第三章 王威の在処(2)



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 出発の朝は、薄い雲が天を蔽い、日差しはいよいよ淡く頼りなかった。西風は雨のにおいを含んで冷たく、肌に重くまとわりつく。オコン川の岸をふちどるサルヤナギの林は、灰色にけぶっていた。

 真新しいキィーダ(皮舟)は、削ったマツとユゥク(大型の鹿)の匂いがした。アロゥ族の長が悪い方の足をいれると、舟底が大きく傾いだので、マシゥは彼の腕を支えた。

「ありがとう」

 王は、深い瞳で彼をみつめ、囁いた。マシゥは無言で恐縮するしかなかった。エビとワイール族長が、鋭い視線をこちらに向けている。

 彼らは、コルデに奪われた舟の代わりに新しい舟を仕立て、ゴーナ(熊)の肉やユゥクの毛皮、シラカバの箱や碧玉を積んでいた。水鼠すいそ――彼らの言うオロオロの毛皮もある。コルデの要求する三百枚には及ばないが、出来るだけを集めたらしい。

 マシゥは、苦い気持ちでこの荷物を眺めていた。

 こうした品をテサウ砦の連中が要求すること自体、エクレイタ王への反逆だった。一度コルデの意に従えば、連中は、何度でも同じ要求を繰り返すだろう。

 王と同じキィーダに乗り込みながら、マシゥは眉間に皺を刻んだ。森の民とよしみを通じ、この地の開拓に力を貸してもらう。交易を行い、あわよくば帰順させる――エクレイタ王が彼を遣わした目的も、コルデと似ているといえなくはない。自分もかつてそう考えていたことを、思い出したのだ。

 しかし、マシゥの良心は、心の中で抗議を続けていた。

 自分は、子どもたちを攫ってはいない。傷つけてはいない。彼らを理解し、こちらを理解してもらうために、努力してきた。それが王の意思だと、信じていたのだ。

 ビーヴァたちを、奴隷にしたくはない。

 ――エクレイタには、奴隷と呼ばれる人々がいる。国を拡大していく過程で土地を争った者たちだ。拠りどころを失った人々を食べさせていくために、そういう手段をとらざるを得なかった。

 けれども、ビーヴァたちは違う。

 彼らは、パンサ(麦)に依らなくとも生きていくことが出来る。レイム(太陽神)の子でないビーヴァたちに、エクレイタの掟は関係ない。森の神々とともに静かに暮らしてきた人々を――エクレイタの民よりゆたかに幸福に暮らしている人々を、貶めてよい理由はない。

 北の地は、農耕の民の暮らしに合わないのだ。寒さは厳しく、パンサ(麦)は育たない。それでもここで生きていくのなら、彼らに教えを請い、助け合わなければならない。

『それが出来ないのなら、黙って立ち去るべきだ……』

 マシゥは、今ではそう考えるようになっていた。問題は、コルデたちが納得して引き下がるかどうかだった。想像するだに、難しいと感じる。

 舳先に座る王の後ろに、マシゥは居場所を定めた。彼と王の間にマグが、背後にワンダというロコンタ族の男が腰を下ろし、櫂を手にする。エビとディールを含む護衛の男たちは、三艘の舟に分乗した。こちらは、槍や弓を携えている。

 マシゥの額には、殴られた傷痕を覆うために帯が巻かれ、靴は女たちの手で修繕されていた。内側に履いている足袋は、ビーヴァが狩ったキツネの皮を加工したものだ。寒さに弱い彼のために、外套の襟にも毛皮を縫い付けてくれている。

 懐には、あの矢柄が入っていた。

 マシゥは舟の中で膝を抱え、痛みの消えた足を靴のうえからひと撫ですると、顔を上げて周囲をみまわした。

 氏族長たちが、村の人々とともに岸辺に並んで見送っている。皆、沈痛な面持ちだ。

「どうか、気をつけて行かれよ」

 ロコンタ族長の言葉に、王は重々しく頷き、片手を挙げて謝意を示した。舟は、音もなく水面を滑り出す。見送りの人々の間から、押し殺した嗚咽がもれる。

 マシゥは首をめぐらせてビーヴァの姿を探したが、みつけることは出来なかった。



 ビーヴァは、人々から離れ、やや川下の岸辺にたたずんで、この様子を見守っていた。

 風はけだるく流れて木漏れ日を散らし、銀と黒のまだらを川面に描く。そこに浮かぶ四艘の舟は、宵闇に漂う水鳥のように哀しく見えた。

 先頭に、王が乗っている。長い髭を風に揺らし、帯でつつんだ額を南へ向けた横顔は、はるか彼方を目指す雁の隊長を思わせた。迷うことなく、己の行く先を見つめている。

 彼のいる場所からは、エビとマシゥの表情までは判らなかった。

 セイモアが足元で鼻を鳴らした。ソーィエは、四肢に力をこめて立ち、尾を高く揚げている。ビーヴァはちらりと二頭を一瞥したものの、すぐに視線を川に戻した。

 人々は、岸辺に身を寄せ合い、いつまでも立ち尽くして見送っている。

『殺されに行くようなものだ。』

 ビーヴァは、マシゥのうめき声を思い出した。王が十人の護衛とともに舟で行くと決めたとき、彼はそう呟いた。

 誰もが、無謀な策であると承知している。しかし、シャム(巫女=ラナ)を含む女と子どもたちを囚われている以上、他に成す術がない。――否。

 罠に罠を仕掛けて争いを拡大することを、王はおそれたのだろう。テサウ砦の男たちは、木々を伐り、土を崩し、テティの棲家を奪っている。狩場を失ったゴーナ・テティ(熊神)たちは、この地を去ろうとしている。

