第三章 王威の在処(5)



          5


 逆光の中、門から現れた人影に目を凝らしていたマシゥは、

「ロキ」

 押し殺したエビの声を耳にし、ギクリとして彼を振り向いた。ひるがえって、コルデが連れている女性に視線を戻す。

 すると、彼女がエビの妻なのだ……。足首にとどく皮の外衣をまとい、長い黒髪を二本の辮にまとめている。目鼻だちはくっきりと鮮やかで、こんな状況でなければ美しかったろうが、今は見る影もなくやつれ、血の気のうせた顔でこちらを見詰めている。

 マシゥは、痛ましさに眼を細めた。

 王はわずかに眉を曇らせたものの、表情を大きく変えることはなかった。エビを見遣り、ついてきた男たちの顔をひとりづつ眺めると、いたわるように言った。

「お前たちは、下がっていなさい」

「しかし――」

 不安げなマグに、頷いてみせる。そして、硬い表情で佇んでいるディールと、マシゥに顔を向けた。

「来なさい、ディール。使者どの、よろしく頼む」

「はい」

 ディールは声に出して応え、マシゥは無言で頷いた。歩みだす三人の後ろで、エビたちは顔を見合わせていたが、舟を中州に押し上げると、その傍らに留まった。

 コルデたちは、躊躇いのない足取りで近づいて来る。その後方、遅れて駆けてくる少年の姿を目にして、今度はディールが呟いた。

「トゥーク……」

 マシゥも、ぎりっと音がするほど奥歯を噛みしめた。

 少年と行動をともにしながら、結局 心を通わせることが出来なかったという思いは、マシゥの胸に棘のように刺さっていたが、傷は今や口をあけ、緋い血をにじませていた。犬使い父子に仲間のもとを離れなければならない事情があったと知れば、なおさら。

 もうすこし、犬使いと話をすることが出来ていたら。もうすこし、少年の心をほぐすことが出来ていたら。――努力していればこの事態を防ぐことが出来たかもしれないという思いが、じくじくとあふれ出す。

 今さら、仕方がない。

 マシゥは、唇をかたく結び、拳を握ってコルデを睨みすえた。

 コルデは、赤ん坊を抱いたロキを半ばひきずるように連れ、男たちを従えてやってくると、王(アロゥ族長)から十歩ほどの距離を置いて立ち止まった。湖面を渡るクルトゥク(南風)に栗色の髪をなびかせ、波の音に耳を傾けるかのように首をかしげる。相変わらず、人目をひく端麗な面立ちだ。

 王は、その視線を受けると、悪いほうの脚を後ろにひき、腰をかがめた。ひざまずくほど慇懃ではないが、充分うやうやしいその仕草に、マシゥは苦渋を呑んだ。

『おやめください。貴方は王なのです。こんな奴に、頭を下げる謂れはありません』 訴えたくなる言葉を噛み潰す。

 コルデは、マシゥを一瞥すらしなかった。

「持って来たか?」

 顎を振って、手下の男たちを促す。

 マシゥがその言葉を訳すより早く、槍や斧を手にした男たちが、ばらばらとキィーダ(皮舟)に駆け寄った。エビたちを警戒しながら、舟の中を覗き込む。荷を被っていたユゥクの皮が剥がされ、干し肉や魚の欠片が地面にばら撒かれた。シラカバの小箱、ゴーナとオロオロの毛皮、碧や琥珀の首飾りなどを物色したのち、数人が、団長のもとへ戻って報告した。

 コルデは、フンと鼻を鳴らした。

「足りないぞ。三百枚と言ったはずだ」

 マシゥが言葉を伝えると、王は顔を上げ、穏やかに言った。

「我らは、イェンタ・テティ(狩猟の女神)の掟の下で生かされるもの。この地のオロオロを獲りつくしてしまわぬよう、年ごとに、狩ってよい数は定められている。貴公のいう三百人(匹)のオロオロは、我が氏族の五年分より多い。どうか、容赦していただきたい」

「なら、五年後に来るんだな」

 鰾膠にべもない答えだった。マシゥは、魅惑的とさえ言えるコルデの唇が、ぞっとする形に歪むのを見た。逆光で、碧眼にうかぶ表情まではわからない。

「それまで、こいつらが生きているかどうかは知らないが」

 ロキが、腕をねじあげられ、苦痛に身をよじらせた。王の表情は動かなかったが、マシゥは、エビたちの殺気を背中に感じ、己の内にも黒々とした怒りが湧き起こるのを感じた。ふつふつと煮えたぎり、視界を暗色に染める。とびかかって首を絞めてやりたい衝動と闘いつつ、口を開いた。

「やめろ、コルデ」

 感情の激しさとは対照的に、自分でも驚くほど静かな声だった。唾を飲んで、言い直す。

「彼女を放せ。子どもたちを、帰すんだ」

「んー?」

 それで、開拓団長は、ようやく彼を見た。陽光を斜めにあびた顔の中で、片方の眉が跳ね上がる。毛皮の衣を着て額帯を巻いた男をしげしげと眺め、相手が誰かわかると、ヒュッと口笛を吹いた。

