第三章 王威の在処(3)
3
六頭のユゥクは、彼らだけに見える風の道をたどって、森のなかを駆けていった。
人がひるむ密集した茂みも、恐れることなく。仲間を傷つけないよう切られた枝角(牡牝両方にある)の先は、イラクサの紐で被われている。口にはシラカバの環をはめて手綱を垂らし、肩には織物を敷き、荷物は腹の両側に提げている。
犬橇に比べると、ユゥクが一度に運べる荷物の量は少なかったが、足場の悪い森を進む速さはなかなかだった。
キィーダと橇以外のものに乗ったことのないビーヴァは、かなり緊張して騎乗していた。カムロは彼の隣を行き、ときに手綱をとって援助した。ソーィエとセイモアは、主人を乗せたユゥクの足元を、嬉しそうについてくる。一度だけ、キシムが懐に あいのこ(狼犬の仔)を入れているのをみかけたが、他に犬を連れている者はいなかった。
時折、シラカバの幹の間から、黒く輝くオコン川の流れがのぞく。王たちを乗せた四艘のキィーダ(皮舟)は、追ってくる者がいるとは知らぬげに、灰色の空の下に浮いていた。
「止まるぞ」
キィーダに追いついてビーヴァがほっとしていると、突然、カムロがユゥクの足を止めさせた。後続の男たちも、急いで手綱を引きしめる。
カムロは、ひらりとユゥクから跳び降り、目で問う青年に頷いてみせた。
「ムサ(人間)を乗せたユゥクは、疲れやすい。食べさせないと、途中で動けなくなる。俺たちも休憩だ」
そういうと、手早く荷をほどき、肩に担いで歩き出す。身軽になったユゥクは、ぶるりと身体を震わせて汗のしずくを飛ばすと、青年の前をのっそりと横切って、木陰の苔を食べはじめた。
カムロは、一本のシラカバの根元に荷を下ろすと、両手を挙げて伸びをした。
ビーヴァが顧みると、キシムと他の男たちも、荷を降ろしているところだった。セイモアがはしゃいで駆け回っているが、慣れているのか、ユゥクは平然としている。
ビーヴァは、自分を乗せてくれたユゥクに小声で礼を言うと、架けていた荷物を外した。ソーィエとセイモアが、さっそく身をすりよせてくる。ビーヴァは、袋から干した魚の欠片を取り出して彼らに与え、ベニマツ(チョウセンゴヨウ)の実を口に含んだ。
カムロに従って来たのは、キシムと三人のシャナ族の男たちだ。カムロは、彼らから独り離れて犬の世話をしている青年を興味深そうに眺めていたが、コチョア(クルミ)の実を手に、彼を招いた。
「ビーヴァ。こっちへ来て、話さないか」
「…………」
ビーヴァは、ごくりと唾を飲み下し、彼に向き直った。
シャナ族の若き長は、ビーヴァにとって不思議な存在だった。エビと同歳であるならば、彼より四つ年上なはずだが、ときに、エビよりずっと若く見える。くるくると動く表情は華やかで、子どものように邪気がない。かと思うと、狩人らしい剽悍さや、長たる者の威厳も感じさせ、それらが交互に、或いは複雑に入り混じって表れるのだ。
この時も、そうだった。シラカバの根元に腰を下ろしたカムロは、いたずらっぽく笑っていたが、黒い瞳は怜悧だった。青年が近づいてコチョアを受け取ると、その顔をしげしげと見詰め、呟いた。
「なるほど。テティ(神霊)は、こういう男を
「…………?」
ビーヴァはドキリとした。次の瞬間、カムロは口を開け、からからと豪快に笑い出した。何が可笑しいのか、ビーヴァには全く分からなかったが、昨夜の件でキシムが何か言ったのだろうと思いつくと、顔がかあっと熱くなった。
耳たぶまで真っ赤になった青年は、うろたえてキシムを見遣ったが、彼女(彼)は他の男たちとともに、澄ました顔でシム団子を食べていた。
「いや、すまん。そう身構えるな」
カムロは笑いを収めると、まだ笑っているような声音でこう言った。眼差しには、思慮深い光が戻っている。コチョアの殻を齧って割り、中身を取り出しながら続けた。
「キシムに
『まただ』――ビーヴァは、身のうちに重い疲労を感じた。――キシムもカムロも、何故、自分を特別扱いするのだろう。こんなときに。たかが若造一人の身上が、何だというのか。
もっと重要なことが、あるはずではないのか。
青年は、軽い苛立ちをおぼえ、黙りこんだ。キシムが懐からスレイン(狼犬の仔)を取り出し、セイモアが興味深そうにそのにおいを嗅いでいるのを眺めてから、改めてきり出した。
「……よく、分からないのです」
「何だ?」
カムロは首をかしげ、キシムは、目だけで青年を顧みた。ビーヴァは項垂れ、自分の靴の先を見下ろした。
「若い頃の母のことを、俺は知りません。父は何も言わなかった……。母は、シャム(巫女)だったんですか? それが、今の俺と関係があるのですか?」
なめらかな声に、かすかに反抗の響きが雑じった。
カムロは、キシムと視線を交わした。他の男たちも、食事の手を止め、聞き耳をたてている。ビーヴァは顔を上げ、母の氏族の人々を見た。
カムロは、片手を自分の顎に当ててしばらく思案したのち、おもむろに答えた。
「タミラは、シャムだったわけではない」
青年の反応をたしかめ、眼を細める。
「シャムたる素質を持つ者は少ないが、タミラは、そうなることを望まなかった。故に、アロゥ氏に嫁ぎ、先王(ラナの母)の助力を得た。テティ(神々)の近くには在ったが、ムサ・ナムコ(人の世界)に留まったと聞いている」
カムロの言葉はまだ理解しきれなかったが、ビーヴァは黙って聴いていた。教え導く者の口調で、カムロは続けた。
「アロゥ族のシャム(ラナ)とは違い、我らは、
カムロは、身振りでキシムを示し、軽く肩をすくめてみせた。
「心当たりはないのか? 二つの世界を同時に生きる者だけが、テティに近づくことが出来る。見てのとおり、キシムは、男と女の間を生きている。お前がどこに在るかは、お前自身に問うてみなければ、分からぬだろう」
「二つの世界……」
ビーヴァは、口の中で呟いた。次いで、眉間に皺を刻む。母はシャムではなかったという事実は彼を安堵させたが、カムロの言葉は、青年をさらに戸惑わせた。
何故、自分はここに在るのか。二つの世界とは、何か。
キシムの手の中で、スレインが小さく啼いた。彼女は、金赤色の毛を指で梳きながら、青年を見詰めた。
カムロも真顔で彼を見守っていたが、口に含んでいたコチョアを噛み砕くと、一同を促した。
「行くぞ。日暮れまでに、舟に追いつこう」
男たちは立ち上がり、再びユゥクの手綱をとった。ビーヴァは、荷袋を肩に負ったまま、セイモアとソーィエを呼び寄せた。
その日一日中、青年の頭からは、この会話が離れなかった。
*
ビーヴァたちは、途中で深いカラマツの森に入り、オコン(川)の流れから遠ざかった。ユゥクもたびたび休ませなければならなかったので、結局、その日は二度と王のキィーダ(皮舟)を見ることは出来なかった。
紅から紫色へと染めかわる西の空を眺めていると、仲間の身が案ぜられたが、カムロは飄々と、「明日は追いつけるさ」とうそぶいた。
年老いた巨大なハンノキの横たわる場所にたどり着いた彼らは、ユゥクをその枝につなぎ、火を
ビーヴァはもちろん、ソーィエとセイモアと一緒だ。
夜半。マツの梢を揺らす風の音、つれあいを求める虫の声、蚊の羽音などを聞きながら、うとうとしていた青年は、焚き火が小さくなっていることに気づいた。彼が身を起こすと、二頭も目を覚ました。集めた薪に手を触れ、湿っていることを知る。誰かが樹皮を敷き忘れたらしい。
一瞬、このままカムロたちと別れ、独りで行こうかと考える。
「…………」
ビーヴァは、首を振って迷いを打ち消すと、音をたてぬよう気をつけて立ち上がった。
セイモアが、瞳を輝かせた。頭を下げ、尾を高くあげ、跳びさがってくるりと回り、舌をだらりと垂らして跳ねる。狩りに誘っているのだ。ビーヴァは、今度は微笑んで《彼》を撫でた。
ソーィエとセイモアとともに新しい薪を集め、戻ってきた青年は、
「オレから逃げるのは勝手だが、テティ(神霊)から逃げることは出来ないぞ」
投げかけられた言葉にギクリとして、足を止めた。
「キシム」
「それと、自分の
マツの幹にもたれていたキシムは、胸の前で組んでいた腕をほどくと、挑むような瞳で彼を見返した。ソーィエとセイモアが、さっそく尾を振って彼女の足元に駆けていく。
ビーヴァは、自分で考えていた以上にどぎまぎした。
「べつに、逃げたわけじゃ――」
「ない。本当に?」
キシムの口調は穏やかだったが、問い返されると、ビーヴァは項垂れるしかなかった。小声で呟く。
「ごめん……」
「あやまってもらう理由はないけれどな」
キシムは、ふっと息を抜いて肩をすくめた。怒っている風でも、呆れている風でもない。淡々とした態度は、かえって青年をいたたまれない気持ちにさせた。
ビーヴァは唇を噛み、薪を抱える腕に力をこめた。ここで彼女に背を向けては、己自身に言い訳が出来ない。何事もなかったことには出来ない(そんなことは、不可能だ)。だが、これから彼女とどういう関係を築けばいいのか(築きたいと思っているのか)、彼には全く分からなかった。
キシムも、ビーヴァをどう扱えばいいか判らないようだった。片手を腰に当て、ゆらりと重心を片脚に移す。夜空に向かって伸びるマツの梢を見上げ、青年に視線を戻した。
息だけで、囁く。
「覚えているんだろう? 今回は」
「…………」
ビーヴァは、こくりと頷いた。キシムは、軽く嘆息した。
「あのさ」
突然、キシムはくだけた口調になった。
「お前が変な誤解をしているといけないから、言っておくが。もし、タミラが昔オレみたいなことをしていたんじゃないかと思っているのなら、それはないからな」
ビーヴァは、目をまるくして彼女を見た。キシムは頷き、やや苛々と顔の前で片手を振った。
「カムロはああだから、混乱したかもしれないが。素質があることと、シャム(巫女)であることは違う。素質があるからといって、皆がシャムになれるわけではないし、テティの声が聞こえない者が、シャムで在り続けることも出来ない」
「…………」
「シャムで在ることを決めるのは、ムサではなく、テティの方だ。テティが選び、テティが告げる。逆に、テティに選ばれた者は、どうあっても逃れることは出来ない」
キシムは、まっすぐビーヴァを見詰めた。赤褐色の瞳は、宵闇のなかで、暗い血の色に濁って見えた。
「タミラはシャムになりたくなかったから、先代(ラナの母)に助力を求めたと、そういう話だ。オレとは違う。……安心しろ」
「わかった」
キシムの口調は、かすかに苦かった。ビーヴァは、その理由を察し、そっと付け加えた。
「……ありがとう」
キシムは彼に横顔を向け、肩をすくめてこれを聞き流した。自嘲気味に唇を歪め、青年に向き直る。
「とにかく。嫌なことはもうしないと約束するから、逃げるのはやめてくれよな。なんだか、オレがお前を、苛めているみたいだろ」
「嫌じゃない」
思わず、ビーヴァは口走っていた。キシムが眼をみひらくのを見て、目を伏せる。
「嫌じゃない……俺は……キシムなら……。だけど。相手が俺でも……ああいうことは、して欲しくない……貴女には」
言いながら、ビーヴァの声はどんどん小さくなり、最後には、蚊の羽音さながら震える囁きになっていた。情けなさに、彼女を見ることが出来ない。何故、もっと気の利いたことが言えないのか。自分の気持ちを表すのに、他の言い方が出来ないのか。
嘲笑されるか、さしでがましい口をきくなと叱られるかと思ったが、意外にも、キシムは黙っていた。毒気をぬかれたような沈黙ののち、もごもごと言う。
「そいつは……どうも。なんていうか……」
ビーヴァが恐る恐る視線を上げると、キシムは片手で口元を覆い、戸惑ったようにこちらを見ていた。再び、自嘲気味に肩をすくめる。
「言われ慣れないから、驚いた。一応、礼を言っておくよ」
『はぐらかされた』と、ビーヴァは感じたが、彼女の立場ではそうとしか言えないのだろうとも思った。キシムは、居心地悪そうに眉をひそめている。もういちど、ビーヴァは試みた。
「やめることは、出来ない……?」
「…………」
キシムは、今度はフッと哂い、首を振った。低い声に、いつもの張りが戻る。
「言っただろ。シャム(巫女)を選ぶのは、テティ(神々)だ。こっちの都合で、変えられることじゃない。巫力を失わない限り、一度シャムになった者は、死ぬまでシャムだ」
「…………」
「オレのことより、自分の心配をした方がいいぞ。ビーヴァ。タミラはシャムになることを免れたが、お前は、既に選ばれている。オレもカムロも、シャマン(覡)を見るのは初めてだが、それでも、お前の
キシムの足元で、セイモアが鼻を鳴らした。彼女の懐に入っている あいのこが気になるのだ。キシムは、腰をかがめて《彼》の頭を撫で、ソーィエの顎を掻いた。そうして、下から青年の顔をのぞきこむ。
ビーヴァの眼差しは
「お前にとって納得がいかないことなのは、理解できるが……テティを拒もうとするなよ、ビーヴァ。気が狂うぞ。逆に、無防備にすぎるのも良くない。のっとられる。……とにかく。オレは、お前が心配だよ」
「わかった。……ありがとう」
ビーヴァが呟くと、キシムは立ち上がり、踵を返して歩き出した。取り残された形のセイモアとソーィエは、不思議そうに主を見上げた。
項垂れたまま、ビーヴァはキシムの言葉について考えていたが、顔を上げ、呼び止めた。
「キシム」
キシムは足を止め、顔だけで振り向いた。闇の中に、白い頬が浮かび上がって見える。ビーヴァは、かすれ声で訊ねた。
「キシムは、自分からシャムになろうと思ったのか。何故?」
「…………」
キシムはこれには答えず、黙って去っていった。
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