 幹の内部を虫に喰い枯らされた大木のように――目に見えないところから、自分たちを包む世界が崩れ始めていると、ビーヴァは感じていた。巫祝を司る王は、それをくいとめる為に行くのだ。

 テティ(神々)との契約に従い、自らの生命を賭して。

「…………」

 サルヤナギの枝の下で、ビーヴァは溜息をついた。着替えと食糧を入れた皮袋を肩に負いなおし、踵を返す。

 護衛に選ばれていなくとも、彼は王について行くつもりだった。母の葬儀を終え、遺体は氏族の墓地に葬った。村に居続けなければならない理由は、何もない。

 森は夏の気配をまとい、緑は日に日に濃くなっている。凍っていた地面がとけてぬかるんだ場所には、蚊の大群が湧いていた。灰褐色の煙となって立ち昇る蚊を手で払い、歩き出そうとしたビーヴァの足元で、突然、ソーィエが牙をむき、鋭くうなって仔狼を威嚇した。

「…………」

 ビーヴァは、驚いて足を止めた。セイモアも、目をみひらき、跳び下がって牙をよける。耳を伏せて視線をそらし、後足の間に尾をまきこんで服従の意を示した。

 それでビーヴァにも、うっかり彼の前に出ようとしたセイモアを、ソーィエがたしなめたのだと解った。橇犬たちにとって群れの主はビーヴァであり、ソーィエは、自分が彼に次ぐと信じている。その順番を無視した若者(セイモア)を、許せなかったのだろう。

 ソーィエは、それ以上セイモアを責めようとはせず、牙をおさめると、何事もなかったかのように歩き出した。セイモアは、ちょっと怯えた風だったが、素直に後からついてきた。ビーヴァはほっとしたが、同時にもの悲しくなった。

 ソーィエが群れの順位を意識しはじめたということは、セイモアを子どもだとはみなさなくなったということだ。体格に恵まれたルプス(狼)の仔は、今では成犬と肩を並べつつある。生まれ持つ性ゆえに二頭が本気で争うようになるのは、時間の問題だろう。

『俺たちも、そうかもしれない……』

 ふと、ビーヴァは思った。

 エクレイタとアロゥ、パンサ(麦)の民と森の民――姿は似ていても、生まれの異なる種が共に暮らすことは、出来ないのかもしれない。マシゥのように理解を示してくれる者がいても、その間に生まれるものは、いびつなものでしかないかもしれない。

 ルプスと犬の血をひく あいのこが、どちらにも属することが出来ないように……。


 ビーヴァは、首を振って思考を断ち切ると、二頭に構わず歩きだした。川の流れに背を向け、木々の間へ入っていく。

「ビーヴァ」

 張りのある声に呼ばれて、青年は再び足を止めた。重なり合う枝の向こうを眺め、眼を細める。藍色の木陰に、ユゥクがいた。

 ソーィエが、ゆっくり尾を振りはじめる。

 心臓が数回うつ間、ビーヴァはそこに立って待っていた。瞳が暗さに順れてくると、ユゥクの背にキシムが乗っているのが判った。一頭だけではないようだ。彼女の隣にそびえるベニマツの幹から、枝分かれした角がのぞき、騎乗したカムロ(シャナ族の長)が現れた。

 ビーヴァは、こころもち身構えた。

 キシムの性格上、あれ以上 意に染まぬ関係を強いてくることはなかろうと思っていたが、彼の方には、彼女にひとことの断りもなくナムコ(集落)を出てきた後ろめたさがあった。カムロの存在は、ビーヴァを緊張させた。それほど――青年の目に、二人は似合いに見えたのだ。

 無論、口にすれば侮辱とみなされただろう。キシムは相変わらず男装であるし、二人の頬の刺青は、同じ血を表しているのだから。

 キシムは何も言わず、無表情にビーヴァを見詰めた。

 カムロはユゥクに乗ったまま、一頭の牡ユゥクの手綱を引き寄せた。先を切った角の間に片手を乗せ、唇の端をつりあげる。

「じっとしているのが、嫌いな性分でな」

「…………」

「ロコンタとワイールの兄たち(氏族長)が、留守をひきうけて下さった。王とシャム(巫女)の身をまもるのに、人手が多すぎるということはあるまい」

 口調は、独り言のように穏やかだった。

 彼の後ろにユゥクに乗った男たちが見えたので、ビーヴァは戸惑い気味にキシムを見遣った。キシムは、肯き返す。

 カムロは底光りのする瞳でビーヴァを見据えると、手綱を握った手を突き出した。声には、自信が溢れている。

「ユゥクなら、オコン(川)の流れにひけをとらぬ。一緒に来るか、タミラの息子よ」

「…………」

 ビーヴァは、無言でその手を見詰め、この申し出について考えていたが、やがて視線を上げ、頷いた。



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