「なんだ。お前、まだ生きていたのか」

「…………!」

 マシゥは、一瞬、己の耳を疑った。その耳に、コルデは嘲笑をあびせた。

「とっくに殺されていると思っていたが。そうか。連中の仲間に入れてもらって、命拾いしたわけだな。なかなか似合うじゃないか」

 歌っているようにたのしげな口調だったが、瞳が笑っていないことは、見なくても判った。手下の男たちが、団長に合わせて嘲笑う。さざなみのように渦をまくあざけりの中で、マシゥは、頭にカッと血がのぼるのを感じた。

 次に、さあっと血がひいていく。怒りの度が過ぎると、かえって冷静になるらしい。

「この、裏切者」

 マシゥは、自分はこれほど他人を憎むことの出来る人間であったかと、意外に思いながら続けた。

「裏切者。王(エクレイタ王)の命をうけた開拓団の長でありながら、王をうらぎり、私をあざむいた。この地の人々を傷つけ、死者までだした罪は重いぞ。レイム(光の神、太陽神)の裁きを畏れよ」

 途端に、ぴたりと、男たちの嘲笑が止まった。

 コルデは唇の端を吊り上げていたが、既に声を発してはいなかった。影に沈む顔のなかから、青みがかった碧色の瞳が、マシゥを見詰めている。

 あたたかなクルトゥクに代わって、ひやりと冷たいハァヴル(西風)が吹いて来た。湖に波をおこし、男たちの衣の裾を揺らし、砦の防壁をかけのぼって空へと消えていく。

 湖面が静まるのを待って、コルデは言った。

「裏切ったのは、どちらだ」

 マシゥは息を呑んだ。へらへらと軽薄な嘲笑をうかべていたコルデの顔から、一瞬で表情が消えうせたのだ。声も、聞いたことがないほど低く、冷厳としている。

 団長に迎合して嘲っていた男たちの顔からも、ぬぐいとったように表情が消えていた。土を固めて作った仮面さながら動かない顔、顔、顔から、鋭い憎しみをおびた視線をあびて、マシゥは、思わず半歩後退した。

『どういうことだ。悪事を働いたのは、奴らの方ではないのか。』

 ひるむ彼の内心を見透かしたように、コルデは続けた。

「甘ちゃんだとは思っていたが、想像以上だったな。ええ? 土ネズミどもと一緒に暮らすうちに、脳まで腐ったか。エクレイタ王がどうした。レイムが何をしてくれるって?」

 ペッと、足元に唾を吐く。声がさらに低くなり、凄みをおびた。

「河の上流に、手つかずの土地がある。そこを拓いてパンサ(麦の一種)を育て、自分のものにしろと言ったのは、誰だ。偉大なるエクレイタの国を拡げ、未開の地にレイムの光を届ける、名誉ある役目。王に次ぐ富が手に入ると、俺たちをそそのかしたのは、誰だ」

「…………」

「ここの土は、耕しても、冬になればパンサもろとも凍りつく。湖は凍り、雪に閉じ込められて逃げることもかなわない。富どころか、飢える俺たちに食べ物すら与えず、見殺しにしたのは、どこのどいつだ。森も山も獣も魚も、俺たちに全て与えると言っておきながら、異教徒のために使者をよこしたのは、いったい誰だ」

