第三章 王威の在処(6)
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『なんの話をしているんだ?』
マシゥとコルデの会話を理解できない人々――アロゥ族長、ディール、エビを含む護衛の男たち。離れたところにいるカムロ、キシム、ビーヴァたち。そしてラナ――は、苛々しながらこの様子を見守っていた。
砦の男たちが、アロゥ族の装束に身を包んだマシゥを嘲笑しているらしい。ということは解ったが、その後、にわかに怒り始めたのは、理解出来なかった。
さらに、ロキの赤ん坊が奪われ、逆さづりにされたとあっては。
エビとマグは槍をかまえ、とびだそうとした。王(アロゥ族長)が身振りで『待て』と繰り返すため、かろうじて舟の傍に留まったが、コルデを殺したい気持ちまでは、抑えられない。
ラナは、砦の門を出る前に男たちに捕らえられたが、父王とマシゥの姿を確認することは出来た。エビとマグ、ロコンタ族とワイール族の男たちがいることも。――彼らは救けに来てくれた。テティ(神々)は私たちを見捨てなかった。――しかし、ロキの赤ん坊が奪われたのを見ると、少女の胸ははりさけそうになった。
カムロは息を呑み、ユゥクの手綱を握る手に力をこめた。キシムは弓に矢をつがえたが、距離がありすぎると察し、舌打ちした。彼らがいる森の端から砦までは、むきだしの荒れ野で、身を隠せるところはない。
ビーヴァは、進もうとしないユゥクを諦め、森のなかを見渡した。カラマツの幹をたどって視線をあげ、梢できらめく白い陽光に眼を細める。頂上に雪を戴くアムナ山を眺め、なんとか砦に近づく方法はないかと考えた。
マシゥを除けば、この場にいる者のなかでただひとり、両民族の言葉を理解できるトゥークは、がたがた震え続けていた。コルデと砦の男たちを追って来たものの、兄の姿を目にした途端、彼の足は大地に根を生やしたように動かなくなった。それ以上 近づくことが出来ない。
少年は、王(アロゥ族長)の目を恐れ、ディールの視線を怖れた。コルデを、砦の男たちを。そして、眼前にひろがる世界に満ちる、テティ(神霊)を畏れた――
「おもしろく、ない……から……?」
マシゥは、呆然と繰り返した。この日二度目の衝撃だった。あまりに感覚が違いすぎて、理解できない。
頭に血が下がって苦しくなった赤ん坊が、か細い声で泣きはじめた。後ろから首を絞められたロキは、歯をくいしばって男の腕に爪をたてたが、コルデは構わず、底光りのする瞳でマシゥを睨みすえた。
声が、再び低くなる。
「見捨てられても、俺たちは開拓をやめなかった。ニチニキを築き、畑を耕し、パンサ(麦の一種)を蒔いた。三年間、毎日、雨の日も雪の日も働いてきた。ところが――」
フンと鼻を鳴らし、アロゥ族長を顎で示す。ディールを、身構えているエビたちを見遣り、眼を細めた。
「薄汚い、このネズミどもは。畑を耕さず、パンサも植えず、年じゅう遊び暮らしている。たまに魚を獲り、ユゥクを狩るだけだ。それなのに、飢えることがない」
『それが、この土地に合った生き方だからだ……』マシゥは、口のなかで呟いた。
パンサはもともと、この地に生えていた植物ではない。コルデたちが持ちこんだものだ。なかったものを栽培することを、ビーヴァたちが知っているはずがない。
彼らも、野生の芋やウバユリの根を食べる。わずかに栽培もする。だが、一年の半分以上の間 凍っている大地で、何かを栽培することの困難は、改めて言うまでもない。故に、マツやクルミの実を集め、野イチゴを摘む。
森で動物たちの足跡をみわけ、追い、弓矢でしとめることは、傍で見るほど容易ではない(マシゥには出来なかった)。しとめた獲物だけで、氏族全員を食べさせていくことも。故に、ワイール族は獲物の移動に合わせて集落を移動させ、シャナ族とロコンタ族は、群れごとユゥクを飼育する。アロゥ族は魚を獲り、干して大量に保存する。
犬橇をあやつり、滑り板に乗って移動する。石を使って火を熾し、寒さを防ぐ家を建て、キィーダ(皮舟)を組みたてる。――こうした技術は、エクレイタにはないものだ。
