第四章 巫(ふ)と覡(げき)
第四章 巫と覡(1)
1
マツの梢から飛びたったロカム(鷲)は、数度はばたいて高度を得ると、翼を止め、風の背をすべって中州をめざした。途中、ほそい川の流れをこえ、ユゥク(大型の鹿)に乗ったカムロの傍らを通りすぎる。カムロは、耳元でシューッと風の鳴る音に、目を瞠った。
パラパラと降りかかる矢の雨をくぐりぬけ、男たちが集まっているところに近づくと、突然、見えない壁にぶつかったように、ギャアッと声をあげてよろめいた。あわてて舞い上がるテティ(ロカム)のなかで、ビーヴァは眩暈を起こしていた。
ひとまばたきの間に、腕には羽が生え、足は空をつかんでいた。かるく首を振るだけで、世界がぐるりと動く。湖の銀、森の蒼、ハヴァイ山脈の雪峰が、鮮やかな光の帯となって流れてゆく。同時に、後方で驚いているキシムと、セイモアの髭まで見ることが出来る。
いったい、何が起きたのだ?
顔の中心にのびた嘴に触れようとすると、平衡をくずし、失速しそうになった。己の身体がすっかり変わっていることに、ビーヴァは愕然とした。
ロカムも困惑していた。身内に宿った異質な存在を感じ、身体が思うように動かないことに苛立つ。コルデの振りあげた槍の柄をかすめて飛び、西風の峰をかけあがる。たかく、たかく。地上で騒ぐ人間たちが小さな点になるまでさかのぼり、ずらり並んだ槍の穂のようなベニマツの梢の上にさしかかると、向きをかえ、叫んだ。
『出て行け!』
――人の言葉ではなかったが、激しい拒絶の意思は、雷鳴さながらビーヴァを打ちすえた。恐ろしい速さで後方へ飛び去っていく風景と、氷のように冷たい風に、息がとまる。視界を紅く染める怒りに、自我を呑まれた。
《彼》は、地面に対しほぼ垂直になるまで身体を傾けると、翼をギチギチ鳴らしながら、コルデたちに襲いかかった。慌てて身をかがめる男の背を蹴って、飛びあがる。ぱっと血の臭いが散り、誰かの悲鳴があがった。
ビーヴァは勝鬨をあげ、その声に驚いて我に返った。
自分の喉からあんな声が出たということが、信じられなかった。爪に、髪の生えた誰かの頭皮が残っている。己の行為に嫌悪を感じ、血の匂いに陶然とした。
どこからが自分の意思で、どこまでがロカムの感覚か、判別できない。
テティ(ロカム)は、脳のなかで暴れている。身体の支配権を取り戻そうと、あがいている。縄張りを侵された怒り、彼我の境界が融けるおののき、飛ぶことの
意識を
〈スマナイ。少しの間、乗せてくれ〉
乗る、という言い方は不遜かもしれなかったが、彼の穏やかな意思を感じ、ロカムは、やや鎮まった。そうしているうちに、もとの森の上に戻ってきたビーヴァは、《彼》に翼を任せた方が飛び易いことに気づいた。
おそるおそる控える彼を、瞬く間に、テティが覆う。
急速に闇におおわれる思考の片隅で、ビーヴァは、かろうじて囁いた。
〈たのむ。もういちど……〉
ロカムは、キシャアァッと鬨の声をあげると、再び中洲をめざし、力強くはばたいた。
「なんだ、あれは?」
突如あらわれた巨大な鳥に襲われたコルデは、空を見上げて叫んだが、こちらへ向かって駆けて来るカムロたちを目にすると、忌々しげに舌打ちした。片手で傷つけられた頭をかばい、もう片方の腕をぐいと振ってロキを引き寄せる。
「砦に入れ! 門を閉めろ!」
男たちは、捕らえた王とマシゥを連れ、防壁へ引き返そうとした。そうはさせじと追いすがるマグたちと、たちまち激しい槍の打ち合いになる。仲間のもとへ向かうカムロ(シャナ族長)の声が、荒野に響いた。
民が傷つくことを懼れた王(アロゥ族長)は、身をひねって振り返り、叫んだ。
「退け! お前たち、森へ帰れ!」
「王!」
「王!」
エビが、ホウクが、呆然と呼ぶ。一瞬気をそがれた彼らの上に矢が降りかかり、男たちは慌てて跳び退がった。その隙を逃さず、コルデは砦に逃げ込もうとする。
カムロたちが、土を蹴って駆けつけた。
「エビ! 王!」
「離せ!」
マシゥは、腕をねじあげられて後ろ向きに引きずられながら、ディールの身を案じていた。石斧で頭を強打され、何度も蹴られた青年は、身体を二つに折って嘔吐している。砦の男たちがさらに彼を袋叩きにしようとしているのを見て、頭に血がのぼった。
「やめろ! この、卑怯者!」
言葉が終わるか終わらないかのうちにこめかみを強打され、マシゥはがくりと跪いた。眼前に火花が散り、鼻の奥に血の臭いがひろがる。身構える隙もなくわき腹を蹴られ、斧で肩を殴られた。ぐしゃりという鈍い音とともに、焼けつくような痛みが左腕に走る。