 コルデの口調は、はじめ淡々としていたが、次第に熱をおび、やがて、辺り一帯に響きわたる大声になった。射るようにマシゥを見すえ、王の罪を糾弾する。

 マシゥは、茫然と聴き入っていた。言葉を失う彼に、コルデは顎をしゃくってみせた。

「お前は何も観ていなかったらしいな。今なら、あの山が見えるか?」

 防壁の北の陰をしめす。コルデの眼光に圧倒されて、マシゥは目だけでそちらを見遣った。

 木を伐り、根を掘り出し、土を積んだ、でこぼこの大地。殺風景でものがなしく、直視するのがはばかられる褐色の荒野に、無数の岩や柱が転がっている。

 目を凝らせば、表面に、あさく文様がきざまれているのが判る。

 マシゥの背を、なまぬるい汗が伝い落ちた。怒りのあまり血の気がひいたときとは違う。己の知らない事実を突きつけられた衝撃だ。

 コルデは、彼の顔色が変わったのを見ると、頷いた。

「そうだ。墓だ。王に騙され、見捨てられた挙句、飢えと凍傷に苦しみながら死んでいった、仲間たちの墓だ。女もいた。お前の好きな子どもも、産まれて間もない赤ん坊も」

「…………」

「自分の民を見捨てておいて、何が王だ。自分の民より異教徒の利益を優先させる、何が神だ」

「…………」

 マシゥの膝頭ひざがしらから、小刻みな震えがのぼってきた。それは、瞬く間に全身に拡がり、脳に達し、彼の世界をぐらぐらと揺さぶった。


 この地の自然の厳しさは、嫌というほど知っている。

 マシゥは、犬使いの橇に乗って雪原を駆けぬけたときのことを思い出した。頬を刺す針のような風を。ビーヴァたちと穴にもぐってやり過ごした、嵐の激しさを。

 火の気のない小屋で一晩すごしただけで、足指は変色してしまった。

 改めて観れば、砦の男たちの衣服は、いかにも薄かった。裾はほつれ、膝には孔があき、袖は破れている。土と垢に染まった彼らの頬には、ところどころ黒ずんだ痕がある。凍傷だ……。片耳のない者。手指の幾本かが失われてしまった者。片足を失い、膝に杖をくくりつけている者もいる。

 マシゥは、胃の辺りが寒くなるのを感じた。

 南方で暮らしてきたエクレイタの民にとって、この地の寒さは想像を超えていた。森は深く生い茂り、容易には人を受け容れない。大地は凍てつき、夏の間しか耕せず、パンサはひ弱な芽しか出さない。

 ゴーナ(熊)やアンバ(虎)、ルプス(狼)など、彼らが見たこともない獣たちが、命を狙っている。

 省みれば、あらゆるところに誤算があった。

 開拓は失敗だった。ならば、帰ればよい――安易にそうするわけにいかないということは、マシゥにも理解できた。彼らは、故郷を捨てた人間だ。家族と離れ、或いは妻子を連れて、新しい土地に希望を抱いてやってきた。

 彼らがもといたところには、既に別の人々が移り住み、帰るところはなくなっている。

 けれども、長旅の末に辿りついたのは、約束された富をもたらす土地ではなかった。

 そして、エクレイタ王から彼らに対する支援は、ない。


 マシゥは、自分に使者の役目を命じたときの、王(エクレイタ王)の姿を想いうかべた。開拓団の境遇について、王は聞き知っておられるのだろうか。たとえそうでも、ここまで酷いとは想像していないのだろう。

 そもそも、開拓とは、辛く苦しいものなのだから。

 だが……実際に血を流し、飢え、仲間の死をみとる立場にたたされた人々にとっては。

 ほとんど身ひとつでやって来た彼らが、騙されたという感情を抱くに至ったことは、想像にかたくない。

 しかし――

「使者どの? マシゥどの。どうなされた?」

 エクレイタの言葉で話していた二人が、急に黙りこんだので――マシゥがあまりに永い時間、考えこんでいるので。心配したアロゥ族長が、声をかけてきた。我に返って顔を上げたマシゥは、正面からコルデの瞳に出合った。

 コルデは、じっと彼を見詰めている。

 そしてマシゥは、己の内から先刻の怒りがすっかり消えてしまっていることに気づいた。『なんということだ』混乱し、愕然としながら、小声で王(アロゥ族長)に応える。

「待って、ください。あとで、説明します。必ず……」

 それで、王は軽く眉をひそめつつ黙ってくれたが、マシゥは全く自信を失ってしまった。


 どうやって、説明すればよいのだ。こんな話を。

 どうやって、宥めればよいのだ。このいかりを。


 全ての希望を絶たれ、まさにレイム(光の神)に見捨てられた気持ちだったが、かろうじて言葉をしぼりだした。

「……だが、コルデ」

 眼を閉じ、溜息をついて、己の心を鎮める。

「それは、彼らには関係のないことだ……。なのに何故、こんなことをする?」

 マシゥがこう言った途端、コルデの顔に、またあの人を馬鹿にした嗤いが戻ってきた。勝ち誇って顎をあげ、片腕をロキの首に回す。

「関係がない? ああ、そうだな。全然、まったく、関係のない話だ」

 ロキが、ひっと悲鳴を呑む。エビたちが身構えるさまを愉快そうに眺めるコルデの瞳に、狂気に似た光がひらめいた。

「お前の言うとおり、俺たちの事情など、こいつらには関係ない。俺たちが飢えようが死のうが、エクレイタ王の知ったことではない。レイムよ、ごろうじろ! あんたの定めた通りに俺たちは働き、パンサを植え、死んでいく。――ここまで言って、わからないのか?」

「…………!」

 突然、コルデがロキの腕から赤ん坊を取りあげたので、マシゥは息を呑んだ。それまで、彼女が赤ん坊を抱いていることに気づいていなかったのだ(それほど、子どもが弱っていたといえる)。

 ロキは、我が子を取り戻そうともがいたが、コルデは赤ん坊を高くさし上げ、触れさせなかった。

 片手で赤子の片足を掴んで逆さづりにし、もう片方の腕でロキの首を絞めあげながら、コルデは、高らかにうたった。

「何故こんなことをするのか、だと? つくづく甘ちゃんだな、お前は。!」




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