第三章 王威の在処(4)
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マシゥにとって、舟を漕がなくてよい下りは、身体は上りより楽だったが、心は数倍重かった。
アロゥ族の集落を目指して旅立ったとき、彼の胸には、ビーヴァの
自分たちさえ来なければ、こんなことにはならなかったのだ。――そう思えてくる。
王は彼を気遣って、時折話しかけてきてくれた。マシゥだけでなく、ディール(トゥークの兄)や家族を囚われている男たちを労わる表情は穏やかで、マシゥは感銘をうけた。自分はとてもこうは出来ない。民の行く末に責任をもち、最も心を痛めているはずの王に気遣われると、彼はますますいたたまれなくなった。
雲の多い空だったが、雨が降ることはなく、日差しはやわらかかった。舟は、波のない川を静かに下っていった。岸辺で二晩を過ごすと、マシゥにも見覚えのある形の岩や木立が現れた。
流れの上に伸びた木の枝をくぐり、水面から突き出した枯れ木を迂回してすすむと、川幅が急にひろがった。男たちは息を呑み、櫂を動かす手を止めた。ただひとり、以前ここを訪れたことのあるエビだけは、手を休めず、眼を細めて砦を眺めた。ちらりと、マシゥを顧みる。記憶のなかの砦と眼前のそれを比較していたマシゥは、彼の意図を察し、頷きかえした。
砦は成長していた。
石と泥をかためた壁はより厚く、険しく視界をさえぎり、大地は、裸の範囲を拡げていた。うち捨てられたマツの切り株が、曲がった根を宙にさらしている。防壁の角は青い空を割き、背後の森は遠く、黒い帯のようにかすんでいた。
男たちは黙りこんで、生まれて初めて見るエクレイタの砦を見詰めた。
王は、そっと溜息をついた。吐息は、ととのえられた顎髭を軽くゆらした。
マグが訊く。
「どうします?」
「寄せてくれ」
王の厳格な表情は変わらず、口調から迷いは聞き取れなかった。マシゥは、ごくりと唾を飲んだ。
キィーダ(皮舟)の群れは、ゆるりと向きをかえ、テサウ砦の建つ中洲へ近づいて行った。王の乗る舟が先頭をゆき、護衛と贈り物を載せた舟があとに続く。竜骨が川底の泥をかきあげ、石をこする音が響いた。
四艘のキィーダは、並んで岸についた。
マグがとび降り、エビも、櫂を槍に持ちかえて舟から降りた。男たちは、すばやく辺りの様子をうかがった。
王は腰を下ろしたまま、背筋を伸ばして砦を見据え、動かなかった。マシゥも、すぐには降りる気持ちになれなかった。
森の民がクルトゥクと呼ぶ南風が、湖面をなでて細波をおこし、木の葉のざわめきを運んで来た。砦は静まりかえっている。レイム(太陽神)は南へさしかかり、砦は紫の影を地上に伸ばしていた。その影の中に入って建物を仰いだマシゥには、テサウはかたく、冷たく、すべてを拒絶しているように見えた。
防壁をもたず、道をもたず、森にとけこんでいたアロゥ族の集落のたたずまいとは、大違いだ。
ふと、マシゥは考えた。
『コルデは、何故、この砦を築いたのだろう?』
開拓団は、ロマナ湖の東南に、既にニチニキを築いている。ただ
最初から、人間同士の戦いが起きると想定していたのだ。
王が動き、舟が揺れた。マシゥは、舟縁をつかんで立ちあがりながら、唇を噛んだ。
同じ頃、ユゥク(トナカイに似た大型の鹿)に乗った男たちも、砦に近づいていた。
濃緑の風にのって駆け続けてきたユゥクたちは、森の境界まで来て足を止めた。本来なら湖の波打ち際まで続いているはずの木立がいきなり途切れ、灰褐色の地面に変わっている。ユゥクは怯え、首を上下に振って鼻を鳴らした。カムロが手綱を引き、叱咤しても、それ以上先へ進もうとしない。
仕方なく、カムロはユゥクを降りた。ビーヴァたちも、彼に倣う。氏族長は、手綱を握って数歩すすむと、カラマツの幹に身を寄せ、呟いた。
「あれは、何だ?」
キシムが、きりりと眉間に皺を刻む。
河口付近の森は、エビとビーヴァが訪れたときより、はるかに荒れ果てていた。下生えも苔もないむきだしの大地に、大人がひとかかえほどもある岩が散乱している。樹皮を剥がされ、枝を落とされた挙句に伐り倒されたマツの木が、何本も転がっている。根を掘り出した跡だろう、ところどころに大きな穴があき、土が積み上げられていた。
ユゥクの群れが苔を
ビーヴァの胸に、刺しぬかれるような痛みが走った。この場に残るテティ(神々)の思念――突然、同胞を殺され、棲家を奪われた動物たち。準備が出来る前に伐り倒され、弔われることなくうち捨てられた木々の、嘆きと恐怖――を、感じとったのだ。
青年は、胸に拳をおしあて、顔をしかめた。口の中に、苦いものがこみ上げる。
同じものを感じたのだろう。ソーィエは、耳を伏せて低くうなり、セイモアは、悲しげに きゅうぅんと鳴いた。
男たちは溜息をついたが、キシムは毅然と面をあげた。カムロは、初めて見る石と泥の塊に、目を瞠っている。咄嗟に、眼の前に現れたものをどう捉えるべきか、迷っていた。
「ビーヴァ。あれが、そうなのか?」
今さら間抜けな問いかけだったが、ビーヴァは生真面目に肯いた。胸の痛みはゆっくりと和らいでいったが、代わりに鼓動が速くなる。
あそこに、ラナがいるのだ。ロキも、子どもたちも。いったい、どうやって救い出せばいいのだろう?
進むに進めず、退くに退けぬ思いで立ち尽くす彼らのなかから、一人が声をあげて湖を指差した。
「族長、あれを!」
「…………!」
カムロは、さっと頬を引きしめた。キシムが額に片手をかざし、舌打ちをする。
ビーヴァにも、ちょうど中州に着こうとしている、王の舟が見えた。
*
ガタリと、扉が音をたてた。
子どもたちは母親の背に隠れ、怯えた瞳をそちらへ向けた。ラナたちは、もぞもぞと肩を動かし、身体の向きをかえて入って来るものを待ちかまえた。
扉にあいた隙間から、水瓶を抱えた少年が姿を現した。伏せていた瞼をあげてすばやく女たちを見渡すと、すぐに視線を逸らし、こわばった表情で壺へむかう。
トゥークはあれから、女たちと口をきかなかった。女たちの方も、二度と少年に話し掛けようとはしなかった。互いに存在を無視することで、ぎりぎりの緊張を保っている。
少年は、いつものように無言で戸口に置かれた水壺に近づくと、残っている水がどんなに濁っていようが構わず、運んできた水をそこへ注いだ。女たちも、いつものように無言でその作業を見守る。
空になった水瓶を手にトゥークが踵を返したとき、いつもとは違うことが起きた。
にわかに、ざりざりと土をこする足音と太い男の声が近づき、扉が大きく開かれた。石と土造りの防壁の中に作られた部屋に、日の光は直接は届かない。淀んだ空気を動かして、男たちが入ってきた。
「ひどい臭いだな」
開口一番、コルデは顔をしかめ、片手で口元を覆った。言葉の意味はわからなくとも、口調に含まれた侮蔑と嫌悪を聞きとって、女たちが身を縮める。コルデは、よせた眉の下の碧眼で、じろりその様子を眺めると、フンと鼻を鳴らした。
「まあ、いい。おい、外へ出ろ」
口から手を離し、扉の外を示す。女たちが怯えていることに気づくと、舌打ちし、トゥークに声をかけた。
「外へ出ろと言え。全員だ」
『全員?』
どういう風の吹き回しか。トゥークは訝しみ、その言葉を聞くと、女たちも顔を見合わせた。しかし、躊躇っている余裕はない。コルデと一緒に来た男たちが、女たちを立たせ、子どもたちを戸口へと追いたてた。弱々しい泣き声をあげる子もいたが、容赦する者はいなかった。
母親たちは赤子をしっかりと抱き、我が子の腕をひきよせ、身を屈めて戸口を通り抜けた。コルデとトゥークは、壁際に立って彼女たちを通した。まるく見開かれたロキの瞳に出合うと、コルデは唇を歪めた。
「面白いものを見せてやる。退屈しのぎになるだろう」
仲間たちと抱き合いつつ、壁の孔から這い出したラナは、
『ああ……』
天を仰ぎ、溜息をついた。
空はうすい雲に蔽われていて、日差しは決して強くない。しかし、長い間くらがりに閉じこめられていた彼女には、眩むように感じられた。ぐらりと視界が揺れ、頭の芯がズキズキと痛む。脚が萎えて、膝に力が入らない。ともすればその場にへたりこんでしまいそうになる気力を奮い起こし、辺りを見回した。
半地下の部屋よりはましだったが、砦の内庭は、やはりかなり狭く感じられた。そびえる土の壁が、のしかかって来るようだ。緑はかけらもなく、風にそよぐ木の葉の音も聞こえない。乾いた土と埃と汚物の臭いが混じりあい、少女の喉を詰まらせた。
どこかで、犬が吼えている。
そして、無遠慮に注がれる、数え切れない男たちの視線。
ラナは、自分の胸に手をあてて喘いだ。子どもたちも、異様な雰囲気を察し、母親の傍を離れようとしない。いったい、女たちを外へ連れ出して、どうしようというのか。トゥークも、不安になって周囲を見渡した。
少年の視線を横切って、コルデが前へ進み出た。
「門を開けろ」
手下の男たちに命じながら、通りすがりにロキの腕を掴む。ロキは赤ん坊をとり落としそうになり、抗議の声をあげた。
「何するんだよ!」
けれども、コルデは彼女を一瞥もせずに引いていく。表情のない横顔は、まるで彼女を石かなにかと考えているかのようだ。腕に指が喰いこみ、ロキは、恐怖に頬をひきつらせた。
「ロキ!」
赤子を抱いたまま引かれていく彼女を見て、ラナは小さく悲鳴をあげた。ロキは、急いで首を横に振る。ロキのもう一人の息子が慌てて母を追いかけようとするのを、他の女たちが引き止めた。
開拓団の男たちが、槍や斧を手に女たちを見張っている。
ラナは、ロキと仲間たちを交互に見ていたが、躊躇いながら歩き出した。
コルデは、数人の男たちを従えて、まっすぐ門へ歩いて行った。数歩遅れてトゥークが、さらに後をラナが行く。丸太を組んで造られた重い扉が開くと、正面から風が吹いて来た。
視界が急にひろがる。
「…………」
水の匂いをふくむ風に編んだ髪をなびかせ、ラナは思わず立ち止まった。トゥークも足を止める。むきだしの土の向こうに、ロマナの湖面が藍くきらめいていた。
森は遠く、木々の輪郭をたどることは出来ない。それでも、濃い緑の影の上に、ハヴァイ山の頂が白く浮かんで見えた。
コルデたちは、歩調をゆるめることなく進んでいく。ロキは、時折後方を振り返っては、その度にぐいと引かれ、転びそうになっていた。遅れたトゥークが、走り出す。
背後から肩を掴まれ、ラナははっと我に返った。槍を手にした男たちが、少女の行く手を遮る。ゆるやかに打ち寄せる波と彼らの間に、見慣れた姿をみつけ、ラナは息を呑んだ。
『父さま!』
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