何より、嵐に遭ってもひるまず、厳しい気候に耐える身体と精神の頑強さは、敵うものではない。
生き方が、違うのだ。エクレイタの基準で、彼らをはかることは出来ない。
しかし、マシゥはそれを声に出しては言わなかった。
コルデの言葉は続く。
「レイムを崇めず、生ぐさい獣を崇拝する者ども。生き血をすすり、生肉を喰らい、不気味な模様を身体に描く。それなのに、何故」
『レイムは我々の神であって、彼らのテティ(神々)ではない。彼らに言わせれば、パンサを食べ、牛の乳を飲む我々も奇妙だろう。刺青は、彼らの黒髪に似合っている……私は、美しいと思う』
「王族と同じ毛皮を使い、碧や水晶で身を飾る。酒も女も、欲しいだけ手に入る。こっちは、喰っていくだけで精一杯というのに、だ」
『エクレイタ王が水鼠の毛皮を使うのは、なかなか手に入らないからだ。彼らにとっては、そうではない。貴重な石も、彼らが自分で採ってきたものだ。故郷で暮らしていた頃は、我々も、不自由を感じてはいなかったはずだ』
「面白いわけがあるか」
「…………」
マシゥは黙っていた。
反論したいことは山ほどあった。けれども、重い疲労が、彼の口を閉じさせていた。三年間もここにいて(マシゥには、この方が驚きだった)、この程度の認識なのか、と思う。
つまり、理解しようという気がないのだ。
コルデたちにとっては、エクレイタのやり方が全てであり、違うものは認められない。ビーヴァたちは『薄汚いネズミ』で、その程度の存在でしかない。まして、相手の価値観を尊重し、暮らし方を学ぼうという考えなど、欠片も持ち合わせてはいない。
マシゥはコルデを見詰め、武器を手にした砦の男たちを見渡した。驚きと怒りを超え、憐憫ににた感情が湧いてくる。
レイム(光と善の神)に見捨てられた、憐れな者たち。飢えと寒さに傷つき、妬みと欲望に我を忘れ、良心すらも投げ棄てたのか……。
マシゥはくたびれていた。身体の芯が重い。赤ん坊を助けなければならないという焦りは感じるものの、もはや、言葉をつくして説得しようという気持ちは萎えていた。コルデの瞳に宿る狂気を見てしまった、今では。
自分には、決して理解できない、と思う。
代わりに、彼は呟いた。
「……ギヤ(闇の神)の地獄へ堕ちろ」
「お前もな」
コルデは、間髪を容れず言い返し、にやりと唇を歪めて嗤った。
――と。
その笑顔が、凍った。
「トゥーク!」
マシゥの隣で黙って会話を聞いていたディールが、突然、顔をあげ、大声で叫んだ。コルデたちの後方で立ち尽くしている弟に向かって、呼びかける。
「トゥーク、戻って来い!」
「…………!」
その声は、少年の胸をまっすぐに貫いた。
マシゥと開拓団の男たちは、驚いて彼を見た。それから、トゥークに視線を集中させる。コルデも、ロキの首を捕らえたまま、身をひねって少年を顧みた。
「何だ?」
警戒がゆるむ。
その瞬間、ディールは走り出した。
何が起きたのか、咄嗟に、マシゥには分からなかった。
ディールは犬使いの息子であり、トゥークの兄だ。けれども、マシゥは彼と言葉を交わしたことがなかった。ビーヴァをはじめとして、森の民は非常に無口だ。ディールも口数が多い方ではなく、マシゥは、彼があんな大声を出せるとは、想像すらしていなかった。
そのディールが、
男たちがトゥークに気をとられた隙を逃さず、一直線にコルデに駆け寄ると、武器をもたぬ身体でぶつかっていった。ロキが悲鳴をあげる。コルデはよろめき、罵声をあびせたが、一瞬早く、ディールは彼から赤ん坊を奪っていた。
砦の男たちが、団長のもとへ駆けていく。
ディールは、泣いている赤ん坊をかかえて身を翻すと、再び叫んだ。
「エビ!」
エビが、頷いて走り出す。ディールは、波打ち際に沿って逃げながら、空高く赤ん坊を放り投げた。
マシゥたちが固唾をのんで見守るなか、赤ん坊は、きれいな弧を描いて飛ぶと、身を投げ出して迎える父の腕の中に、すぽりとおさまった。
場に、ほっと安堵の空気がながれる。
エビは、地面に尻をついて座り、我が子をつよく抱きしめた。
「ディール!」
王(アロゥ族長)が警戒の声を発したのとほぼ同時に、コルデの手下の男が、斧で力任せにディールを殴りつけた。声もなく倒れる青年を足蹴にし、さらに殴る。