視界に紅のしぶきがかかる。世界がぐらぐら揺れ、吐き気がこみあげる。
マシゥは蹴られ、殴られ、突き倒されて転がった。雨のように殴打を浴び、うずくまっていることしか出来ない。それでも、彼はディールににじり寄り、青年をかばおうとした。
「やめろ!」
肉が裂け、血が飛び散る音の間に、王の声を聞く。ロカムは彼らの上を旋回し、シャアッと声をあげて襲いかかった。翼がまきおこす風のなか、男たちは爪を避けて身をかがめ、コルデは王の胸倉をつかんだ。
「貴様の鳥か? 止めさせろ!」
栗色の髪は乱れ、端麗な顔には血がこびりついている。王は無言で、青みがかった碧眼をじっと見据えた。
コルデは、黒い瞳のしずけさに一瞬ひるんだが、チッと舌を鳴らすと、ロキを引きずって歩き出した。首を絞められたロキが、掠れた悲鳴をあげる。
エクレイタの男たちは、エビたちの攻撃をかわしながら、じりじり門の中へ退却した。
丸太をつなげたぶ厚い木の扉がギリギリと軋みながら動き始めたのを見て、エビは息を呑み、カムロの頬に焦燥が過ぎった。
ロカムは門を飛びこえ、男たちを追いかけようとした。
「ったく、世話の焼ける」
キシムは、舌打ちすると立ち上がり、自分のユゥク(大型の鹿)へ駆け寄った。途中、足元でうろうろしているセイモアを蹴とばし、懐から金赤毛の仔犬をとり落とす。倒れた主人の傍で途方に暮れていたセイモアとソーィエの二頭は、目の前に転がり落ちてきた毛玉に、目をまるくした。
キシムは三頭には構わず、ユゥクの背に括りつけた荷袋のなかから、細い骨の杖を取りだした。
褐色の毛に覆われた巌のような身体をもち、大人の身長ほどもあるそりかえった長い牙をもつ獣――かつて、氷河の彼方へとムサ(人間)を導き、この地を去って行った。わずかに残ったものが、地底に棲んでいるという。――偉大な大地のテティ(神霊)の牙から削りだした巫女の杖は、
ユゥクの毛皮を巻いた柄からすらりと伸びる稜線をたどり、青白くかがやく鋭利な先端を眺めると、キシムは、中州の喧騒に背を向け、青年の上に身を屈めた。頭上たかく杖を掲げ、目を閉じて口のなかで祈りの言葉を呟くと、カッと目をみひらき、声を限りに叫んだ。
「戻れ、ビーヴァ!」
そして躊躇うことなく、青年の左の掌に、杖の先を突きたてる。
ザクリという音とともに生暖かい血の臭いが漂い、セイモアとソーィエは、激しく吼えて辺りを駆け回った。二頭の興奮にあおられて、スレインも長い声をあげはじめる。
キシムは苦虫を噛み潰すと、ビーヴァの手に刺した杖を横に捻った。その瞬間、青年の腕から胸にかけ、ビクリと短い痙攣がはしった。
ギャアアァァーッ
うす灰色の空に響いた叫び声に、砦へ逃げ込んだコルデたちは、思わず足を止めて振り返った。閉じられた門扉へとりすがるカムロたちも、天を仰ぐ。
折しも、彼らの頭上を越えて門の中へはいろうとしていたロカム(鷲)が、黒い羽を散らしてもがいていた。
ギャアッ ギャアッ
空の覇者は、搾りだすような声でさけび、バタバタとはばたいた。羽毛が散り、白い尾羽がはらはらと舞い落ちる。もはや、無礼きわまりない地上の盗っ人どもを追いたて、爪で引き裂こうという覇気はない。己が身に生じた痛みと混乱から逃れようと必死にもがくその姿は、《彼》を神とあおぐ森の男たちの心にも影を落とした。
「テティが」
「ロカムが……」
エビが呟き、ホゥクが眉間に皺を刻む。立ち尽くす彼らの上に、ここぞとばかり防壁から槍が降りかかり、男たちは急いで跳び退がった。
ロカムは、よたよたとよろめきながら森を目指していく。その後姿を見送ったカムロは、槍を水平に構えて防壁を見上げると、仲間たちを促した。
「仕方がない。ここは、一度退こう」
キシムはその様子を、苦い気持ちで眺めていた。冷たい西風に乗って、血の臭いが流れてくる。男たちの喚声が聞こえる。そのどれにも参加できないことが、歯がゆくてならない。
ロカムは黒い翼を腕のようにひろげ、ときに傾き、ときに風にあおられながら飛んでくる。今にも地に落ちてしまいそうだ。キシムは溜息を呑み、唇を噛んだ。
と――
遂に、ロカムが森の入り口で力尽きて舞い降りたとき、ビーヴァの身体にさざなみのような震えがはしり、フウーッと長い息を吐き出した。蒼ざめた顔が苦痛にゆがみ、右手が左手をかばって持ち上がる。
キシムは彼に向き直り、刺したままだった杖に手をかけた。
「戻ったか。ちょっと待て。抜いてやる」
目覚めたビーヴァは、彼女の顔と大地に縫いとめられた左手を不思議そうに見比べたが、キシムは彼の視線を避け、硬い横顔を向けていた。セイモアとソーィエが、すかさず主人に駆け寄って頬をなめる。
