第四章 巫と覡(2)



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 果てのない闇のなかに、ほつりと小さな灯が点った。

 金色の光は、風にあおられてちらちら瞬きながら、ひとつふたつと数を増し、右へ左へ、滑るように動き始めた。ときに高く、ときに低く。寄っては離れ、離れては近づく。呼ぶように、焦がれるように。

 時折、湖にさしいれられるかいの軋む音や、ぽちゃりと滴る水音によって、その灯を掲げる男たちの居場所が知れた。

 探しているのだ。むざんにも湖に投げ込まれた、仲間と子どもたちの遺体を。

 闇の向こうから、風にのって太鼓の音が聞こえてきた。低く、ドロドロと遠雷のように響く。防壁の上で槍を抱えて警戒していた男のひとりが、首をすくめた。

「まだ続けていやがる。気味の悪い連中だぜ」

「シッ、聞こえるぞ」

 相方がたしなめる。トゥークではなく、舟に乗って捜索を続けている森の男たちを警戒しての言葉だったが、トゥークは気に留めなかった。

 太鼓の音は、少年の故郷、ワタリガラスの氏族(ワイール族)の暮らす森の方角から聞こえてくる。拍子はひとつではなく、十、二十、重なって耳に届く。弔いを行っているのだろう――まるい木枠にゴーナ(熊)の革を張ったシャム(巫女)の太鼓や、二つに割った丸太を心をあわせて叩く村人たちの姿が目に浮かび、トゥークは唇を噛んだ。――王(アロゥ族長)の、あの男(マシゥ)と子どもたちの。そして、ディールの……。

 少年は、ぶるりと身体をふるわせると、外套の下の痩せた肩を、自分の腕をまわしてぎゅっとつかんだ。昼間の出来事は、あかい幻影となって、彼の脳裡に焼きついていた。

 赤ん坊の泣き声、月の女(ロキ)の悲鳴、ロカム・テティ(鷲神)の咆哮、舞い散る羽毛、緋い血しぶき。六年ぶりに聞いた、兄の声。

『トゥーク、戻って来い!』

 ディールの言葉は、何度も何度も、少年の頭を叩いた。まるで、彼の魂の一部がのりうつり、弟を責めているようだった。

『戻って来い、トゥーク。お前の居場所は、そこではないはずだ』

 唇をつよく噛むと、ぷつっという歯ごたえとともに、血の味がひろがった。トゥークは片手をあげ、震える甲で口をぬぐった。

『そんなこと、出来るわけがない……』

 森の民の反抗に腹をたてた砦の男たちは、ディールとマシゥを意識がなくなるまで殴りつけ、ぼろぼろになった身体を、防壁の上からロマナ(湖)に投げ棄てた。捕らえた王(アロゥ族長)の首を、意識のあるまま斬り落とし、槍の先に刺して門前へさらすことも行った。さらに、女たちから引き離していた子どもたちを、ひとりずつ殺して王の後を追わせたのだ。

 あまりの残虐さに、トゥークは震えあがった。

 テティ(神霊)と故郷の人々を憎んでいたとはいえ、ここまでのことを望んでいたわけではない。

 ディールには、何の恨みもなかった。父とともにナムコ(村)を追放されたとき、兄は追ってこなかったが、母を養わなければならないからだと理解していた。少年のなかに眠る温かな記憶の殆どは、彼に結びついていた。

 真冬に、凍った雪のうえを、キツネの足跡を探してあるいたこと。春、きらめく銀色の日差しの下、軒先の氷柱つららを折り取って一緒に舐めたこと。滑り板に乗る方法も、罠の仕掛け方も、みなディールが教えてくれた。仲間と喧嘩をしたときには、いつもかばってくれた。

 その兄が。

『何も、出来なかった』

 トゥークは、再び唇を噛みしめた。

 兄が殴り殺されるのを目にしても、少年には、震えながら立ち尽くしていることしか出来なかった。砦の男たちが子どもたちを殺しはじめたときには、自分も殺されると思った。

 そんな彼を、コルデは一顧だにしなかった。

 殺す値打ちもないと判断されたのだろうか。

 自責と悔恨にじりじりと内側から炙られる心地で佇む少年に、声がかけられた。

「おい、小僧」

 一瞬びくりと肩を揺らし、ゆっくり振り返る。防壁の下で、男が手招きしていた。紫の宵闇に覆われて、表情までは判らない。

「お前だ。降りて来い」

「…………」

 トゥークは数秒ためらったが、逃げ場所のないことに気づくと、諦めて梯子を下った。黒い人影にちかづく。男は、じろりと彼を眺めると、無造作に顎をしゃくった。

「団長がお呼びだ。あの娘を連れて行け」

 少年に代わり、梯子を登っていく。上で待つ仲間と挨拶を交わす。その声を聞きながら、トゥークは考えこんだ。

『あの娘……』

 ラナを示していることは、察しがついた。

 アロゥ族長が殺された後、捕虜の女たちは、砦の男たちに分配された。最初からそのつもりだったのだろう。血に酔い、興奮した男たちは、一度しまっておいた酒と食料を運びだし、そこかしこで酒盛りをはじめた。嫌がる女たちに酌をさせ、陵辱する。星のない夜空に、ときおり甲高い悲鳴と、下卑た嘲笑が響いていた。

 湖の静けさとは対照的な狂宴から、トゥークは敢えて目を逸らしていた。――ロマナ(湖の女神)は、全てを見ていることだろう。ハァヴル(西風の神)も、クルトゥク(南風の神)も。――神霊に仕える巫王ふおうを害しておきながら平然としているあの男たちの心には、いったいどんな化け物が棲んでいるのか。

 ラナもとうに曳き出され、男たちに供えられていると思っていた。

 何故いまさら、少女を呼び出すのだろう。そして何故、彼に連れて来いと言うのだろう。

 トゥークは、見張りの手から松明をうけとると、防壁に穿たれた穴をくぐり、例の部屋の扉を開けた。汚物と恐怖のにおいが煙のように籠もる部屋の中、独りぽつんと座している少女をみつけると、はっと息を呑んだ。

 ラナは、薄暗い部屋の、ひときわ濃い闇の澱む片隅に、亡霊のように座していた。

 平和な故郷から連れだされ、仲間たちから引き離され、目の前で父親を殺された少女は、やつれ果てていた。血の気のうせた頬は月のように蒼ざめ、目の下には陰が溜まっている。黒い瞳はみひらかれているものの、何も映してはいない。

 トゥークは、魂の抜け殻だと思った。王が首をねられたのと同時に、彼女の心も死んだのだと。

「……おい」

 この状態のラナを、コルデの許へ連れて行くべきか。トゥークは少し悩んだが、ぶっきらぼうに声をかけた。

 少女が、こちらを向く。

「ついて来い」

 瞳に宿る虚ろな闇に松明の明かりが吸い込まれるのを見るに忍びず、少年は、早々に踵を返した。ラナは、意外なほど素直についてくる。もう、自由の身になることは諦めたのか。父王と仲間をうしない、自暴自棄になっているのか……。

 トゥークは、首を振って思考を断つと、以後は何も考えないよう努めた。



「よく来たな」

 開拓団長の部屋の炉には、火があかあかと燃えていた。今まで仲間と飲んでいたのだろう。煤と松脂まつやにと強い酒のにおいに、血のにおいが混じっている。

 半地下の牢獄から、まっすぐ砦の中を突っきって来たトゥークは、声をかけられて我に返った。胃が冷たくなる心地がして振り向くと、ラナは数歩離れたところに佇んでいた。――内心、ほっとする。

 改めて見上げると、コルデの頭には布が巻かれ、昼間の傷を被っていた。血と泥は落とされていたが、顔の表面では、緋色の炎と藍色の影が交じり合ってゆらめき、ものすさまじい相を描いている。

 トゥークは、ごくりと唾を飲み込んだ。

 コルデは、少年の後ろに影のように佇んでいるラナを見ると、満足げに唇の端を吊りあげた。

「お前に、訊きたいことがある」

 トゥークに向かって言いながら、片腕を伸ばして少女の腕をつかみ、部屋の中に引き入れる。ラナは、おとなしくそれに従ったが、白い頬はますます血の気を失い、引き攣っていた。

 男は、もう一方の手で少女の顎を掴み、炉の明かりに面を向けさせた。

「他の女が、こいつに気を遣い、守ろうとしていた。何故だ?」

「…………」

「こいつは、何者だ?」

 トゥークが黙っていると、コルデは、少女の顎を掴む手に力をこめた。爪が頬に喰いこみ、ラナの顔が苦痛に歪む。虚ろだった黒い瞳に、恐怖の光がまたたいた。

 男の、炎を浴びて虹色に輝く瞳に見据えられたトゥークは、観念して呟いた。

「長の娘だ」

「ふん。やはりな」

 コルデは、蔑むように鼻を鳴らすと、ラナの顔から手を離した。よろめく彼女の腕をぐいと引き寄せ、後手にねじあげる。血を舐めたように紅い唇から、白い歯をのぞかせた。

「こいつを捕まえておけば、奴らは手出しが出来ないというわけだ」

 トゥークは部屋を出たいと思ったが、コルデは許さなかった。

「もうひとつ、答えろ」

 言い終えると、突然、腕をふり挙げ、少女を平手打ちした。派手な音が部屋中に響き、トゥークは息を呑んだ。

 一撃で、ラナは床にくずおれた。驚きと恐怖に眼を瞠り、後ずさって逃げようとする。コルデは追いかけ、長い髪を掴んで引き起こすと、さらに何度か頬をはり飛ばした。

 うめき声がもれ、唇が切れて血が滴ったが、コルデは容赦しなかった。細い身体を、石造りの寝台に叩きつける。頭をしたたかに打ちつけた少女の呼吸が止まり、瞳からふっと表情が消えた。

 コルデはラナにのしかかると、外套を剥ぎとり、長衣の襟に手をかけて力任せに引き裂いた。

 しろい肌が、あらわになる。

 ゆれる炎に、無数のテティ(神霊)と星の紋様がうかびあがった。

「見事だな……」

 コルデはヒュッと口笛を吹くと、動けないラナの頬から項、鎖骨から胸のふくらみへと掌を這わせ、なめらかな感触をたのしんだ。その刺激に、少女が息をふきかえす。瞳に光がもどり、男たちの姿を映した。

「う、うぅ……」

 コルデは、弱々しく身じろぐ肢体を押さえ込んで、問いを続けた。

「お前にはないが、女たちの体には刺青がある。これは何だ?」

「…………」

「呪詛か。どういう意味がある?」

「…………」

 トゥークには、答えることが出来なかった。

 成人の儀式の前にナムコ(村)を離れたトゥークには、刺青はない。父は、彼に刺青を施すことをしなかった。その真意は分からないが、シャム(巫女)の身体の紋様のことは、幼い頃から聞かされている。

 アンバ(虎)、ハッタ(梟)、ユゥク(大型の鹿)にロカム(鷲)……。巫女の膚に描かれた図は、人の世界と神霊の世界を結ぶ、契約の印だった。民の守護と繁栄を願うことのひきかえに、決して彼らを裏切らないという、血に刻んだ誓いだ。

 穢されることがあってはならないその上を、コルデの指が這い、舌が舐める。

 トゥークは、恐ろしさに竦んでいた。

「答えるつもりはないか。……まあいい」

 コルデは鼻で嗤うと、震えている少女の両腕を一方の手でまとめて押さえ、必死に閉じ合わせようとしている膝の間に身を入れた。手早く外衣をゆるめ、ラナの腰に巻かれた貞操の下紐したひもを意に介することなく、腰を落とす。

 少女の背が、弓なりに反りかえった。

「や、あ――ッ!」

 鋭い叫び声に、トゥークは思わず後ずさりして背中を壁にぶつけた。

「うっ、あっ、あ……あぁ……」

 男が腰をすすめる度、とがった悲鳴があがる。コルデの表情は、明らかにそれを愉しんでいた。苦痛に強張っていた小さな身体が、次第に弛緩して、乱暴な突きあげにも反応を示さなくなる頃には、悲鳴はすすり泣きとなり、やがてかすかな喘ぎとなった。

 トゥークは耐え切れず、両手で耳をふさぐと、遂に部屋をとび出した。



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