止めに入ろうとしたマシゥと王は、あっという間に、男たちに捕らえられてしまった。
砦の男たちは、マグたちにも槍を向けた。穂先と穂先をつき合わせ、互いに牽制する。刃と刃がぶつかる下で、エビは息子を片腕に抱き、片手でマラィ(長刀)を握りしめた。
防壁の上に、弓矢を手にした男たちが現れ、一斉に弓弦を引きしぼった。
「小癪な真似を……」
コルデの顔は、憤怒に青ざめていた。もう、お世辞にも美しいとはいえない。マシゥは、腕を背中にまわされ捻じあげられながら、憎しみをこめてその顔を睨んだ。
開拓団長は、ロキの髪を掴んでひきずりながら、倒れたディールに近づいていく。手下の一人が、彼に長槍を手渡した。
『殺すつもりか、ディールを』
マシゥは、慌てて叫んだ。
「やめろ、コルデ!」
コルデは、槍を持った腕を振り上げた。
「ディール!」
思わず、キシムは叫んだ。カムロは舌打ちすると、弓を手に、ユゥクに跳び乗った。
「来い!」
仲間に一声かけ、渋るユゥクの腹を蹴って走り出す。すかさず、二頭の仲間が後を追う。
彼らに気づいた男たちが、防壁の上から、矢をバラバラと射掛けて来た。
出遅れたキシムは、木陰に身をひそめ、唇を噛んだ。カムロを目で追いつつ、傍らのビーヴァに声をかける。
「オレたちも行くぞ、ビーヴァ」
返事はなかった。
ビーヴァは、コルデとマシゥが話している間、彼らに近づく方法を探していた。ロキと赤ん坊を救出するために。ディールがとび出したときも、まだそれを求めていた。
青年の意識は木立をさまよい、風に乗って、空を泳いだ。純白の雪を戴いたアムナ山から、ひときわ高くそびえるベニマツ(チョウセンゴヨウ)の大木に視線をうつしたとき、山と似た姿の存在に気づいた。
ロカム(鷲)だ。
銀色の頭を陽光にきらめかせ、黒い身体を枝の上にのせている。片方の翼を伸ばしてのんびり羽繕いをしているさまを眺めるうちに、彼のなかに、ひとつの考えが生まれた。
『翼だ。翼があれば……』
テティの翼があれば、荒野を飛び越えていくことが出来る。ルプス(狼)の牙に匹敵する爪があれば、赤ん坊を助けることが出来る。地上を歩くネズミも見逃さない、黄金の瞳があれば――
ロカムが、彼を見た。
胸の羽毛をそろえていた嘴を上げ、ぐるりと首をめぐらせて。琥珀色に輝く瞳で、青年を見据える。中心の瞳孔の大きさが変わり、周囲の虹彩に虹色の光がはしるのさえ、判るほどの鮮明さだった。
ビーヴァの身体に、震えが走った。
ロカムが確かに彼をみとめ、頭のなかの考えも、その向こうで起こっている出来事も、全て見通したと感じられたのだ。
どくん、と、心臓が音をたてた。
同時に、世界が脈をうった。暗緑色のベニマツの梢も、ハヴァイ山脈の稜線も、ロマナ湖の銀の水面も、彼の視界のなかでふくらみ、縮み、にわかに崩れ、まじりあって藍色の闇に融けた。
一瞬にも、永遠にも感じられる時間だった。
ロカムはシャアッと叫ぶと、両翼を大きくひろげた。枝を蹴り、白い尾羽をあげて、強くはばたく。ハァヴル(西風)が彼を持ち上げる。頬を撫で、羽毛をさかだてる風の息、腋をすりぬけて風切羽を押し上げるちからを感じ、ビーヴァも飛びたった。
ドサリと、何かが倒れる音がした。セイモアが、クンクンキュウキュウ、騒ぎだす。
キシムは振り返り、うつ伏せに倒れているビーヴァをみつけ、目を疑った。矢が当たったのかと心配し、そうではないと分かると、腹をたてた。
『冗談か? 何のつもりだ。こんな時に――』 肩に手をかけ、揺さぶろうとして、息を呑む。
青年は、息をしていなかった。
「ビーヴァ?」
彼女は焦った。その混乱を煽るように、ソーィエが、主人の傍らで鼻を鳴らす。
セイモアが、空に向かって吼えはじめた。犬とは違う、半ば啼くような吼え方だ。
ウォーヨッオーオー、ウルルルヨーオーオォーン。ウォーオーヨーオーヨォーン……。
ルプスの視線の先には、砦に向かってよろめきながら飛んでいく、巨大な鳥がいた。
キシムは、理解した。
「ビーヴァ!」
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