ビーヴァは、溜息をついて背を地に預け、杖が抜かれる衝撃に奥歯を噛みしめた。
キシムは、血のついた杖を傍らに置くと、己の外套の袖を裂き、無言で傷の手当てをはじめた。ビーヴァは身を起こし、ぼんやり周囲を見渡した。瞳が森の手前に舞いおりたロカムを捉えたとき、はじめて己が身に起きたことに気づいた。
「あ……」
ビーヴァは呟き、キシムに視線を戻した。男装のシャム(巫女)は手当てを終え、眉根をよせてロカムを見守っている。
翼を大きくひろげ、よちよち歩きの幼児さながら不恰好に首を振っている巨大な鳥と、その向こう、中洲で戦っている仲間の姿を目にしたとき、ビーヴァの胸に、切り裂かれるような痛みが走った。
エビたちは、砦から降りそそぐ矢と槍を避け、舟に乗って中洲を離れようとしている。
ビーヴァが顧みると、キシムは今度は彼の視線をうけとめ、神妙な顔で頷いた。
ロカムは、夢から醒めたように体制を立て直すと、地を蹴って舞い上がり、二人の頭上をこえて行った。
*
「父さま!」
マシゥの意識は、どくどくと脈打つ血の色をした霧におおわれていた。両腕を男たちにかかえられ、膝は地面に線を描いている。なめし革さながらうちのめされた身体は、既に痛みを感じない。顔はぜんたいが腫れあがり、かろうじて開く瞼のすきまからディールの姿が見えたが、憐れな青年は地に伏したまま、ぴくとも動かなくなっていた。
「父さま、父さま!」
どす黒い血色の沼にひきこまれそうになる彼の意識を、甲高い少女の悲鳴がひきあげる。極端にせばまった視界をそちらへ向けたマシゥは、男たちの腕にさえぎられながらも父王に近づこうともがいているラナを見つけた。
『ああ、あの子だ……』
思ったが、折れた腕につながる指は動かず、声は濁った嘆息にしかならなかった。背中をどんと突かれて地面に倒れ、ぬかるんだ土に片頬をこすられる。女たちの悲鳴とざわめきのなか、見上げた瞳に、王が映った。
王は、マシゥと同じように後ろ手に縛られ、跪かされながらも、毅然と面をあげていた。娘の叫びにも表情を動かさず、じっとコルデを見据えている。その姿は、野犬の群れに襲われ傷つきながらも、決して威厳を失わない老いたアンバ(虎)を思わせた。
コルデのロカムの爪に引き裂かれた側頭には、手掌大の傷が口を開け、緋い血が首へと流れていた。彼は苛立ち、ロキを突き飛ばすと(すかさず男たちが彼女を捕らえ、引きずって行った)、手下の男から犬橇用の鞭を受けとった。柄で自分の肩を叩くなじみの動作を繰り返し、ギリギリ歯軋りをする。
王は、目の前を行ったり来たりするコルデを無表情に眺めていたが、ただ一度、泣き叫ぶラナが男に口元をはたかれて悲鳴をあげたのを聞くと、頬の刺青をこわばらせた。
コルデはめざとくそれをみつけ、後背をちらりと見遣って唇をゆがめた。凄惨な微笑から、どすの利いた声が出る。
「余計なことをしてくれたな」
王は、ひるむことなく彼を見返した。コルデは足を止め、両脚をひらいてその前に立つと、手にした鞭の柄で王の顎を持ち上げた。
舌打ちにつづき、憎々しげな声が呟いた。
「まったく、どうしてくれよう」
「う、うう……」
マシゥは、コルデが王に鞭をふるうのではないかと
けれども、開拓団長の考えは、彼の想像以上に
コルデは、鞭の柄を自分の肩に戻すと、踵を返し、言い捨てた。
「こいつの首を落として、門に
「…………!」
マシゥは、我が耳を疑った。
王の身体を拘束していた男たちが、さっそく彼を立ちあがらせる。言葉が解らないなりに己が身にふりかかる運命を察したのか、王は悲しげな眼差しをマシゥに向けたが、何も言わず、静かに視界の外へ去っていった。
女たちのあいだから、どよめきが湧き起こる。
『やめろ、コルデ!』
マシゥは懸命に起き上がろうとしたが、痺れた身体は全く言うことを聞いてくれなかった。
冷え冷えとした声が、頭上で響く。
「こいつらはどうします?」
「生かしておいても邪魔になる。湖に棄てろ。ガキどももだ」
「わかりました」
隣に倒れていたディールの気配が消え、ずるずると何かを引きずる音がそれに代わった。続いて、マシゥの脇に手が差し入れられ、持ち上げられる。
腐った肉の塊さながら運ばれて行きながら、マシゥの意識は闇に堕ち、(彼にとっては幸運なことに)その後の出来事を目にすることはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます