた。目前の死体とは関係なく、頭のなかいっぱいに青年のはにかんだ微笑が浮かび、目の奥が熱くなった。

 己のうちに未だにこんな感情が残っていたことに驚くと同時に、仮面で隠されていることに安堵する。

 キシムは、そっと囁いた。

「さよなら、ディール。……また会おう」

 そして、祭壇に火を放つ。

 炎は、躊躇うことなく薪を呑み、ディールを抱いて燃え上がった。



 ビーヴァは、広場を囲むチュームの一つを背に、腰を下ろしていた。傍らでは、ソーィエとセイモアと、キシムから預かった あいのこ(スレイン)が戯れている。ワイール族の男たちが鳴らすトレンの音と、金色の炎のなかで枝がはぜる音を聞きながら、次第に明るくなっていく空を仰ぎ、溜息をついた。

 寝不足と疲労に濁る頭で、これからどうなるのだろう、と考える。

 マシゥの説得も、エビたちの努力も、全く役に立たなかったという事実は、彼らを愕然とさせた。砦の男たちの良心を――わずかでも、自分たちと同じ情の通うことを――願った王の期待は裏切られ、その首は斬り落とされた。女たちを救うことは出来ず、大勢の子どもたちが殺された。

 ロカム・テティ(鷲神)の力すら、あの男たちを圧しとどめるのに、何の役にも立たなかった。

 いったい、どうすればよいのだろう。

「…………」

 セイモアに片手を舐められ、ビーヴァは視線を戻した。ソーィエも、神妙な眼差しをこちらに向けている。

 ビーヴァは、こわばる頬をかすかに歪めて見せ、二頭の首をかき撫でた。セイモアは尾を振ったが、彼の指の力が弱まると、心配そうに鼻を鳴らした。

 ビーヴァは、キシムに刺された己の左掌を見詰めた。裂いた布で無造作に覆われた傷にも、指先にも、風をうけてたわんだ翼の感触が残っている。頚の周りの羽毛をかきわけ、胸を押し揚げる冷たい風の力に、歓喜の声をあげて舞い上がった、あの瞬間の――

 ビーヴァは、再び溜息をつくと、膝の間に顔をうずめた。

 ロカム・テティの能力があればと願ったことが、何故あんなことになったのか。仲間たちを救えなかった己の無力だけでなく、この身が変化している事実に暗澹とする。

 母の死から、全てが変わってしまった。衝撃と悲しみに心がばらばらに砕かれただけでなく、秩序も平和も、当たり前だと信じてきたものがことごとく崩され、壊されていく。

 ビーヴァは、悪夢を見ている心地がした。今も、自分の霊魂の一部はロカムの内にあって、ともに空を飛んでいるように感じる……。

「ビーヴァ」

 聞き慣れた声に思考をさえぎられ、ビーヴァは顔を上げた。正面に人影はなく、広場の中心では、弔いが続いている。悲鳴のようなトレンの音に不安をかきたてられ、周囲を見渡そうとすると、

「振り向くな」

 鋭い口調で制止され、ビーヴァは息を呑んだ。

 声は、静かにつづけた。

「お前が本当にシャマン(覡)なら、振り向いてはならない」

「エビ」

 ビーヴァの声は掠れた。彼は、ごくりと唾を飲んだ。

 いつの間に来たのか、青年の背後には、数人の男たちが集まっていた。そろそろと立ちながら横目で見ると、皆、手には槍を持ち、腰には大刀(マラィ)を佩びている。それ以上にビーヴァを驚かせたのは、彼らが全員、仮面で顔を覆っていることだった。

 四角い木の仮面の表には、朱と墨でおどろおどろしい紋様が描かれ、細く穿たれた穴を通して、黒い瞳がこちらを見据えている。

 ビーヴァは、背筋がぞくりとするのを感じ、慌てて視線を逸らした。

 エビの声は、悲しげに告げた。

「別れを言いに来た。俺たちは、ケレ(悪霊)に憑かれた。ムサ(人)を呪うケレだ。もう、逢うことはないだろう」

「…………」

 ビーヴァは、言葉を失った。


 彼らの世界には、有形無形の悪霊がたくさんいる。時には吹雪のなかに、時には水のなかに棲んで人を惑わし、命を奪う。あるものは、ゴーナ(熊)や犬に憑いてその気を狂わせ、またあるものは、人の欲望を喚起して諍いを生じさせる。

 赤子など、いとけないものの姿をとることがあり、恐ろしい伝染病の形をとることもある。

 いずれも集団の和を乱し、人のいのちと霊魂を喰いものにする、邪悪な存在だ。なかでも忌み嫌われるのは、人の心に侵入し、他人を害させようとする呪いのケレだった。

 森の民の掟では、他人を憎みその命を奪おうとする者は、ケレに憑かれたとされ、集落を追放される。

 ビーヴァは、エビの言葉から、彼らが戦うつもりであることを察した。王(アロゥ氏族長)と子どもたちを殺し、女たちを奪ったエクレイタの連中に、復讐するつもりなのだ。

 ――それは、亡き王とのちかいに背いている。

 しかし、

「…………」

 ビーヴァは項垂れ、両の拳に力をこめた。いったい、自分が彼らに何を言えただろう。

 ソーィエとセイモアが、そんな主人とエビたちを交互に見上げ、怪訝そうに鼻を鳴らしている。

 エビは、仮面の下で軽く笑った。

「マシゥが目覚めたら、伝えてくれ」

 仲間たちを促して踵を返しながら、穏やかに言った。

「この前は、悪かったと……。昨日は格好よかったぜ、ってな」

「エビ!」

 耐え切れずにビーヴァが振り返ると、男たちは、チュームの向こうの木立へ去ろうとしているところだった。なめしていないユゥク(大型の鹿)の毛皮で身を覆い、顔を隠し、ムサ・ナムコ(人の世)からその存在すらも消すために。

 状況を察したソーィエが、遠吠えを始めた。すぐに、セイモアがそれに合し、スレインもか細い声をあげはじめる。

 ビーヴァは、三頭を制することはせず、灰色の影に融けていく後ろ姿を、立ち尽くして見送った。



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